6月, 2008年

香港から購入してきた占いの本

2008-06-30

最近は、海外へ出向くと必ず書店巡りをするようになった。今回もご多分にもれず3件ほどの書店を廻った。ちなみに私は中国語が堪能なわけでも、読めるわけでもない。ただ、漢字を使って書かれてある書物だから、何となく書かれてあることの大方は解かる。その程度だ。占いの本は、図解や写真が多く使われてある書物であれば何となく理解できるが、文字中心で漢字だけで埋め尽くされているような本だと、どんなに貴重な本でも購入できない。そういうわけで手相・人相の本主体に占星学の本も合わせて8冊ほど購入してきた。

昨年、台湾に行った時にも購入したが、香港と台湾とでは同じ漢字を用いる国であるからか占いの書物の中には、最初から両方の国で発売されることを前提とし、著述されている本も多い。なぜ、そう言い切れるかと云うと、両方の通貨で価格が記されていたりするからだ。ただ、台湾の書店にあって香港にない本もあるし、香港にあって台湾では見当たらない本もある。どういう基準でそうなっているのか分からないが、総じて台湾にあって香港にない占い書籍は、古典的な占い原書が多く、香港の方にあって台湾にない占い書籍は、風水関連の実践書が多いよう見受けられた。確かに17世紀~18世紀にかけての古典的名著の多くは、中国本土を追われた占術家達によって台湾の方で継承されてきた。

一方、香港で近代になって風水が注目を集めたのは、その狭い土地柄も大きく影響している。ちなみに香港の風水師の中には、本国でよりもイギリスやアメリカで荒稼ぎをしている輩も多い。香港の風水書は地元コンビニでもたくさん扱っているが、図解が多く庶民向けであることがわかる。その割に風水グッズを販売している店は少ない。グッズ類だけでいえば、台湾の方がはるかに各所で扱っていた。

今回、購入したものの中に1点だけタロットカードと解説書がセットになっているものがある。これは実は書店で購入したのではなく、デパートの文具売り場(?)で購入したものだ。大変に安く私としてはラッキーな掘り出しものとして、ご満悦の買い物であった。ところが日本に戻って中を開けたら、これが理解に苦しむ代物であった。大アルカナのカードは通常22枚だが、このタロットの場合「愚者」のカードから「節制」のカードまでは図柄の異なったカードが2枚づつ入っている。そして「悪魔」から「世界」のカードまでは1枚づつしか入っていないのだ。しかも小アルカナの方は「エース」と「ペイジ」「ナイト」「クイーン」「キング」しか入っていない。「2」~「10」までの小アルカナが抜けている。数字カードが抜けているのは、それなりの意味があってのことだとしても、途中まで図柄の異なる大アルカナが2枚づつ入っていて、途中から1枚づつに変化するのは、どう考えても理解に苦しむ。まあ、単純に「使えないタロット」と考えれば良いのかもしれないが、何故図柄の異なるカードを途中まで附けたのかは永遠に謎である。

手相の本には『手相魔力』と云う魅惑的な書名の本があった。これは厳密には訳書であって、香港手相家の本ではない。だが、内容的には優れていて、多年にわたる実占研究の成果が述べられていて、すべての解説に対して「実例手型」か「実例写真」が掲載されている。それもかなり特殊な実例が多く、そういう意味でも大いに参考となる。実は香港の書店で、この書物に目を通し、購入しようとそばい置いて他の書物を物色していたら、若い占い研究者らしき男性が手にとって読み始めた。夢中で読んでいるので、私は購入されてしまうのでは…と内心ひやひやであったが、やや高かったせいか書棚に戻したのでホッとした。台湾でもそうだったが、占いの書棚付近には若い男性が目につく。日本だと占いの本を読みふけっているのは女性に多いものだが、香港も台湾も占いの書物は若い男性が主として読むものらしい。

『掌文奥秘』と云う本も実践的な内容で、分かりやすく書かれてある良書であった。日本では最近、簡単かもしれないが「研究」と云う領域からはあまりにも離れた本しか占いの書棚に並ばない。それは日本の占い書籍の購入者の大半が女性に限られていることも影響しているよう思われる。若く真摯な男性が研究心を向けるような占い書籍ブームが来ることを願うのは私だけなのであろうか。

