3月, 2008年

振り子時計の不思議

2008-03-23

私のパソコンが置かれているテーブルから真正面の位置に、その時計はある。アイボリーのサイドボード上なので若干高い位置だが、古代ギリシャ・ローマ風の女神像が力強く丸い時計を掲げている形状のデザインで、見た目に美しく、金色の振り子が揺れ動いていることも魅力的で、旅行中に偶然見つけて即購入し送り届けてもらったものであった。

ところが、いつからか大きく揺れ動く振り子が止まってしまって、その時計の価値を半減させた。振り子時計は美しいが、動くから美しいのであって、動かないと時計の針自体はちゃんと機能し動いていても生命力のようなものが感じられなくなってしまい、妙にさびしく、その価値を半減させる。何か原因があるに違いないが、どこをどうすれば良いのか分からず、そのままに放置していた。気のせいなのかもしれないが、どうも振り子が動かなくなってからと云うもの、物事がスムーズに運ばない。だから何とかしなければ…と思いながらも日常の雑事に追われ、何カ月もそのままになっていた。

それが先日、何気なく気がつくと、振り子は音もなく再び左右に揺れ出していた。キツネにつままれたように、それを見ていたが、大きな振り子が揺れているのは生命力が戻ったかのような晴れ晴れとしたものを感じさせる。なぜ急に再び動き出したのかは謎であるが、ときどき我が家にはそういう奇妙な出来事が起こるので、今では別段に恐怖心も起きない。それよりも失われていた活気が戻ったかのようで、そのことの方がうれしい。

活気と云えば、ここ何日か室内にこもっていたせいか、久しぶりに外出して、春の息吹を感じた。私の住んでいる札幌は四季の変化がハッキリとしていて、街を歩くとさまざまなところでそれを実感する。路面から雪がなくなって、まだ所々にその残骸のような色あせた塊があるが、やがてそれも消えていくのだろう。春を一番先に察知するのは植物で、3月に入ってからというもの鉢植えの観葉植物に水をやりながら、私は明らかに葉が大きく活き活きと変わり始めたことを感知していた。ただその時点ではまだ気温が低く、雪も無くなってなどいない。鉢植えは室内にあるので、雪解けは関係ないかもしれないが、多分何かで春の訪れを感じ取っているのだ。私のところは日差しを受けると真冬でも気温の高い日が少なくないので、単なる室内温度の変化でないことは確かだ。

私の尊敬する観相家の中村文聡氏は、人間の気色や画相を習得したかったら、まず植物の観察から始めよ、と云った。毎日、植物に対して精緻な観察を続けていると「気」というものの正体を把握できるようになる、と云うのだ。これは真実で、植物は無言だが、明らかに生命力の強弱がある。タイなどへ行くと感じるのだが、向こうの植物は全体的に大きく鉢植えであっても巨大なものが多い。さして手入れをしているとも思えないのだが、雨上がりの陽光の中で青々と葉先を伸ばしている。スコールのような雨と、その後の日差しが対照的で、あのような大きく力強い南国の植物を生み出すのかもしれない。

古来、神道や仙道で用いられる滝行なども、激しく降り注ぐ水を浴びることで、人間の精神だけでなく、肉体的にも強健になるのかもしれない。植物の原理を当てはめれば、陽光輝く日差しの強い日に行う方が効果的と云えるだろう。「気」が強くなることで、武術の達人なども好んで行うのだろうか。

北国の春は遅い。コート不要の季節が来たとはまだまだ云えないが、新たな生命力が少しずつ育っていくような気がする。そういえば私が監修した新しい携帯コンテンツ『前世からの約束』も、今月から始まっている。春の息吹を感じさせるようにすくすくと成長し、強い生命力を発揮して、多くの人たちに役立ってくれると良いのだが…。

「平等」と云う名の間違った学校教育

2008-03-17

中学校の卒業式を地元警察が厳戒態勢をとる中で挙行し、式後の卒業生が校長室で暴れたとして2名が逮捕されたらしい。この中学校では昨年来、校長、教頭とも休職などに追い込まれているのだと云う。何ともやりきれない報道だ。一時期、収まったかに見えていた学校教育の崩壊は、収まっているどころか見えない形で進んでいたのかもしれない。

それにしても、日本の文部省や教育委員会なるところは、いったい何を履き違えてしまったのだろうか。小・中学校では「平等の観点から、あだ名を禁止する」のだと云う。どうも「あだ名」が「差別意識を生み出す」と勘違いしているらしい。そういえば運動会では、差別をなくす目的から、手をつないで走り、同時にゴールする徒競走の学校も出てきているらしい。何と愚かな「平等」意識だろう。

