1月, 2026年
2026-01-19
3年前にドバイに移住したモデルで実業家のMALIA氏(42歳)が週刊誌からのインタビューの中で、自分のフォロアーなどから、これまでの経験を活かす形での「離婚相談」を受けることが多いと述べている。確かに、この人はこれまで4度の結婚と離婚を経験している。そういう経験者は滅多にいない。したがって、今現在、女性が「離婚しようか止まろうか」と悩む時、なんとなく彼女からのアドバイスを受けたい気持ちになるのは自然なことかもしれない。多くの女性たちの期待とは裏腹に、彼女は「悩んでいるならしない方がいい」と答えるそうだ。シングルマザーとして42歳までで4人の子供を育て、そして今は“2人の孫”までいる彼女だが、離婚を勧めることはないそうだ。彼女に言わせると、もし本当にどうしても離婚したいなら、相談などせず離婚する。人に相談するということは迷いがあるからで、これは“占い相談”などに訪れる女性たちの多くも共通している。MALIA氏はモデルとして活躍しているだけでなく、ブラジリアンワックスサロンの経営者としての横顔も持っている。もう、その事業を始めて13年にもなる。だから、ただ単に結婚と離婚を繰り返しただけではなくて、仕事や経済の面でも紆余曲折があり、さまざまな体験をしてきている。ドバイに移住したからと言って、何もかもドバイが良いではなく、日本の良い部分も沢山再発見したという。そういう彼女が「離婚をしようか止まろうか」悩んでいるなら、出来ればしない方がいい…と考える。もし、彼女がただ単にモデルとか女優とかの暮らししか知らないのであれば、そのような発言にはならなかったかもしれない。けれども、彼女は“4人の子を持つ母親”としての顔も持っている。事業の経営者としての顔も持っている。一時の感情だけで動くことが、どれほど後悔を招くか、体験的に把握しているのだ。運命学の観点から観ても、強運の彼女にしても「迷うなら、悩むなら、いま決断すべきではない」という四度の経験からのアドバイスは、多くの女性たちの胸に響くところが大きいよう、わたしには感じられる。
2026-01-18
大学共通テストの「世界史」で大ヒットした池田理代子氏の漫画「ベルサイユのばら」が出て来たということで話題となっている。確かに少女漫画には、時々“歴史”を扱った興味深い物語が描かれる。そういうものの一つが池田氏の「ベルサイユのばら」だ。フランス革命を扱ったスケールの大きい漫画で、1972年に連載された作品なのだが、未だに生きて蘇える。昔は、漫画と言えば“その時代”の子供達に愛される“一時的なヒーロー”のように思えたが、そうではなかったようだ。1972年と言えば、今から53年前である。そんな大昔の少女雑誌の連載が50年以上経った令和時代の学生試験に登場する。或る意味で池田理代子という人は驚くべき“先見の明”の持ち主だということになる。いや、もっと言えば、そのフランス革命時代を生きた主人公のオスカルそのものが“素晴らしい生命力の持ち主”であったともいえる。男性支配の時代に“男装の令嬢”が革命戦士たちを率いたのだ。そういう特異な時代でなければ漫画家も扱わなかったはずだ。ときどき、このような形で、大昔の人物が“時代を超えて”出現して脚光を浴びる。時代を超えても“生き続ける人物”がいて、また、そういう“眠れる人物”をどこからか見つけ出し何らかの形で“蘇らせようとする人物”もいる。特に、いまの「日本」は“卑弥呼の時代”のように“女性がトップ”に変わった時代でもある。それまで「日本=ヤマト」の国家は戦乱続きで、なかなか統一が取れなかった。ところが呪術を操る卑弥呼が登場したことで各地の戦乱が収まり、統一が出来たといわれる。ただ卑弥呼が亡くなると、ふたたび“混沌とした時代”が訪れてしまったようだ。学問の中で「歴史」というのは過去の出来事で、それを学んでも実際にはあまり役に立たないような気がしてしまいがちだが、そうではない。われわれは過去の出来事から、今後の在り方を学ぶのだ。過去に生きていた人物から、未来のお手本を学ぶのだ。過去に苦汁をなめた人たちの記録から、自分の場合には「どうすれば良いのか」を学ぶのだ。歴史は「後ろ向きの予言者」なのだ。
