11月, 2024年
2024-11-18
“電流爆破のカリスマ”として知られる「邪道」大仁田厚氏に密着したドキュメンタリー映画「ファイト」が12月6日から順次公開されることが決まった。「自分の生き方を見せてみろ‼ どんな人生でも這い上がれ‼」がキャッチコピーの映画だ。或る意味、大仁田厚に相応しいキャッチコピーだ。なぜなら、彼の人生は必ずしも“褒められたものではない”からだ。いや、むしろ、批判や嘲笑にさらされることが多かった。彼の人生の中で“ほんとうに輝いていた”のは、今回の8年間の密着ではなく、もっともっと昔の「大仁田厚」だ。そう、最初に“引退した”時の頃だろう。その頃の彼は、ほんとうにカリスマのレスラーとして世間的にも好印象で大きく評価されていた。ところが、彼はこの“引退”で、予想以上の脚光を浴びた。予期せぬ脚光を浴びた。それによって、言い方は悪いが「味を占めてしまった」ようなところがある。なぜなら、その後、彼は“復活”と“引退”を繰り返すようになったからだ。実際、7度も引退して、7度もリングに復帰した。これでは「辞める辞める詐欺」ではないか。実際、そういうような眼で、彼を批難する人たちも多い。とは言いながらも、とうとう「デビュー50周年」にまでなって、67歳になった現在でもリングに上がっている。元々この人はプロレスラーとしては小柄で身体も特別ガッチリしているわけでもない。したがって、いわゆる“見栄えのするレスラー”ではない。その彼が多くの観客を惹きつけるためには“何か強烈なインパクト”が必要だった。そこで彼が見つけ出したのが「電流爆破デスマッチ」という試合方法だった。つまり、リングの四方に電線を張り巡らせて、そこに触れるたび“電気が流れる”という試合方法だ。もちろん、一つ間違えば“あの世行き”という危険な試合方法だ。だが、小柄で特別強烈な技を持っているわけでもない彼が、人気を集め、新聞や雑誌やテレビで“派手に宣伝してもらう方法”としては間違いなく効果的であった。なにしろ、電線に触れると一瞬にして光り輝いて、その部分に電流が流れ、皮膚がただれる。音も、光も、臭いも、悲鳴も、黙っていても会場内が盛り上がる。この演出方法は受けて連日“超満員”となった。みんな“怖いもの”見たさでやって来る。こうして「邪道」という称号を引っ提げて、彼はいつの間にか“教祖的レスラー”となっていったのだ。もちろん、今日まで傷だらけ、痣だらけ、全身ボロボロである。もう一つ、彼は“謎のような言葉”をよく口にする。良く言えば“哲学的な物言い”であり、悪く言えば“詐欺師的な物言い”とも言える。実際、そういう弁舌の巧みさで一時期は“政治家”にも転身していた。だが、元々「正義の味方」が似合う人物ではない。自ら「邪道」というくらいで“ギリギリの路線”で生きてきた人物なのだ。そんな彼だからこそ「どんな人生でも這い上がれ‼」と言える。早い話が「傷だらけの人生」なのだ。
2024-11-17
なぜ、こういう“世の中”になってしまったのだろう。もしかすると「昔」に戻っているのかもしれない。大昔、と言っても200年ほど前の時代のことだが、世の中には“格差”というものがあって、それが“当たり前”のこととして、みんな暮らしていた。だから、格差があったから「不満が渦巻いていた」かというと、決してそうではなかったのだ。それは「格差があるのは当たり前のことだ」と“ほとんどの人たち”が思っていたからだ。ほとんどの人たちが思っていると、それは“その時代の常識”となる。今でこそ、さまざまな“格差”は是正され、だからこそ逆に「格差は好ましくない」とされ、人種間格差や、性別間格差や、職業間格差や、学歴間格差や、家柄的格差や、収入間格差や、世代間格差は、表面上、取り払われようとしてきたが……ここにきて、再び、世代間格差と収入間格差の二つは“広がり”を見せ始めようとしている。しかも、新たに登場した「世代間格差」は、昔の“それ”と同一ではない。