10月, 2024年

「大昔」を想い出させた「男児ひき逃げ事件」

2024-10-19
17日の午後に7歳の男児が静岡市内の交番に1人でやって来たという。小学1年生の男児は怪我をしていて、対応した警察官に対し「車とぶつかったけど、相手が居なくなってしまった」と訴えた。情況から観て「ひき逃げ事件」だが、その事故の容疑者は、少年のようすを見て「この程度なら大丈夫だろう」と勝手に判断して、その場から逃げ去ったに違いない。それにしても、被害者である男児は、よく一人で、そのまま交番に駆け込んだものだ。おそらく、逃げた加害者を「捕まえて欲しい」という気持ちが強かったからに違いない。自宅に戻れば、その分時間が経過して、捕まえるのが難しくなる…と判断したに違いない。こういう場合、おそらく、その事故を目撃した人物はいないに違いない。だから容疑者は逃げたのだ。防犯カメラは設置されているかもしれないが、わたしが思うに、車種を特定できるほどの位置にはなかったのではないか。つまり、目撃者もなく、防犯カメラ映像も不明瞭で、少年自身も“たいした怪我ではない”と判断した容疑者は、自分の保身を優先したのだ。それを察知したからこそ、少年は怪我をした状態で、そのまま歩いて交番まで辿り着いた。この少年のためにも静岡警察は全力で“容疑者”を検挙しなければならない。全国的にも、こういう事件があった時の見本となる。近年、防犯カメラが各地に取り付けられたことで、交通事故・事件の“後処理”はかなり的確なものに変わりつつある。最近は関東では“戸建て住宅”を狙った強盗事件が頻発している。最近のマンションは“防犯カメラ”だけでなく“エントランス”自体のセキュリティーが発達しているので容易に侵入できない。そこでどうしても戸建て住宅の方が「狙いやすい」ということになる。戸建て住宅には“老人の居住者が多い”ということも、狙われる原因かもしれない。ところで“ひき逃げ事件”だが、わたしは20代の時に路上で車に轢かれ宙に跳ね上がって雪の路上に落ちた。起き上がろうとしたが、自分では動けなかった。あの時、ひき逃げはしなかったが、運転手は「警察には行かないで欲しい」と懇願してきた。なにしろ、わたしは横断歩道を歩いていたのにぶつかって来たのだ。いま思うと、やはり警察に行くべきだったが、あの時、わたしを跳ねた男性は無事“公務員”として出世していったのであろうか。

何となく怖い「完全無人のAIコンビニ」の普及

2024-10-18
世の中は変わっていく。だから、その変化にわれわれも付いていかなければならない。それは頭で解かっているのだが、身体はなかなか付いていけない。ローソンが一部店舗で「完全無人の店舗」を展開しようとしている。セブンイレブンは外資に“乗っ取られる”可能性が出てきているし、どうも、このところコンビニ業界も“これまで通り”には行かなくなってきているのか、とりあえずローソンは試験的に“無人化店舗”を出してみて、今後の展開を考えるようだ。東急電鉄駅の構内に10月18日から来年3月14日まで試験的に出してみて、その反応いかんで“全国展開”を計ろうという意図のようだ。わたしなどはスーパーの“セルフレジ”という変化だって、ずいぶん“思い切った改革”だと思ったものだが、今回の試験は“完全無人化”であるところが特徴で、すべて“AI”が店員の代わりを受け持つ。客が購入する商品の種類や個数を店内カメラと商品棚の重量センサーが“AI判別”をする。だから、黙って商品を取り出して、それを黙って袋に入れて、そのまま店外に出る形だ。おそらく、本人確認は“顔認証”か何かでするに違いない。ただ、さまざまな疑問が浮かぶ。まず、自分が探す商品が見当たらなかったとき、どうすれば良いのか、AIに訊けば答えてくれるのか。せめて、可愛らしい女性店員風の“AIロボット”を店内に設置しておいて欲しいものだ。意外と、その“AIロボット”が人気を出して、あちこちの店から“持ち出される”とか……余計な心配をしてしまう。そのうち、コンビニだけではなくて、どのお店も“超ブランド店”以外は“店員の居ない店”ばかりに変ってしまう日が訪れるのだろうか。確か何日か前に、日本にやって来た外国人が「日本がまだまだキャッシュレス化やAI化が普及していなくて驚いた」というふうなことを書いていたが、そう日本人は“そういうもの”に慣れていくのに時間が掛る。というか、世代的に“すべてAI化していく”ことへの怖れというものがある。もう少し時間をかけて変わっていってくれると良いのだが、あまりに急速に“すべてを変えていく”のは困る。元々がIT化を苦手とする人は、なんとなく“怖い”のだ。それは、どんなに説明されても、本能のようなものなのだから仕方がない。だから、せめて“怖がらせない”よう徐々に変えていってもらいたい。

