11月, 2025年

「日本国」&「日本人」載せた「令和船」の行方

2025-11-30
日本には昔から「元号」というものがあり、それによって“或る程度の時代区分”が出来る。そう言う点から言えば「令和」という時代は、なかなかに先の見通しが立たず“判然としていない時代”であるような気がする。ただ一つだけハッキリしていることがある。「日本」は外国人たちによって、これまで見過ごされてきた“日本の良い部分”に、改めて気付かされた面が相当数あるということだ。たとえば“和服”などもそうである。日本では昭和の後半から平成にかけて“和もの全般”を見失いかけた時代がある。欧米化が浸透していく中で、日本古来からの“独自の文化・芸術・伝統”などを無意識に棄て去ろうとしていた時期がある。けれども訪日客が多くなり、国際交流などが進む中で、改めて「日本」の漫画やアニメ、寿司や和食、茶道や華道、忍術や武道、芸者や歌舞伎、着物や神社……さまざまなものが見直されるようになった。いまでは、その多くが海外において高い評価を得て“日本の誇り”に変わっている。「日本」が変わりゆく世界の中で、独自性を保てたのは長期間の“鎖国”があったからだ。鎖国期間が長かったにもかかわらず「国」そのものは比較的繁栄していて、その独自の文化・芸術・伝統は進化し続けていったように思われる。もちろん、西洋に“後れを取った”部分もあるが、全体的には“独自の進化”を続けていた……と視る方が正しい。その結果、海外とは異なる「日本」の特異な文化・芸術・伝統が何とか継承され続けたのだ。そう考えると、現代はどちらかというと「世界基準」という尺度で物事を捉えがちだが、あまり“それ”に捉われない方が、文化・芸術・伝統の世界においては“独自の発展”というか、進化を続けられるのではないだろうか。「占い」などに関しても同じようなことが言える気がする。日本には、日本独自の“占い”が多数存在する。わたしが一時期、行なっていた「墨色判断」「測字占法」「梅花易占」「画相」「数字生命判断」などもそうだが、神事として今も継承され続けているものの中にも、そういう“和式占法”がいくつも存在する。そういうものを見つけ出し、復活させていくことが出来れば、世界に誇れる“占術王国”へと脱皮していけるのではないだろうか。

香港「高層マンション火災」から学ぶべき教訓⁉

2025-11-29
大昔に香港を旅行した時、地元ガイドが高層マンション群に対して「ココは地震がないので高層マンションを林立させても大丈夫なのです」と誇らしげに語っていた。確かに、異様とも思えるほど、接近した形で30階以上の高層マンションが林立していた。理由はよく解らないが、香港のマンションには竹林のように、あまり飾り気なく狭く直立しているタイプが多かった。つまり“似たようなマンション”が圧倒的に多いのだ。今回の香港のマンション火災に関しては、その原因などいろいろ指摘されているが、地震には強かったのかもしれないが、火災には“弱い構造”であったような気がする。近年、日本国内にも高層マンションが多くなった。地震対策はいろいろ施されているようだが、火災対策は万全とは言えないような気がする。それにしても火災で“焼け出された人たち”が路上にベッドを敷いて寝ているケースが多いよう見受けられたが、あれは“避難所”となるべき場所が、与えられていないということなのだろうか。考えてみれば、あれだけ接近した形でビルを建てると、何かの災害が起こった時、とっさの避難が難しいような気がする。当然ながらマンションには耐久年数というものがあるが、香港の場合、早くから高層化が進んだせいで、それぞれのマンションの“老朽化”が同一歩調で進んできている可能性がある。つまり本来なら“建て替えるべき時期”に来ているマンションが多いのではないだろうか。日本でも、近年、各地で多いのは道路の陥没化現象だ。これもだいたい同じ時期に各地で道路工事が行われ、水道管の地下配管工事が行われ、その老朽化が同時進行で進んできていることと無関係ではない。われわれの普段の暮らしでも、同時期に飲食物を大量購入すると、ほぼ同時期にあれもこれも無くなって慌てることがあるが、それと同じように同一地域で同じようなマンションが次々建設されていれば、当然、その耐久年数が尽きて来るのも、ほぼ同時期ということになる。日本では比較的メンテナンスをこまめに行うような気がするが、海外の場合、日本ほどメンテナンスに注意を向けていないような気がする。今回の火災が、あくまでも“耐久年数”とは関わりないなら良いが、そうでない場合、香港はもっと各マンションの外装修繕工事など用心しないと、似たような形で次々と火災等が発生して来る可能性がある。 