教育は別に平等でなど有る必要はない。教育を受けられるチャンスは平等に与えられなければならないが、教育そのものは平等である必要などないのだ。逆に平等にし過ぎることで、本来なら育っていく能力や素質や個性が埋没していく可能性の方が大きい。運動能力とか、芸術的素質とか、知能指数とか、個々ばらばらで違っているからこそ良いので、ロボットのように全員が同じだったら、教師もまたロボットやコンピュータの方が向いているかもしれない。

義務教育だから全員卒業させなければならない、などと云う発想自体がおかしなことで、義務教育を受けるチャンスは与えるが「そのチャンスを放棄する者には卒業資格を与えない」方が、よほど平等の精神にのっとっている。教えてもらいたくない児童に、なぜ教えなければならないのか、学ばなかった児童になぜ卒業資格を与えるのか…誤った教育の概念が、歪んだ教育現場を作りあげている。

私は「教育」と云う問題が出るたび、古代エジプトと古代中国とで使われていた「教える」の象形文字を思い出す。この二つの古代帝国は、文化・文明では大きく異なるが、もちろん文字そのものも異なるが、共に象形文字が使用されたと云う共通点を持つ。そして双方の国とも「教える」と云う文字には「鞭の象形」が使われていた。つまり、古代帝国の時代から、子供を教育するためには、また幼少期に教えを身に付けるためには、鞭のような「痛み」が必要だったと云うことなのだ。

それが自然であり、本来の姿でもあるのだ。大人が子どもに対し恐る恐る教育すると云うのでは逆ではないか。不自然なのだ。だから子供たちは真剣に学ぼうとはしない。家庭でも学校でも、子供が悪いことをしたら殴らなければならない。鞭を持つ必要はないが、痛みの中で学ぶ、と云う形の方が幼少期の場合は自然であり、本来の姿なのだ。中学生になってから始めたのでは手遅れになる。あくまでも3・4歳から小学3・4年生くらいの時期までに…である。そのくらいの時期まで「痛み」を伴う形で教えれば、あとは黙っていても先生の言うことを聴くようになる。

いや、本当は痛みなどなくても、幼い頃から必死で学ぼうとする子供たちはいる。発展途上国や東南アジアの貧しい国、戦争で緊張感の続いている国・地域の子供たちだ。なぜ、これらの地域の子供たちは鞭がなくても自ら進んで真剣に学ぼうとするのか。それは学校へ行くことが、そして知識を身につけることが、将来の生活を楽にし、職業選択を可能にし、収入源を保証し、親・兄弟を助け、出世や成功に不可欠で、生きていく上で重要であることを本能的に察知しているからだ。掘立小屋のような学校でも、ボロボロになった教科書でも、子供達は生き生きと勉強する。生きていかなければ…と云う強い生命力と本能とが勉強に駆り立てるのだ。

当然、これらの地域の子供たちだって、勉強より遊ぶ方がいいに決まっている。だから勉強の合間の遊び時間は楽しい。でも、楽しいだけでは生きていけないことを本能的に知っている彼らは、学びの時間は真剣に学ぶのだ。緊張感のない日本に、このような地域の子供たちと同じになれ、と云ってもなれるものではない。だから、せめて「平等」だけは止めた方が良い。学校卒業後に無くなってしまう平等を教えてどうするのか。それに「全員卒業」や「全員一等賞」は平等の押し付けでしかない。誰も喜ばない。学校にもまともに行かないで、勉強をしないで「卒業証書」を受け取っても嬉しくないのは当然だ。

ただ誤解されたくないので記しておくが、私は基本的に学校側が規制をかけ過ぎるのは感心しない。子供たちの服装や髪形は自由にさせれば良い。或いは子供たち自身に制服を選択させれば良い。そういう外見的なことを細かく規制し過ぎるから反発を招く。それよりも、学習態度や言葉遣い、倫理観を厳しく教えれば良い。服装や髪形などより倫理観の徹底の方がはるかに重要だ。それらを幼少期から厳しく教えれば、服装や髪形や生活態度など、黙っていても改まるだろう。

