8月, 2007年

記憶がよみがえる声と文字

2007-08-19

職業上でも、私生活でも、懐かしい声と云うのがある。忘れられない文字と云うのがある。

世の中にこんなにも多くの人たちがいて、次々と新たな人たちと知り合っても、決して記憶から去らない声がある。見た瞬間に懐かしさを感じる文字がある。しかも、名前など名乗らなくても、一瞬で分かる。文面を見ただけで、瞬間的に名が浮かぶ。

決して超能力者でも、記憶力の良い方でもないのに、なぜ、懐かしい声や文字だけは、すぐ判るのだろう。しかも、何年も、時として何十年も経っているのに、元気なのか、幸せなのか、困っているのか、悩んでいるのか、一瞬で解かってしまうのだろう。特に、声と云うのは、たとえ隠していても、相手の今現在の状況が、まるでビックリ箱から飛び出てくるように、話す前から解かってしまう。

もしかしたら、私は占い師なんじゃないか。と思うほど(まあ、実際占い師と云う職業だけど…)手に取るように解かるのだ。

もちろん、それは私が占い師だからなどではけっしてない。誰もが、不思議に解かること、感じること、よほど鈍感な人でなければ、解かって当然なことのように思う。しかも、多くの場合、その電話、ハガキ・封筒が来る前に、何んとなくその人のことを思ったりする。なぜだか解からないが、その人を思い出したり、ふと気になったりする。

懐かしい電話は、一瞬で空白だった何ヶ月とか、何年とか、何十年とかを縮めてくれる。占いのお客さんの場合は、とりあえずホッとするものを感じるケースが多い。悩んで電話してくることも多いが、それでも大丈夫だよと云って、迎え入れたい仲間感覚があふれてくる。人相上では眉毛の毛が長いのは、人情家の相とされているが、このところ年のせいもあるのだろうが、ますます眉毛が長くなってきて、そのうち元首相の村山さんのようにならないか心配である。そう云えば私の父親も眉毛は長かった。特に異様なほど長い毛が2、3本生えていて長寿の相でもあったのだが、おせっかいな床屋が短く整え出して、偶然かもしれないがそれから間もなく、親父は死んだ。

とにかく、懐かしい声は良い。懐かしい文字も良い。懐かしい文字は、最近メールが流行ったせいでだんだんお目に掛かれなくなっている。それに、個性のある文字を書ける人が少なくなった。文章も含めて、その人を一瞬で蘇らせてくれるのは、手指で書かれた文字なのだ。最近、作詞家の阿久悠さんが亡くなり、作家の小田実さんが亡くなった。二人とも、その文字も文章も個性に満ちていた。社会や時代と真正面から向かい合っている息遣いが感じられた。一目見てわかる文字の時代は、もう来ない。

30代の処女・童貞増加と結婚の縁

2007-08-08

雑誌の或るデータ記事に、私の目が止まった。意外な数字を見て、驚きを隠せないと同時に、なるほどと妙に頷く部分もあったからだ。

普段、比較的30代の男女から恋愛・結婚に関して相談を受ける機会の多い私は、そのデータ記事が示唆する未来を考え、占いと云うものをもっと別な形で活用すべき時代に入ってきたような気がしたのだ。

それは「人口問題研究所」と云う公的機関が調査したデータなので、多分信用できるのだろうが、近年、未婚者の処女や童貞の比率が高まっていると云うのだ。調査対象は30歳~34歳の独身男女で、20年前から年を追うごとの比較が公開されている。

たとえば2005年のデータでは、30代独身女性の26.7%が処女であり、同じく独身男性の24.3%が童貞であると云う。女性に関しては必ずしも処女率が増加しているわけではないが、男性の方は微妙に増加傾向にある。その結果として男女共あまり差のない比率となってきている。

これを1992年と比較すると、その当時男性の童貞率は22.7%、女性の処女率は40.9%なので、明らかに男女差があった。わかりやすく言えば、その当時は独身女性10人のうち4人は処女だったのに対し、男性は10人のうち2人しか童貞ではなかった。それが現在では、どちらも4人に1人の割で処女・童貞が存在し、考えようによっては4組に1組の30代新婚カップルが、処女・童貞のまま初夜を迎えることができる(?)時代になったと云える。

これをどう捉えるかは難しいところだが、少なくともことセックスにおいては、ある意味で男女平等の時代がやってきた、と云えるだろう。多分、1992年以降において、日本女性の貞操観念はやや薄れ、その代わりのように男性の方の性衝動が薄れていったのかもしれない。なぜなら男性の場合、性風俗でもセックス処理は出来るのだから、本当に性衝動が強ければ、そういう場を借りてでも性体験は出来る。にもかかわらず女性と同じような比率となっていることは注目すべき事実であろう。

そういう点を考慮するなら、むしろこのデータは、女性の貞操観念が薄れたと云うよりも、積極的に性体験を試みようとする未婚女性が増えたと云うべきなのかもしれない。それと同時に、未婚であっても、既婚者と同じようにセックスライフを謳歌しようとする意識の表れとも云えるだろう。

しかし、その一方で30代未婚男女のうち、4人に1人は、その後も初体験のチャンスを得られない可能性が強いことをも浮き彫りにしている。ある程度の年齢になってしまうと、本格的な恋愛か、結婚でもしない限り、セックスに対して臆病になる。特に女性は年齢とともに体形が崩れてきたり、自分の裸と云うものに自信がなくなってくるので、余計セックスに対し消極的になる。と同時に、奇妙なことに年齢が進むにつれて男性への警戒心も強まっていく。加えて精神的にも、本格的な恋愛がなかなかできない。「セックス」や「結婚」が足かせになって、恋愛対象として男性と純粋に向き合うことができにくいからだ。