英「安楽死」法案提出、世論は63%が支持する

2024-10-17
実は英国では、2015年にも一度、この同じ法案が審議されたことがある。結局、その時にはまだ議会を通過しなかったようだ。ところが、現在は現首相も“賛成”しているようで、世の中の動きというのは徐々に“安楽死を認める”方向へと動いているような気がする。既に、オランダ、ベルギー、ニュージーランド、スペインなどが「安楽死」を合法化している。さて、日本はどうなのかと言えば、今回の選挙でも“この問題”に関しては誰も論じようとしていない。まあ、生きていくことに精一杯で、死の近い人のことまで「かまっていられない」ということなのだろうか。私が思うに、日本の場合、終末期患者に対しては「緩和ケア病棟」というものが用意されていて、実質、そこが“安楽死病棟”に近い役割を与えられている。もちろん、一般的にいう「安楽死」は薬物投与などによって“患者自らが死を望む行為”で、緩和ケアの“痛み苦しみを和らげる療法”とは微妙に違うが、実質、痛みや苦しみが取り除かれるのであれば、安らかな気持ちで「死を待つ」ことが出来るわけで、或る意味では“受動的安楽死”とも言えるような気がする。したがって、日本であまり“この問題”が論争を巻き起こさないのは、実際の医療現場においては“受動的安楽死”が数多く適用されているからで、そういう意味ではムリに「安楽死」を議論する必要性がない国だからかもしれない。一般的に“宗教色の強い国”は「安楽死」を認めたがらない傾向が著しい。キリスト教も、イスラム教も、仏教も、自ら“死を択ぶ”という生き方に対しては否定的である。ただ考えようによっては、末期患者などの場合は、神々が“その人物”に対して「生きていく役割は終えた」と告げているようなもので、それを患者の方が「じゃあ、早く死なせて‼」と願ったとき「勝手に死を早めるな」というのは、どうも矛盾しているような気がしないでもない。そういう意味では比較的“宗教色”の乏しい日本で「緩和ケア病棟」が実質的な“受動的安楽死”に導いてあげるのは好ましいことのような気が、わたしにはする。よく「一日でも長くいきたい‼」などと言う人が居るが、わたしは“自分の役割”を終えたなら、あとはなるべく早く速やかに「あの世」へ行って、新たなる生命(⁉)を得て、新たなる環境で“死にながら生きる(⁉)”のが楽しそうな……。

「謎の中国」の「中長期計画」と「台湾包囲」

2024-10-16
大昔から「中国」というのは欧米諸国と比べて“解りにくい国”だが、こと「未来への準備」という点では、何を考えているのか、ほんとうに掴みにくい。同じ日のニュースに、その一方では“中長期計画”として「地球型惑星の発見」と「地球外生命体の探索」を本腰を入れて探求していくことを“宇宙当局(そんな部署があったんだ⁉)”が公式に表明した。そして、その同じ日、一方では“小さな島国”である「台湾」を125機というとてつもない数の軍用機で取り囲んでの“軍事演習”を行った。それは、ちょうど、ロシアがウクライナを“包囲”しながら進軍していく様子と重なる。ウクライナは島国ではなかったから、完全包囲は出来なかったが、その点、台湾の場合は元々が“比較的小さな島国”であるから、その包囲網を築きやすい。一説には、中国の本当の狙いは「日本にある」という説もあるが、少なくとも「日本」は「台湾」に比べて領土が広いし、中国語を話さないので、実際には“中国との一体化”は難しい。その点、台湾は今やどう見ても“独立国”だが、中華系民族の特徴は持ち続けているので、香港とかマカオとかのように“強引に一体化”してしまえば、不可能とも言い切れない。そして、もう一つの方だが「地球型惑星の発見」と「地球外生命体の探索」に本格的に乗り出すことを公式に発表した。この“公式に”という部分が重要で、中国はさまざまなことを行う場合、自信のないことに関しては“公式”には発表しない。それを、あえて「宇宙当局」という不可思議な局まで設けて“公式”に“中長期計画”として発表したことはそうとうな決意の表れと見ることが出来る。つまり彼らは「地球型惑星」が存在していると、そして、そこには「地球外生命体」は生息していると、合わせて“もう一つの地球”がどこかにあるはずと確信しているような印象を受ける。このような確信を公的に発表するのは、もしかするとその“何らかの証拠”と言えるようなものを得ているからではないだろうか。そうでなければ“中長期計画”というふうな表現自体も奇妙に思える。近年の中国の“科学論文”の提出数は世界一で「アメリカ」を完全に追い越している。いまや、中国の科学技術は決して侮ることなど出来ないのだ。もちろん、台湾の包囲網は危険だが、地球型惑星の発見は、地球人の未来にとって“有効な話”かもしれず、今後の「日本」にとって、お付き合いの難しい国であることは間違いがない……。

