2月, 2025年

「AI」が、続々と「新発見」する考古学の世界‼

2025-02-14
久しぶりに溜めていたTV録画を観る。その中に「ナスカの地上絵」に関して、最新の発見についていろいろ教えてくれる番組があった。近年はAIというものが、いろいろな分野で活躍し始めているが、中でも活躍著しいものの一つに“考古学の分野”がある。大昔の研究に最新のAIが役立つというのは、ちょっと不思議な気もするが、大量のデータを与えて“さまざまな可能性”を探るのに、これほど効率的な分野はないのかもしれない。土の中を掘り起こさなくても、過去の発掘データを与えることで、さまざまな可能性を示してくれる。その結果、ヒントを与えられた領域を研究発掘することで、さまざまなものが見つかったりする。「ナスカの地上絵」のようなものの場合、その地域自体が広大でもあり、傾斜地帯が多く、人間の足で比較観察していくとか、何かを掘り起こしていく……とかは容易ではない。ところが、ドローンを使ってさまざまな角度や地点から撮影し、それらの画像データをAIに与えることで、新たな地上絵の可能性ある地点とか、まだ未発見の画像とか、未知の神殿とか、そういうものを予測解析していく。もし、これらを人間の足や眼だけを使って行うとすれば、何十年も掛かってしまう。それをあっという間に成し遂げてくれるのだから、やっぱりドローンもAIも、考古学の分野には“力強い味方”だということになる。実際、その結果としてナスカでは、近年になってさまざまな歴史的事実が判明しだしてきた。古代の人々が、どうやって地上絵を描いたのか、どうして描こうとしたのか、どうして滅んでしまったのか……など、これまで未知とされて来たことが徐々に判明しつつある。世界各地で、地下に眠っている遺跡なども、これから続々発見されていく可能性が高い。少ない人数でも、的確に調査し、発見することが出来る……そういう分野に変わりつつあるのだ。「占い」の分野なども最終的には、さまざまなデータを憶え込ませれば、人間占い師よりも、AI占い師の方がはるかに的確で、信じられる回答を与えてくれるようになるのではないだろうか。そのためにも、わたしは私の研究を形に遺しておかなければならない。そうすれば、やがてはAIロボットが、わたしに変って、わたしよりも的確な回答を与えてくれるようになっていくのに違いない。人間味は乏しいかもしれないが、その代わり的確で間違いが少ない未来への選択を、AIロボットがしてくれる時代が、すぐそこまで来ているのだ。

39万人のデータが教える「がん患者10年生存率」

2025-02-13
正直「意外に永く生き延びるんだなぁ…」というのがわたしの感想だった。がん患者たちの10年生存率が54%、つまり半分以上の人たちは10年以上“生き続けている”というデータだ。この54%というのは、日本の国立がん研究センターによる39万人もの調査から判明したものだから大いに信用できる。以外にも、人間は簡単には死なないものなのだ。この研究センターによると、がん患者の場合、その発見から1~2年後を“乗り越えること”が重要で、それを乗り越えてしまえば、その後の生存率は徐々に高まっていく。そういうふうに出来ているらしい。仮に、そのがんが“ステージ4”で発見されたとしても、その後の1~2年を通過することが出来れば、意外なほど生存率は高まっていく。つまり“ステージ4”だから「もうダメ」ということでもないらしい。10年生存率で言えば、前立腺がんが84%、乳がんが82%、大腸がんが58%、胃がんが57%という順で、生き延びている…らしい。しかも、この確率は、ほんの少しずつではあるが、調査ごと徐々に上向いてきているらしい。まあ、単純に言えば、がんに罹ったとしても、胃や腸のがんでない限り8割方は生きていけるし、胃や腸のがん、或いはそれ以外の部位であっても、半数ぐらいは生き延びている……ということになるようだ。重い病気になって生きていくのは、どの病気であれ辛いものだが、少なくとも現代では、がんの“ステージ4”だったとしても慌てることはなく、確率的には半分以上の“幸運な人達”は、そう簡単には亡くなっていない。もっとも、どんなに生きていたって、のたうち回りながら生きていくのは死ぬより辛い。そういう点では、現在は“痛みだけ抑える治療”も大いに進みつつある。ムリに“生き延びていく”より、痛みなく“安らかになっていく”方が、幸せな晩年であるに違いない。年齢が行けば、だれだって何かしらの故障個所は出てくる。ただ、それが日常生活を脅かすようなものではなく、仕事をすることも“そこそこは可能な状態”であれば、それがもっとも恵まれた健康生活と言える。幸運の中でも「健康」という幸運は、実際にはあまり自覚を持たないもので、俗にいう“健康のありがたみ”というものの恩恵を軽んじがちである。自分の身体が自由に動き、飲食生活にも不足なく、睡眠が十分とれて、便通も良ければ、特に後半生においては“大きな幸運”を手に入れていることは間違いがない。普段、あちこち故障しがちな人ほど、実は「健康が幸運に繋がっている」ことを一番知っているのかもしれない。