川田亜子さんと加藤智大の共通点

2008-06-18

一応、念のため記しておくと、川田亜子さんと云うのは先ごろ練炭自殺をされた元TBSアナウンサーであり、加藤智大と云うのは先ごろ秋葉で無差別殺人を挙行した犯人である。もちろん、直接的な関係は何もない。

それに、一方は自殺であり、一方は殺人であり、履歴上の関連も一切ない。

ただ、心の闇と云う点では共通した要素があり、自殺や殺人を示唆していたブログがあり、性格的にも似た要素があり、将来への不安と云う点でも共通するものがあり、それはこの二人だけではないような気がするのだ。

「心の闇」は誰にでもある。

その方が人間として魅力があるし、人間としての理解力や深みも出て、真摯な印象を与えるものだ。「心の闇」は人それぞれ違うが、その人の「生き方」と深く関係している場合が多い。或る意味で、我々は誰でも、心の闇を引き摺りながら日々を過ごしているともいえる。

川田亜子さんと加藤智大のブログは共に日記的な要素が強いので、意識していなくても「自殺」や「殺人」の示唆があった。川田さんの方は自分の母親に、生きていることの意味を問い、加藤の方は反応の乏しいブログの中で無差別殺人らしき予告を発していた。

二人は並べられるのは不本意かもしれないが、ともに頭脳優秀だが挫折を味わい、性格的には気真面目で、仕事に関連して将来に対し不安を持っていた。

昔から「他人の芝生は綺麗に見える」と云う格言の示すように、自分以外は悩みや苦しみが少なく、人生をスイスイと楽しく生きているように見えがちのものである。自分だけが上手くいかない。思うように人生を渡れない。希望することが何一つスムーズに進まない…。このような思いとういうのは、実は誰にでもある。ないのは余程の能天気か、真摯に生きていない人たちだ。

アラブの格言にも「人は生まれ、人は悩み、人は死んでいった…」と云うものがある。それが人生と云うものなのだ。悩みや苦しみは、万人共通なのである。特に頭脳優秀で、自己分析をする人ほど、人生に対して懊悩しやすい。加藤智大は「負けっぱなしの人生」と自己分析しているが、たかが8年間であり、人生は長いのだから、その中での8年など、いくらでもあとから取り戻せるのである。川田さんにしてもそうだが、近年、勝ち組と負け組を分けるような考え方をする風潮が世間にはあるが、人生と云うか、運命と云うか、何が「勝ち」で何が「負け」なのか、そう簡単に表面上だけで言い切れるものではない。それに一見、勝ち組に見えていた人が、数年後には負け組に変わっているかもしれず、逆に負け組であったはずの人が大逆転で勝ち組へと転身しているかもしれないのだ。人生は今現在の固定概念から推し量れるような単純なものではない。

或る種ギャンブル的な要素が人生にはある。よく「努力すれば運命は変えられる」と云う人もいるが、どんなに努力しても、その人の人生にとって運気が味方してくれない時期に努力をしても、結果がついてこない場合もあることは知っておくべきだろう。努力は必要だが、人生にはタイミングも重要なのだ。さらに、運命を味方につけるためには、努力を行う方向性も大切なことで、音痴の人が歌手を目指したり、運動神経の鈍い人がプロスポーツ選手を目指したり、人前に出るのが苦手な人が政治の世界を目指しても、土台が上手くゆくはずがない。自分に見合った世界を目指してこそ運命の女神は味方してくれるのだ。

加藤智大のブログには「チャンスは平等に与えられるべき」と云う一節があったらしいが、どのような運命でも長い人生のうちには、必ずチャンスらしき場面…と云うものは巡って来る。ただ、待ち切れずに墓穴を掘ってしまう場合と、理想が高すぎてチャンスを自ら撥ね退けてしまう場合もしばしば目撃される。例えば、独身のまま人生を終わってゆく方であっても、永い人生の内には本人さえ希望を捨てていなければ、恋愛・結婚のチャンスと云うのは必ずやって来るものだ。ただ自分が気に入らないとか、興味がないとか云う理由で、相手を無視するとか、自ら断ってしまうケースも多い。自分が希望する形のものでなければ頭から撥ねつけるような人に運命の女神は微笑みを与えない。

