7月, 2025年

斎藤投手&田中投手「19年後」「人生の明・暗」

2025-07-07
人にはときどき“自分の人生”において、妙に“交錯する相手”というものがある。どうしても“避けては通れない相手”とでも言おうか。今から19年前、早稲田実業高校のエースだった斎藤佑樹投手は、同じように甲子園で決勝戦へと勝ち上がってきた苫小牧駒澤高校のエースだった田中将大投手と投げ合った。15回を投げ合ったが決着が付かず、引き分け再試合となって、最終的には斎藤投手の方が優勝投手となった。そのマウンドで、ハンカチで汗をぬぐう斎藤投手は“絵”になったので「ハンカチ王子」と呼ばれた。その後、ふたりの道は微妙に分かれた。田中投手の方は、その年のドラフトで“1位指名”を受け、楽天ゴールデンイーグルスへと入団した。田中投手は一年目から力量を発揮した。一方の斎藤投手の方はプロを拒否して、早稲田大学へと進学した。そして、大学野球において徐々に力を発揮し、最終学年ではエースとなって主将も務めた。その後にプロ野球界に入り、日ハム球団に入って将来を期待された。けれども、なぜか日ハムに入って後の斎藤投手には目立った活躍がなかった。2011年~2021年まで10年間在籍したのだが、これといった成績は残せていない。現役最終年度の年収は、2~3年目の投手とあまり変わらなかった。一方の田中投手の方は2007年~2013年まで日本球界で華々しく活躍し、その後は活躍の場をアメリカの大リーグに求めた。ヤンキースに入団して、最初の数年間は“期待通り”の活躍を見せ、その後も“それなりの数字”を残した。そして、2021年になって日本球界へと戻った。総じて、大リーグから戻ってきて後に活躍する選手は少ない。最盛期を過ぎたからなのか、日本に戻ってきて以降の田中投手の成績は低調のままだ。今年は、もう、首脳陣からも楽天のファンからも“期待されていない”ように視える。さて、斎藤投手の方だが、彼は現役引退後は会社を設立し、その一方ではキャスターとしても登場し“二刀流”を使い分けている。そして、今年からは日ハムの本拠地であるエスコンフィールドHOKKAIDO(北広島市の野球場)内において「サニーテラス」という飲食商業施設のオーナーとして活動している。一つだけの店ではなく、6店舗が入居する施設のオーナーなのだ。今後も“温浴施設”を経営する予定があるという。それらの資金がどこから出ているのかは知らないが、とにかく完全なる社長業として多忙の毎日を送っている。言ってみれば今や若手実業家として注目の存在らしい。こうして、甲子園を沸かせたふたりの球児は、それぞれ「明」と「暗」の運勢に引きずられて、今日を迎えている。もちろん、まだ人生が終わったわけではなく、今後のふたりがどういった未来を歩むのかはわからない。ただ確かなことは、それぞれの「輝ける時」は明らかに違ったように視えることだ。

「ギリギリを生きる女」で大女優変身の安達祐実

2025-07-06
30年ぶりに再ブレークしつつある女優……という形で取り上げられていたのが安達祐実氏だ。確かに30年前、子供ながら「同情するなら金をくれ‼」というセリフは俄然ブームを巻き起こし「流行語大賞」にもなった。「家なき子」(日テレ系)では“DVの父親を持つ少女役”で主演を演じ、大注目を浴びたのが安達祐実氏だった。けれども、もう、あれから30年も経っている。その可愛らしい顔立ちから「金をくれ‼」という不似合いなセリフが飛び出すドラマの演技は大絶賛された。けれども、その時の印象が強すぎて、大人に成長してからの彼女は“写真集”や“芸人や写真家との結婚”で注目された程度に過ぎない。ところが昨年のドラマ「3000万」(NHK)では“詐欺事件に関わってしまう主婦役”として、今年の「べらぼう」(NHK)では“女郎屋の女将役”として、「夫よ、死んでくれないか」(テレビ東京系)では“夫が蒸発してしまう妻役”として、そして7月から始まる「誘拐の日」(テレビ朝日系)では“誘惑を主導する母親役”として、次々と“普通ではない状況設定の中で煩悶する女”を演じ分けている。確かに「可愛い」だけの子役からスタートした女優では、演じるのが難しい役柄ばかりだ。たぶん、整った顔貌に変った彼女には、大都会の中で、何らかの秘密を持ちながら、ギリギリで生きている女……というのが、妙に似合うのだ。人には誰でも、消そうとして消せない過去がある。そうであるなら、逆に、それを背中に漂わせながら“生きていく”という方法に変える生き方もある。彼女の場合、少女の役でありながら、ただの少女ではなく「金をくれ‼」という少女になって、その強烈な印象を遺して、大人になった。そうであれば、世間の人々から抜けない“その印象”を逆手に取って、そういう過去を背負っている女性の“大人になった姿”“主婦と変わった姿”“会社勤めをしている姿”“母親となった姿”をみせることで、より“深みのある女”を演じることが出来る。ドラマを観ているわれわれの多くは、彼女の少女時代を重ね合わせながら、いまの大都会でギリギリの中、危うく踏み外しそうな“綱渡りの日常”に、それが“役柄”だと判っていても、なぜか「頑張れ」と秘かなる声援を送りたくなるのだ。