2026-01-17
さまざまな経営者を紹介しながら、その経営の核心部分に迫る「カンブリア宮殿」が放送開始から20年になるそうだ。その20年を記念して、これまでMCとして番組を引っ張ってきた作家の村上龍氏と女優の小池栄子氏に変わって、今度は作家の金原ひとみ氏と音楽クリエイターのヒャダイン氏が新MCとして抜擢された。この番組は、数年前までは村上龍氏の“色合い”が強く、それが興味深い内容を引き出していたような気がするが、近年は“その部分”が乏しくなって、むしろ小池栄子氏の方がリードする番組へと変わっていた。したがって村上龍氏から気鋭の金原ひとみ氏にバトンタッチされたのは当然のような気がする。どちらも芥川賞作家で、その受賞時には何かと注目を浴びた二人だ。村上龍氏が「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞した時、わたしも小説を書き始めた頃で、それだけに「この小説のいったいどこが良いんだろう」と思ったことを忘れない。けれども、彼はあっという間に文壇の寵児となった。それに比べて、わたしはただ単に仲間達と“文芸同人誌”を出していたに過ぎない。そこで「牙なき野獣」という小説を書いたが、もちろん、何の評価も得られなかった。時は流れて、金原ひとみ氏が出現した時には、わたしは「占星学秘密教本」など占いの本は出していたが、もう小説は書いていなかった。ただ文学が判る友人と飲んだとき「ああいうタイトルを付けられるのは才能ある証拠だよ」といった思い出がある。金原氏の「蛇にピアス」という小説の題名は、久々に“大きな才能”を私に感じさせたのだ。ところが後になって「あのタイトルは編集者が付けた」と知って、肩透かしを食らった感じとなった。当時の作品は“未成熟”なところがあったが、冷静に考えれば、その未成熟な作品内容とタイトルの“成熟さ”とは微妙に遊離していた。あの作品は、あのタイトルが付けられていたことで一気に注目度が高まったのだ。そういう意味では編集者のお手柄だった。ただ金原氏の方も、村上氏と同じように“時代の寵児”として、その後もさまざまな注目作を世に送り出していった。彼女の場合には、その私生活がそのまま作品に活かされるような部分もあって、時代と葛藤する女性たちの共感を得ていったのだった。その金原氏が令和の経営者たちと対峙する。なかなかに興味深いが、もしかすると今回も、番組のプロデューサーとかディレクターとかの影の人物が、彼女に“最初から答えを用意する”などということが無いよう願っている。われわれは彼女の目線での話が聴きたいのだ。
2026-01-16
突然の高市総理“解散宣言”で揺れる各党だが、その中で、もっとも素早く反応したのは立憲民主党と公明党で、なぜか急接近して“新党を立ち上げる”ことで合意してしまった。これに対して、もっとも強く反発しているのが立憲民主党の原口一博氏だ。「誰がそんな新党に加わるか」とまで嫌悪感をあらわにしている。確かに、これまで与党の自民党と一体化していた公明党が、今度は野党の立憲民主党と“一体化する”というのだから、世間一般にとっても、その変身ぶりには唖然とさせられる。ただ観ようによっては、支持者の多くが離れてしまった立憲民主党にとっても、池田大作氏という屋台骨を喪って“流浪の民”となった創価学会員たちを引き止めたい公明党にとっても、二つの党が一体化して、それぞれの思想は違えど「低所得者層の声を届けよう」とする考えも理解できないことはない。ただ政治思想とか信念とかを重んずる関係者からすれば「票集めのためだけに一体化する」ことを“許せない”と感じるのも、解からないではない。つまり、双方ともに“それぞれの想い”があるのであれば、ここは思い切って“新党拒絶派”は、もう一つの新党ともいうべき「原口新党」をぶち上げれば良い。この人は、個人として多くの支持者を持っている。