仕事にしてもそうである。誰だって、自分の理想とする仕事・職場を得たい。けれども、そういう希望が叶う人と云うのは世の中で少数なのだ。多くの人は、自らの仕事・職場に対して多少なりとも不平や不満を持っている。生活のためであるとか、とりあえず…とかの思いで、不満なさそうな顔で働いているだけだ。そういう状況の中でチャンスを待つ内に、意外なところから良い仕事・職場の話と云うものは舞い込んできたりするものだ。成功を掴むためには忍耐強さも必要なのである。とかく現代は結論を早く求めすぎ、希望を簡単にあきらめ過ぎる。

コンピュータ社会は何事も二択だけで選択しがちだが、どっちつかずと云う選択の仕方も人生にはあるもので、そういう時期がある期間続くのもまた人生の面白さであると受け止めるべきだ。○にも×にも属さない△の時期があっても良いではないか。このような考え方、生き方を受け入れると、楽に生きられるだろうに…と思うような人達は多い。

世界全体が「格差社会」と云う厭な時代に入りつつある今、将来を不安視しなくても良い生き方をするためにも、△選択を広めていかなければ…決して額に△の鉢巻きをする、と云うことではないのだ。

マカオと香港のホテルと風水

2008-06-14

大昔に訪れている香港・マカオの変貌ぶりを見て来た。予備知識によって、特に香港よりも、ここ数年の間にマカオが大きく変貌しつつあることを知ってはいたが、実際に訪れてみるとその違いの著しさを実感させられる。

昔のマカオは、いわば香港観光の付け足しのようなものであった。その証拠に、マカオ観光だけを目的としたツアーなど存在しなかったような気がする。けれども今は明らかに違う。

マカオの旅行社の方が、香港の旅行社よりも潤っていて羽振りが良いのだ。ここ数年の間に相次いで大型ホテルやカジノが進出して正に「世界のギャンブラーたちが集まる街」へと変貌しつつあるからだ。その代表的存在が「ホテル・ベネチアン」だ。ここは昨年オープンしたばかりだが、総工費1兆円以上を掛けて建設したと云われるカジノ付きホテルだ。同様のホテルがアメリカのラスベガスにもあるが、その系列ホテルだ。ホテルに併設して300店舗以上のブランドショップもひしめく。

ブランドショップ店ばかりのファッションビルのどこが良いのか、私には皆目分からないが、香港でも同様なファッションビルは多く、日本の観光客は大のお得意様らしい。通常の観光目的で香港やマカオに行くと、それらブランドショップの多さに圧倒され、間違った観光地に迷い込んでしまったか…と、戸惑うほどだ。現地ガイドによると、香港は政府・公務関係者の収入が桁違いに高く、民間給与との差が歴然としていると云う。したがって、現地でそういうところに足を運ぶ人たちは限られているらしい。どこにでも金持ちもいれば、庶民の味方?もいるものなのだ。

ホテル・ベネチアン以外にも、マカオにはグランド・リスボアやウィン、クラウン・マカオなど、新しく奇抜なホテル&カジノが続々誕生している。ベネチアンはホテルの敷地内に空を描いた巨大な屋根を付けてベネチアの街を再現し、その中を走る運河や船まで取りそろえていると云う徹底ぶりだ。もちろん、その両サイドはブランドショップだ。ここは別に泊まらなくても、マカオ観光に組み込まれているので、ツアー参加者は1時間くらいは必ず立ち寄らなければならない。もちろん、ブランドショップなど見なくても良い。ただベネチアンの各所で行われるショーの見学や写真撮影にはもってこいの場所なので、そういう意味では見ておいて損はない。ここで写真を写すと、実際にベネチアで写真を写すよりきれいに撮れる。