「携帯電話」を“持ち歩かない”暮しの「罪と罰」

2025-02-12
いつからか、わたしは携帯電話というものを“持ち歩かない”ようになった。ハッキリとは記憶していないが、たぶん持ち歩かないようになって十年以上になる。昔は「人並みに持ち歩いていた」のだから「不便ではないか」とよく訊かれる。そんなことは訊くまでもない。大いに不便だ。だが、わたしには妙に頑固な部分もあって、いったん“持ち歩かない”ようにしてしまったのだから、それをとりあえずは“貫きたい”想いも強い。ただ、それでときどき大失敗をする。たとえば人と待ち合わせて、もし、携帯を持って歩いていたなら、どうにかなったものを、持ち歩いていないがため“逢えずに終わる”などのことが起こったりする。それでも「まあ仕方がない」と諦めるのは、根本的に“すべては運命”と思うような部分が、わたしのどこかにあるからかもしれない。そう、人間なんて最終的には「運命」で、携帯を持っていようがいまいが、どうにかなるものはどうにかなるし、どうにもならないものは、どうにもならないのだ。こういうような考え方をすると、もはや“怖いもの”は何にもなくなってしまう。人は、どんなに注意深い人でも、予期せぬ災害にあったり、アクシデントに出遭ったりする。急に地震が襲ってくるとか、津波が襲って来るとか、山火事で自宅を焼失してしまうとか、土砂崩れで自宅が流されるとか、路上が急に陥没してしまうとか……人生なんて、いつ、何が起こるか、だれにも予測できない。わたしのように普段から“運命”というものに向き合っているものですら、一寸先は闇なのだ。そうだとすれば、もう最初から「すべては運命」と割り切った方が気持ちが良い。その方が悩まなくて済む。そうして神様が敷いてくれた“運命のレール”にのっかって「明日は何が起こるんだろう」と少々楽しみに待つ……くらいの余裕を持った方が良い。よく「あの時、ああしていれば……」と嘆くような人がいるが、過去は過去。振り返ってみても始まらない。われわれは過去にタイムスリップして、人生をやり直せるわけではない。そうだとすれば、今と未来を楽しむしかないのだ。未来を不安がったら、現在が楽しくなくなる。未来は「なるようになっていく」と神様に“委ねて”しまえば、とりあえず現状の中で、どうすれば“今を精一杯生きられるか”“今を精一杯楽しめるか”その“二つの選択肢だけ”持って生きていくようにすることが、悩まず、不安がらず、怖れず、たんたんと生きていける秘訣だと、わたしは思う。