「日本」はいつから「ムキムキ王国」になった

2024-10-15
最近は一週間に一度は“ボディビル関連”のニュースを目にする。どの業界でも“身体づくり”が大流行りだ。しかも、男性だけではなくて女性たちにも大流行りだ。もちろん健康法の一つとして“フィットネス”はあるのだろうから、良いことには違いないが、あまり“ムキムキマン”が多くなると、それはそれで「大丈夫なのかな」と余計な心配をしたりする。今回、スペインのマドリードで行われていた「IFBBアーノルド・クラシック・ヨーロッパ」の大会において、日本からは18名もの選手たちが派遣されていたらしい。その結果、なんと「金7個」「銀5個」「銅4個」の計16個ものメダルを獲得することになったらしい。なんという“メダル荒らし”ではないか。当たり前の話だが、世界大会であるから、世界各国から参加していたのに違いなく、その中で16個ものメダルを獲得するというのは、文字通り「ムキムキマンの国」に日本が成った…という証明のようなものである。だが、考えてみると、ちょっとおかしい。元々というか、本来というか、ムキムキマンは欧米人に多い体質で、東洋人というか日本人は元々は“そういう体質”ではない。つまり“遺伝的な体質”としては、決してムキムキではない。だから逆に鍛えることによって“それ”が目立つ要素があるのかもしれないし、日本人の几帳面さが“食事制限”などに強く、禁欲的に“身体を絞る”ことだけに“筋肉を付ける”ことだけに情熱を注げるのかもしれず、とにかく“意外なほど向いていた”ことは間違いがないだろう。確かに日本人は几帳面で忍耐強く勤勉で“理想的なキン肉マン作り”に向いた性質を備えているのかもしれない。こういう“キン肉マン男女”が多数出現してくることで、遺伝子的なものにも変化を与え、徐々に“日本人体形”が“欧米系”に近づいていくような傾向が出てくるだろうか。最近の日本人は、その考え方にしても、その生活スタイルにしても、どちらかと言えば“東洋系”よりは“欧米系”の方に、やや近い。訪日客もますます増えてくることで、ごく自然に“欧米系人種”と“純粋日本人”との“ハーフの子供たち”も多くなって、どの国とも違った身体も心も“西洋と東洋とを半分ずつ持った”新しい人種が生まれそうな気がする。あと30年くらい経てば、そういう“新しい種族”的な子供たちが続々と誕生して「日本」が「世界」をリードしていくようになっていく……そういう予感さえする「ムキムキ王国」なのだった。

「血は水よりも濃い」を“どう引き継いでいくか”

