6月, 2025年
2025-06-07
昨年一年間に出生した日本人は68万6000人だそうで、予想されていたよりもはるかに早く“70万人”を切った。現在の担当大臣は三原じゅん子氏だが、昨日の会見でも役人が書いた原稿を“棒読み”だった。少なくとも彼女は女優でもあるのだから、もう少し“役人の作った台本”とは判らないような演技をして欲しかった。「少子化対策」に対しては、すでに7.3兆円もの国家予算が投じられている。それなのに、少しも上向いていかないどころか、逆に悪化している。「日本」の経済状況がその背景としてあることは誰でも感じるが、少子化を導いているのはそれだけではない。わたしは、もっとも大きな原因は「婚姻数の低下」の方にあると思っている。なぜなら、結婚された方の出生率自体は、そんなに低下しているわけではないからだ。つまり“成婚数”を増やせば、黙っていても出生率は上がる。少子化対策というと、すぐ“子供に関する環境”と捉えること自体がいちばんの誤りなのだ。それでは、成婚数を増やすにはどうすれば良いかと言えば「成婚支援制度」を拡充させれば良いのだ。そして、もう一つは国家上げての“お見合い制度”を確立させれば良いのだ。元々「日本」という国は、昭和初期まで“お見合い”の盛んな国だった。それが急速に失われてしまったことが、成婚率を低下させていったのだ。どうして“お見合い”が乏しくなったのかと言えば、周りの誰もが“お見合い”ではなく“恋愛”から「結婚」するように変わっていったからだ。こういうものは周りの影響が大きい。だれもかれもが“お見合い”で結婚するようになれば“お見合い結婚”に抵抗感がなくなる。だから“お見合い”に関連した「成婚支援制度」をどんどん拡充させていけば良い。国が保証する“お見合い”で“善い結婚”が可能になれば、多くの人はそれに頼るようになる。では“恋愛結婚”はどうすれば増えるのか……と言えば「恋愛から結婚」への“歌謡曲”“TVドラマ”“映画”“小説”“漫画”……などを徹底的に浸透させることだ。いまは、昔のような王道の恋愛歌謡曲や恋愛ドラマや恋愛小説や恋愛漫画が少なすぎるのだ。TVも昔のように「カップル成立番組」をどんどん制作すれば良い。だれもかれもが恋愛するようになれば、黙っていても“恋愛結婚”も増えていく。こうして“お見合い大作戦”と“恋愛大作戦”とで、成婚率は激増する。
2025-06-06
ときどき芸能人で次々と美容整形していく人がいる。適度な整形は良いと思うのだが、あまりにも次々としすぎて“本来の姿”が判らなくなっていくのは危険だ。「ものまねメイク」という分野で一時期“注目されていた”女性タレントざわちん氏が“小顔”に整形した顔を公開した。正直、それを見て「大丈夫かな」と心配になった。あまりにも下頤部分が小さく、人形のように“削り取られた印象”を受けたからだ。ネット上の意見だと「写真を加工している」らしいということで、必ずしも、この顔が“本人そのもの”とは限らないらしいが、そうであったとしても“下頤部分”があまりにも小さく細くなっているのは心配だ。観相学的な観点から言うと、顔面は、眉から上の“額部分”と、鼻先から下の“頤部分”と、その中間に属する“鼻部分”と、三段階に分けた横に区切る捉え方がある。このバランスが極端に偏るのは運命的に良くない。ざわちん氏の場合、極端に“頤部分”の面積が乏しい。ここは「天・人・地」の「地」の部分で、この部分がしっかりしていないと“地に足が付いた”考え方が出来ない。この人は一時期“パニック障害”を起こしていたようで、それゆえに芸能活動も控えていたらしい。本人の言葉によれば、その点に関してはかなり良くなったようだが、今回の整形写真は“逆行していきそう”で心配になる。フランス人形などの一部には、下頤の部分を極端に小さくしたものがある。それは、その方が“現実感の乏しい”ロマンチックな顔立ちとなるからだ。実際にそういう顔立ちとなった場合、現実を現実として“受け止めにくく”なってしまうので、しっかりとした人が常に傍に居てあげないと、危険な行動に走ってしまう場合がしばしばみられる。それに、なによりも「中年以降、孤独で悩みの多い暮らし向きになる」可能性が高い。彼女も、もう32歳で“若さ”や“美しさ”や“妖しさ”で、若い女性たちから「メイクのカリスマ」として人気を得られる年齢ではなくなりつつある。最近「小顔」ということが、美の一つの基準でもあるかのような風潮があるが、西洋と東洋では元々“顔と身体のバランス”が微妙に異なる。西洋的な“美”が、必ずしも東洋的な“美”と一致するものではない。それに「人形」は、あくまで「人形」だから、視ていて美しいのだ。