昔は“世代間”によって「行うべきことが違う」とか「好みが違う」とか言うような形で格差があったのだが、現代は「そもそも考え方が違う」「暮らし方が違う」という“格差”になって表れている。特に、その“流行”や“会話”は根本的に違っていて、合わせていけるレベルではなくなっている。たとえば十代半ばから二十代半ばくらいの人たちと、六十代半ばから七十代半ばくらいの人たちとでは、その“暮らし方”が根本的に違っているため、一致点を見出すことが難しくなっている。もちろん“世代的ギャップ”というのは昔からあって、年齢差があれば、合わせるのは難しいのが当然なのだが、現代の場合には“言語”や“行動”の根本的なものが違うため、調和させること自体に無理が生じやすい。もう一つ、大きく違ってきているものに「収入間格差」がある。これも日本の場合には最近まで、そんなに大きくは違わなかったのだが、ここにきて急速に“差”が付き始めている。一つには、その仕事によって“収入差”が大きくなり始めていることと、もう一つは“暮らしの形態”によって“生活費”に格差が生まれてきていることが影響している。したがって、同一の収入であっても、実際には相当“生活上の格差”が生じてくるようになってしまった。つまり、その人の収入金額だけで“収入格差”を論じられなくなっている。ただ物価上昇など矢継ぎ早に起こっていることで、ここ何十年も「日本」では少なくなっていた“収入間格差”がどんどん表面化して、このままだと間違いなく十年後には「収入間格差の大きい国」になることは確実と言える。しかも、それに対しての“確かな手立て”が見いだせなくなりつつあるのだ。
2024-11-16
NHKに「映像の世紀」という実写フィルムの番組がある。昔の記録映像に解説を施した番組だが、考えさせられることが多い。今回は「東京 戦後ゼロ年」ということで、終戦直後から約一年間の「東京」の状況変化を当時の貴重な記録映像を繋ぎ合わせて制作している。そこには紛れもなく“日本人”がいるのだが、いまの日本人とは、どこか違っている。なにが、どう違っているのか、なかなか言葉で表すのは難しいが、わたしがいちばん感じたのは“強い生命力”を持っている……という点だ。もちろん“終戦の年”と、その翌年だから、東京は壊滅状態にある。路上に寝ている人たちが大勢いる。闇市が生れ、そこで食べ物や日用品を求める人たちが物を奪い合っている。その光景は“悲惨な敗戦国”を感じさせるもので、決して恵まれた人々ではない。それなのに、そこにいる人たちには“活き活きとした生命力”が感じられる。どういう環境であっても「頑張って生き延びなければ…」という想いが溢れているのだ。世界大戦の結果であるから、だれが悪いというのでもない。ただ“飢えている人々”は「天皇が、われわれと同じ人間というなら、食料を分け与えろ」というデモを皇居前広場で行う。現代人の眼から見れば、天皇を“神格視したこと”自体が間違っているので「敗戦した後になって責めるのは酷だな」と思うのだが、彼らの表情は真剣そのものだ。そういう中で「闇市」に殺到するわけだが、結局、人間というのは、生きることに必死となった時、ものすごい生命力にあふれるものだということを、この映像は教えてくれる。逆な言い方をすると、現代人に“強い生命力”がそれほど感じられないのは、もしかすると、あの「生き延びなければ…」という想いが、乏しいからなのかもしれない。だれもが同じ“焼野原の中”では最終的に“生命力の強い者”が勝つ。それが“生物界の掟”なのだ。みんな焼野原に投げ出されてしまったら、弱肉強食で“闇市”であろうが、何であろうが、生きるための闘争を始める。そうして、生き延びた人たちのお陰で、われわれは今、こうして“安住の住処”を得て、戦後の逞しさを失い、フラフラとした生命力の中で生きていく……。
2024-11-15