“高校授業料”の「無償化」は根本が間違っている

2025-02-11
「日本維新の会」が提唱して「自民・公明」と共に協議している“高校授業料の無償化”が行き詰まっているという。日本維新の会は、所得制限などなしに「全額完全無償化に踏み切るべきだ」との主張のようだ。この主張は、一見、良い主張のように感じられる方達がいるかもしれないが、わたしは大変に間違った考え方だと思う。わたしは自分自身の体験も含めて、教育というものは、お金を与えれば与えるほど「必死に学ぼうとはしなくなるもの」であると自信を持って言い切ることが出来る。昔、アフガンの子供たちが、荒れ果てた荒野で育つ子供たちが、神様を信じ、毎日、水をくみ、運ぶ姿を観た時……荒れ果てた荒野で、生きることに精一杯な環境だからこそ、神様を心から信じるのだと思った。人間は、特に子供たちは、過酷な環境にあればあるほど、神様を信じるし、熱心に勉強を学ぶ。それは、神様を信じなければ“生きてはいけないこと”を、彼らは本能的に知っているからだ。必死に勉強しなければ、ここから脱出できないことを知っているから、必死に学ぶのだ。明かりの乏しい部屋でも、食料が乏しい状態でも、必死に学び、知識を身に着けようとする。先生が派遣されて来なければ学べない。そういう環境では、教える先生も必死なら、学ぶ生徒の方も必死なのだった。知識を身に着けられる……ということは、素晴らしいことなのだった。人は、特に子供は、与えられれば与えられるほど、生きることに鈍感になる。学ぶことにも熱心にならない。最初から“与えられれば”それが自然なこととなり「感謝しろ」という方がムリな要求となる。学校は基本的に“行きたければ行く”という方向に徐々に変えて行った方が良い。その代わり、その後の人生は保証はしない。そういうふうに社会全般が受け入れるようになれば、自然に「学校は尊いもの」という意識が芽生える。子供達は、黙っていても必死に学ぶようになる。完全無償化というのは、或る意味で“不幸な招来が待ち構えている子供達”を“良かれと思って育ててしまう”もっとも間違った教育方法なのだ。

「警察官」より「自衛官」の方が訪日客に効く⁉

2025-02-10
日本の観光地における“訪日客トラブル”が後を絶たない。つい最近も、JR朝里駅付近の線路上で写真を撮っていた香港から来た女性が列車にはねられて死亡した。線路上とか、横断歩道上とか、私有地内とか、車道とか、お構いなしにカメラやスマホで写真撮影をする。外国人のマナーは総じて良くない。ゴミをその場に棄てていく観光客も多い。マナー違反が目立つ外国人に対しては、警察官とか、警備員とか、施設の管理人とか、観光ボランティアとか、そういった人達が注意・指導をしているが、それで収まる気配はない。外国人の中でも、特にマナー違反が目立つのは中国人とか、東南アジア系の人たち、またスキー客の場合は欧米人も多い。報道のカメラを向けても、悪びれる様子さえ無い。どこか「観光に来てやっている」的な「みんなやっている」的な反応が多い。その結果として、交通事故に遭ったり、行方不明となったり、山で遭難したり、地元住民とのトラブルに発展するケースもある。一つには日本人との“感覚の違い”があるように思う。たとえば、われわれが外国に行ったとき、よく目にするのは軍人による警備だ。たとえばデパートや公共施設に入る時、機関銃を装備した人物からボディチェックを受けたりする。さすがに、そういうチェックを受けると、改めて“自分にマナー違反がないか”注意したりするものだ。日本国内の場合、そういう機関銃を装備した人物たちによるチェックを受ける場所というのは、まず無いに等しい。そのことが彼らに「許される国」としての印象を与えてしまっているのではないだろうか。今後、ますます外国人観光客は多くなっていく可能性がある。そこで日本でも機関銃装備の人物が“警備する領域”というものを設けた方が良いのではないだろうか。もちろん、その場合、警察官ではムリだから、日本の場合には自衛隊員を配備する。外国人にとっての自衛隊は“軍人”であるから、警察官とか、警備員とか、施設管理人とか、そういう人たちよりもはるかに効果的な気がする。もう一つ、外国人は、あまり人の話をきちんと聞いていない場合も多い。したがって“眼で訴える作戦”を用いることも必要ではないだろうか。日本の漫画は“世界中で知られている”のだから、そういうマンガ主人公の姿で“注意喚起をする”看板を各地に設置しておけば、ふつうに言葉で注意したり、文字で注意を促したりするより、はるかに効果的なのではないだろうか。また何か国語かで“繰り返しの注意喚起”をテープで流すという方法も良いと思う。子供のように何度もが大事なのだ。

