11月, 2024年
2024-11-06
今のわたしなら怖ければ読むのを止める。TVでも怖いと感じれば、そこで視るのを止めてしまう。少年時代、青年時代のわたしは、そうではなかった。怖い、と感じれば感じるほど、その内部にのめり込んでいった。恐怖心と好奇心とが、わたしを掴んで離さない。もう、そこから、後戻りはできない。そういう“恐怖もの”“ホラーもの”を山ほど見た。漫画も読んだし、物語も読んだし、TVも視たし、映画もよく視た。とにかく怖いのに“恐怖もの”が好きだった。ところが、或る程度の年齢になってから、そういうものが嫌いになった。正確に言うと、嫌いになったのではなく、怖くなったのだ。より、怖くなって、近づくことが出来なくなった。楳図かずお氏の訃報が伝えられたが、いちばん先に頭に浮かんだのは「へび女」のような恐怖漫画の画像であった。わたしは何故か、自分が子供の頃から特徴的な“この名前”を知っているように記憶していたが、彼の履歴を観ると、高校生の時からすでにプロとして活躍していたようだ。それであれば、私が子供の頃に既に漫画家だったわけだ。正直、細かなことは憶えていない。ただ、この人の作品には単に“怖い”というだけでなく、なんとなく“心霊世界”そのものが背景としてあって、それが作品の主人公に“重なり合っている”とでもいうか、妙に生々しいのが特徴だった。だから、わたしは後年になって、この人が「まことちゃん」のような作品も書いていたことに正直、驚いたものだ。そういう“まともな作品⁉”とは「縁遠い人」のように思っていたからだ。そして、その後にはタレントとしてTVなどでも出るようになって、ますます分からなくなった。わたしの中では「恐怖漫画」の世界しか思い浮かばなくって、その主人公たちの“或る種の奇妙さ”のようなものが、いつまでも記憶から抜けていかなくて、どうしても“面白いキャラクター”としての「楳図かずお」というものを認めることが出来なかった。人は子供の頃の“恐怖心”は消せないし、残り続ける。彼の作品はそういう意味で、子供の頃に“魂を奪われる”と、その魂は“ふつうの世界”に戻ってくることは難しく、わたしのような奇妙な道を歩み続けることになる。
2024-11-05
ときどき自分は「違うなあ」と思うことがある。先日、何かのTVを見ていた時、多くの人たちが“他人の眼”というものを必要以上に気にしながら暮らしていることを、今更のように知った。わたしは、幼い頃から、他の人が自分のことを「どう思っているか」とか、気にしたことがない。というか、そこまで考えて暮らしたことがない。気にならないというよりも、気にする“余裕がない”のかもしれない。多くの人は、たぶん、心身に余裕があるから「周りが、どう思うか…」とか気になってしまうのだろう。自分のことだけで“精一杯”だと、だれが何を想おうが、誰かじゃないが「そんなの関係ない」ということになる。それに、ほんとうのところ、人の性格とか、考え方とか、生き方とか、それぞれまちまちだから、だれに合わせて「みんなはどう思うか…」とか思えば良いのか、それ自体がわからない。Aという人が「ヘンな奴」と思うかもしれないが、Bという人は「カッコいい人」と思ってくれるかもしれない。Cという人は「オモシロい」と思うかもしれないし、Dという人は「気に入らない奴」と思うかもしれない。十人十色だから、だれに照準を合わせて良いのか、わたしには解からない。だから結局だれのことも気にすることなく、だれの眼も意識することなく、自分の思うようなことをしてきたし、これからもしていくのだろう。そういえば誰かが「波木さんは強いから…」という趣旨のことを言った。つまり、精神的に強いから、人がどう思おうが気にせずに居られるけど、ふつうの人は、やっぱり“弱い”から、たとえばネット上で叩かれたりすると凹んでしまうのだ…と言いたげであった。「強い」というのは、ほんとうは間違いで「自分と人は違う」という想いだけが、たぶん人よりも強いだけだと思う。違うのだから、自分で想ったことを行い、思ったことを言う…ことしか出来ない。だって、そうじゃなきゃ、誰かに“なり切って”ものを行ったり、言ったりしなきゃいけない。その方が、よっぽど難しい。だから、嫌われてもいいから、楽な方の“ありのままの自分”で居るしかない。でも、昔の歌と違って、ありのままの自分なんて、ほんとうに理解されるはずもなく、好かれるはずもない。だから、最初から「別に嫌いになるなら嫌いでかまわないよ」というスタイルで生きてきた。みんなから“好かれる”なんて絶対にありえないことで、それを望む人は「バカじゃないの」と思ってしまう。嫌いは嫌いで良いじゃないか。やっぱり、昭和のように、もっと自由に発言できる世の中が好い。
