9月, 2025年

「銃器所持合法」フィリピンで日本人が狙われる

2025-09-06
日本人にとって、解かりやすいようで解かりにくいのがフィリピンという国だ。まず、現地には昔から“棲みついている”日本人が結構いる。彼らはフィリピンの社会構造に詳しく、それなりの力を持っている場合が多いので、通常フィリピン人は手出しをしない。フィリピンという国は、東南アジアとしては珍しいキリスト教国である。その教えの根本は“同胞愛”だ。つまり、仲間は助ける。どういう場合でも助け合う。けれども“仲間”とみなせない者に対しては損得勘定が基本となる。フィリピンには仕事の関係で数年間滞在する事情の人たちも多いが、それらの人たちは“服装からして日本人”で、現地人のような服装で仕事をしない。したがって現地人からすれば「仲間ではない」ということになる。したがって、あとは損得勘定でプラスになるなら関わるが、それ以外で関わろうとはしない。問題は、それ以外の日本人だ。つまり、マレーシアと同じような感覚で「リタイア後の生活地」としてフィリピンを択んだ老夫婦や、文字通り“旅行先”としてフィリピンを択んだ人たちだ。この両方とも現地人にとっては「仲間」とはみなせない。したがって、地元の素行の悪い者たちが、まず目をつけるのが彼らなのだ。リタイア後の生活地としてフィリピンを択んでいる場合、完全に現地に溶け込んでいれば問題ないが、明らかな日本人の外貌をしていると、特に夜間は格好の標的となる。9月3日~4日にかけ、日本人6人が相次いでフィリピン人の銃器で襲われた。最近多いのは、バイクに乗って“獲物を物色する奴ら”だ。彼らは、日本人の多くが“抵抗しない”のを知っている。だから、銃を突き付けて“貴重品を奪う”というのが定番の“襲い方”になっている。それでなくても日本人は、海外においては無防備な人が多い。そして外見的にも“日本人”と判りやすい。夜に1人で歩いている人は少ないが、二人とか三人なら、防犯カメラの少ない路上でも歩いたりしやすい。その結果「日本人は狙いやすい」という評判が起ってしまったようだ。フィリピン人の多くは幼い頃から教会に行く。だから「博愛精神を持っている」などと勘違いしがちなのだ。確かに、彼らは“同胞愛”が強く、困っていれば手を差し伸べようとする。ただ、それはあくまでも“同胞”の場合で、どこから観ても“同胞には見えない”日本人は「撃ち殺しても罪にはならない相手(フィリピン人の考え方)」なのだ。なにを基準に“銃器所持を合法”としたのか知らないが、根本的にわれわれの考えるキリスト教とは違う“捉え方”で「神」を信じている。

無言であるが「手相の変化」が教えてくれること

2025-09-03
わたしは子供の頃、手相は変化しないのだと思っていた。それが、いつからか、だれに教えられるというのでもなく「手相は変化していくものだ」と理解するようになった。たくさんの手相を観ていれば、ごく自然に“変化していく”ことを理解する。わたしの場合、若い頃は鑑定する人の「手型」を採っていたので、嫌でも“その変化”を受け入れなければならない。人によって、或いは年齢によって、変化しやすい人と、変化しにくい人とがあるが、徐々に変化していくことは間違いがない。したがって、数年先のことならともかく、十年とか、二十年とか先の未来は、その変化を取り込まなければ“的確な判断”など出来るわけがない。まあ、せいぜい、もし「何の変化も無ければ…」これこれである……と推測することが出来る程度だ。特に、十代半ばくらいから二十代半ばくらいにかけての女性の手は、想像以上に大きく変わる。元々「運命」というのは、人や物との関係性、本人の意識、俗に“運勢”と呼ばれる人生上の吉凶によっても、どんどん変わっていく。決して固定されたものではない。確かに「先天運」として、本人に与えられたものはある。たとえば健康運には恵まれているけれど、金運には恵まれていないとか……仕事運には恵まれているけれど家庭運には恵まれていないとか……そういう“宿命的”としか思えないような「運」の強弱・吉凶というものはある。それを否定することはできない。ただ、それすらも、まったく変えられないか、といえばそうとも言えない。それなりの手順を踏む必要はあるが、少なくとも“或る程度まで”変えていくことは可能なものだ。ただ「運」というものは、自分の“強い部分”を伸ばしていった方が、自分の“弱い部分”にチャレンジするよりもムリがない。だから、或る程度の年齢になれば、自分の人生において“どの部分”が強くて“どの部分”が弱いかは、なんとなく把握できるものだ。その“強い部分”に磨きをかける方が“弱い部分”に努力するよりも、はるかに得られるものが大きいだろう。そして、そういう形で何年も経てば、ごく自然に「手相の中の良い部分」が増えていく。良い部分を増やす方が、悪い部分を減らすより、ムリがなく、はやい段階で“変わっていくこと”を実感できることだろう。