なぜか「年末年始が迫ってくる」というのに……

2025-11-28
いつも、この季節になると、周辺の人達はそわそわと忙しそうにし始める。そうすると「年末が来たんだなぁ」と、いつも思う。わたしは年末年始に“体調を崩す”ことが多いので、それだけは用心しなければならないが、それ以外に関しては別に“何も変わるところ”が無い。今年は個人的な事情から“年賀状を書かない”ので、そういう意味でも別に“忙しい想い”をすることはない。たぶん、もう少し経つと“大きな買い物”をすることにはなるが、それだって別に慎重に選ぶわけでもなく、なんとなく、その時の状態というか、気分というか、雰囲気というか、まあ“何となく買っていく”ような気がする。わたしは昔からそうだが、自分の人生を「こうしなければ…」とか「ああしなければ…」とか、あまり深く考えたことがない。だから、特別、後悔もしたことがない。たぶん、人生上で後悔の多い人というのは、考えすぎる人、迷いすぎる人…なのだ。特に迷うこともなく、深く考えることも無ければ、人生というのは“まあまあのところ”なのだ。よく、次の製品はこんなに早い、とか言って宣伝するが、別に「そんなに早くなくても…」と思ってしまう。「急げば廻れ」という言葉があるが、急ぎすぎたり、焦り過ぎたりすると、だいたいはろくなことがない。年末になると「宝くじ」売り場がにぎわう。でも、どうしてみんな“並んで”買うのか。空いている日とか、空いている売り場で買えばよいのに、なぜか、同じ日、同じ場所に並びたがる人達がいる。わたしには、ああいう人達の気持ちがわからない。パチンコ屋の開店時なら、並ぶというのも解らないではないが、それとて友人の付き合いで一度だけ並んだが、その時には負けた。ギャンブル系のものは、意識しすぎた時は大体が上手くゆかない。無意識に…というか、あまり深く考えず、なんとなく衝動的に選んだり買ったりしたときの方が勝利する。人生上の大きな決断とか、買い物とかでも、基本は同じで、あまり深く考えたり択んだりしても上手くゆかないので、最終的には「神様に択ばせよう」的な考えが、わたしのどこかにある。と言っても、わたしは特に何かの宗教とか信仰とかを持っているわけでもない。年末年始が、特別な意味を持つこともなく、毎年“同じ間隔”でやって来るように、ごく自然な意識と感覚で、その時の状況に合わせて、或いは気分に合わせて、年末年始を迎えたいだけだ。大きな買い物は、今回も面倒なので“神様”に択んでもらう……というより択ばせた方が、わたしの場合は後悔せずに済む。