男性の方はと云うと、ある程度の年齢になってしまうと抑制心が働き、セックス対象として身近な女性を意識することも減って、本格的な恋愛か、結婚を意識したときのみ、性衝動が生まれることになる。いや、実際には日常の中で性衝動が生じることはあるのだが、童貞ゆえの自信のなさが、積極的行動を阻むとか、慣れたオナニーで済ましてしまうことになる。

こうして30代以降の処女・童貞の確率は今後も増えていく。セックスの初体験は、十代半ばから二十代前半にかけてが圧倒的に多く、それ以降になると急激に減っていく。ところが近年、韓国ドラマなどの影響で「純愛」と云うことが再び脚光を浴び、若い人たちの間でもセックスに対して慎重な人たちが増えて来ているからだ。多分、一時期セックスが低年齢化しすぎたことへの反動も出て来ているのであろう。

先日、TVを見ていたら、中国の「一人っ子政策世代」の親子が出ていて、そういう世代の男女はなかなか結婚したがらなくなってきているそうだ。つまり、両親から溺愛され、居心地が良いからだ。当然、これは日本にも当てはまるだろう。「結婚を求めない時代」が、もうすぐそこまで来ているのだ。特に、女性が今よりもセックスライフに対して積極的になって、処女率が低下し、逆に男性側の童貞率が高まっていった場合「恋愛の出逢い」や「恋愛の相性」や「結婚の年時や有無」を教えるよりも、「処女や童貞をささげるのにふさわしい時期」とか「セックスにふさわしい相手」とか「快適なセックスライフを過ごす方法」などが、占いの研究テーマとして求められる時代へと進んでいくのかもしれない。

もっとも、幸福な結婚を追い求めながら、それを実現できないでいる男女の多くは、セックスよりも精神的な安らぎを、第一に相手を択び続けていることは間違いがない。たとえ時代がすすみ、処女や童貞の比率に変化があったとしても、占いが必要とされる第一の要素はどこまでも「こころ」なのだ。

「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」の神秘

2007-08-03

台北へ行って買ってきた土産の一つに「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」がある。もちろん、このように書いても、何のことなのか判るような人は多分いないと思う。実は、これはCDのことで、正しくは『六字大明咒』と云う名称の梵語(ぼんご=古代インドの仏教語)CDの一枚である。

その内容は、琵琶や木魚など古代楽器の演奏に合わせて「仏教円満自在組」と云うグループが30分近くも静かに歌い続けている。何を歌い続けているのかと云うと「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」と云う六文字の梵語を、ただひたすら、繰り返し歌い続けている。それだけのCDなのだ。もちろん、私は、そういう内容だと知っていて買ったのではない。日本に戻って聴いてみて、初めてそういうCDなのだ、と知ることになったのだ。そのCDを購入した店は、仏教(密教)、或いは道教関連の仏具を扱っているところで、CDショップなどではない。だから、もちろんタイトルの『六字大明咒』からしても、密教か、道教かの呪術的要素をもったCDであろうことは推察していた。ただ、まさか30分近くに亘って、ひたすら「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」を繰り返す歌唱だとは思わなかった。

このCD自体の説明書によれば、この梵語「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」は、密教で云うところの「真言」(呪術的言葉)で、心身が清められ、やがて観音菩薩と一体化していく効能があるらしい。本当のところ、私はもっと超能力的効果が期待できるものかと思っていたのだが、そういうこととは微妙に異なるようだ。ただ、最初はちょっと拍子抜けしたようなCDではあったが、何度か聴いているうち、私は妙な感覚に誘われていくのを感じ始めていた。

その感覚を、言葉で表現するのは大変難しい。何か…幼い頃…いや…もっと向こうで、耳にしたことのある音楽と歌唱であるような気がしてきたのだ。この歌を、もし言葉を知らずに聞いたのなら、日本人の耳には「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」とは聴こえない。多分「ほんまにへぇへぇほぉ」とか「どんまいべぇべぇぼぅ」とか云った風に聴こえてしまうはずだ。雰囲気的には「牛追い唄」のような感じなのだ。ゆっくりとした曲調で、何度も同じ旋律が繰り返される。ところが、これが不思議なほど心地良い。最初こそ拍子抜けして、首をひねったが、これは意外に大きな発見かもしれないと思えて来た。

まず、精神をリラックスさせる作用がある。日頃の緊張感が解けるのだ。それでいて、眠くなるわけではない。むしろ、頭脳そのものはクリアになる。何かしら、心なのか、頭脳なのか解からないが、淀んでいたものが溶け出して、澄んだ流れにでも変わっていくような不思議な清涼感がある。特に実際に声を出して「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」と繰り返すと、その作用が顕著となる。したがって、これは元々が真言であるから歌唱する必要はないわけで、たまたま退屈な旋律が符合しているだけで、要するに口に出して「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」と繰り返し牛追い唄のように唱え続ければ良い。こういうものは心の中で唱えても効能は乏しく、実際に口に出す、と云うことが何よりも大切だ。日本人の場合は、真言と云うより呪文と思えば良い。幸福な境地にいざなってくれる呪文だと思えば良い。特に苛立っているようなとき、焦っているようなとき、堕ち込んでいるようなとき、悩んでいるようなとき、辛くなっているようなとき、この言葉を口に出して、何度もゆっくりと繰り返すのが良い。あまり早口だと、効能は劣る。

こういう真言の良いところは、信仰心がなくても実際に口に出して唱え続けていれば、その成果が表れることだ。そういう意味でも、普段、あまり神仏の前にひざまづかない人にもお勧めできる。「オン・マニ・ベイ・メイ・フォン」は、間違いなくあなたを幸福な境地にいざなう魔法の言葉だ。