三年前の国税調査によれば、全国における「単身世帯」の比率は既に38%に達していて、この比率は1980年時の調査に比べて約2倍だそうである。つまり、あっという間に「日本」は“単身世帯国家”に変貌しつつある……ということだ。しかも、地域的には東京都の“単身世帯比率”がもっとも多く、しかも“若い世代”による単身世帯が多いという。これが田舎になると、その指数は逆転して“高齢者の単身世帯”が圧倒的に多くなる。この数字を見ても、都会と地方とでは“暮らし方の違い”が鮮明になりつつある。都会は今後ますます“単身者が暮らしやすい街”に変貌していくだろうし、田舎は“高齢の単身者でも暮らしやすい街”に変わっていかなければ、世代間格差が広がっていく。どちらかと言えば、近年の“AI革命”的な社会の変化は、それをうまく使いこなしたり、自然に融合していける若い世代には好都合な社会と言えるし、あたらしいものに対して付いていけない世代には“暮らしにくい社会”となっていくに違いない。そういう意味では、むしろ最初から分けて「高齢者たちにとって暮らしやすい街」を謳うような市町村が出てきても良いような気がする。もちろん、そのためには“税収入”が必要で、中東などと違って天然資源の少ない日本は、どうしても“働き手”の多い地域に“税収入”がたくさん入る仕組みとなっている。ただ「日本」という島国は、他の国々と違って比較的まとまりが良い。人種的にも、言語的にも、文化的にも、地域面積的にも、統一感がある。したがって今後における“都会の在り方”と“田舎の在り方”とを最初から“分けて考える”方式を取り、或る程度の年齢に達してからは「高齢者たちにとって暮らしやすい街」に移り住むような体制を作って行けば、双方にとって“共生しやすい社会”が自然と作られていくのではないだろうか。実際、同じ都会の中であっても、若い人たちが多い地域と、高齢者たちが多い地域とが、徐々に分かれて来ているような気がしないでもない。多分、最近「レトロな街」や「レトロな店」が一部の“若い人たち”から好まれて来始めているのは、少なくとも“Z世代以降の人たち”すべてが「AI社会」を望んでいるのではなく、昔の“古き良き時代”に戻りたい若者も、少なからずは居て、そういう人たちが「高齢者が暮らしやすい街」に加わることで“好循環の活気”が生まれていくのではないだろうか。
2024-11-14
フリーアナウンサーでタレントの高橋真麻氏が、自ら第二子出産後に「体質が変わってしまった」とSNS上で語っている。確かに、近年の高橋氏からは“妙に痩せた”印象を受ける。手足などがほっそりとし、栄養が十分に行きわたっていないかのような外貌に変ってしまった。体質的にも、あちこち故障しやすくなったようで、ここ最近だけでも、9月12日、10月22日、11月11日と、立て続けに体調不良で暮しにも影響が出ていることを発信している。出産というのは、普段と違って、全身の神経がこわばるとか、意識が遠のくとか、神経網が張り巡らされるとか……或る種のトランス状態が作られる場合がある。つまり、心霊現象を引き起こしやすい状態が、無意識のうちに作られてしまう。そうすると、元々神経過敏な人や感受性の鋭すぎる人は無意識のうちに「心霊世界」と繋がってしまいやすい。時としてそれは“浮遊している良くない霊”と繋がってしまうようなことにもなりやすい。それによって体質が変化し、時としては人格さえも変化し、それまでとは違った状態に陥ってしまうケースがある。私が思うに、彼女の場合は、体質的にどこか“霊媒体質”のようなものを本質的に持っていて、それが出産時に“形を表すようになった”可能性が強い。このような場合、その“心霊的なもの”に対しての完全なる浄化がなされないと、なかなか元のふつうの体質に戻すことは難しい。タレントの壇蜜氏などにも“それ”があるようで、彼女の場合にはたぶん“愛情を注いだものの死”が関わっているような気がするが、どうしても情緒性の強い人は“その種の出来事”が起こると、そういう方向へと“意識”を持っていってしまわれやすい。「心霊世界」というのは、元々感受性の強い人や神経過敏な人は“関わらない方が良い”世界で、どうしても関わってしまうと、そこから“抜け出す”ことが難しくなる。宗教や信仰でもそうなのだが“その世界”との距離感を計りながら接しないと、本来の自分を“見失ってしまう”ようなことにもなりやすいから、その点、注意が必要なのだ。なお「心霊世界」と言っても別に“恐ろしいもの”などではなく、ごく普通の“昔の人たちの集まり”の世界だと思えば良い。怖がるのがいちばん良くない。