2024-11-04
2013年に一度引退しているフィギュアスケートの織田信成選手が大阪大会で総合228.12点で11年ぶりに優勝した。もちろん、彼の素晴しい努力のたまものと言っていいが、それにしても、こんなにブランクのある37歳が2位となった選手に22点差での“ぶっちぎり優勝”を許した男子フィギュアスケート界というのは、いったいどうなっているのか。アスリートの世界では、ときどき、同じようなことが起こる。以前、テニスの伊達公子選手も、かなりのブランクが空いた後でトップに返り咲いていたことがあった。もちろん、結果がすべての世界であるから、基礎体力や天才的素質に恵まれていれば、いつまでも“トップレベルの成績”を残せるのは素晴らしいことには違いない。ただ、今回のように、2位となった選手との間に“大きな差”が生じているのは、やはりどこかに「指導法の問題がある」と捉えなおした方が良い。要するに、全体的なレベルが“下がり過ぎている”ということなのではないだろうか。アスリートの世界は、どの分野であれ、十代後半から二十代前半くらいまでが、もっとも進化しやすい年齢だと思うし、その間に伸びた選手が“世界を制して”来た歴史がある。特にフィギュアスケートなどは、これまでの一般的な選手経過を観ると30歳くらいまでが限界で、それ以降は“純粋な技術”としてのレベルよりも、プロスケーターとしての“魅せる技術”に移行する時期のようにも感じられる。アスリートの場合、その素質が伸びるかどうか、活かされていくかどうかは、指導者の力も大きく影響する。そういう点から言えば、指導者として優れた人物を輩出していない可能性もある。芸術や芸能分野で活躍する人たちにしても、その素質が初めて開花するのは十代半ばから二十代半ばにかけてが多い。その間に、それなりの素質を発揮できなければ、その後になって大きく活躍するのは難しい。さまざまな分野で、ほんとうの意味で活躍する年齢というのは微妙に異なる。したがって簡単には決めつけられないが、もし、自分の素質が十二分には発揮できていないとか、素質そのものが“どの部分”にあるのか解からないとか、いつほんとうに開花できるのか解からないとか、そういう場合に、指導者を変えるとか、学び方を変えるとか、がむしゃらに“さまざまな大会や公募に出てみる”とか、何らかの新たなチャレンジをすることで、それまで見えなかったものが見えてくることも多いと知るべきだ。
2024-11-03
通常であれば70代とか80代とかになれば、自然と人間として“丸く”なり、あまり血気盛んな行動はとらなくなる。そういう意味で言えば、80代になっても“血気盛んな行動”に走ったこの人物は、なかなか精神的に“若々しさ”を保っていたのかもしれない。それにしても、事件が公になった時「92歳の女性に恋して熱を上げ、刺し殺してしまったんですって……」という“噂話”となった時、なんとなく“気恥ずかしい”ような感じを抱くような気がする。冷静になって、客観的になれば「お恥ずかしい出来事」でしかないのだが、11月2日の午前3時前後は、ただただ“恨み骨髄”の気持ちしかなくて、81歳の男は夢中で92歳の“11歳も年上の女性”を何本もの刃物で“刺し殺す”ことしか考えていなかったようだ。これがもしも17歳の男が28歳の女性を刺した……というのなら、血気盛んな若い男を、夢中にならせた“11歳年上の妖艶な女性”として、それなりにドラマティックな映像が浮かぶのだが、どうも同じ川崎市内の“老人ホーム”内に入所する81歳の男が92歳の女性を“恨み骨髄”で刺し殺すというのは、事件として何となく“映像化しにくい”というか“見たくない”というか、同じ老人ホームに父親や母親を入所させている人たちは「うちは大丈夫だろうな」とか「そんなに魅力的な女性だったのかしら…」とか、よけいなことを囁き合うような気がする。もちろん、事件の当事者となった“被害者女性の子供”も“容疑者男性の子供”も、まさかそういうような“恋愛事件”が起こるとは夢にも思わず「この老人ホームなら安心ね」と高齢の親を託したに違いない。ところが、運命とは不思議なもので「恋愛」などとは縁遠いように思えた“老人ホーム”にも「運命の出逢い」は存在していて、そう、ほんとうは“そういうこと”も時々は起こり得るのだが、ただその辺はあくまで“胸にしまったまま”経過していくものなのだが、どういうわけか、この二人の場合には“きれいな形”で終わらなかった。その結果、11歳年上の女性に“恋して憎んだ”81歳の男は、血気盛んな愛の情熱を「刺し殺す」ことでしか伝えられないという“哀しい事件”として幕を閉じたのだった。