時代の変化の中で「直筆の文字」が失われていく

2025-11-27
昨日、九州に住む実姉から手紙が届いた。今の時代、直筆の手紙に“何が書かれているか”と言えば、たいした内容ではなく、お歳暮などのお礼や自分の健康状態などで、通常なら“わざわざ手紙を出す”ほどの内容でもない。ただ、その中で一つだけ、姉は数年前に夫を喪っていて、それ以降は独り暮らしなのだが「改めて、最近、ひとりでいると妙に寂しいものだから…」という部分があり、そういう部分もあるのか……と思った。姉の夫は喉頭がんで、その世話は大変だったと聴いているから、亡くなって「自由になった」と最初の頃は悦んでいたような気がするが、時間が経つことで気持ちにも微妙な変化が生じるらしい。最近は膝や腰の状態が良くないらしいので、自由に外出できなくなったことも、それらの文面外の言葉には含まれているのかもしれない。わたしの実兄も胃がんで胃の大部分を失っているはずだ。数年前に逢った時には、妙に衰えが目立った。私の身内は病人ばかりで、そう思うと、一応、健康で居られる私は感謝して生きなければならないのかもしれない。だが、人間というのは“わがままなモノ”で、健康なら健康で“別な悩みごと”が生じて来たりする。それにしても、姉は“筆まめ”というか、昔からよく直筆の手紙を出し続けてくれる。電話も向こうから数か月に一度は掛かってくる。わたしは誰に対しても、自分から電話を掛けるというのが嫌いで、よほどのことがない限りは自分からしない。携帯電話も一応持っているが、出掛ける時にも持ち歩かない。手紙やメールに関しては、自分からは出さないが、相手から来れば、それには応じる。直筆文字には独特の味わいというものがある。だから姉からの手紙に対しても、ハガキで返す。手紙にするほどの内容も持ち合わせないので、とりあえず、適当なことをハガキに書いて返信する。直筆文字は、ときどきは書いておく方が良いもので、なぜなら文字(漢字)を忘れてしまうからだ。そういう意味では、あまり意味のない手紙でも、来ていた方が良い。電話は、なぜか身内は“長電話の人達”が多く、やたら話が長い。わたしは電話で長時間話すのも苦手で、だいたいが5分も話せば十分だという気がする。それ以上、話すことなんてない。だから、ここでこんなことを言うのもヘンだが「電話鑑定」というのもホントは苦手なのだ。同じ話を何度も訊いてくる人も苦手だ。あまり短いと、お金を戴けないから、しょうがないので答え続けているが、ほんとうは10分くらいあれば、どの鑑定だって十分なのだ。

「正義」は「時代によって変わる」という教訓⁉

2025-11-26
北海道の鈴木直道知事が「泊原発3号機」の再稼働を認める決断を下したことが報じられている。正式には28日に行われる同議会で、その方針を伝えることになりそうだが、地元の村長も同意の意向のようで、地元住民を完全に納得させたかどうかは不明だが、とにもかくにも“原発再稼働”は可能となるようだ。北海道だけでなく、全国的にも、続々と原発の再稼働が開始されている。万一に備えての余力ある電力供給は、特に寒さの厳しい北海道において絶対の課題なのだ。しかも、北海道の場合、今後、半導体の新たな工場が稼働し始める。半導体は“電力を食べて生きていく”怪物なので、現状では生きながらえることが出来ない。さらに原発を止めていることで電気料金が北海道の場合は、全国的にも極めて高い。泊原発を稼働させることで、或る程度、道内の電気料金も下げられると試算されている。泊原発だけではないが、一時期、周辺地域の汚染問題が強く叫ばれ「原発は悪だ」という風潮があった。その結果、せっかく稼働させてきた原発が次々と停止となった。その当時においては、原発を止めることが“正義”であった。もちろん、それに反対する人も沢山いたのだが、それらの意見はことごとく無視された。そういう場合「正義」を声高く叫ぶのは、何よりもマスコミ関係である。マスコミというのは、良くも悪くも“大衆の声”の代弁者として振舞う。だから少数意見の中に“取り上げるべきモノ”があったとしても、あたかも、そういう意見はなかったかのように振舞う。そうして大衆を先導していく。大衆の多くは、いつの間にか“それ”に洗脳され、引き摺られていく。そういうふうに出来ている。結局、何が正義なのかは、誰にもわからない。その時代や地域によって「正義」というのは変化するように出来ているからだ。だから、時代の先導者たちは、その責任を取らされ、処刑されたり、獄門に繋がれたりする。どんなに時代が進んでも、どんなに世の中が変わっても、だから、あまりに「正義」を強く振りかざす人は危険なのだ。歴史をめくると、そういう時代の波に翻弄されて、ほんとうは正しいことを言いながら「悪者」として、多くの人達から敵対視され、追われた人たちが何人も存在しているのだ。