もっと「自由にものが言える社会」こそが必要‼

2025-07-05
いま注目の参政党の党首・神谷宗幣氏が7月3日の街頭演説において「高齢の女性は子供が産めない」と発言したことに対して、一部の有名人たちが激しく嚙みついている。その代表は元宝塚女優の毬谷友子氏で「怒りに震えている」という過激な表現で「差別発言だ‼」と問題視している。けれども、神谷氏の発言に不適切な部分はないと私は思う。むしろ、こういう事実を真正面から取り上げた発言に対して「差別だ‼」という発想や拒絶反応の方が異常に思える。別に「高齢女性は役立たない」とか言っているわけではない。その前後の発言から、少子化の日本を救うのは“若い女性たち”であることを訴え、その若い女性たちが「子供を産みたい」と思うような「日本」にしていかなければならない、と訴えている。別に、高齢女性たちを引き合いに出して「もう産めない女性たちに頼ることはできない」といった発言でもない。近年、世界的な現象として“偏見”や“差別”を意識しすぎるあまり、人間としての自由な発言や行動が制限されているように、わたしには感じられる。今回の発言などはその典型で、事実を事実のまま言って「差別だ」と言われるのであれば、われわれは“自由な発想の元に話す”ということが出来なくなってしまう。もちろん、時代的な変化が昔は“セーフ”だった発言や行為を“許さない”風潮になって来ていることは知っているが、事実を事実のまま語ることさえも「差別」と解されるのであれば、日頃から想っていることを自由に語るということが出来なくなってしまう。もしも時代的な変化で「今は許されない」というのであれば「ほんとはダメなんだけどね」と“優しく笑いながら咎めてあげる”くらいの余裕は持てないものだろうか。わたしは「昭和」の時代が持っていた“ほんとうの自由”が好きだ。お互いに“差別用語”や“偏見用語”を丸出しにして、罵り合っていた時代が好きだ。実際、口に出さなくても、行為として表さなくても、本能的に“心の中で想ってしまう”ことは止めることはできない。現代でも暮しの中で、仮に口に出さなくても、行為として表さなくても「差別されているな」「偏見を持たれているな」というふうに想うことはざらにある。人間の持つ“そういう雰囲気”というのは黙っていたって、何もしなくたって、敏感に感じてしまうのが被差別者側だ。口に出されていなければ、行為として表面上は何もされていなければ、どこにも訴えようがない。差別や偏見問題を“声高に騒ぐ人たち”は、この事実に気付いているのだろうか。心のこもらない「ありがとうございました」よりも「ハイハイ、持ってけ‼」という態度で差し出される方が、快く感じてしまうのは“永い昭和の時代”に身についてしまった“卑しい感性”のせいなのだろうか。

