5月, 2008年

10代のシングルマザーが増えていく

2008-05-18

確か6年ほど前だったと思うが「アメリカの今」を伝える経済番組で、アメリカでは最近急速に10代、20代のシングルマザーが増えつつあり、それが社会問題化しつつある…と云うような内容を伝えていた。私はそれを見ながら、アメリカらしい話だな、と他人事のように捉えていた。

ところが、そうでもないかもしれない時代が押し寄せつつある。何気なくスイッチを入れたTV番組で「17歳のシングルマザー」の生活を追ったドキュメンタリーが放映されていた。15歳で妊娠し、16歳で出産し、ちょうど我が子が1歳になる前後からの生活(途中から見たので…)がヤラセなしの形で放映されていた。8年前に自分達を置いて家を出ていった母親の元に逢いに行く場面、そこで一緒に暮らすことを拒否され、今度は姉の元へと会いに行く場面、そこでも一緒に暮らすことを拒否され、仕方なく地元に戻り、あらためてシングルマザーとして自立しなければならないと悟り就職活動を始める場面…厳しい現実と、母親としての自覚…。

まだ17歳であるから、少女としての幼さやあどけなさも残るが、母親としての強さも随所に垣間見せる。TV番組は、現実としての10代のシングルマザーの生活を評論のようなものを一切加えず映し出していて、その点でも好感がもてた。

確かに、何年か前まで「アメリカの出来事」として受け止めていた現象は、確実に日本にも忍び寄っていたのだ。芸能人などの間で「出来ちゃった婚」が流行(?)し、結果として10代で母親となるケースも増えてきた。或る程度収入に恵まれていればシングルマザーも生き方として悪くないが、収入源の全くない10代半ばでシングルマザーとなって生きていくのは、並大抵のことではない。ましてやドキュメンタリーの少女のように、親も身近に居なくて、たった一人で(正しくは息子と二人だが…)生きていくのは容易ではない。近年、日本も社会福祉が充実しつつあるので或る程度の金銭は得られるが、最近のように生活用品が値上がりし出すと、第一にこういう人たちの生活が圧迫される。

もちろん本人が「産む」と決めた時から、親としての責任が発生するのだから、現実の社会が就職などに対して厳しいのは当たり前であって、いたずらに同情することが正しいとも思わない。それに経済的に苦しいから不幸とばかりも言いきれない。私はかつてフィリピンに行ったとき、10代や20代のシングルマザーの多いことに驚いたことがある。後から気付いたのだが、フィリピンと云うのはキリスト教国で堕胎を法律で禁止している。妊娠したら産むしかないのだ。だから自然とシングルマザーが増えていく。ところが、彼女たちは実に陽気だ。暗さがない。南国の明るさ、暑さがそうさせるのかもしれないが、生活と云うことに対してくよくよなどしていない。経済的な助け合いの精神はキリスト教国だけあって徹底している。産んだ子供を親や親戚に預けて働くなどは当たり前のことと思われている。そういう風土だから、シングルマザーの恋愛も当たり前で、日本のように「子供優先」等と云う風潮は全くない。結果として、男親の異なる兄弟がたくさん産まれることになる。神様が何とかしてくれる。本心からそう思っているのだ。

近年、日本でもシングルマザーは決して異端視されるような存在ではなくなった。ただ、何のわだかまりもなくシングルマザーを謳歌している女性は少ない。日本の風土には、或る初の義務感があって、子供を自分の所有物としてみなしがちだ。所有物と思うから「ちゃんと育てていく」義務・責任のような拘束意識がついて回る。「神様からの授かりもの」として所有物意識を捨てれば、もっと楽に生きられるのに…と思うようなケースは多い。確かに小学生になるくらいまでは子育ての義務・責任はある。ただ18歳位まであるかのような日本の一般的概念に、私は必ずしも賛成できない。自我が芽生えだす年齢となったら、もう親としての最低限の役割は終えている。その後の運命・人生は「放って置いても子は育つ」くらいの感覚の方が本人にとっても好ましいのではないだろうか。

かなり以前の話だが、私の所に「娘の受験について見て欲しい」と云う客があった。私は受験には何ら問題なく成功するし、その後の勉強にも問題はないが、もしかしたら娘さんには学校に入って間もなく付き合う男性が出てくるかもしれません、と判断した。客は安心したような顔をしたが「先生、娘は色気の方は全くないんですよ」と、その御心配は外れていますよ、と言いたげな顔をした。私も正直、余計なことを云ってしまったかと思ったので反論しなかった。ところが、それから数カ月もたたないうちに、私の予告は現実のものとなった。娘さんが妊娠したと云うのだ。「いくら先生の言葉でも、こんなことになるとは信じられません」母親の血相が変わっていた。結局、この娘さんはシングルマザーにはならず、すぐに堕胎させられた。十数年前には、それが当たり前でさえあった。だが、時代は10代半ばでも「産む」決断を下す方向へと何故か傾きつつある。そして今後それは加速していくような傾向を私は予感するのだ。