人には皆「それぞれの居場所」というものがある

2025-11-25
とてもヘンな言い方をすれば、われわれはみんな地球人だ。そして、われわれは今「日本」に居る。われわれの居場所は地球の中の日本だ。そして、その日本の中でも“それぞれの地域”で“それぞれの居場所”を得て暮らしている。この「居場所」には事実上二つあって“社会的な居場所”と“プライベートな居場所”の二つだ。時には“社会的な居場所”を失っている場合、或いは自らが拒否している場合もある。そういう人でも“プライベートな居場所”だけは誰もが持っている。その“居場所”は何となく居る…という場合もあるが、ほとんどの場合には「自分の居場所」としての自覚を持ちながら居続けている。つまり人には、それぞれに“居場所”があって、それは「その人に相応しい場所」である場合が多い。もし、その人に相応しくなければ、そこに長く留まっていることは苦痛になる。ただ、どんな人にも「その人に相応しい場所」は存在する。見つけられているか、見つけられないでいるか、それだけの違いだ。或るインタビュー記事で、グラビアアイドルとして人気が出てきた「ももせもも」という方を知った。この人は2019年までは普通に保育士として働いていた方で、その後、或る芸能事務所社長に口説かれ“グラビア関係”の仕事をするようになった。彼女は、その数年前から、その社長にグラビアの仕事を奨められていたのだが、自信が無くて断り続けていた。けれども、社長は粘り強く説得を続け、本人が憧れ、尊敬もしていたタレントのMEGUMI氏と逢う場を設けてくれ、そのMEGUMI氏からも強く勧められ、芸能事務所入りを決断したという。こうして、20代後半になって、グラドルとしては“遅すぎるデビュー”を飾った。そしてグラドルとなって東京での生活を可能にしてくれた社長に感謝しているという。それにしても、何年も粘り強く口説き落とした社長は“先見の明”があったというべきだろう。ももせ氏の売りは“129㎝でMカップのバスト”だ。ふつう100㎝でも相当目立つのに、129㎝というのだからすごい。ただ本人は、この胸に相当なコンプレックスを持っていたようだ。だから極力、目立たないように生きて来た。性質的にも、胸が目立つようになって以降は暗く憂鬱な面が強くなったという。それを本来の“明るい性質”に変えてくれたのが社長であり、芸能界入りの背中を押してくれたMEGUMI氏であったという。彼女にとって最大のコンプレックスであった胸は、いまや最大の武器となって、多くの人達から“支持される基”となった。人生“なに”が自分の居場所を与えてくれるかなんて判らないのだ。多くの人は、自分で“自分の価値”を決め過ぎている。自分が思いもしなかったような部分に“価値が眠っている”ことは往々にしてある。第三者の眼や勘を侮ってはいけない。

札幌はもう「冬のコート」なしでは外出できない

2025-11-24
よく「暦の上では…」などと言うが、奇妙なことに古代中国で生まれた「24節気」の名称は北海道の札幌市の気候には“符合している部分”が多い。11月の7日に「立冬」が来て、22日には「小雪」が来た。もう2500年以上も前に誕生した「24節気」の名称だが、札幌の気候には、そのまま通用する。実際にここ数日間は“雪”になったり“雨”に変わったりの気候だからだ。24節気通りに進むと、12月の7日に「大雪」となり、22日に「冬至」となり、来年1月5日に「小寒」となり、20日に「大寒」となって、その頃が“寒さのピーク”になることを告げている。そして、2月4日「立春」朝日だけは“春”を迎えるのだ。この24節気は、実際には“12の節”と“12の気”から成り立っていて、合わせて“24節気”だ。そして「干支暦」などでは、そのうち「節」の方を採って“毎月の区切り”に見立てている。したがって、その暦に合わせている(⁉)札幌の場合「小雪」が来れば、当然、小雪をちらつかせないといけない。小雪をちらつかせるのは良いが、中途半端に解けるから、今の季節はやたら滑るのだ。寒さも中途半端に寒いから、冬用のコートが欠かせなくなる。そして足元はブーツの到来だ。このブーツだが、北国仕様と本州仕様とでは“靴底”が異なる。つまり、北海道など北国では“滑り止め”が強化された靴底になっている。ところが、その靴底であっても、この季節の朝とか夜とかは滑りやすい。中途半端に溶けて、中途半端に凍るので、完全に雪が積もった真冬よりも、今の季節の方が滑りやすい。そこで“滑らない靴”というのが北海道では求められる。毎年、さまざまなメーカーが「滑らない靴」という触れ込みで、いろいろなタイプを発売しているのだが、実際には“いま一つ”な場合が多い。一時期、靴底に滑りにくいモノを練り込んだ製品が売り出されていたが、今年は純粋に靴底のギザギザが極端に深いモノが攻勢を掛けている。ところが、靴底は良いのだが、そういう製品に限って、肝心の“ブーツとしてのデザイン”が今一なものが多い。つまり“見た目”に気を遣っていない。もう少し、ブーツそのものとして“格好の良いもの”を作ってくれたなら、わたしは悦んで購入したいのだが、どういうわけか“靴底”だけに神経を使っていて、見た目の格好良さには“無頓着”というのでは、その割には価格が高いので……迷っている。