教訓として「過去の大予言」が“意味する”もの⁉

2025-07-04
なにやら物騒な予言が“独り歩きをしている”ようだ。漫画家のたつき諒氏による「2025年7月5日に大災害が起こる」という予言だ。都市伝説として、たつき諒氏には過去の東日本大震災の予言が的中した…というものがあり、それと重ね合わせる形で「今回の予言も的中するのではないか」という噂が広まったものと思える。わたしは、自分自身も運命家の立場から、さまざまな予言をすることがあり、実際、数多くの的中した事実もあるが、まあ私のような知名度の乏しい人間が言ってもそれほど害はないが、都市伝説的に評判となっている人物は、わたしなどと違って“自分の発言”には慎重でなければならない。たつき氏の漫画は、わたし自身は読んだことがないので、どの程度の能力の持ち主なのかは正直わからない。ただ何度も言うように、社会的にそれなりの人気や知名度があり、世間的に広く知られている方の場合は、その発言や記述は、そのまま多くの人たちにとって“強い影響”を及ぼすことがあるので、そういう意味では慎重さが求められる。まず、予言というものの構造から言えば、幻視・霊視という形で視える場合、幻聴・教唆という形で教えられる場合、夢の中で視える場合、予知という形で感じる場合、そして占いを通じて予見する場合……などがある。たつき氏の場合は「夢の中で視える」というタイプの予言らしい。わたしの経験によると、社会性の強い未来予見よりも、個人的な未来予見の方が的中率が高く、さらに、同じ個人でも自分自身に関することがいちばん強く、次が自分の身近な人達、特に親・兄弟・子供・配偶者・恋人・親友などの場合、予知能力が強く働くように思われる。社会的な事柄は、どの部分を捉えるかで“視え方が異なる”はずで、たとえば大地震などの場合、自分に関わりの無いものなら、あまり恐怖など感じず“ニュース映像なような感じ”に視えるはずなのだ。恐怖を感ずるのは、少しでも自分自身にも関わりがある時で、関わりの無いものに人は恐怖を感じない。だから、もしも日本列島全体に影響が及ぶような大災害が来るなら、自分にも何かしら感じるはずだが、そういうものを少なくともわたし個人は感じていない。大予言として、過去にはエドガー・ケイシーやノストラダムスの予言が注目されたことがある。エドガー・ケイシーは「日本列島の東側の大部分が海に飲み込まれる」と予言していたことがある。これは東日本大震災の“津波現象”をややオーバーに表現したものと思われる。ただ年代的には的中しなかった。またノストラダムスは「恐怖の大王が空からやって来る」と、わけのわからない予言をしたが、これは“ニューヨークの9.11事件”のことであると私は思っている。もっとも、これも時期的には外れていて、その2年後に起こった。つまり、時期予測は当たらない場合が多いのだが“イメージ映像的な予言”としては大体“それらしき事柄”となるケースが多いのだ。つまり、多くの場合、予言とは“そういうもの”だと思ってもらいたい。

配達員の「郵便物500個破棄」は重大な犯罪行為

2025-07-03
熊本県天草市の本渡郵便局の配達員が、今年4月、配達すべき郵便物500個を“ごみ集積場”に破棄していて、それを集積場の近隣住民が気付き、郵便局に知らせて事件が発覚、問題の配達員が解雇されていたという報道があった。昔、郵便物の破棄に関しては、年賀状配達などで破棄事件が発覚したことはある。別に「年賀状なら良い」とは思わないが、百歩譲って、年賀状だけであれば届かなかったとしても、最終的には“許してあげる”ことも出来る。けれども一般郵便物の場合は、ましてや500個もの大量の郵便物であれば、その中には必ず私信として、或いは公的文書として“重要な内容のモノ”が含まれていたに違いないのだ。それを無造作に“ごみ集積場に棄てる”という心境が、わたしには解からない。なぜ、無造作かというと、翌日になって近隣住民が“それ”を「未配達の郵便物らしい」と感じて郵便局に連絡を入れているからだ。つまり、同じ棄てるでも、誰にもわからないように棄て去るというのでもなく、とりあえず「ごみの集積場」があったから、そこに棄てた……という感じなのだ。こういう人物が郵便局の配達員として雇用されていたこと自体が、わたしには驚きなのだ。「今後、指導を徹底する」とかいう問題ではなく、郵便物を“大切な私信・公信の証し”としての意識が乏し過ぎる人物を、配達員として採用していたことが問題なのだ。おそらく、配達員は仕事として「仕方がなく配達していた」に違いない。そうでもなければ、とても破棄など出来ない。どういう仕事でも、その仕事に対して“理解が欠けている人”を就かせてはならない。もし、その人物がただ単に“公務員”としての“安定した暮らし”を求めて郵便局に入ったなら、少なくとも“破棄される可能性”を持っている配達員の仕事は任せられない。内勤としての事務処理的な仕事であれば、命令に従えたのかもしれないが……。配達員というのは、単独で行う仕事であり、或る種の“使命感”を必要とする仕事なのだ。金銭面も扱うことがあり、そういう意味でも、信頼できる人物であることが重要なのだ。この事件には関係ないが、先日、わたしの住居に届くはずの郵便物が同じマンションの別の号室へと届いた。それは「510号室」への郵便物を「501号室」への郵便物と間違えて配達員が入れてしまったからだ。もちろん、姓名を確認すれば間違うはずのない郵便物だ。それを郵便局に伝えたが、だれも謝りには来てくれなかった。別に謝りに来てくれなくても良いが、誤配だけは無くしてほしい。