2025-06-05
おそらく私のような“占いの同業者”は、誰も“今回のような事件”に対してコメントしないと思われるので、あえて同業者からの“冷静な観方”を書いておくことにした。「文春」によれば、タロット占い師として有名なステラ薫子氏が「貸金返還請求訴訟」をいくつも起こされ、それぞれに対して「支払い命令」が下ったにもかかわらず、まともに返金していない状況のようだ。その金額は、総額で3億円を上回るとも言われ、中には上場企業からの“融資金”もあるようだ。どうして、こんなことになっているのか。まあハッキリ言ってしまえば、上場企業も、個人の金持ちも、ステラ薫氏の“占い詐欺”に遭ったようなものだと言って良い。要するに占いとは直接関係のない形でステラ氏に対して“投資金(⁉)”もしくは“融資金(⁉)”を手渡し、それが還って来なくなったということだ。ここで質が悪いと思うのは、ステラ氏は有名人の名前を使って詐欺を行っている点だ。つまり直接、自分が借り受ける形ではなく、その有名人のため「出してあげて欲しい」と言っている点だ。つまり“貸す形のお金”なのか“投資金としてのお金”なのか判然としていない。借用書とか預り書とかはあっても“事業融資”とか“投資資金”とかいう形の場合、通常の「貸金」とは微妙に異なった性質を持つ。したがって「まだ返金できていない状態」であっても、事業の性質や投資の性質によっては“直ちに全額返金”とはいかない場合もある。ましてや、それが本人名義ではないとか、現在進行中の事業などと言う場合、強制的な返金はなかなか難しい。ただ、ここで重要なのは、これらはすべて「占い」には直接関係がない、という点だ。つまり“占い鑑定料”としての返金訴訟ではない。したがって大切なことは「占い師」と「客」との距離間の問題なのだ。どうして、占い師に“巨額のお金”を「占い」以外の名目で手渡すのか。そこが問題なのだ。もちろん「詐欺まがい」を行ったステラ薫は社会的に糾弾されるべきだが、同時に上場企業の社長も含めて、占い師と客との“距離間”は、保って居て当然なのに、友人でもあるかのように投資や融資の話に乗るような関係性も、また大いに反省しなければならないことであるよう私には感じられる。
2025-06-04
元卓球選手“東京五輪の金メダリスト”で現在タレントの水谷隼氏が、自らのFX取引における“成功”と“失敗”をSNSに投稿している。それによれば、5月6日のゴールデンウイーク時には「1000万円以上の含み益」が出たことを画面で証明している。そして「最高のゴールデンウイークだった」と悦びのコメントで表した。ところが、それからほぼ一ケ月が経過した6月2日には「追証が発生している」画面を投稿。窮地に陥っていることを嘆いている。「追証」というのは“追加金”のことで、口座残高が不足した場合に“振り込まなければならないお金”のことで、FXや株の取引で、しばしば発生する“借金”なのだ。どうして“こういう借金”が発生するのかというと、本来、自分の口座に存在している金額以上の“掛け金”を投じるからで、それが失敗した場合、穴埋めしなければならないのは当然の結果と言える。通常「追証」が発生するのは「レバレッチ」という“掛け方”をするからで、この掛け方は成功すれば何倍にもなって利益を出せるが、失敗すれば“借金が膨らむ”ように出来ている。したがって、通常、よほど“腕に自信がある人物”以外は行わない取引方法なのだ。