イスラム過激派「315人を誘拐」何より洗脳怖い

2025-11-23
ナイジェリアというのは「日本」にとっては“馴染みの薄い国”だ。したがって、その内情はよく解らない。解かっているのは、11月21日にもキリスト教系の学校が襲撃され、そこに居た生徒303人と教師12人の合わせて315人が誘拐されていった、ということだ。大規模な襲撃は、キリスト教系の学校を狙っての犯行が多い。犯行組織は解かっていてイスラム教系「ボコ・ハラム」という過激派組織か、或いは「イスラム国」系の分派組織だ。彼らの怖いところは、誘拐することを「悪いこととは思っていない」点にある。宗教的な組織は、だいたいにおいてそうだが、信仰が強いものほど犯罪行為を堂々と行う。なぜなら、その行為が“神の意に適っている”と信じ切っているからだ。特に、古代から“キリスト教”と“イスラム教”とは相容れず、互いに武装闘争を繰り返してきた。両方とも“神様同士⁉”のはずだが、2000年以上も“いがみ合って”いる。だから戦争が終わらない。さらに、イスラム教の怖いところは“洗脳型の宗教”だということで、子供を多く誘拐したがる。なぜなら子供の方が“洗脳しやすい”からだ。特にキリスト教系の学校には、元々が信仰心の強い生徒たちが集まる。したがって、その信仰対象を“キリスト”から“イスラム”に改めさせれば、新たな信徒が登場することになる。イスラムの神は“戦う”ことを怖れない。だから過激派組織にとっては“もってこい”なのだ。幼いうちに誘拐して洗脳教育を施し「聖戦」と呼ばれる“自爆犯”を養成していく。大体が過激派の思想では、女子には“教育は無用”との考えがある。男子と女子では“役割が違う”というのがイスラム原理主義の著しい特徴なのだ。女子は眼以外の全身を黒衣に包み、黙って“男に従っていれば良い”という大時代的な発想なのだ。何しろ“七世紀に誕生した主義思想”で、その頃の社会を背景としている。だから女子に教育は不要なのだ。幼い頃に誘拐されてきた女子たちに、徹底的にこのイスラム原理主義思想を叩き込む。そうすると、どうなるか。本来は“敬虔なキリスト教徒”だった女子たちが、やがては完全なイスラム過激派として「聖戦行為(自爆行為)」を行うようになる。自らの両親や親戚たちがいる地域に行って、爆弾を身体に巻き付け“神の名を叫びながら”突入していく。「神は偉大なり」と叫びながら自爆していくのだ。彼女たちは、こうして聖戦に自らの命を捧げることで“来世の幸福”を約束される。何かが崩れていく哀しい現実なのだ。