的中してほしくない予言と彷徨える日本

2008-03-15

占い師と云う職業には「未来予測」と云う役割が付いて回る。だから本当は、自分の未来予測が的中していれば喜ぶべき現象のはずだ。だが現実には喜べない的中もある。

私はこのコーナーで、2007年8月19日に「株価急落と人生の急落の共通点」、2007年12月22日に「半年先の世界と4500年前の世界」、2008年1月24日に「追いつめられた日本株と世界マネーの行方」と題し、それぞれの視点から日本の株価や経済についての現状や未来予測、その対処法等についても独自の意見を記してあった。これらは占いによって記したと云うよりも、或る種予感に導かれて記した、と云う方が正しい。何度も形を変えて記したのは、それだけ今後の株価・ドル円などの動きが経済だけでなく、日本や世界の未来にとっても重要だからだ。

それがいよいよと云うべきか、ついにと云うべきか、実体経済としてハッキリとした姿を現しつつある。何よりも問題なのはドル円レートで、1ドル=100円を切るのは時間の問題ともいわれる。つまりは「ドル安の進行」で、これはどうしてもストップをかける必要がある。そうでなければ商品市況が高騰してしまう。多くの食品の原材料を輸入に頼っている日本は、その影響を一番に受ける。商品市況と云うのは世界通貨としてのドルで取引されているものが多く、ドル安が進行すると高騰するようにできているからだ。加えてドル安=円高になると、日本株は下落するようにできている。アメリカの株価が下がると、主要国の株価も下がるのが通例なので日本の株価も下がって当然だが、これに円高が加わると、その分も上乗せして日本株は下がるようにできている。これが問題なのだ。

食品の原材料費が上がれば、当然のことながら、それらは食品価格そのものへと転換される。すでに値上げし出したものも多いが、ドル安=円高をストップさせないと、今後はそれに拍車がかかってくる可能性がある。アメリカは景気が後退したことを、各種データがすでに示し始めた。したがって、ドル安にストップを掛けるのは実際には容易ではない。数年前までデフレで苦しんでいた日本は、多少の食品の値上がりを、経済が上向いてきたことの結果でもあるかのように勘違いしやすい。けれでも、日本の経済が上向いたのは「世界的な一部の企業」が牽引していただけで、日本の9割を占める中小の企業は少しも上向いてなどいなかった。その結果として、わずか数年の間に、富める者と貧しい者との経済格差が拡大してしまった。デフレの時代は生活必需品が安いのでそれでも良いのだが、商品市況が高騰を始めると、そうはいかなくなってくる。

日本経済の先行きが心配なのは、実は「円高」と云いながらも、それはドルに対してだけであって、他の主要通貨に対しては決して円高になどなっていないことである。それはとりもなおさず、日本と云う国の先行きに対して、世界の目が厳しい目を向けていることの表れでもある。発展性があるとみれば、その国の通貨は買われ、衰退していくとみれば、その国の通貨は売られる。かつて「世界の富豪」に選ばれていた日本の富豪たちの面影はなく、今やインドやロシアの富豪たちの名がズラリと並んでいる。

日本円は、ドルに対してだけは円高が続き、従って食料品も含めて輸入原材料の高騰は続き、経済は上向かないのに商品価格は値上がりし始める、と云う図式が生まれてくる。前にも記したことがあるが、日本の株価はドル換算でアメリカ株に連動するので、ドル円レートが円高となる限り、アメリカ株の下落が止まっても、日本株は下降し続ける。それを反映する実体経済は、半年以上ずれて日本社会に反映されるので、アメリカの深刻な景気後退へのシグナルは日本にとって、世界中のどの国より重く受け止めなければならない問題なのだ。

外国人の売買が6割以上を占める日本株は、外国人に買ってもらわないと上がらないようにできている。これを変えるには、日本人が買って上がるような図式に変えなければいけないのだが「投資を悪」と決めつける識者の多い我が国では、余程の優遇策でも打ち出さない限り、大多数の個人が買うようにはならない。それに今のように下がりっぱなしでは、買うほど損をする、と云う結果が生じやすい。但し日本には、私など不思議でならないのだが、眠ったままになっている預貯金が信じられないくらい沢山あると云う。だから世界的にみれば「経済的に豊かな国」と云うことになる。年金が生活費として実際に必要な人も多いが、口では「年金」「年金」と騒ぎたてながら、本当は山ほどの資産、預貯金を所有している政治評論家やメディア関係者も少なくないのだ。

税金の無駄遣いを指摘することも確かに必要だが、それよりも日本の経済そのものを上向かせる方法を打ち出すことの方が、はるかに重要なことのはずだ。神田うの夫妻が新婚旅行へ行ったことで知られるようになったドバイは、石油で潤った国ではない。大胆な政治決断一つで、今日の経済発展を可能にした国なのだ。関税を撤廃することで、世界企業が集まる国となったのだ。少子化で人口も減っていく日本は、海外からの人や物や金を受け入れ、育んでいかないと発展しようのない国であり、今まさにその岐路に立たされている事実に気づかなければならない。