それから、ツアーガイドが力説するのはブランドショップよりも、カジノの方だ。マカオのカジノ収入は昨年度世界一であった。ギャンブルで知られたラスベガスよりも、多くのお金がこの小さな国に入ってきている。だから、ガイドたちはカジノ遊びを丁寧に教える。その結果、昨年の税収は驚くほど多く、マカオの住民は1人残らず5万円ほどの還付金を受け取ったらしい。次々と怪しげな形の豪華ホテルが建って、文字通りギャンブル国家へと変貌していくのを国民が許すのは、そういうおこぼれがあるからだろう。

ベネチアンのカジノは、写真撮影が禁止なので撮ることはできないが、その広さやルーレット台やスロットマシンの多さには目を見張るものがある。私たちが行った時には閑散としていたので、大体こんなものなのだろうと思っていたが、帰ろうとする頃には続々とツアー客が詰めかけて来て、ほぼ満員と云うくらいに埋まってしまっていた。ただ、ここの欠点の一つは日本語が通じないことだ。これだけ広く多くのスタッフを抱えていて、日本からの観光客も必ず訪れるよう仕組まれているのに、日本語を話せるスタッフを置かないのはどういうわけだろう。日本人観光客は大金は使わないから必要ない、とでも云うことなのであろうか。

ちなみに、ここで大勝ちしたなら、必ず一度メンバーズカードを作ってからでないと、換金してくれないシステムになっている。つまりは勝った場合には、必ずまた来い、と云うサインのようなものだ。エジプトのホテル内にもカジノはあったが、あそこは入店の時点で既にメンバーズカードを作らされた。

カジノで勝つには、ただただ運それだけであるような気がする。よほど練習しなければ、ルーレットなどでも勝てないし、それ以外のギャンブルもお金の掛け方自体が良く分からない。私のように何でも理屈がきちんと解らないと本気で取り組めない者にとっては、日本のパチンコの方がとっつきやすい。

エジプトではルーレットにも挑戦したが、今回はスロット以外は手を出せなかった。エジプトの時に悲惨な思いを味わったせいかもしれない。何しろ、アラブの富豪みたいなのと一緒のテーブルになって、そいつら(その方達)ときたら、あらゆる場所に金を掛けるのだ。よっぽど金が余っているのか、ギャンブルのだいご味が分かっていないのか、とにかくしらみつぶしに金を掛ける。だから、当然何か所かが当たる。私のようにつつましく一ヶ所や二ヶ所で満足する、と云うことはできないらしい。それも向こうは大金を湯水のように掛けまくる。つつましくやっても、3分も経たない内にルーレット用チップが無くなってしまった私とは大違いだ。

けれども、そういう掛け方をしてもルーレットと云うのは上手く出来ていて、必ず最後は負けてしまう。そういう掛け方では長時間やっていくうち必ず負けるようにできているからだ。案の定、私たちがスロットマシンでちょぼちょぼと微妙な状態が続いていたとき、その富豪たちは憮然とした表情でカジノを出て行った。

マカオは香港と並んで風水国家でもある。ベネチアンにしてもそうだが、ホテル内に運河を作って船を行き来するのは、単に豪華趣味だけでなく風水的な意味合いも考えてのことに違いないのだ。昔の日本の豪華料亭などでもそうだったが、大きな池を作って鯉を飼うと云うのは金銭を呼び込む魔法でもあるのだ。但し、敷地が狭い庭にこれを作ると逆効果となる。

香港のホテルや建物にしてもそうだが、通常の四角い立方体の建物はほとんどない。高層建築が多い香港が、単に林立している機能的なだけの景観にならないのは、曲線や階段形を建物の設計に取り入れているからだ。中には中央部分がすっぽりと抜けているような形のマンションまである。私に言わせると、これはがらんどうの建物となって、凶相の一つだが、どうも奇形好みの香港風水師は解かっていないらしい。

均一の時代から選択の時代へ

2008-06-12

街を歩いていて、女性だけではなく男性たちの服装や髪型の多様さに或る種の感慨を持つことがある。私の少年時代、女性はともかく、男性は大体共通した服装や髪型とをしていたものだ。それが今やあらゆる服装、髪形が受け入れられる国へと変貌した。もちろん、その多様さは女性の方がはるかに勝ってはいるが、近年では男性の方も選択肢が実にさまざまだ。どんな服装や髪形をしていたとしても、誰もそれを咎めない。良い国になったものだ。