おそらく、立憲民主党の中にも彼に賛同する人たちが十数名くらいは居るのではないだろうか。そうであれば、この機に新党を立ち上げた方が良い。そうでなければ、一時的に引き下がったとしても、必ず後から揉めることになる。むしろ、原口新党にして、これまでよりも“原口色”を強めて、これまでの立憲民主党とも多少“色合いを変えて”勝負に出るのが良い。そうすれば、大きな勢力にはなれないが、それなりの同志たちを得て、これまでよりも自由な発言が出来るようになるのではないだろうか。考えてみれば、元々いまの立憲民主党の党首だって、自民党の議員というか、総理大臣だった人物なのだ。だから、自民党が公明党と一体化するのは“昔に戻った形”とも言える。そうだとするなら、或る意味で純粋な立憲民主党の原口氏が新たな「原口新党」で、これまで以上に独自色を出した方が支持者たちはついて来てくれる。立民と公明の新党になど合流せず、真正面からそれを批判し続けて「我が道を行く」新党結成こそ“原口一博の生きる道”なのだ。
2026-01-15
今年で“デビュー50周年”を迎えるという女優の浅野ゆう子氏が2017年に結婚した一つ年下の夫とハワイや日光東照宮などに行ったときのスナップをSNS上に投稿。仲睦まじいプライベートの様子を公開、それを観た人たちから“声援的なコメント”が相次いでいるようだ。こういう部分にも“新しい時代”を感じる。昔は「熟年婚」特に“ワケあり熟年婚”に対して、世間は“冷たい視線”を投げかけていたような記憶がある。けれども、現代(令和の時代)はむしろ“そういう人達”に世間は優しい。浅野ゆう子氏は“57歳で初婚”ということになっているが、実際には長く“事実婚”状態で過ごしていた男性がいた。けれども、その男性が急死したことで、彼女自身は“生涯独身”という気持ちで居たようだ。ところが運命というのは解らないもので、結局、その三年後に結婚している。わたしは大昔に、何かの映像で浅野氏の手指がアップする場面があって、その小指が極端に短いことに注目した。現代だと田中みな実氏もそうなのだが、極端に短い小指の持ち主は、わたしの経験では大体が結婚運が良くない。昔は、短い小指は“子供運が良くない”と手相書には載っていたが、実際には子供運の前に“結婚運が良くない”ケースの方が圧倒的に多い。ただ浅野氏の場合、戸籍は入っていなくても事実婚として暮らしていた男性とは死別している。これが結果的には“厄払い”的な形で作用したのだ。だから小指が極端に短くても“ワケあり熟年婚”であれば上手く行く可能性がある。手相だけではないが、運命学上の徴というのは、本人の“自覚する暮らし”に基づくもので、履歴上の暮らしではない。だから本人の中で“結婚と同様の意識”で暮らしていた場合には、それが“結婚生活”ということになる。これは仕事などでも同様で、履歴上は“趣味”の分類でも、本人の中で“自分の仕事”という意識が強ければ、それは運命学的には「仕事」の分類になる。現代は、あらゆるものが“履歴”よりも“実質”の方を重視していく傾向にある。その結果として、結婚なども“入籍”としての事実がなかったとしても、事実婚状態であれば「そういうふうに見なされる」ケースが多くなった。これからの時代は、さまざまな意味で“ワケあり”カップルが増えていくような気がするので、世間一般が優しい目で“そういう人達”を見守ることが出来るなら、もっと暮らしやすい令和時代になって行くような気がする。
2026-01-14