「本格認知症」になったら「来世は消滅する」か

2025-09-02
最近、思うのだ。認知症になって、完全に記憶が無くなってしまったなら、もう「生れ変る」などと言うことは出来なくなってしまうのだろうか。「死後世界」も「来世」や「転生」も、記憶が継続することを前提として語られている。けれども、もし、現世において完全な認知症となって、その後何年も生き続けたなら、もはや、文字通り「過去は幻」となって、その人は“自分の生きた証”を失う形で、亡くなってしまうことになる。夢グループの石田社長が、歌手の橋幸夫氏の病状について語ったようだ。それによると現在は“アルツハイマー型認知症”により入院中で「ほとんど会話は成立しなくなっている」という。「ぼくの顔を忘れ、言葉も忘れている」状態であるという。これは、なかなか重症だ。82歳なので、年齢的な点から言えば、そういう状態がやって来てもおかしくはないが、6月にはコンサートにも出演していたらしいので、急速に症状が進んで行ったのかもしれない。人は誰でも齢を取るし、それによって、あらゆる部分が弱まっていく。わたし自身も、年齢と共に“記憶力の低下”が目立ってきている。昨日食べたモノすらも、判然としないくらいだ。だから、認知症は確実に迫って来ているのかもしれないが、そう考えると、自分が行ってきた過去をすべて忘れてしまうのは、もし「死後世界」というものがあるのだとすれば、気楽で良いのか、それとも上手く対応できず悩むのか、いっそ完全に失われてしまう方が、中途半端に悩まず良いのかもしれない。古代エジプトの「死後世界」では「死後法廷」というのがあって、そこで現世でどういうことをしてきたかで裁かれるのだが、記憶が失われてしまうと、裁かれようがない。その結果で「生れ変りのコース」が定まるのだが、これも定めようがない。そうなると、裁くことも出来ず、生まれ変らすことも出来ず、宙ぶらりんのまま「あの世」を漂うことになる。なにしろ、昔、関わっていた人たちも、家族親戚も、想い出すことが出来ないのだから、再会を喜び合うことも出来ない。まあ、きれいさっぱり現世とサヨナラ出来て、案外「ゼロ」からの出発というのも、それはそれで楽しいのかもしれない。

「足の痛み」は「部下後輩からの裏切り」だが⁉

2025-09-01
政界も世論も“真っ二つ”に意見が割れている……という。石破内閣の継続に「賛成」の人々と「反対」の人々とが見事なまでに「二分している」というのだ。奇妙なことには、同じ政界の中でも、与党だからとか、野党だからとか…というのとは関係なく、つまり各政党ごとに“賛成”や“反対”を唱えているのではなく、例えば自民党の中でも「継続させるべき」という意見と「変えた方が良い」という意見と“真っ二つ”に分かれているのだ。各種アンケート調査でも、それは同様で、どの党を支持しているとか、どの政治家を支援しているとかに関係なく、石破政権の継続には“支持する側”と“拒絶する側”が見事なまでに二分している。どちらかに比率が偏るというのではなく、だいたいが半々に分かれるのだ。その結果として、奇妙なことが起こった。現政権を「継続させるべき」というデモと「早く後退させるべき」というデモとが、まるで示し合わせたかのように霞が関付近で行われている。ところで、わたしは石破政権誕生の時に、石破氏の運勢から視て「2025年の春に窮地を迎える」と書いた。そして、その窮地を乗り越えれば、案外継続していく可能性はある……というふうに記した。実際、この春「米の急騰問題や関税問題」が起こって、石破政権は窮地を迎えた。けれども、小泉氏を抜擢して何とか窮地を乗り切った。関税問題の方も、一応、ぎりぎりセーフのような結果となっている。つまり、窮地はあったが何とか乗り切ったように視える。ただ石破氏本人に“気になる動き”があった。昨日、足の痛みで病院に行ったというのだ。痛み止めを打ってもらったようだ。この“何気ない日常”だが、実は運命学的には、足に“痛みを覚える時”というのは、必ず、部下後輩の中から“裏切り者”が出て来るとか、大失態をやらかす者が出て来るとか、そういう時に多いのだ。つまり、自分の足元に“火が点く”ような危険な時の症状なのだ。したがって、現政権は決して安泰では居られない。必ず、近日中、足元に関しての何かしらの問題が発生して来るに違いない。真の運命学による観察眼は、そういうふうなところからも観相していく。ただ足の“痛み”でも“痛み止め”を打ってもらえば、とりあえず、引き摺りながらでも歩くことはできる。そういうふうな感じで、何とか9月を乗り切ることが出来るのか、微妙な状態になっている。 Newer Entries »