2024-11-13
石破首相が11日にSNS上での決意表明で「国家国民のために微力を尽くしてまいります」と記している。この表現に対して、早くも批判的な意見が続出しているらしい。昔の日本人には、こういう“謙遜した物言い”をする人が結構いた。けれども、現代ではほとんど見かけず「微力を尽くす」という表現自体が“死語”となっている。彼自身は「傲慢に思われたくない」と思ったのかもしれないが、現代では…というか、若い人たちには“通じない表現”になってしまっている。特に、わたしが危惧するのは海外に行って各国首脳たちと会話する時、或いは交渉に臨む時、こういう表現は“誤解を与える”し、交渉事では特に“不利に傾きやすい”から注意しなければならない。少なくとも、欧米人には“へりくだった物言い”は危険なのだ。特に現在の各国首脳は“強気発言の多い者たち”で占められている。それでなくても日本の外交は“弱腰外交”として受け止められている。弱みを見せると、そこをどんどんついてくるのが、海外の首脳たちなのだ。元々、石破氏には“言語不明瞭”なところがある。それに、もう一つ、わたしはは最近の彼の顔貌を観て気になっていることがある。それは、最近、彼は眉骨上部の付近の色艶が良くないのだ。眉骨上部は経済上の“やりとり”に大きく関わる部分で、それも“公的な金銭のやり取り”と関係している。その部分が“暗蒙色に変わってきている”のは、どうしてだろう。もしかすると、彼は“他の部分”ではなく、経済面から徐々に苦境に立たされていくのではないだろうか。考えて観ると、彼は自民党内部の“金の問題”を批判して“首相になれた”のだが、実際に自分が首相の立場に付いた時、政府内部の経済面をどうしていくか、周りに強力な支援者を持っていない可能性がある。アメリカの選挙戦報道を見ても解るように、政治を動かすには“金が必要”なのだ。アメリカは少しあからさまに過ぎるが、それでも“金持ちを味方”につけておかないと、思い切った政策はとれない。石破氏の顔貌の気血色を観ると、まだ諸外国首脳たちと“顔合わせすべき”時期ではないような気が私にはする。もう少し、眉骨上部の気血色が良くなってから“交渉事”に挑ませないと「日本」にとって不利な条件など、いつの間にか受け入れてしまっていくようで人ごとならが大いに心配……。
2024-11-12
確かに“誰もが夢見る”未来都市の姿の一つではあった。「空飛ぶタクシー」の実用化だ。ドイツの新興企業「リリウム」は、このほど子会社2社が資金調達に行き詰って破産し、それに伴なって親会社である「リリウム」も破産申請することが明らかとなった。こうしてドイツにおいては「空飛ぶタクシー」は“夢”と消えた。クラウス・ローウェCEOは「世界各国から支援の要請がある」と語っていたようだが、結局、形にならず終わってしまったかのようである。確かに、未来都市の幻想として、空飛ぶタクシーが走っていそうではある。けれども、現実問題として考えた時、果たして「空飛ぶタクシー」は必要なのだろうか……と思ってしまう。一つには発着するにも、離着するにも、それなりのスペースを必要とする。一般自動車のように“即スタート”できるのか…という問題もある。さらに、コストが掛かり過ぎるという問題もある。これらすべてを解決できないと「飛べる」と言うだけで実用化や商用化は出来ないのだ。経済的な余裕のある人は、既に“自家用ジェット機”というものを持っていたりする。いや、そこまでいかなくても“自家用車”は持っていたりする。そういう人が「空飛ぶタクシーを使おう」と思うことがあるだろうか。いや、あるかもしれないが、少なくとも“ひんぱんに”とはならない。少なくとも、ほんとうに忙しい時には“空から街を眺めて愉しむ”余裕というのはあまりない。