もっとも“FX取引”では多少のレバレッチは掛けないと“面白みがない”のも事実で、だから、多くの人は“少しだけ”レバレッジを掛けるケースが多い。彼の場合は「25倍のレバレッジを掛けた」と記しているので、負けたら“巨大な借金”となるのは目に見えていたはずなのだ。だいたい短期間に“大勝ち”をしたり“大負け”をしたりするのは、このレバレッチで行うからで、この掛け方は“投資”というよりも“投機(ギャンブル)”といった方が良い。そして、この方法は8割方の人が“負け組”になっていく。元々“堅実な投資”は年月さえかければ、6割方の人は儲けられるようになっているのだが、レバレッジを掛けて行う場合は“8割方は負け組になる”と知っておいた方が良い。これはFXだけでなく、株でもそうである。もちろん調子の良い時に短期間だけレバレッジを掛け“大勝ち”して、その後はまた“堅実な投資”に戻せば、勝ち続けることが出来、それなりの財産を築くことが出来るが、そういうふうに“切り替えられる人”は稀にしかいない。ほとんどの人は“大勝の悪夢”が忘れられず、何度も“レバレッジで失敗”をして、失意の中で投資の世界から去って行く。実は“堅実な投資”というのは、なかなかに難しいのだ。
2025-06-03
いつの時代でも、人は齢を取る。当たり前の話だが一刻、一刻と老いていく。だから「若さを保とう」などと考えても無駄なのだ。むしろ、そういうことを考えること自体“老いて来た”証しと言えるのかもしれない。時代の変化に対しても同様で、常に「時代」は“変わりゆくもの”で、それに抗うことはできない。いつまでも「時代」に“しがみついている人”は、置き去りにされる。世の中はどんどん移り変わっていく。最近は特に、その“移り変わり”が早い。だから、これも「流行に遅れまい」などとしてはいけない。そう考えること自体が“遅れている”証なのだ。久しぶりにTV番組でタレントの壇蜜氏を視た。何年振りかだが、ずいぶん“ほっそり”とした印象を受ける。元々太っている方ではないが、一時期は“激やせ”とか“拒食症”とかが心配された。また精神や神経の面でも弱っていた時期があったようだ。この人は元々「グラビアクイーン」としてマスコミに登場した人で、その時点で既に30歳前後であった。女性の場合、30歳前後でマスコミに登場すると、そのあと、長い期間“輝き続ける”ことは難しい。特に現代のように人気の“移り変わり”が激しい時代では、立ち位置がハッキリしていないと、生き残っていくのが難しい。この人の場合、グラビアを離れたことで、とても妙な言い方だが“単なるタレント”となり、純粋な作家でもエッセイストでもなく、ましてや芸人でもコメンテーターでもパーソナリティーでもなく、どういう立ち位置と捉えらば良いのか解かりにくい。いまや“知的なコメンテーター”は沢山いるので、そういう中に加えるのも微妙になってきた。そうなると自ら「グラビアクイーン」の看板を外してしまったことが、かえって“その立ち位置”を解りにくいものにしてしまった。そのまま“脱がなくても”看板を外さなければ“元グラドル”で十分通じたのに……その点が惜しい気がする。人は、ときどき、自分に“似つかわしくない看板”を与えられた時、それを取り除こうとする。けれども、世間というのは“それ”によって“その人の個性”を受け入れてくれていることがある。自ら“その看板”を外してしまうと、もはや誰でもない“ふつうの人”としてしか見てもらえず、それは“とても寂しい風景”だったりするのだ。
2025-06-02