眠らせる記憶と蘇らせる記憶

2008-03-10

たまたま出掛ける機会があって車中で読む週刊誌を買ったら、サイパンで逮捕された三浦和義のことが27年前にさかのぼって、あれこれと報じられていた。彼が良くも悪くも「運命的な人生」を歩んで来ていることは間違いがない。彼の手相に関しては以前このコーナーで記したこともある。興味のある方は、そちらの方を読んで欲しい。

私は「ロス疑惑事件」の頃、占いもサイドビジネスとして行ってはいたが、一方で会社勤めの時代であった。社内の昼休み食事時に、その話題を最初に出したのは私であった。その時にはまだ『週刊文春』にしか伝えられていなくて、同僚たちの反応が知りたかったからである。案の定、社内でロス疑惑事件を知っていたのは二人しかいなかった。だから私が「本当だろうか?」と問いかけても、特別みんなからの反応はなく、後になって連日ワイドショーで取り上げられるようになるとは、その時点では思いもしなかった。

ところが、その後、さまざまなメディアが彼に注目するようになる。ロス疑惑に関する話題・記事は、単に事件としてだけではなく、やがて彼自身の私生活にも及び始め、マスメディアはこぞって彼の姿を追いかけまわすようになったのだ。当然、会社の中でも話題は駆け巡るようになる。

私はみんなが注目し始めた頃になると、もう熱が冷めていて、連日マスコミにもみくちゃにされている彼を見ると、その内だれかに殺されるのではないか、とさえ危惧したものだ。その後も、彼だけでなくマスコミにもみくちゃにされている人物を見るたび、何かしら暗然たる気持ちになってしまう。確かに取材する側も仕事として必死なのかもしれないが、あまりにも追いかけまわすような取材の仕方には疑問も覚える。

運命的な人物や事件と出逢うたび「過去を背負って生きる」と云うことの意味を考えさせられる。人間は誰しも過去を背負って生きている。長い人生の中には「消し去りたい過去」もあれば「留め続けたい過去」もある。自分の過去の人生から消し去ってしまいたい出来事は、記憶の中で本能的に眠らせているが、それは眠らせているだけであって、本当に消えてしまったわけではない。記憶と云う装置は驚くほど性能が良く、実際には鮮明に記憶しているものだ。ただ、鮮明な記憶のままだと日常生活に支障があるので、厭な過去と云うのは記憶が薄れるよう仕組まれている。一方、留め続けたい記憶は、いつでも簡単に蘇らせるよう常にスタンバイしている。本来、人間は幸せな記憶やうれしい出来事の方が思い出しやすいように出来ているのだ。

だから年齢が行けば行くほど、過去の辛い経験だとか、苦しい体験、厭な出来事、消し去りたい過去は記憶から薄れて、幸福だった時代や嬉しかった出来事、感動や感謝の良い記憶だけが引き出されやすい。これは神様が人間に与えてくれた最高の贈り物かもしれない。

そのような点から云っても、厭なことや悲しい出来事を何回も反芻をするのは、生き方としても神様がくれた記憶のメカニズムに反している。何回も反芻するから、厭な記憶や悲しい感情が蘇って固定化されてしまうのだ。「寝た子を起こす」と云う格言は、本来の意味からは外れるかもしれないが、記憶装置としての脳の役割には見事に当てはまる。同じ反芻なら、嬉しかった出来事や感動・感謝の出来事に対して用いると良い。そうすると、その記憶が固定化され、今度は未来に対してのイメージとして脳の記憶に固定化されていくからだ。よく潜在意識の活用法として「未来の幸福なイメージを想像する」方法が採られるが、実際には感情が伴っていないと成功率は低い。この場合、未来の…と思わず、むしろ過去の記憶から幸せだった時に焦点を当て、その時の感情を再現させた方がはるかに効果的だと思う。自分自身の記憶なので、蘇らせやすいし、何度も同じ感覚で繰り返し実行できるからだ。それこそ神様がくれた最高の記憶の活用法なのではないだろうか。

あまりにもお粗末な『手相大事典』の中身

2008-03-04

この本の正式なタイトルは『幸せになる手相大事典』であり、サブタイトルには「東洋手相の秘法をふまえ、より深い見方がわかる」と記されている。著者は何冊も手相書を書いて来ている田口二州氏だ。