その速さに関しては、アメリカのような広大な国の場合には価値があるかもしれない。けれども、欧州はどこも、そんなに広い国土とは言い難い。したがって、自家用車があれば十分だ。もし、あちこち行く仕事なら、自家用ジェットを購入するか、ヘリコプターを所有するか、通常の商用飛行機を使えばいい。つまり、いちばんの問題は「タクシー」として“商用化”しようとしている点なのだ。タクシーとして普及させるのであれば、なによりも簡単で便利で日常価格であることが必要だ。ところが、このすべての部分が今のところクリアされていない。相当数普及しなければ、簡単には乗れない。したがって便利にはならない。そして価格的にも“タクシー料金”のような低価格では難しい。したがって、世界にはたくさんの“投資家”がいるが、彼らは支援したくても、現実には投資資金の回収は難しいと判断したのではないだろうか。
2024-11-11
どうもパリ五輪は、あとになってからも問題点が囁かれているが、その一つに“性別問題”がある。女子ボクシング66㌔級で金メダルを得たアルジェリア代表のイマネ・ヘリフ選手だが、イタリアのカリニ選手との試合で、開始早々カリニ選手が試合放棄し「男性ではないか」と抗議した。もちろん規定をクリアして出場していたので、女性として“金メダル”を獲得したのだが、その疑惑が完全に払拭されたわけではなかった。そうした中でフランス人ジャーナリストがこのほど入手した医療報告書によれば、ヘリフ選手の睾丸は体内に埋もれていて、XY染色体を持っていること。そして子宮は見当たらないこと。などが記されているという。もし、これが事実だとすれば、やはりイタリア女子選手の勘は正しかった…ということになる。これらの報道に対して、ヘリフ選手側は「法的措置に訴える」と抗議している。確かに、近年、荒っぽいプロスポーツの世界には“どっち”なのか、わかりにくい選手が沢山出てきている。オリンピックなどの場合、国によっては、メダル獲得によって、その後の人生が経済的にも名誉的にも保証されるような国もある。つまり、その大会に人生が掛かっているわけだが、それでなくても“男性的な分野”に“微妙な選手”が出てくれば、騒動を巻き起こすのは当然のことかもしれない。近年、五輪に関しては、もう一つの問題も広がりつつある。その「国籍」が“微妙な人達”だ。たとえば「日本人」として出てきても、明らかに外見的には“日本人を逸脱している”風貌を持っている人たちがいることだ。時には、日本では育っていない人もいる。日本語が満足に話せない人もいる。そういう人たちでも、日本の法律では“日本人の血”を半分供えている場合には「日本国籍」を得ることが出来る。だから、日本語を話せないハーフの人物や、ほとんど日本では暮らして来なかったハーフの人物でも、22歳までなら“日本国籍取得”が可能になる。そうして国際大会で「日本人選手」として出場できるのだ。さらに五輪の場合、いつからか“プロ選手”も“セミプロ選手”も“アマチュア選手”も、同じ土俵で戦わなければならない。昔のように“すべてがアマチュア選手”ではなくなってしまった。当然そうなると、初期の目的であった「参加することに意義がある」大会などではなくなった。だから、もう、少なくとも“開催国”にはならない方が良いのだ。
2024-11-10
俗に「先進国」という表現は“何”を基準として言っているのか、よく解からないことがあるが、その先進国の一つであるスウェーデンにおいて、興味深い事実が報道されている。この国はいち早く“デジタル教科書”を取り入れた国なのだが、その結果、近年、急速に子供たちの学力低下が表面化して「やっぱり紙教科書に戻そう」という動きが盛んになってきているという。こういう興味深い事実を知ると、なんでもかんでも“科学的なら良い”というものではない、ということがよく解かる。日本では、遅ればせながら2019年度から文部科学省が推進して全国の小中学校に“デジタル教材”を普及させた。したがって名目上は、今では“一人一台”画面で学ぶ形が取られてはいる。