新刊『占いと占い師の占い方』が難産の末に誕生

2025-11-22
確か今年の2月に最初の“出版予告”がでて、それから10か月近くも掛かって、ようやく出版の運びに至った。そういう意味では波木星龍の本としては“難産の末に誕生した本”だと言える。この本は書名からも解るように、占いの本としては“ちょっと特殊な本”に属する。内容は大きく二部構成になっていて、前半がタイトル通りの“占い”と“占い師”に関して総合的にまとめた本であって、いわば“総合雑誌などが扱う内容”に近い。そして後半には「波木流秘伝・心眼易卦術」という独自の占断方法について記述している。或る意味では二冊の本を一冊にまとめているような本だ。まあ、前半は“一般向け”に書かれているし、後半は“マニアックな方向け”に書かれたものと言ってもいい。心眼易卦術の方で占えるのは、一般に良くあるような“全体的な運勢”というふうなものではなくて、その時、その時の「願望の成就」「運命の出逢い」「勝負の吉凶」「性愛関係」「移動や転居」「試験の成否」の六項目に対して、具体的な判断を述べているもので、こういった分野そのものに“光”を当てている占術書は滅多にない。われわれの日常というのは、実際には“こういった分野の寄せ集め”で成り立っている。だから、こういった分野が的確に判れば、日常生活で迷うことが少なくて済む。しかも、わたしの占いは“難しい計算”とか図表など一切必要としていない。近年、一部マニアックな人達が好んでいるのは“やたら面倒な占い”ばかりだ。手間のかかる占いは、趣味で用いるには良いが、あまり実用的とは言えない。もちろん、この占いも上達するには“慣れ”が必要で、慣れないと“占い方が不自然になる”ので、その分的中率も低下する。前半の方は、主に“占いの歴史的側面”に付いて興味深いことをたくさん書いた。西洋に付いても、東洋に付いても、古代に付いても、現代に付いても、さまざまな観点から書いた。わたし個人のことに関しても、恥ずかしいことを知らない私は、あけっぴろげに記述した。さらに評論家的な角度から「占いランキング」というものを“西洋編”と“東洋編”にわけ、占いそのものと、占い師に対してと、両方からランキング化してみた。まあ、占い関係の雑誌が消えた今、わたしは「占いの総合デパート」のようなものを晒して、読む方達が何を感じ、どう思うかを知りたかったのだ。

「ドル円」「ユーロ円」“未知なる領域”踏み込むか

2025-11-21
“難しい領域”が近づいている。為替の“ドル円相場”及び“ユーロ円相場”の動きが、このところ慌ただしいのだ。現在の時点で、ドル円は1ドル=157円台半ばで推移、ユーロ円は1ユーロ=181円台後半で推移。これらの値動きは、一日の中でもかなり上下運動が激しい。世界情勢が安定しているときには、為替の“動き”というのは大体が安定しているもので、それほど大きく動かない。動きが激しくなってきているのは、それだけ世界情勢、及び国内情勢に“経済を動かす”何かが起こり始めた時なのだ。わたしは以前から、高市政権に関して、彼女自身の運勢が“良くない時”に首相になったことを懸念していた。当たり前の話だが、だれでも“運の良い時・悪い時”がある。通常は、運の良い時に“良い事柄”が起こって、運の良くない時に“悪い事柄”が起こるのが本来の姿だ。ところが人生には稀に“そうではない形”が生じることがある。つまり、運の良くない時に“一般的には幸運な出来事”が生じることがあるのだ。本人も、周りも“大いに悦ぶ”のだが、それが“不幸の始まり”だったりする場合がある。高市早苗氏は、あまり“幸運ではない時”に首相となった。実力で“掴み取った”と言ってもいい。けれども、だからと言って、その“本来の運勢”が変わったわけではない。だから“良くない出来事”がじわじわと迫る。今の高市政権を悩ますものは、一つに“中国との関係”であり、もう一つは“為替の問題”だ。後の為替の方は一気にではなく、じわじわと来る。したがって、どうしても“遅れ”を取りやすい。気付いた時には「手の施しようもない」ような状態まで進んで行きやすいのだ。為替の動きというのは、実は徐々に徐々に動く分には、それほど経済的打撃は起こらない。ところが或る時を境として“一気に動き出す”時には、各方面にさまざまな影響が生じる。庶民レベルにおいてのいちばんは“輸入物価の高騰”だ。つまりインフレが進みやすい。それも一気に進みやすい。実は“ドル円相場”よりも“ユーロ円相場”の方が歯止めが掛かりにくい。したがって、こと“ユーロ円”に関しては制御するのが難しい。現在は1ユーロ=181円75銭前後だが、もしかすると今後190円くらいまで進んでしまう可能性はある。ドル円の方は現在1ドル=157円50銭前後だが、もしかすると今後164円くらいまで一気に進んでしまう可能性はある。食料品で“欧米輸入のもの”がもっともその影響を受ける。抑制するのに一番効果的なのは日銀が「利上げをする」ことだ。それはそうなのだが、今すぐは難しい。そこを海外のファンドやFXトレーダーたちに狙われると、少し早すぎる段階で“円の急落現象”が起こり始めるかもしれない。