2024-10-14
誰でも“自分の両親”の「血」を受継いでいる。嫌でも受継いでいる。時には両親よりも“祖父母の遺伝子”の方が強く表に現れることもあるが、とにかく“家系”や“血統”を変えることはできない。最近は「性別」を変える人も出てきているが「家系・血縁」だけはどうすることもできない。もし、両親が両方とも“日本を代表する歌手”だった場合、どうなるのか。その答えの一つがここにある。昭和を代表する歌手・森進一氏と森昌子氏の児として産まれたのが、ロックバンドのボーカルとして活躍しているTaka(長男)やHiro(三男)だ。そのうち三男のHiro氏の方が結婚をされた。母親である森昌子氏と同一の誕生日を持つモデル山本舞香氏と、その誕生日10月13日に結婚したのだ。この日を「結婚記念日」にしておけば、妻の誕生日も、実母の誕生日も、そして自らの結婚記念日も、一度にやって来るから、忘れようがない。考えようによっては、なかなか“合理的”というか、良い方法を思いついたものだ。もちろん偶然なのに違いないが、偶然と言えば“実兄”と同じ“ロックバンドのボーカル”という道を選んだ。その芸名も実兄と同じでアルファベット綴りの“Hiro”だ。つまり、この人は無意識だと思うが、とても“家庭的な人物”なのに違いない。もっとも、外貌も似ている父親は“再婚型”であったから、その部分はどうなるのか、ちょっとだけ気になる。わたしはHiro氏の歌声を二度ほどしか聴いたことはないが、大変に聴きやすい“良い声”をしている。しかも間違いなく“先天的に情緒性のある歌い方”で、その血統を見事なまでに引き継いでいる。二人の男児は、両親の児とすぐ判るような芸名を付けなかった。しかも“歌謡曲”ではなく“ロックの世界”を択んだ。長男の方が声質は“父親似”のような気もするが、顔立ちは間違いなく三男の方が“若い頃の父親”に若干“母親”を含ませたような感じで、そういう意味でも“血統”を見事に引き継いでいる。彼らは、ともに“両親の力を借りず”に“別方面の歌の道”へと進んだ。ちなみに次男は“会社員”の道を選択している。けれども、三人とも、母親が願ったように“自立”して、社会人として、親をあてにすることなく立派に育った。一時期、完全に芸能界を引退して、自ら“スパルタ教育”と言い切る“子育て”をしていた森昌子の息子たちは「血は水よりも濃い」立派な大人になったのだ。

「44年前の殺人」の真犯人が「DNA」で逮捕‼

2024-10-13
犯罪捜査という点にかけては、日本よりもアメリカの方が圧倒的に進んでいるような印象を受ける。「日本」はどうしても“管轄地域”の問題や“持効性”の問題や“担当異動”の問題などあって、さらには“捜査スタイル”自体に“思い込み”とか“情緒性”とかが加味され易くて、ほんとうに“合理的な判断”や“科学的な証拠”だけで追い詰めていく手法が、いまだに確立されていないような印象を憶える。アメリカのワシントン州で起こった44年前の殺人事件が、今年になって真犯人として浮上した男が容疑者として、このほど逮捕された。犯行当時は21歳で、現在は65歳になっており、しかもワシントン州ではなく、アーカンソー州での逮捕となった。ドロシー・マリア・シルゼルさん(当時30歳)が自宅で何者かに、性的暴行を受け、頭部を殴られ、首を圧迫されて死亡したのは1980年2月26日のことだった。その当時、容疑者と思しき者のDNAは採取されていたが、現代のように精密な鑑定法が確立されていなかった。結局、当時は可能性のある人物は11名ほどにまで絞られたが、そこでストップして“未解決事件”のまま放置されていた。それが2022年になってDNAの“遺伝子系譜学”という判別法が確立され、再び“未解決のままの事件”にも採用されるようになった。こうして、最終的に容疑者は2023年9月の時点で“二人の兄弟”のみとなった。その後も、地道な捜査は続けられ、今年に入って決定的な証拠が“煙草の吸殻”から採取され、それが事件当時のDNAと完全に一致したのだ。こうして44年後にはなったが真犯人が“科学的な証拠”によって突き止められた。おそらく日本では、こういう継続的な捜査は難しいのではないだろうか。刑事たちの“思い込み”によって“真犯人にしたてられてしまう”とよほどのことがない限り、周辺の“あやふやな証拠”によって“証拠固め”が行われ、状況的に「お前がやった」と決めつけられるのが日本の捜査手法だ。もっとDNAのように信頼できるものを根拠とした“現代的捜査方法”を確立していかないと、いつまでも“状況的に犯人らしい”という形で逮捕され、裁判が進行していくような気がしてならない。