日本を訪問中の韓国の李在明大統領が「日中韓3か国が最大限に共通点を見出し協力していく必要がある」と発言したようだ。もちろん“日中間”に亀裂が生じていることを意識しての発言だ。韓国の大統領と言えば、これまでは「日本」を“敵視した発言”が多い印象がある。時には「中国」に“右習え”したような発言も多かった。けれども、この大統領は明らかに、そのどちらとも“協力し合おう”という姿勢が鮮明である。数日前には「中国」で習近平氏とも会談した。その時にも、どちらにも肩入れすることはなく“喧嘩には加わらない”姿勢を鮮明にしていた。歴史的に観ると「韓国」というのは、これまで世界的な視点から見れば「日本」や「中国」に、やや見劣りがする存在…として世界から評価されてきた。あらゆる部分において、韓国が“抜きんでている”部分はなかった。それが、ここに来て徐々にそうではなくなりつつある。韓国は“21世紀のコメ”とも言われる“半導体の分野”においては「日本」にも「中国」にも劣っていない。もしかすると両国よりも“潜在能力”は大きいかもしれないのだ。そして、それ以上に今の韓国に自信を与えているのは、文化・芸能面にある。今の韓国は、世界のポップ音楽、TVドラマ、韓流スターによって世界を席巻しつつある。国家主導で「韓国」を世界に売り込み、国家予算を注ぎ込んで“ブームを巻き起こすこと”に或る程度は成功した。もっとも、最近は、それらにも多少の翳りが見え始めてはいる。だからこそ李大統領は自国だけで突っ走るのではなく「アジアの覇者である日中韓3か国で協力し合おう」と言っているのだ。そうすれば、経済・技術でも、文化・芸能でも、そして政治世界でも欧米やロシアやアラブのどの強国にも負けず、世界をリードする連合国家が作れるのではないかーという呼びかけをしているように、わたしには視える。実際、アメリカを組むよりも、ほんとうは日本や中国と組む方が、さまざまな面で利点が多い。日本にしても、中国にしても、そうではないか……と促しているようにも視える。もしも、この李大統領の無言の“呼びかけ”が徐々に明確なものとなって、3か国間で共有するようになれば、ひょっとすると数年後、或いは十数年後には世界の同盟国連合が変わって“日・中・韓の三カ国連合”が誕生して、世界のさまざまな“枠組の構図”が塗り替えられていく可能性も秘めているのだ。
2026-01-13
毎年のことだが、ニュース報道などで「成人式」の様子が流れるたびに、わたしは“大昔のイベント”のことを想い出す。あれはまだ20代の頃で、占いイベントに狩り出されたのも二度目くらいの時だった。当時のわたしは、まだ占い師としてセミプロだったが、その占い知識や技術では“だれにも負けない”くらいの自信を持っていた。その日のイベントは開催者に言われるまま、成人式会場のすぐそばのビル2階だったような気がするが明確には憶えていない。とにかく関係者が“呼び込み”をしてくれるというので、そういう意味では気楽な気持ちで引き受けた。ところが昼12時から始めたのだが、まったく客が来ない。確か「チラシも入れてあるので来るとは思うのですが…」関係者は私に気を遣った。別に人気占い師でもない私に客が殺到するはずもない。それに、出演のギャラは最初から決まっていて、客が来ようが来なかろうが時間さえ居れば貰えることになっている。だから、わたしは別に焦っていなかった。まあ、暇を持て余すので退屈だが、雑誌でも読んでいれば良い。ただ「成人式の日」は寒い。北国のイベントの中で、もっとも寒い日のような気がする。だから、わたしの担当者としてついている方は気を遣って暖かいものなど持ってきてくれる。そうこうしている内に午後3時となった。一人のお客さんも来ないのはさすがに私としてもバツが悪い。この日は成人式に参加した人だけに「無料で占いを見てもらえる」という触れ込みだった。だから成人式に参加しない人は客になれない。よく、こういう時には関係者とか担当者とかが「お客さんが来るまで視てもらって良いですか」などと言うことがあるのだが、それも出来ない。と、一組の男女のカップルがやってきた。わたしは初めてのお客さんなので、熱を入れて観たような気がする。ほんとうは10分以内なのだが、まあお客さんも来ないので少し長めに……などと思っていた。ところが、その客を占っている内にどんどん客が並び始めたのだ。どうしてなのかわからないが、とにかくどんどん並ぶ。とうとうその入り口から食み出る人まで出て来てしまった。わたしには訳が分からなかった。あまりに並ぶので、どんどん占い時間が短くなり、後半はひとり3分くらいにまで縮小した。一応、午後6時で終了なのだが、並んでいたお客さんを返すわけにもゆかず、最終的には一時間延長してイベントを終わった。時間を短縮するために、途中からはほとんど手相一本やりで鑑定した。人間は20歳を迎えて、自らの掌に刻まれる「未来」に無関心を装っても、本能的には“そこ”に未来があると感じているのかもしれない。