2024-11-02
「ブルータス、お前もか…」という名言を吐いたのはローマ皇帝シーザーだったと思うが、そういった感じの印象をマンション情報雑誌『SUUMO(スーモ)』が来年3月で休刊すると知って抱いた。一時期、街にあふれていた無料雑誌のほとんどが消えていく。いや消えてしまった。ネット社会に変わったことで、広告効果が無くなって来たのだから、無料雑誌が消えていくのも当然といえば当然のことだ。ただ、どうしても私には昔の“分厚かったころのスーモ”の印象が消えない。さまざまな分野の無料雑誌が徐々に薄くなって消えていったが、この雑誌は特に最盛期の分厚さが印象深かっただけに、徐々に薄くなっていって、最近はギョッとするほど薄くなってしまっていて、ちょうど、それまで体格の良かった人物が、大病か何かで急に瘦せ衰えてしまったような“そういう印象”で、ここ何年間かを見てきた。だから、例えは良くないが、ちょうど“がん患者”が徐々に痩せ衰えて亡くなっていくように、最後の命が燃え尽きてしまったかのような休刊予告となった。多分、この雑誌は、当たり前の話だが“必要な時”に視る。つまり、マンションを買おうとか、移ろうとか、探そうとか言うようなときに視る。だが、特に必要な時ではなくても、待ち時間で、なんとなく時間つぶしの時などに読むにも最適の雑誌だった。最近は、わたしも“住宅情報”などはネットで調べるが、雑誌で視るのと、ネット上で視るのとでは、微妙な違いがある。何が違うのか上手く言い表せないが、雑誌で書かれている方が“安心感がある”とでもいうか、比較対照する場合でも、雑誌の方が比較しやすい。現代はなんでも“ネット社会”になって、それを利用するのが当たり前になっている。けれども、紙媒体が持つ“絶対性”のようなものは単なる年代的な感覚なのだろうか。紙に書かれてある方が、ネット上に書かれてあるより“信頼できる”というか“最終結論”としての表現として受け入れやすい。どこかに、ネット上だけだと、疑ってしまうような面があるのは、わたしだけの感覚なのだろうか。もっとも、書き換えが効くからこそ、昨日と今日では違った情報に置き換えられるからこそ、今の時代は“ネット社会”が当然のことなのだが……。
2024-11-01
2024-11-01
女優の橋本環奈氏に“パワハラ疑惑”報道が出ている。そして、それを追いかけるように事務所社長から異例の“不正確報道”声明が出てきた。本人の名誉のために、事務所社長自らが「パワハラなどない」という異例の声明だ。「文春」報道では、橋本環奈氏のマネージャーが短期間に8人も入れ変っているという。芸能人のマネージャーが短期間の間に“何人も入れ替わる”そして“辞めて行く”という現象はときどき報道される。総じて“何人も入れ替わる”“次々辞めて行く”のは、その芸能人がマネージャーに対して、パワハラ的な言動を行っているケースが多いことは広く知られている。けれども事務所社長の声明では「私がマネージャーなどに対して強く注意した言動などが伝わった可能性が高い」として「彼女自身がそういう態度をとったことはない」と擁護している。この声明では、彼女のマネージャーが次々と実際に辞めて行ったのかどうかについては述べていない。それと奇妙なのは、それぞれの現場すべてに社長自らも付いていってでもいない限り、各仕事現場での状況は把握しきれないと思うのだが、全面的に彼女自身の言動ではない、と否定している。NHKの朝ドラヒロインとして、他にも仕事を抱えていたという証言もあり、彼女の中で“ストレスを抱えていた”可能性は大きい。したがって、多少、マネージャーに当たったとしても“その程度”によっては許されるような気もするが、次々辞めて行く事態は“何かしらの原因”が彼女の方にもあったよう推察される。役者は多少“裏表”があったとしても、その職業的な役割から許される部分がある。但し、茶の間に登場する“CM”は彼女の場合11社も抱えているという。このCMだけは“イメージの世界”なので、噂だけでも支障が生じるケースが出てくる。一流週刊誌である「文春」が、故意に彼女を“パワハラ女王”にしたてるとも思えない。すべてではないにしても、一部には誤解を生じさせる言動があったのはほぼ間違いない。どちらかといえば小さな芸能事務所を一人で支えて来た“屋台骨”である「橋本環奈」に周りが気を遣いすぎ、かえって彼女を増長させてしまったとすれば、声明を発した社長自身、反省すべき部分があっても良いのではないだろうか。
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