これまで彼が書いた手相書は三冊か、四冊あると思うが、いずれも似たような内容で特別際立ったものはない。この人は手相以外にも、九星気学であるとか、家相であるとか、人相であるとか、姓名判断であるとか、四柱推命であるとかの本を書いていて、かなり手広くオーソドックスな占術入門書を世に出している。それらに共通するのは比較的安価でページ数の多い本あること、書き方が分かりやすく、誰もが馴染みやすい実用書となっていること、順序を追って一つ一つ説明していくので理解しやすいこと…などの特徴がある。そういう点から女性の支持者も多いように思われる。

ただ、この人自身が実際に研究・鑑定・体験した結果からの実証報告や、新説・秘伝・特異な見方と云ったものには乏しい。あえて指摘するとすれば、気学の「南方位における一白水星」現象の現れ方、姓名判断の字画数の実際筆画数の採用、手相の掌線変化の実例手型掲載…くらいではないだろうか。

もちろん、この人の著述の意図はあくまでも安価で分かりやすく実際に活用できる内容の占術入門書を書くこと…にあるような気がする。だから、そういう意味では決して悪いわけではなく、占術入門者のすそ野を広げた功績は大きい。

けれども今回の著書のように『手相大事典』と云うタイトルを付け「より深い見方がわかる」とし、実際ページ数もB6判374頁とボリュームがある以上、ただ単に「珍しいものも取り入れておいた入門書です」ですと云う雰囲気のものでは占術研究者に物足らなさを感じさせる。このような内容であればページ数なら220頁もあれば足りるし「大事典」と云うより「手相入門事典」とか「手相小事典」とすべきところであろう。少なくとも、これまでに自らが書いた手相書と何ら変わりはない。違っているところと云えば東洋式の見方も加えている点だが、その東洋式も実際には使いものにならない見方ばかりで、元々実用書に徹してきたこの人らしくない、と感じざるを得ない。

誤解を避けるために記しておくが、私は東洋式の見方を彼が加えたことに対してどうこう言うつもりはない。ただ、それならそれで自分できちんと検証し、これは実際に使える、と思った見方、判断の仕方を掲載すべきである。明らかに実際にはあり得ない形状を「新たな見方」「東洋式の見方」として、何の注意書きもなく掲載すると云うのは、同じ鑑定家として理解に苦しむものとしか言いようがない。大体が彼の著書内容のほとんどは、以前に著書の中でも師として名を掲げていた大和田斉眼氏の研究著述の焼き直しに過ぎない。たとえば彼は親指の付け根上部付近から中指下まで、弧を描く線を「性愛線」と呼び「性感染症の恐れがある」としているが、これは大和田斉眼氏が主張されていた説だ。けれども私はこれまで何人かに性愛線(私は火星環と呼ぶ)の持ち主を見ているが著名人が多く、むしろ健康な人が多かった。しかも比較的ハッキリと刻まれる線で、感情線上部に弧を描く金星環などとは明らかに異なる。私はこの線に関し海外で出た書籍に「動物からの災難を被る人の相」と云う記述も見たことがあるし、「離婚相の一種」と云う記述も見たことがあるし、「戦争などを転機として成功する人の相」と云う記述も見たことがあるし、「兄弟からの援助によって成功する相」と云う記述も見たことがある。このようなさまざまな解釈・記述があるものを、ただ単に尊敬する手相家だからと理由だけで転載する真意が分からない。もし、実際に彼がそういう例証を見て記したものであるなら、それなりの実占記述を述べなければならない。何故なら今までの本には載せず、さまざまな解釈があることを知って(それとも知らないのか?)掲載しているとするなら、それなりの実占経験をふまえて書く義務があるからだ。そうでなければ実用書にならない。いや仮に、その説を実証的に採用するにしても『手相大事典』なのだから、さまざまな解釈・主張があることを記述したうえで、自分は大和田氏の解釈が実証的にも正しいと思う、と云うような書き方が必要なのではないだろうか。

「大事典」と云うのは、もしかしたら出版社が勝手に採用したタイトルなのかもしれないが、それにしても古今東西の手相書に目を通した上で書いた本のようには思えず、手相術としての守備範囲もあまりに小さくまとまり過ぎている。つまり事典としての役割を果たしていないのだ。図解にしても不正確で、精密さに欠ける。実例手型を8枚ほど附けたことを本人は自画自賛しているが、なぜ自慢になるのか私には一向に判らない。これで30枚も40枚も附けたのなら、多少自慢しても良いかもしれない。8枚など何の役に立つのか。彼の占い教室は大変に盛況らしいが、いったい何故なのか、私には理解に苦しむことばかりである。