2026-01-12
わたしが「ヒューマノイド」という言葉を知ったのは、実はもう50年近い昔のTVの中でだ。その時、わたしは「エイトマン」というアニメが好きで、それをいつも観ていた。その「エイトマン」の中で「ヒューマノイド」が登場していたのだ。わたしの記憶は多少混乱しているかもしれないが、もし記憶通りだと、ヒューマノイドは“危険な存在”で、或る種「宇宙人」のような形、或いは「ロボット」のような形として出て来た気がする。もしかしたら違っていたかもしれないが、とにかく「ヒューマノイド(人のようなもの)」という存在自体が近未来には出現して来る……という話の組み立てになっていて記憶の片隅に残ったのだ。したがって、わたしにとって原作者の桑田次郎氏は「未来を予測する凄い漫画家」として記憶に残っている。ただ、それからは「ヒューマノイド」という言葉自体、まったく聴くことがなくなった。そして、わたしの記憶からも徐々に失われ始めていた。それが、ここ数年AIが脚光を浴びていく中で、再び「ヒューマノイド」の言葉が飛び交うようになった。AIこそ“ヒューマノイドへの道”だというのだ。わたしには「エイトマン」の復活・復元のような言葉にも聴こえる。自分自身が“そういう時代”まで生きているとは思わなかっただけに、時代の変化の速さに驚く。そういえば、最近、わたしは自分から“AIを使う”気持ちにはなれないのだが、そう思っていなくても、パソコンやTVなどの中にAIが組み込まれてあるせいか、時々、勝手にAIの方から“私の好みそうなもの”とか“必要としているもの”とか“役立ちそうなもの”とかを教えようとしてくる。別に何も頼んではいないのに、まるで秘書とかマネージャーとか使用人のように気遣いが巧みなのだ。わたしのように、あまり“人使い”に慣れていない者にとって、そういう配慮ある動きや言葉は、逢えって煩わしく怖いのだが、AIは容赦しない。どうも、一見気を遣っているようだが、或る意味では“煩わしい存在”でもあり、黙って寄ってくる“不気味な存在”でもある。いまはまだ“形を伴っていない”から良いものの、今後、文字通り形を伴ってヒューマノイドとして世間にはびこり出したなら、正直、わたしは何となく好きになれないような“そんな気がする”のだが、果たして私だけの杞憂なのだろうか。
2026-01-11
ものまねタレントのコロッケ氏が芸能生活45周年だそうで、明治座で1月10日から「松平健×コロッケ 45周年特別公演」を行っている。コロッケ氏自身いわく「番組レギュラーもなく、ヒット曲もなく、ものまねだけでここまで来た」というように、確かに言われてみれば、その通りであることに驚く。どうしてこんなに持ったのか……わたしが思うに、彼のものまねには“リアルさの追求”と“デフォルメの追求”と、その両方のバランスが心地良いために、多くの人を惹きつけたのだと思う。「リアル」とは文字通り有名人の“そっくり”を演じることで、彼の場合には歌手のモノマネ、歌マネが多い。ただ“そっくり”だけで45年を持たすのは難しい。それで、どうしたのかといえば「デフォルメ」をしたのだ。「デフォルメ」とは主に絵画作品とか漫画などで使われる手法で、強調、誇張、変容して描くこと……一般的には“極端にオーバーに描く”手法を用いられることが多い。このデフォルメを“ものまね”に取り入れたのだ。それまでは「いかにそっくり似せるか」に芸人たちは必死だった。けれども彼は、もちろん“似せる”のだが、それだけではエンターテイメントとして不足だと感じたのだろう。極端に誇張するようになった。それを取り入れることで、お笑い芸人として“多くの客”を取り込むことに成功したのだ。