ただ全面的にというのではなく、あくまで“補助教材”的な意味合いが、日本の場合には強いような気がする。スウェーデンという国は何でも早くて、たとえば紙紙幣は実質的にほとんど使われていない。国のトップも若い人たちで占められていて、確か女性首相(⁉)だったはずだ。そういう国だから、ものごとを変更していくのも躊躇しないというか、実に歯切れが良い。いち早く“デジタル教科書”を取り入れ、その結果、児童たちの学力低下が著しいと判れば、今度は何のためらいもなく、すぐ“紙教科書”へと戻す。そういう変化に対して抵抗感がないようだ。「日本」という国は何でも、ものごとに慎重で“一気に変える”ということはなかなかしないが、その代わり、いったん“それ”に転換したなら、よほどのことがない限り、また「元に戻そう」とはならない。これは国民性もあるのだろうが、どっちが良いと決めつけられるものではなく、それぞれに“良し・悪し”があるような気がする。ただ、ひとつ気が付くことは、若い人たちが主体で国を動かすと、その変化に対する対応も早く、高齢者たちが主体で国を動かすと、どうしても慎重となって“徐々に変えていく形”を取りがちとなる。それと何でも「科学的なら良い」とか「先進的なものなら良い」という時代でなくなったことは事実のようで、これからは、それぞれの長所や短所を見極めながら「上手に融合させていく時代」に変わりつつあるような気が、なんとなくする。
2024-11-09
奇妙な現象が起こっているらしい。兵庫県の斎藤元彦前知事といえば「パワハラ疑惑」や「おねだり疑惑」でマスコミからさんざんバッシングを受けた人物だ。その前知事が現在開始されている「知事選」で、多数の政党から支持を受けている稲村和美前尼崎市長と“互角に戦っている”というのだ。もっとも奇妙なのは斎藤元知事の街頭演説には彼を応援する人々で“黒山の人だかり”になるらしい。あれだけ連日マスコミから猛バッシングを受けていた知事だが、意外や意外、地元民たちは決して彼を“見捨てた”わけではなかったのかもしれない。私が思うに、近年のマスコミは総じて“ターゲットにしやすい人物”が出現すると、寄ってたかって“総攻撃”を掛ける。どのマスコミも“同じような形”で猛バッシングする。さまざまな角度から報道するなら良いのだが、いったん“悪い”と決めつけると、その掘り起こしだけに必死となる。報道の客観性など無視して、とにかく何でもかんでも“悪いイメージ”を与え続ける。先日「紀州のドンファン」で有名になった人物の死亡事件で“計画殺人”として逮捕されている女性の公判の中で、彼女に覚せい剤を“売り渡した”とされる人物の供述が行われた。その中で“奇妙な証言”が飛び出したのだ。それは、この売人が「売り渡したのは事実だが、その中身は覚せい剤ではなかった」と証言したのだ。なんと氷砂糖を砕いたものだったと言う。もし、これが事実だというなら、これまでの検察側の主張は“その根底から崩れる”ことになる。ところが、こういった重要証言であるにもかかわらず、報道したのは一部マスコミだけで、ほとんどのマスコミは報道していない。先に出て来た「覚せい剤を購入していた」という報道は全てのマスコミで報道したのにだ。結局、マスコミは全てのニュースを公平に扱ってなどいない。バッシングしやすい人たち、ターゲットにしやすい人たちは連日報道するのだが、いろいろな事情から“扱いにくい人たち”に関しては“伏せる”か“ちょこっとだけ報道”か、どちらかの選択肢を取る。こうしてマスコミによって、いったん“そのイメージ”を与えられた人物はその生涯にわたって、そのイメージを引き摺りながら生きていかなければならない。
2024-11-08