学校「教員」とは別に「生活学習指導員」が必要

2025-02-09
時代の変化は最近の“教育現場”においては特に著しい。なにしろ子供たちが相手だ。子供達というのは環境変化への順応性が早く、或る意味では常に“時代の最先端”を生きている。したがって、その子供たちを相手に学校教育をしている現代の教員たちは、時代の変化や環境の変化、それに何より“子供たち自身の変化”に対応できていなければならない。つまり、昔ながらの方法が“もっとも通用しにくい世界”が小中学校の教育現場だといえる。その教育現場で近年、精神疾患にかかって休職に追い込まれる教員たちが続出しているという。なんと、その数が7000名を超えている……というのだ。3年連続で増え続けているらしい。それも、20代や30代の若い教員たちの方が比率的に多い。一般的には、子供達の年齢に近い教員たちの方が“時代の変化”に適応できそうにも思うが、実際にはそうではない。どうしてなのかと言えば、一つには保護者たちからのクレームが、この世代の教員たちの方に、より向けられやすいからだ。つまり保護者たちの年齢よりも、教員たちの年齢が低いことで、また教育経験も浅いところから、臨機応変に上手く対応していくというか、批判など上手くかわして過ごすというか、そういう或る種のテクニックが身に付いていない。また自らが受け持つ教室で“イジメ問題”などが出てきたとき、どう対応して良いかわからず悩むようなことになりやすい。現代は子供たち自体も“何かしらの問題”を抱えている生徒も多く、それらのケアなども十分には出来ない。昔のように、ただ“担当学科を教えていれば良い”という時代ではなくなっている。その結果としての7000名以上の休職者たちだ。早急に対応策が必要だと思うが、どうもハッキリとした指針が打ち出されていない。このような状態が出てきているのは、一つには教員たちを“学習の指導一本”にして精神的負担を減らしていく努力を、学校側というか、教育委員会側というか、怠っているからだ。教員たちに対して、子供達の「生活指導」まで“押し付けてきたこと”が一番の原因なのだ。そうであるなら、各学校に対して「生活指導専門」に教える教師を配すべきなのだ。そうしないと、決してこの数字は増えても減ることはないと思う。個々の子供たちの問題に関しては、その“生活指導教師(⁉)”が担当することで、教員たちは本来の“学習指導”のみを扱えば良いことになって、自然と教師としての人材も確保できることになるだろう。生活指導を行うのは、心理カウンセラー的な分野の専門家や、地元自治体のボランティア的な元教育者とか、精神医療関係者とか、元警察官とか、むしろ“教員ではない人”の方が上手に指導してくれるのではないだろうか。

「マツコの社長消え」芸能“再編・淘汰”の時期⁉

2025-02-08
このところ芸能事務所関連のニュースには首をかしげるものが多い。その代表的なものの一つとして、マツコ・デラックスの事務所社長が「失踪した」というニュースがある。どういう職種でも、その従業員の一人ではなく社長そのものが“失踪”というのは穏やかではない。「経営難に陥っていた」という話もあるようだが、少なくとも表面上は“そういう要素”がみられない。この事務所「ナチュラルエイト」にはマツコ・デラックス氏の他にも、くりぃむしちゅーの上田晋也氏や有田哲平氏、さらにフリーアナの有働由美子氏などがいる。いずれも“超売れっ子”で外側から見る限りは、経営難になりそうもない。けれども実際には4年以上前から「危ない」という噂があったとされ、昨年12月に社長は“体調不良”を表向きの理由として取締役から外れている。現在は残っている実力者とくりぃむしちゅーの二人が取締役となっているらしい。観相学的な観点から言えば、上田晋也氏は“経営者の相”を備えているので、彼がトップとして経営を引き継ぐのであれば、何とか立て直していくことが可能ではないだろうか。ただマツコ氏や有働氏のような大物タレントの場合、他の事務所から“誘いの手が伸びる”可能性もあり、このまますんなり騒動が収まるのか、微妙な気がする。このところ独立したり、退所したり、芸能人たちの“変転”が多く報告されている。一見、華やかな暮らしぶりに視える芸能の世界だが、実際には“金銭トラブルの多い世界”のようで、一つにはTVや雑誌なども含め芸能関係の契約事が“口約束”で成り立つ世界……という部分にあるような気がする。正式契約は後回しに、とりあえずスケジュールを抑えるような形の契約事が多い。最近、問題続出のTV業界自体が“そういう慣習”を持つ世界で、きちんとした予定がなかなか組めない。マツコの事務所も、もしかしたら4年前から経営が危なかったのかもしれないが、とりあえず“売れっ子軍団”だから“お金を回していける状態”が続いていたのかもしれない。これはたまたま週刊誌報道などで明らかになったが、実際には中小企業集団なので“似たような事務所”が多数存在しているような気がする。そうであれば、この際、TV業界だけでなく、芸能事務所にも“全体的な状況把握”が必要になって来ているのではないだろうか。芸能事務所というより、企業としての“再編・淘汰”が行われて、怪しい部分を無くしていくべきなのではないだろうか。