新たな古代文明遺跡の発見とか、飛来していた宇宙人の痕跡とか、興味深い話というのはいろいろとあるものだが、最近、飛び込んできたのは、あのイーロン・マスク氏の子供の中には日本人ポップス歌手スターとの「子供も居る」という話だ。ほんとうなのか。ほんとうなのだとすれば、いったい誰の子なのだろう。イーロン・マスク氏というのは、大金持ちで、現トランプ政権にも食い込んだ“怪しい人物”であることは誰でも知っている。ただ、その私生活は正直あまり興味が持てない。たぶん多くの人たちも同様だろう。その私生活なのだが、どうやら、これまで4人の女性との間に“14人の子供”を設けているらしい。なんと今どき子沢山なアフリカの酋長でもあるまいし……。その14番目の子供を出産した女性が、名高いニューヨーク・タイムズのインタビューで語ったのが「彼の子供の中には日本人ポップス歌手スターの子も居る」という発言だ。より正確に言えば、恋愛感情はなく、求められて“精子提供をした相手”に過ぎない……という内容らしい。ここで、われわれは何となく違和感を持つ。一般的な日本人女性は、恋愛感情も持たずに、ただ単に“優秀な遺伝を持つ”というだけで、アメリカ人である“その相手”に精子提供を求めるだろうか。まあ仮に居たとしても、そうとう異色な人生観の持ち主ということになる。さて実際に、その可能性ある女性は居るのだろうか。ポップス系の日本人歌手女性で、父親が判然としていない形で出産している女性は何人かいる。その代表は浜崎あゆみ氏だが、どうも私には何となくピタリと嵌まる気がしない。彼女の場合、2019年11月頃と、2021年4月頃と、二児を出産しているが、この人とマスク氏との間に“共通項”を見出し得ないのだ。それよりも何となく“ありえそう”な雰囲気を醸しているのは、椎名林檎氏、宇多田ヒカル氏、きゃりーぱみゅぱみゅ氏、指原莉乃氏……などだ。未婚の人もいるし、どうみても前夫との子を持っている女性も居るが、その発想的にはイーロン・マスク氏に近いものを、わたしには感じさせる。まあ、だれであるかはともかく、徐々に世界は“そういう時代”へと進みだしているような気がして、それが妙に“微笑ましいこと”のような感じを受けるのは、わたしだけなのだろうか。
2025-06-01
2025-06-01
有名人に何かが起こって大きく報道されると、世間の人たちの多くは、その報道のされ方によって、その人物の未来を本能的に予測する。たとえば「田中圭は、今回の報道で、もう仕事上でも家庭的にも悲惨な結果になるだろう」とか「永野芽郁は、もう人気女優としては復活できないだろう」などと言ったように……である。ところが、世の中というのは解らないもので、そういうふうに言われた人たちが、実際にそうなって行っているかと言えば、必ずしも、そういう事例ばかりではない。むしろ、その時には一時的に低迷しても、やがて大きく前よりも“輝かしい存在”になって帰ってくるケースがときどきみられる。別に有名人でなくても、人の評価とか運命とかいうものは、一つの出来事だけで決まってしまうものではない。むしろ、そういう“出来事”が過去にあったことで、人間性が豊かになり、渋みや深みが出て、人の気持ちが判るように変わっていくケースもある。特に役者のような職業の場合、さまざまな出来事を経験することは、少なくとも“さまざまな役を演ずる”という点から言えばプラスとなる。田中圭氏は、5月29日に主演舞台「陽気な幽霊」の東京公演が千秋楽を迎えた。マスコミ報道が出て十日後の舞台だっただけに心配されたのだが、フタを開けてみれば、予想外の大盛況で、連日、満員で、この後の地方公演も各地とも全公演が“前売り完売”というからすごい。むしろスキャンダルが大宣伝となってくれたようで、ネット上の批判とは“大違い”の様相なのだ。一方の永野芽郁氏の方も5月16日から主演した映画「かくかくしかじか」の方も、原作者や共演・大泉洋氏の宣伝も手伝ってか、こちらも大ヒットで予想以上の“大入り”が続いている。もっとも永野氏の方は“CM打ち切り”が続いていて、そういう意味では今後に関しては“茨の道”も予想される。ただ少なくとも、当初、多くの人たちが予想した“世の中から抹殺されてしまう”ような事態にはなっていない。結局、人間の運命というのは、大きな出来事の先に待ち受けている未来は、世間一般の人たちが単純に決めつけるような“結末”となっていないケースが多い。「人間万事塞翁が馬」とはよく言ったもので、窮地の先には幸運が待っていたり、幸運の先には苦境が待っていたりするのだ。
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