「佐藤栄作」墓場から蘇える「平和賞」授賞⁉

2024-10-12
ノーベル平和賞が「日本原水爆被害者団体協議会」という“難しい名称”の団体に贈られた。世界中で「核兵器のない世界」を訴えてきた功績のようである。日本人でもほとんどの人が良く知らない団体に「ノーベル賞」が贈られたこと自体は大変に喜ばしい。だが、さまざまな疑問が浮かぶ。元々わたしはこの「平和賞」という賞が「ノーベル賞」の“一部門”であること自体が、いま一つ納得できていない。いや、あっても良いが“毎年選出するような賞”であるのか、疑問なのだ。もし毎年選出されるのであれば、その年に相応しい人物や団体に贈られなければならない。ところが、授賞された団体は、確かに世界に対して「核兵器のない世界」を訴え続けてきたのだが、近年は被爆者たちが“相当な高齢者”になってしまっているところから、目立った活動はしていないよう私には思われる。まあ、他のノーベル賞だって“その年に活躍した研究者”に贈られているわけではないから、一種の“功労賞”的な意味合いもあるのだから、そういう意味では“不思議ではない”ということになる。日本では既に50年前に「佐藤栄作氏」が個人として受賞している。彼の場合は、その首相時代に「核拡散防止条約」に署名したことが第一の理由になっている。もちろん、日本の総理大臣でノーベル賞を受賞したのは、後にも先にも“この人”以外には存在していない。この人は、長期にわたって政権を築き、日本の国力を“世界に押し上げた”そういう意味での功労者だが、果たして“平和の使者”と言えるのかは……微妙なところだ。ただ歴史を振り返っても、各国のリーダーたちに「ノーベル平和賞」を受賞した人物は滅多にいない。そういう意味で言えば“その死後も残る栄誉”に恵まれた人物と言えるだろう。大体「首相」という栄誉も、努力だけで得られるものではなく、或る種の“タイミング”というか「運」が大いに関わっている。それにプラスして「ノーベル平和賞」という栄誉は、よほどの“運”を持っていなければ得られるものではない。ただ、これだけの“運”を持っていながら、この人は“人気”がなかった。本人は、その人気を得たいということで“虚しい努力”を続けていたようだ。ただ、この人の後に首相となった田中角栄氏は“人気”もあったが“敵”も多くて、政権が長く続かず、最終的に「罪人」にまでなったことを想うと、人の持つ「運」というのは、あまり欲張ってはいけないのかもしれない。

「罵倒」と「称賛」を浴びる“悪役”“ヒロイン”⁉

2024-10-11
人間の“評価”というものは難しいものだが、世の中の“8割方の人たち”というのは“マスコミ”とか“口コミなどの世論”とか“自分以外の物差し”を使って、その人を評価しようとする。つまり、自分自身の「確かな判断基準」というものを持って居ない場合が多い。だから、学校でも職場でも“イジメ”的なものは無くならない。自分自身の「確かな判断基準」がないのだから、なんとなく体勢的なものに従っている方が“安心”と思うのは“世の常”だからだ。さて、今回の衆議院選挙で「中国比例ブロック」から出馬予定であった杉田水脈氏が“出馬しない意向”を明らかにした。この人も前回の総裁選挙において高市早苗氏の“推薦人”の一人であったから、高市氏にとっては、また一人“部下的な人物”を失うことになる。私は高市氏に対して前々から“部下後輩運に難あり”と指摘し、その部分さえ解消されるなら“総理になれる器”であると述べてきた。今回の選挙では、たまたまなのか、意図的なのか判らないが、高市氏の支持者たちが何人も外されている。さて杉田水脈氏の方だが、出馬辞退を受けて、ネット民の反応は完全に二つに割れている。つまり、彼女を「罵倒するような内容」のものと、逆に「称賛するような内容」のものと、こんなに評価が“大きく分かれる人”も珍しい。総じて「日本」では「アメリカ」の選挙戦のような“罵倒する”とか“称賛する”とかいう好き嫌い発言は、あまりしてこなかった傾向がある。日本人は元々の武道の流れとして“礼をわきまえる”精神が発達しているから「好き」「嫌い」も、やや控えめな傾向がある。杉田氏はこれまで「差別発言をしている」ということで、ずいぶんバッシングを受けてきた。まあ、本人も一部の人たちを“批判・差別”をしてきたのだから、同じように“批判・差別”をされても文句は言えない立場だが、そういうこの人は“解りやすい”のか、ネット民の反応は完全に二分している。こういう“二分した評価”を受ける人というのは、基本的に“才能を持っている人”に多い。たまたま、そのすぐ傍に女優の剛力彩芽氏の“最近の評価”が出ていて、この女優さんも“評価が二分していた”が、最近はネットフリックスのドラマで新境地を開いたことで、世界的な“称賛”が多くなってきているようだ。人間の評価というのは、そういうふうに“いつ”なのかによっても“大きく分かれる”ケースが少なくない。時代の寵児として“脚光を浴びている”ような時と、運気が低迷して“なんでも批判されがち”な時とがあるからだ。その落差が大きい人ほど「運命的な人生を歩む」のが特徴だ。文字通り「ドラマのような人生」を歩めるのは、どの職業であっても幸福なことかもしれない。