確かに、似ているだけなら、そんなに大金を払おうとは思わないが、それにプラスした芸によって“笑わせてくれる”“楽しませてくれる”となった時、人はそれに大金を払うのだ。もっとも、このデフォルメは“匙加減”がとても重要で、これが強すぎると、本人に対しての嫌みに感じられ、なんとなく笑えなくなる。だから、その限度がとても大切で、これを心得ている限り“超一流芸人”で居られるのだ。一時期、コロッケ氏はこの限界を忘れてデフォルメがきつくなった。というか最初から最後まで“デフォルメだらけ”になっていた時期がある。そうすると“お笑いファン”は残っても、歌好きなファンは微妙に離れていく。あまりにもデフォルメばかりだと、その歌手に対する“或る種イジメ”にも似て来るからだ。若手芸人の中には、この部分を忘れて“極端なデフォルメ”に固執する者たちもいる。あくまでも“ものまね”なのだから、まずはリアルさが完成されて初めてデフォルメが生きて来る。リアルさが完成されていないのに、デフォルメだけで突っ走ると、なんとなく観ていてスッキリとせず、やがては飽きてしまうものなのだ。
2026-01-10
今日午後から明日、明後日と日本海側に“自然災害”が迫っている。猛烈な雪と強風が襲ってくる可能性が強いのだ。わたしは以前から、日本列島は“1月に弱い”と思っている。特に日本海側が弱い。「大雪」「強風」「厳寒」「氷結」「地震」など、過去にも自然災害に襲われることが多かった。一方、太平洋側は安全かというと、それがそうでもないのだ。山梨県の上野原市では山火事が発生し、今もって鎮火のめどが立たない。しかも、その火元は神社であったようだ。つまり“神が放った火”ということで、こういう場合の火には“何らかの警告”的な意味があって、そう簡単には鎮火出来ない。現在76世帯143人に“避難指示”が出ているというが、住宅まで達しないことを神に“願う”しかない。日本列島は奇妙にも昔から、正月に“何かが始まる”のが通常で、そういう年には「日本列島」全体に変動が多い。そういえば今年の干支は「丙午」で文字通り「八百屋お七」伝説では「江戸じゅうを火の海にした」とされるが、こと“火の禍”には要注意の年ともいえる。もっとも、それはあくまで「日本」に関してであって各個人に関しては「丙午だから災厄の女児が生まれる」などと言うことはない。なぜか未だに迷信がはびこっていて、丙午年は“出生数”が極端に少なくなりがちなものだが、実際には「丙午」日の女児でもない限り“災厄の女児”になどならない。歌舞伎や浄瑠璃など、日本伝統の芸能にはその種の“伝承・伝説・大事件”などを取り入れたものが多い。江戸時代はどちらかといえば、世の中が平和で経済的にも恵まれ、日本特有の各種の芸術、芸能、文化が大いに栄えた時代だった。「占い」も大いに栄えた時期で、占いというのは“不安な世相”の時にも栄えるものだが、それよりももっと栄えるのは経済的に恵まれ“平穏な世の中の時”なのだ。人はそういう時に“未来に対して夢を描く”からなのだろう。だから今年も、そういう感じで多くの人が経済的にも恵まれ“平穏な世の中”になることで、文化としての「占い世界」がもてはやされるようになるのがほんとうは相応しい。なぜなら、それは世の中が平穏で経済的にも豊かになりつつある兆しといえるからだ。実需での占いよりも“夢を追っての占い”がはびこる方が、本当は“庶民の財産”となり得るのだ。
2026-01-09
元フリーアナであった山本モナ氏が昨年「司法試験」に合格し、来年以降、実際の裁判所で弁護士として活動することを誓っている。46歳から司法試験の勉強を始めて3年間で念願の合格を果たした。主婦業や子育てをしながら勉強に打ち込んで、念願の資格取得に至ったのだから、その努力と信念の強さはすさまじいものがある。通常、現役学生でもなかなか合格できない司法試験だが、それを46歳から始めて3年間で取得したのだから、何かの目標を持っている方は、大いに参考にすべき部分があるはずだ。そういう観点から彼女の生き方を観ると、いくつかのポイントがあることに気が付く。