110㌔18金製トイレの作品名称は「アメリカ」⁉

2025-11-20
現代美術というのはどうも判りにくい。重さ110㌔で“18金製のトイレ”見たさに多数の客が集まる。防犯上の関係から、このトイレに触れることはできない。もちろん使用することはできない。なにしろ形状は“トイレそのもの”だが現代美術の作品で著名な(と言っても私は初耳だが…)カテランの「アメリカ」という作品なのだ。たぶん、見物にやって来るほとんどの人達は、彼の芸術性の高さを視ようとするのではなく、18金製に輝くトイレの神々しさに「一目逢いたくて」やって来るのだ。それにしても、どうしてこのトイレが「アメリカ」なのか。或る種の皮肉が込められているのかもしれないが、現代美術の素晴しさというのは、今ひとつ解からない。それに比べれば、同じニューヨークの展示会場オークションで史上二番目の価格で落札されたクリムトの作品「エリザベート・レデーラーの肖像」の方がはるかに芸術的である。クリムトの作品と言えば「接吻」とか「抱擁」とか「生命の樹」とかが有名で、正直、この肖像名の絵は知らないが、日本円で370億円で落札された。改めて、その肖像画を観ると、極めて具象的に描かれていて、クッキリとした顔立ちの美人画像だ。実はこの女性は、当時のクリムトのパトロンだった人物の娘を描いたものらしい。クリムトにしては“ふつうに描いている”のは、パトロンか娘本人からの要求に従ったからだろう。クリムトらしさと言えば、背景として組み込んだ“小さな人物”たちが東洋系の人種であること(もしかすると“日本人”を描いたつもり)かもしれない。他の肖像画では多くの場合、金色の丸や四角の幾何学図形として描いている部分だ。クリムトのような画家でも、パトロンからの要求には黙ってしたがう。なんとなく、その結果として生れた絵画が370億円で落札されたことに暗然たるものを覚える。ゴッホの「ひまわり」も、彼が精神を病みだしたころの作品、だれからも認められず、売れてもいなかったころの作品が、現代のオークションでは何十億円にもなった。どういう状態からであれ、命ある作品はひっそり生き延びていく。

映像の世紀に「中国のアジア局長」礼儀知らず姿

2025-11-19
わたしが数日前に懸念していたことが現実になりつつある。「日本」と「中国」との関係だ。高市氏の発言に対して、プライドの塊なのか習近平氏は“威圧感”剥き出しの発言を繰り返している。この人は世の中を“平和的に治める”という「世界のリーダー」としての意識が根本的に欠落しているのか。その習氏の意向を受けて中国のアジア局長が日本のアジア局長である金井正彰氏と“二国間協議”を行った。高市首相の“発言撤回”を要求する中国に対して、日本側は「出来ない」旨の返答をし、結局、協議は“物別れ”に終わった。もちろん、実際の協議内容の映像はないが、その直前と、直後の映像は撮られている。その二人の姿は実に対照的で、中国側の局長は両手をズボンのポケットに突っ込み、日本側の局長はやや俯きがちで相対している。昨年、上海に居る日本の小学生児童が、登校途中で中国人の男から無差別に襲われ、命を失った。襲う対象として“日本人児童”であればだれでも良かった…ようだ。意味なく児童の命を奪われるような事件が起こっても「日本」は「中国」に対して激しく抗議はしたが、今回のような“外交上の無礼な態度”はとっていない。今回の映像は世界に配信されるので、その無礼な態度や横柄な物言いは、世界の人々が“国際人としての中国人”を判断する、一つの目安にはなるだろう。しかも、今回の問題が起こる半月前、日中の両首脳は逢って初会談を行っている。その時には二人で“握手する姿”もあり、少なくとも、周氏の態度は“慇懃無礼”ではない。だから世界に映像配信する時には、この時の映像とセットで“局長同士の映像”を流すと良いのだ。そうすれば、いかに「中国」が矛盾した対応を採っているか、あっという間に“豹変してしまった”のかが世界に流れ、その両国の違いを「世界」の国々が理解することになるだろう。もちろん“資源を持たない島国”である「日本」は世界各国を敵に回すわけにはゆかない。特に経済的な面では「中国」との関係は極めて重要だ。或る程度の妥協線を見つけながら、高市首相は「新しい日本」を「威圧に負けない日本」の強い姿を、多少時間をかけてでも「中国」だけではなく「世界」に理解させていく努力を重ねなければならないだろう。 « Older Entries