今後5年間で「2160兆円」が“消えていく”世界⁉

2024-10-10
いまも続いている“ウクライナ”と“パレスチナ・ガザ地区”の紛争。こういう地政学的な紛争(戦争)は今後もそう簡単に無くなる気配はないが、それによって失われていく世界の“経済的損失”は今後5年間で14.5兆ドル(日本円で2160兆円)にも達するのだそうだ。1,000,000,000,000円って、視たことがないから判らないが、とにかく“すごい金額”であることは間違いがない。確かに映像で観ていても、大きなビルなどが壊滅的な瓦礫と化している。毎日のように、そういうことが行われる。当然、それは一方の国だけに行われるのではなく、双方の国や地域に行われている。当たり前の話だが、それに伴なって多くの犠牲者が出てきてしまう。これも、双方の国や地域にだ。現代は昔と違って、一方の国だけが圧倒的な戦力や兵器を持っているわけではない。文明や国力としてみても、それほど大きな違いがあるわけでもない。そうすると当然のことながら“痛み分け”が多くなる。一般的に言えば、長期戦なら国力の強い方が勝利とはなるが、一国だけで戦うというより、その周辺国が“加勢”したりもするので、ますますどちらが勝つか解からなくなる。要するに長引けば長引くほど、双方に死傷者が出て、双方の国土が痛み、双方の経済が低迷し、双方に“家や家族を失った人”が出てくる。要するに、どっちが勝っても、どっちが負けても、両方とも“悲惨な状態”だけが待っている。現代は、昔のような“完全なる勝利者”などないのだ。そのことを、もっとも端的に表しているのが、ここに示された“経済的な消失の数値”だと言いうことになる。これは、もしかすると、各企業間でも言えることなのかもしれないし、もっと言えば“各家庭内”でも言えることなのかもしれない。そういう意味では、いや、そういう意味ではというのは変な言い方だが、それぞれが“仲良くし合うこと”は“経済的な発展”においてはとても重要なことなのかもしれない。誰かが言っていたが、世界において、どの貧民街でも共通していることがある。争い事が多くて、喧嘩や怒鳴り声の絶え間がない……というのだ。確かに、わたしが幼少時に育った地域もそうだった。毎日、常に怒鳴り声が響き、モノが壊れるような音がしていた。それに対して、経済的に恵まれている地域からは、怒鳴り声も、ものの壊れる音も聞こえてこなかったような……。