常軌を逸した「16000件の誹謗中傷」の書込み女

2025-02-07
タレントの堀ちえみ氏のブログコメント欄に対し16000件もの誹謗中傷を書き込んだとして40代の無職の女が逮捕された。おそらく本人にとっては“仕事のような意識や感覚”で、毎日せっせと誹謗中傷を書き込んでいたに違いない。それにしても、16000件はすごい。その情熱を、もう少し何か“役立つこと”に使えなかったのだろうか。仮に“嫌がらせ”だったとしても、普通は20~30回も行えば、もう疲れて、どうでもよくなると思うのだが、どう考えても16000件は異常である。期間的には2023年4月から2024年7月にかけての行為であるという。つまり1年3か月間の間だ。それだけの期間、毎日のように行っていたに違い誹謗中傷を“犯罪行為”とは考えていなかったのだろうか。名前を記さなければ、だれなのかわからない、とでも思ったのだろうか。それとも毎日の習慣で、或る種の依存症のよう行なわずには居られないようになってしまったのか。大体、人間の好き嫌いも、一人に対して4~5カ所もあればよい方で、それ以上はふつう探し出すのが難しい。昔から「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺がある。いったん嫌いになると、その人に関する“あらゆるモノ”に嫌悪を覚える。どちらかというと潔癖感の強い人が持ちやすい性質だ。ただ、こういう人の多くは、その“嫌いになった人”とどこか共通の部分や要素を持っている。自分の中の“嫌いな部分”だ。ただ日頃は“そういう自分”を意識していない。だから、自分の中に“そういう部分”が存在しているとは、ほとんどの場合は思っていない。もし、ほんとうに存在していないならば、他人のことなのだから、たとえ嫌いだったとしても“その部分”に対して傍観者になれるはずなのだ。黙って見過ごすことが出来ないのは、自分の中にも“そういう何か”が眠っているからだ。だから他人のことなのに反応してしまうのだ。或る意味では、だから有名人に対して、過剰に反応する人は、その人の中に“自分の嫌いな要素”があって、それを自分自身では“見たくない気持ち”が強いから、その有名人を通して拒絶反応を示しているだけ……とも言える。この人は逮捕され、かえって良かった。これで、もう自分の“嫌な部分”から遠ざけてもらえる。40代なのに無職で“暇を持て余している”ことも良くない。働き出せば、きっと“嫌な自分”からも解放してもらえるはずだ。

「第二のゴーン」が「日産」には、やって来る⁉

2025-02-06
「ホンダ」と「日産」の“経営統合協議”が事実上破談した。最初は“対等な形での統合”という話だったが、ホンダ側が“日産の子会社化”を持ち掛け、それに猛反発した日産が「協定を破棄する」方向に舵を切ったのだ。最初から、多少ギクシャクした感じの“統合協議”だっただけに、やっぱりという印象が強い。実は、この破談は日産側にとって最初から「想定の範囲内」にあったのかもしれない。とにかく日産は、このままでは「生き残れない」と誰もが感じていた。なにしろ営業利益が90%減になるなど、存続の危機であることは経営陣も解っている。だから、とりあえず経営統合の話に乗ったのだ。どの企業でも“経営統合”するとなれば、たいていの場合にはリストラが生じる。実は統合などしなくても、日産はリストラせざるを得ない状況にあった。けれども、統合話のないリストラの場合には、会社側がリストラする人たちに対して“何らかの保障”をしなければならない。それに反発も予想される。けれども“経営統合”という形で行う場合には、従業員たちも“従わざるを得ない”のが普通だ。名目上、自分たちの会社が無くなるのだから、その会社に居られなくなるのは「仕方がない」ということになる。同じリストラでも、辞めさせ方に違いが出てくる。リストラ時の金額も、ただ単に事業不振からのリストラと、経営統合に伴うリストラとでは、保証金額に違いが出てくる。今回の場合、おそらく従業員たちは「仕方がない」という形で金額も含め“リストラ策”を受け入れたことだろう。それが決まって後「やっぱり統合はしない」という決断に至ったのは、故意なのか、偶然なのか、判らない。さて、そうは言っても、少なくとも日産の方は、今のままではどうしようもないのだ。だれかが……或いはどこかが……手を差し伸べなければ、救いようがない。わたしは思うのだ。ここで登場するのに相応しいのは「第二のカルロス・ゴーン」だと……彼は犯罪者ではあるが、しかし、一時期危機にあった日産を救った救世主でもあった。日産はだから「第二のゴーン」を見つけ出すしかないのだ。日産幹部の中に、今の日産を立て直せるような人物はいない。それでいて“子会社化”は嫌なのだから、これはもう誰か「ゴーンぽい人物を引っ張って来る」以外にはない。それが唯一の“生き残る道”なのだ。