その第一は、だれにも相談しなかった…ということ。これは或る程度の年齢になってから、或る種の目的で、その資格なり技術なりを習得しようとした場合、なかなか出来ることではない。人間、想うことは誰でもできるから、或る程度の年齢になって「コレコレを始めよう」と決意することは往々にしてある。ただ余程の自信がない限り、それを一応だれかに相談して、そののち本格的に決断するケースが多い。ただ46歳くらいになってしまうと、周りが必ずしも賛成してくれるとは限らない。反対されると、或いは心配されると、それまでの決意が揺らぐ。だから彼女は誰にも相談しなかったようだ。次に彼女の見事なところは、退路を断った…ということ。彼女はアナウンサーという舞台には「二度と立たない」と決意したようだ。コメンテーターという立場でさえ受けない、と決意したようだ。この引き際が素晴らしい。彼女ほどのネームバリューがあれば、通常は逆に“コメンテーター的な立ち位置”が欲しいから司法試験を受けてみる…などと思いがちなものだ。それを最初から棄ててかかって、もう「表舞台には立たない」と決めて司法試験に挑んだという部分が素晴らしい。人は往々にして“その部分”を棄てることが出来ない。その部分は“失敗した場合の命綱”として取って置きたいものだ。けれども彼女は潔く“それ”を棄てたのだ。実際、フリーアナウンサーを辞めている。そして、子育てに対しても、極力、自分の役割を封印するような形で毎日、猛勉強に宛てたようだ。その結果として、とうとう目標であった試験を突破できたのだ。或る程度の年齢に至って、新たな世界に挑む人たちには、大いに学ぶべき点がある“生き方”のように思える。
2026-01-08
だれでも“自分に課せられた業(役割)”が何なのか、自分に問い続ける時期がある。何度も転職を繰り返したり、さまざまな資格や技術を習得したり、精神世界に問いかけたり……彷徨い続けている人は多い。わたしは知らなかったが、元ドリフターズ加藤茶氏の妻でタレントでもある加藤綾菜氏が、いまは自分の中学生時代の体験をもとに、自らのラジオ番組で“イジメを受けている子供たち”へのエールを与えているようだ。わたしは以前、何かの番組でこの人を見て「もがいているな」と思ったことがある。夫の名を通じてタレントになったは良いが、自らが何を“売り”にタレント活動をして良いか、迷っているようにしか視えなかった。或る意味では年齢差が大きい“加藤茶の妻”というだけでも“それなりの商品価値”はあるが、いつまでも“それ”だけでは続かず、たぶん本人は自分の“立ち位置”にも納得がゆかず、自らの存在価値に戸惑っているように思えた。ところが、いつの間にか彼女は“自分の立ち位置”を確保していた。つまり、自らの中学生時代、壮絶なイジメ体験を得ていて、それによって“同じような子供達”にエールを送ることが、自分の存在意義なのだ…と気付いたようである。ただ単に「加藤茶の妻」であった時よりも、いまの方が何倍も魅力的で輝いている。自分の“歩むべき道”を見出したからなのだ。自分の過去の壮絶なイジメ体験を語ることは、これまでの「加藤茶の妻」としての立ち位置を棄ててかかるところから始めなければならない。したがってかなり“勇気のいること”だったに違いない。けれども、それを正直に語り、自分の過去を曝け出すことで、彼女はタレントとして蘇生したのだ。多くの子供たちは「加藤茶の妻」としてではなく、自分と同じような“壮絶なイジメ体験を持つ人”として親近感を持ち、また“勇気を与えてくれる人”として支持するように変わりつつある。彼女自身も、意図して“そっち”へと向かったのではなく、たまたまリスナーとして“そういう子供達”が多かったから、素直に過去を語ることが出来たに違いない。自分自身が“封印しておきたかった過去”が、時に誰かの役に立つこともある。生きる勇気を与えることもある。人は誰でも弱く、そして脆い存在なのだ。
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