自分の「期待する答え」が「未来にない」ことも

2024-10-09
誰でも、自分の未来が“良いもの”であって欲しいと思う。それは万人に共通している。ただ、それが“万人にやって来るか”というと、それは違っていて、やって来る人もいれば、やって来ない人もいる。やって来ない人はどうすれば良いのかというと、少しでも“それ”に近づくためには“どうするのが良いか”を考える……というのが、正しい未来の“捉え方”ではないだろうか。少なくとも、そういうような意識で、わたしは“占いのお客様”たちと向き合っている。ところが、たまに、そういうわたしの姿勢を“善(よし)とはしない”人がいる。その女性は、わたしに「そういう答えを聞きたいんじゃない‼」と言い放った。「わたしは占いではどうなのかを知りたいのよ‼」と叫んだ。「だから、占いでは来年の3月までは“良い運気”とは言えないので、それまではすぐ良い結果を出そうとしても無理だと言っているのです」「それはあなたが思っていることでしょう‼ 占いでは、どうなのよ‼」どうして、こういう傲慢なものの言い方なのだろう。「だから、なんども言うように、占いで、来年3月になれば協力者が出てきて…」「そんな一般論を訊いてるんじゃない‼」「一般論ではなく、占いです、占いを基に話しています」「私はとにかく離婚はしない、それで来たし、それで行くの、どうすれば良いの‼」「でも、もうムリだと思いますよ」「そんなお説教を聞きたいんじゃないの」「別に、お説教なんかしていません、占いでムリと出ているから…」「こんな最低な占い師はじめてだわ」「わたしはこの仕事を40年以上やっていますが…そのように言われたのは初めてです」「老害なだけじゃない‼」「わたしに依頼してきたのは、あなたの方ですよ」「なによ、偉そうに‼」とにかく終始「おかんむり」であった。初めての依頼であるのに、電話だが初対面であるのに、そのものの言い方は徐々に口汚くなっていく。「なによ、弁護士でもないくせに、お前が悪いって言い方じゃない‼」「わたしは“お前”などと言っていません」これでは、相談にも何にもなっていない。「てめえの話すことは老害以外のなにものでもないんだよ‼」もう、これ以上、話してもムダだなと思った。だから私の方から電話を切った。自分の期待する答えを“言ってくれない占い師”は、このような仕打ちを受けるものなのだろうか。もし、この女性が「占い」というものを“自分が期待する答え”を用意してくれるもの…というふうに錯覚されているなら、それはもう「占い師」のもとに行くべきではない。正しい占いは「未来」を正直に伝え、そのうえで一緒に“もっとも良い解決策”を考えていこうとするものだからである。

徒歩1分の「警察署」に「母親殺し」の少年が……

2024-10-08
人はときどき「あれれ…」という驚きの気持ちで記事を読み進めることがある。そりゃそうだ。なにしろ、今わたしが居住しているマンションというのは「白石警察署」の“斜め後ろ”の位置にある。ときどき「警察署に行って場所を教えてもらいました」という人が居るくらいだ。徒歩で歩いたら1分くらいの位置にある。その白石警察署に昨日“母親殺し”の容疑で15歳の少年が逮捕されて来た。その少年の住まいも、ここからそんなには遠くない。同じ区内にあるアパートだからだ。中学3年生である少年は7日の午前9時50分頃、40歳で無職の母親の首を圧迫して殺害し、それから30分ほど経ってから、警察に自ら110番通報して捕まるのを待った。事件当時、部屋には二人以外に居た形跡はなく、特に争い合った形跡もないようだ。少年は自らの犯行を認めている。そういう経緯だ。いまのとこと、それ以上のことは判っていない。ここからは私の推測だが、おそらく母親と少年とは“二人暮らし”だったのではないか、と推測する。母親が無職とされているのは、シングルマザーだからではないだろうか。おそらく、この母親と少年とは、ふだんから“何かで揉めていた”に違いない。いちばんの問題は、二人とも「相談する相手が居なかった」からではないか…という気が私にはする。もし、身近に“相談する相手”が居たなら、今回のような事にはならなかったような気がするのだ。日本には、現在相当数の“ひとり親家庭”がある。家族が複数いる場合には、何かしらの問題があっても、それだけで「殺そう」とまでは思わない。ところが「親」と「子」の“二人暮らし”が長く続いている場合、そうして、その“親子関係”が“母と息子”“父と娘”のように異性関係で逢った場合、奇妙な形が“成立してしまう”ケースがある。つまり「夫婦」ではないのだが“夫婦と似たような関係性”になってしまうことだ。もちろん、親子だから年齢が離れているし、別に“親子としての情愛”以外は何もない。それでも、十年以上一緒に居る場合「ふつうの親子」とは何かが異なってくる。運命学的には“夫婦と似たような関係性”が生まれてきてしまうのだ。そうして、最初にも言ったように、双方とも身近に“相談する相手”が居なかった場合、事件に発展するような何かが生じてしまう可能性がある。これが“母娘の二人暮らし”とか“父息子の二人暮らし”であれば、そういう心配はない。必ず、どちらかが「出ていく」からだ。 « Older Entries Newer Entries »