「IT起業家」と「芸能人女性」の“危うい蜜月”⁉

2025-02-05
昨日の夕方、衝撃的なニュースが飛び込んできた。タレントの小島瑠璃子氏と“その夫”が救急搬送され、夫の方が死亡した……というニュースだ。まだ詳しくは解からないものの子供を連れた小島瑠璃子氏が帰宅したところ、夫が“ヘリウム自殺”を計っていて遺書も見受けられたという。すぐ110番通報をした夫人の方も体調が悪くなり一緒に救急搬送となった……というのが、どうやら真相らしい。小島氏の方には問題はなく、どうやら事件性のない“夫の自殺”らしいのだが、これまで新進の起業家として注目も浴びていた夫であっただけに、自殺という結末は“謎がいっぱい”ではある。二人は2023年の3月に結婚していて、そのこと自体は私自身が2020年8月の時点で「2023年の春に結婚する可能性」を記していた。もっとも、その時の相手は別の“噂された漫画家”で、この結婚された男性ではない。とにかく、その予言通りに結婚をし、子供も出来て、或る意味では“ようやく落ち着いた”かに思われていた。けれども、公私とも順調な蜜月は長くは続かなかったようだ。夫の事業は赤字続きで身動きが取れなくなっていたようなのだ。彼の夫である「北村功太氏」は、なぜか小島瑠璃子との入籍に当たって「小島姓」に変えている。男性が女性側の「姓」に変える時、その多くは養子となる相手側の方が“それなりの家系”である場合が多い。けれども二人の場合は違っていて、北村氏の方が“伝統芸能を引き継いでいる由緒ある家系”で、小島氏の方は“ごくごく普通の庶民”に過ぎない。つまり、通常とは逆なのだ。したがって、何かがあった時、小島家が彼を守ってくれるわけではない。経済的にも守れるような背景がない。それなのに、どうして北村氏は養子に入ったのか。その答えは簡単で、彼が実家の伝統芸能を嫌っていたからだ。祖父は「人間国宝」だというのに、彼は「やっと出来た男児」で“後継ぎに相応しい”のに、彼は嫌がった。そうして、自ら北村家との縁を絶ったのだ。このことが事業に行き詰まっていったことと無関係ではない、と私は思う。姓名学的な観点から言うと、実は「北村功太」も「小島功太」も両方とも画数などは良くない。両方とも良くないなら、最初のままにすべきだったのだ。時々、実家の後継者になることを“嫌がる人”がいるが、そこに生れて来たことには必ず意味がある。だから“最終的な絆”は絶対に自ら断たないことだ。大体が「縁」というものは極力、自分の方から絶つべきではない。そうせざるを得ないような状況が来たときに“絶つ”のはかまわない。先天的な“運命”は“天から授けられしもの”なのだ。