「三枝」から「文枝」に変って、次々と逝った⁉

2025-07-02
私などはどうしても昔の名前である「桂三枝」と言いたくなるのだが、もう6代目「桂文枝」を襲名して13年も経っている。それなのに、未だに「三枝」と言いたくなるのは、妙に、その名と本人の雰囲気が符合していたからだった。名前というのは、奇妙なもので、その人の外貌的なものも含めたイメージと“符合している”場合は世の中に浸透しやすく、“符合していない”場合は世の中に定着しにくい。そういうふうに出来て居る。だから、そう言う点から言えば「6代目・桂文枝」への襲名は、運勢的には“孤独な道”の始まりだったのかもしれない。TV番組内で、2021年に自分の妻と、その数日後に母親とを相次いで喪っていることを語ったようだ。実は、それが始まりではない。2019年3月に永年の愛人だった女性が孤独死していたことが報じられている。同じ年の8月には落語の愛弟子が亡くなり、11月にも、もう一人の愛弟子が亡くなっている。そして、2021年の1月になって奥様が亡くなり、その葬式中に実母が亡くなっている。さらに、その年には彼を日本の茶の間に知らしめたTV「新婚さんいらっしゃい」のプロデューサーが亡くなっている。こうして、次々と身内的な人達が亡くなって行くのは単なる偶然とは言い難い。彼は「桂三枝」として45年間も過ごしたのだ。その姓名は、彼自身に染み渡っているだけでなく、世間にも広く浸透していた。そして最初にも言ったように、本人のイメージとも妙に結びついて“一体化”しているように視えた。もちろん、襲名された「桂文枝」の名が悪いというのではない。けれども、なんとなく“彼のイメージ”とは符合していなかった。そして実際、姓名学的な観点からも「桂三枝」と「桂文枝」とでは、画数なども圧倒的に「三枝」の方が良いのだ。「文枝」の名は、孤独で家庭的にも支障が生じやすい姓名となっている。古典芸能に通じる…という点では「桂文枝」は大変に良い名なのだ。だが人気運や愛情運という点で、難しい部分を備えている。数々の名誉を得ながら、彼が「老人ホームで死にたい」と漏らしたのは、今現在もなんらかの問題を、身近な人達との間で抱えているからではないだろうか。

「漫画」「ゲーム」と「現実世界」混在する恐怖

2025-07-01
愛知県豊田市で19歳の女性・東川千愛礼さんが、刃物で胸などを刺され玄関先で死亡しているのが発見された。その翌日、京都方面に逃亡していたとみられる元交際相手・安藤陸人(20歳)が殺害容疑で逮捕された。バイト先の同僚同士から交際に発展したが、何らかの理由から別れて、男の方がストーカー的になっていたとみられる。詳しいいきさつは不明だが、まだ19歳と20歳の若いふたりが“交際”から“殺害”に至った形で、おそらく“それほどの深い事情”があるわけではなく、お互いの気持ちのズレというか行き違いから“愛情が憎しみに変った”結果としての殺人であると思われる。この事件で、わたしがいちばん気になったのは、双方ともに、とても周りからの評判がよく、悪い印象を持たれていないことだった。つまり本来から言えば“殺人事件”に発展するような“そういう二人”ではなかったような気がすることだ。それなのに、結果だけ見れば“救いようのない殺人事件”で終わっている。どうして、こんな結果になってしまったのか。わたしの勝手な推測では、この容疑者である20歳の男は、たぶん普段から“ゲーム”か“漫画”のどちらか、あるいはその両方に“入れ込んでいる人物”で、その種の発想しかないような暮らし方をしていたに違いない。最近のゲームや漫画には、敵対するものは“殺して当然”というような発想の元に組み立てられている物語り的なものが多い。もちろん、ゲームとか漫画とかなのだから、そういう形式でないと“面白みに欠ける”のは理解できないこともない。だが、それはあくまでも“架空世界”或いは“幻想世界”だから、それで良いのだ。現実世界に“それ”を持ち込むととんでもないことになる。ところが普段から、そういうものばかりに浸っていると、現実が現実として捉えられなくなっていく。言ってみれば、どちらが現実で、どちらが架空なのか、判然としなくなっていくのだ。したがって、自分に逆らう者、自分から離れる者は「敵」に視えてきて、その敵は“殺してしまう”のが生き残るための行為として正当化される。生き残るためには“それしかない”かのような発想となる。日頃から、あまりにゲーム漬け、漫画漬けの日常になってしまうと、現実世界に対しても、安易な発想しか出来なくなっていくような気がする。したがって、本来は“人柄の良い”人物だったはずなのに、時として過激すぎる行動をとってしまう……そういう人物が増えていくような気がする。 Newer Entries »