300件以上寄せられた魂の叫び

2008-05-15

携帯電話の新コンテンツである『前世からの約束』(波木星龍監修)の配信が開始されて2カ月が経った。このコンテンツでは毎月2名に対して「公開無料鑑定」を行うことが最初から決まっている。実はもう一つのモバイルコンテンツ『波木星龍』の方でも無料鑑定は行っているのだが、当初からあまり大きな反響はなかった。したがって私は『前世からの約束』の方でも、それほどの反響はないだろう…とたかをくくっていた。

実際、制作の人から打診された時にも「無料鑑定をやっても、応募がない、なんてこともあるかもしれないなぁ」と冗談交じりで云ったら「先生、そんなことは絶対ありません。これまでの経験からして30~40くらいは寄せられますので…」と云われていた。その時、私は内心、他の占い師がそんなに来ているのなら応募ゼロじゃさみしいなぁ…と思っていたものだ。ところが、実際にふたを開けてみると実質1ヶ月半の間に寄せられた無料鑑定の応募数は300件を優に超えていたらしい。そのうちの16件ほどを送信してもらって、どの相談事を掲載するか選別に掛かった。送られてきた相談事はいずれも真摯な内容で、中には800文字以上の長文で相談事を書き込んで来た人がいたことには正直驚かされた。

無料鑑定と云うイメージ上、あまり複雑な内容や大きな問題を抱えている相談事は来ないだろう…と勝手に決め込んでいたが、そうではなかった。もしかしたら、これは「前世からの約束」と云う名称がそうさせたのかもしれないが、それぞれが心の痛手を抱えながら、人生の岐路、恋愛の岐路に立っているかのような内容のものが圧倒的に多かった。中には、結婚を1ヶ月前に控えて婚約破棄をし、職場も辞めてしまっていたため途方に暮れている女性からの相談もあった。二人のうちのどちらが「運命の相手か?」と云う相談も多かったが、もっとも多かったのは、過去の大きな恋愛の別れのショックから立ち直れないで、その傷口を舐めながら、行くも戻るも出来ずにさまよい続けている人たちの嘆き…叫びのような…魂の懊悩を訴える内容であった。

それらを読みながら、私は自分自身の過去を思い起こさずにはいられなかった。私は20代後半の時、或る女性と深い恋に落ちた。毎日が薔薇色のように輝き、職場を抜け出して逢いに行き、彼女の顔を見ているだけで倖せだった。私は彼女と一緒に暮らすことを夢み、新しい住居を求めた。私の乏しい収入を彼女がピアノ教師として補うはずであった。ところが彼女の身内から反対が出た。雲行きがにわかにおかしくなった…。

結局、新居には彼女の持ち運んでいた洋服類が残され、ダブルベッドが置かれ、大きな冷蔵庫は空のまま使われず、独りの部屋でロッキングチェアーに揺られたまま放心したように何カ月かを過ごした。

あの時私は、もう2度と恋はしない、と自分に誓った。二人の約束は何だったんだろう…とベッドを涙で濡らした。心から愛していただけにその反動は大きく、しばらくは女性そのものが信じられなくなった。

ドラマ仕立てのような私たちの恋は、別れて1度だけ再会している。街角で彼女の方から声をかけて来て、すぐそばにあった喫茶店でコーヒーを飲んだ。その時の情景を私は忘れることが出来ない。二人ともほとんど無言だった。何も言えなかったのだ。何も言わなくても伝わるものがあった。「私を連れて東京へ逃げて…」絞り出すように彼女は云った。

私にはその勇気がなかった。

結局、いったん途切れた赤い糸は戻らず、そのすぐ後で皮肉にも『流氷の愛』という私の作詞が新聞公募の大賞を受けてレコード化したりしたのだ。もっとも全く売れなかったが…。

あれから月日は流れて、もう恋はしないと云う誓いは守られず、さまざまな出会いと別れを経験し、美しい思い出として、あの頃の情景だけがある。たまたま私が希望したわけでもないのに『前世からの約束』と云うタイトルになったが、誰であっても命をかけるほどの恋は一生に一度か2度しかできない。それだけは間違いない。それが前世からの約束かどうかはともかく、宿命的とさえ思えるような出会いがあるのは事実だ。そういう恋に出逢えると云うことは、それだけでも価値のあることのような気が私にはする。

恋の苦しみにのたうちまわることのできる人だけが、美しい思い出を手にできるのだ。

二極化を生み出していく社会

2008-05-06

家族(親族)間での殺人事件や、将来への生活不安から自殺する人が増え続けている。

昔から、それらのケースがなかったわけではない。けれども家族間の殺人事件と云えば、昔は誰もが納得したり、同情するような大きな問題が横たわっているケースが多かった。自殺する場合でも、明らかに理解できるような状況下で行われるケースが多かった。しかし、ここに来て何かが大きく変化し始めている。理由が判然としないケースが多くなってきている。私にはそう感じられるのだ。

もちろん、個々の理由や動機は様々であり、単純に結論付けることなどできないが、何かが20年前の日本とは明らかに違ってきている。日本の社会の中で、静かに進行しつつある種々な面での格差の広がりと収縮が、これらの現象に大きく作用し始めているよう私には思えるのだ。