日本の「ドラッグストア」“万引き犯”に狙われる

2025-02-04
日本の「医薬品」や「化粧品」が“安くて上質”であることは、世界的に広く知られている。しかも“小ぶりなもの”が多い。ここが重要なのだ。だから狙われやすい。つまり外国から“万引き目的”でやって来る複数人グループから狙われている……というのだ。1月末に日本の警視庁は「防犯対策を強化するよう」異例の通達を各ドラッグストアに対して行った。ドラッグストアが「狙われやすい」というのは何となく解かる。商品陳列の仕方が“壁面全体”で、どこから何を取り出したとしても、そんなに目立たない。通路も狭く、長身の人物が手前に立つと、奥の方が観えない。その結果、集団でやってくれば、長身の人物2人が通路をふさぐ形となって会話を交わし、その奥の方で万引きを続けていても誰にもわからない。日本人の客の多くは、その奥まで立ち入ろうとはしない。したがって、何の苦労もなく万引きが可能なのだ。店内に防犯用の鏡などがもっとあるとか、通路が広いとか、壁一面の商品陳列をしないとか、対策的にはいくつかありそうだが、基本的に日本人客は外人たちが通路を塞いでしまうと、その奥には入って行こうとしない場合が多い。そこで働く店員の人たちにしても、外国人が2~3人固まって通路を塞いでいても、それを注意するようなことはほとんどしない。大体、外国語でまくしたてられると、日本人の従業員はどう対応して良いか解からず退散してしまう。ほとんどの場合、多くの旅行客が来ている時間帯に複数人での万引きは行われる。外国人だらけの店は“狙いやすい”のだと思う。小さな化粧品や医薬品はもっとも狙い目の品のようだ。小さくて高価だからだ。当たり前の話だが、万引きは“小さく持ち運びやすい商品”が一番なのだ。海外で“売りさばきやすい商品”であることも重要で、そういう点でも医薬品や化粧品は捌きやすい。一件当たりの万引き金額が平均で8万8千円余りであるという。日本人による万引き金額が平均1万円ちょっとなのと比べても被害額が大きい。数少ない店員が客に対応しているので、どうしても外国人客の多い店だと、その対応だけで精一杯で、店内の見回りなど事実上できないというのが本音かもしれない。海外の店に行って感じるのは、余分な店員数の多いことで、日本とは比べ物にならないが、但し、その余分な店員達がいるお陰で「万引きが出来ない」とすれば、あながち無駄とは言えないのかもしれない。

「雪が降る……あなたは来ない」が現実となる⁉

2025-02-03
わたしは大昔、アダモの「雪が降る」という歌が好きだったが、確かその歌詞には続いて「……あなたは来ない」というのが続く。その「あなたは来ない」というのは、現実的には大雪で「来れない」可能性もある。ということで、どうやら4日~9日にかけ「大雪予報」が日本海側の地域に出ているようだ。予想マップを観ると、かなりの広範囲で“大雪地帯”が示されている。わたしが暮らすのは札幌だが、どういうものか大雪というのは、北海道よりも本州の方に起こりやすい。今回の場合も北陸というのがいちばんの可能性で、その山沿いの地域では「大雪によって孤立してしまう地域」など出てくる可能性がある。気温だけで言えば、基本的には北海道の方がはるかに低いのでが、気温が低くても道路さえ確保されれば、荷物の輸送や人の出入りには問題ないが、大雪によって道路状況が悪く交通が遮断されてしまうと、物資の輸送や通勤・通学に支障が生じる。それに、大雪になると屋根からの“雪下ろし作業”が必要になる。北海道の場合、寒冷地域として住宅には最初から対策が施されているが、本州の場合には寒冷地域として必要な住宅構造になっていない場合も多い。それだけに、急激な寒さや大雪の到来に“対応するための手立て”が乏しいような気がする。辺り一面が積雪に覆われて真っ白……というのはイメージとしては大変美しいのだが、生活者の目線に立つと、生活物資が滞り、出掛けることさえ容易ではなく“苦労の多い雪国の暮らし”ということになる。そういえば東北地方の人たちだったか、昔は真冬用の“保存食”をたくさん住居内に蓄えている話が多かった。今はもう“そういうこと”はしないのかもしれないが、そういう“暮らしの知恵”のようなものは、それぞれの環境が生み出すものだ。総じて、雪に覆われる地域の人々は忍耐強い。大自然がそういうふうに育ててくれる。沖縄など、南国に育つと、開放的な性質となって、初対面でも心を開きやすいが、その代わり“忍耐強さ”にはやや欠ける傾向も見受けられる。自分が“どういう地域で育ったか”は、その後の人生に対して隠れた影響を与え続ける。 « Older Entries