大昔のヒット曲に「雪が降る」というのがある。確かシャンソンが原曲だったはずだが、哀愁があって、とても良い曲だった。人は何となく寒くなって北国に“雪が降る”季節になると、妙に寂しくなったりする。背中を温められたい気持ちになるものだ。今年はいつもより少し遅く、昨日になって初めて札幌に雪が降った。そして季節は「立冬」を迎えた。立冬は、文字通り“冬の訪れ”を意味する“季節区分”だが、実はこの「立冬」から一年を開始していた時代がある。今から2200年以上前の中国を統一した“秦の始皇帝の時代”がそうだ。秦の始皇帝という人は、当時、世の中を席巻していた“五行相勝説”を信じていた人で、自らの王朝を「水徳の王朝である」と宣言した。そして、その“徳”を身に付けるために、すべてを“五行の水行”に合わせたのだ。そうすると、どうなったのかというと「立冬」から“一年が始まる”よう暦を変えられた。つまり旧暦なので、当時の“10月”が「正月」となった。その当時は太陰太陽暦を用いていたので、数年に一度“閏月”が生じる。そうすると、その月は「後9月」という名称でよばれて、もう一回「9月」を繰り返す。こうして、日数を調節して新年である「10月=正月」を迎えることになる。いま、われわれが使っている暦は旧暦ではないが、ちょっと中途半端な「1月=正月」からスタートしている。それを嫌って、中国では、いや中国だけでなく、中華系の国はどこでも「春節」と呼ばれる旧暦の「1月」を「正月」として暦の上での一年をスタートさせている。ここで注目すべきは「立冬」ではなく「立春」に近い“旧暦の1月”を「正月」としていることだ。つまり、彼らは、秦の始皇帝の時代を嫌い「水行の冬(立冬)」ではなく「木行の春(立春)」から、一年が始まる、と規定しているのだ。確かに、春となって一年が開始された方が何となく“開始”の雰囲気が生まれる。春の花々が咲き出して“生きとし生けるもの”が目覚める感がある。そういう意味では、ちょっと中途半端な“太陽暦の1月”を「正月」とするわれわれ“欧米式日本人”は、あの背中を温められたい「雪が降る」季節の中で、北風にさらされながら、あたらしい年を迎えていくのだ。
2024-11-07
もちろん「アメリカが儲かれば…日本も儲かる」などという“諺”や“格言”はない。ないのだが、なんとなく「そうあって欲しい」と思う昨日から今日にかけての金融市場の動きだ。昨日の「日経平均」は「トランプ大統領の誕生」を確信して、じわじわと上昇し、終値でも1000円以上も上がった。今年の“日本株”は浮き沈みが激しく、一日のうちに1000円以上も上下することも珍しくなくなったが、それでもやっぱり日本の経済の指針がじわじわ上昇していくのを見るのは快い。時間的に「日本」の金融市場が“先取り”する形となったので、本国のアメリカでは今日になって(日本時間の深夜)「ダウ」の上げ幅が急騰して1400ドルも上昇する展開を見せている。つまり、今のアメリカにとって、トランプ大統領が再び誕生することは「再び経済が力を取り戻す前兆」と見ているのだ。日本の首相がだれであるかは、あまり関係がない。やはり最終的には「日本の経済」は“アメリカさん”に引っ張られる。アメリカさんがグイグイと引っ張ってくれるのなら、黙っていても“日本経済”はじわじわと上昇していく……そのことを金融市場は“先取り”しているのだ。日本の経済が、日本固有の力ではなく、アメリカの力で“左右されてしまう”のは何となく面白くないが、輸出型企業の多い日本の場合、製造業の比率が多い日本の場合、アメリカをはじめとする欧米各国の経済の影響をどうしても受ける。極端な話、アメリカが風邪を引けば、日本もクシャミをするのが実情なのだ。したがって、その人間性に関してはいろいろと問題の多いトランプ氏だが、こと経済に関しては“或る程度の実績”もあり「信頼を寄せられる」というのが、アメリカ国民の出した結論なのだ。事前調査では“接戦”が伝えられていたが、いざ蓋を開けたら「トランプ圧勝」という感じであった。つまり、それだけ今の「アメリカ」は閉塞感が強いということだ。或る意味で、多少の強引さがなければ、国の統一が保てなくなってきている。さて「日本」だが、これで私が前から言っていた年末ラリーに向けて「日経平均」は再び“史上最高値”を目指す環境が整ってきたと言えそうだ。
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