まず格差の広がりの方から云えば、一番の格差の広がりは「経済格差」だ。中流階級が多かった日本の社会から、徐々に中流が減り、その代りのように上流(は少しだけ)と下流(の方は沢山)が増え始めている。それを助長させているのが日用品などの物価高だ。以前にもここで記したことがあるが、生活資源や食品原材料の多くを輸入に頼っている日本は、ドル安が招く商品市況高騰の影響を最も受けやすい。その結果として低所得者層はもろにその影響を受けて生活苦となる。海外では米も高騰していると云うが、日本の場合パンや麺類に留まっているのがまだ救いだ。とは云えガソリンや灯油、電気・ガスなど日常生活に必要なものがいっせいに値上がり出している。

このような事態は、既に私自身、昨年からこのコーナーで警告してきたことではあっても、正直的中などして欲しくない。日本の場合、諸外国と違ってデフレをようやく抜け出したばかりだった。実は、経済格差は5年ほど前から徐々に広がりを見せていたのだが、デフレのため低所得者層でも最低限生活が維持できるので、黙認されてきたようなところがある。その付けが今まわって来たのだ。

日常における必要経費が値上がりする一方で、各種保険料などの実質増税が次々決まって、もはや年金生活者や零細企業に従事している人たちはギブアップ寸前のところまで来ている。

実は、マスメディアも見逃しているが大企業と零細企業との収益格差も、以前とは比べ物にならないほど広がっている。もちろん、規模が違うのだから、それに比例しての格差を考慮した上での話である。大企業の多くはバブル崩壊以降、収益基盤を強化する手を次々と打ってきた。海外生産でコストを減らすとかIT化で人件費を削減するとかである。同業他社との提携や吸収・合併も盛んに行われている。当然のことだが零細企業にはそれが出来ない。海外生産には莫大な投資資金が掛かる。IT化には資金だけでなく、新たな技術の習得や今現在抱えている従業員を切れるのか…と云う難しい問題が発生する。家内工業的な色彩の強い零細企業にとって、今抱えている従業員をリストラすると云うのは人情的にも難しいのだ。さらに難しいのが提携・合併で、それが生き延びる道だとわかっても、大きなところに頭を下げて、給与も下げられ、権限のすべてを奪われ、こき使われるのは耐えられないと云う場合が多い。

結局、零細企業は収益がますます細っていくのを覚悟で現状に甘んじる、と云うことになる。奇妙なもので、吸収された方が将来的に収入が増すとわかっても、零細企業の従業員と云うのは吸収・合併を嫌うものだ。親方・経営者がその気になっても、従業員に反対されて提携・合併にこぎつけないケースも多い。

こうして経済的な格差が広がる一方で、逆に格差の収縮が行われている分野もある。それは「情報の格差」だ。しかも、それは世界的な規模で急速に収縮しつつある。つまり、これまでなら一部の人だけが知っていたであろう情報が、瞬く間に日本の各地域いっせいに伝わっていく。時としては日本だけでなく、世界に一瞬で伝えられることもある。したがって、本来なら専門家以外知り得なかったような知識や情報が、誰もが当たり前のように知っているような知識や情報へと変わってきつつあるのだ。しかも、それらは大量であって、確かな知識や情報だけでなく、怪しいものやデマまでもが大手を振って渡り歩いている。種々な情報が洪水のように街にあふれだし、その中で何を選択すべきかさえも、分からなくなってきているのが実情だろう。結局、多くの人は情報に振り回され、自分が今と云う時代に取り残されまいとしているかのようだ。

家族間殺人や理由乏しき自殺者の増加も、これらの現象と無関係とは思えない。事実、一昨年あたりはネットを通じて「練炭自殺」が流行し、今年は周囲をも巻き込む「硫化水素自殺」が流行り始めている。ここ数年、ネット上の書き込みが自殺志願者に或る種の「連帯感」を与えているような気もする。一人なら嫌だが、何人もいるなら死後そういう人たちと巡り合えるかもしれない…と云う奇妙で愚かな発想が存在していないだろうか。

厭世感とか将来への絶望とかは、感受性の強い人なら青春時代に一度は陥りやすい現象で、かくいう私自身も十代半ばで自殺未遂の経験がある。ただ死ななかったので、生きるしかなくなったので、生きる目的を求めて、すでに始めていた占いの研究へとのめり込む結果となったのだ。

家族間の殺人にしても、経済的な格差がもたらした生活苦と将来への漠たる不安、それに情報が行き交い過ぎた結果としての周囲との比較が生み出しているケースも多いよう思われる。マスコミは将来の不安要素を数え上げ、厭でも飛び込んで来る種々な情報は、自分の家での親子・夫婦・兄弟関係が、或いは家庭生活の在り方が、周りと照らし合わせどうなのかと考えさせられる。

熟年離婚なども、情報化社会がもたらしら誤った幻想によるところが大きいよう思われてならない。その後の幸福を謳歌している人など、一握りしかいない。

時代の先端を歩もうとする人と、時代に逆行化しようとする人と、新たなる時代は難しい選択をそれぞれに迫っている。