私は昔からネクタイと云うものが嫌いで、よほどの必要性がなければ締めようと云う気にならない。ところが会社勤めの時には、どうしてもそれを要求される。厳しいところは髪型まで指示される。通常の会社勤めとして髭も長髪も許されない時代だった。私はこれに半ば反発する形で、ノーネクタイ、長髪、夏は下駄ばきで会社へと通った。ところが今は街を歩いていて、スーツ姿できちんとネクタイをし、髪を七三に分けたサラリーマンを見掛けることが少なくなった。

イスラムの国々へ行くと感じるが、信仰上の理由から服装や髪型に半強制的な教えの強い地域は、今でも自由に選択すると云うことを許さないような雰囲気がみられる。けれども考えてみれば、そういったことはどの国であっても近代まで行われていたことであって、例えば日本でも士・農・工・商によって服装や髪型は決まっていた。身分の高い人達は、それなりの流行を持っていたらしいが、女性の場合は未婚と既婚とで服装・髪型に違いを付けていた。つまり服装・髪型・化粧法を見れば、すぐに未婚であるか既婚であるかが誰にでも分かるような仕組みとなっていた。このような仕組みは、確かヨーロッパの一部地域でも行われていたようだが、考えようによっては便利で分かりやすい方法と云えなくもない。

デパートなどへ行って、どの人が店員さんか分からないより、その売り場特有の制服を着ていた方が声を掛けやすいのと同様だ。そう考えると、戦後・昭和の日本男性はサラリーマンであることを表示し、会社勤めであることに誇りを持っていたのかもしれなかった。今やどの男性がサラリーマンであるのか、服装や髪型からだけでは見分けられなくなっている。時には、男性なのか女性なのか、服装や髪型からだけでは判別できないケースさえもある。これは男性の服装や髪型がカラフルになったせいもあるが、一方では女性の服装や髪型が男性化してきたせいでもある。

一年中ジーンズしかはかない女性は、まるでイスラムの教えを忠実に守り続ける回教徒のように、素足を他人に見せないで生きていくことを誓わされてでもいるかのようだ。せっかく「均一の時代」から「選択の時代」に移行したと云うのに、その選択を事実上奪っているものは何なのだろう。

あらゆるファッションやオシャレが許されているとは云いながらも、どこかしら周囲を窺がいながらの選択のような気が私にはする。その結果として本当に自由なファッションやオシャレをしているのはごく一部で、多くの女性たちは「着せ替え人形」をするほどには自分のファッションやオシャレを楽しんで居るようには見えない。

男性たちにしても「ちょい悪オヤジ」等が流行ると急に砕けた服装になったりするが、本来が男性と女性のオシャレは違うはずで、日本人男性はその外貌からも極端な服装や髪型は似合わない。私は昔からシャツをズボンから外に出すことは好まず、今でも必ず中に入れる。それは古いと云われそうだが、古いとか新しいとかの問題ではなく、男性はその方が体型的に整って見える。特に日本人男性は肢が長くないので、ベルトが外に出ていないと余計に肢が短く見える。肩幅が極端に広ければ、ヒップが小さければ、それでも恰好がつくのだが、肩幅も狭く、ヒップも大きいとシャツを外に出すファッションはどう見ても釣り合いがとれない。流行だからと云ってしまえばそれまでだが、良い物は多いに取り入れるべきだが悪いものまで流行だから、時代だからと飛びつくのは感心しない。

このように書いてきて、私は大昔の会社勤めの時代を思い出していた。真夏には会社まで1時間以上も掛けてカランコロン下駄を鳴らしながら通ったこともあった。私は昔から晴天の日に長時間歩くのは苦にならない。独りで歩道を歩きながらさまざまな空想を巡らすのが好きであった。小学生の時からそうであった。下駄を履く機会さえも無くなってしまったが、そのうち海外の知らない街を下駄ばきで歩いてみたい。

天災が教えようとしているもの

2008-06-01

中国四川省の大地震による死亡者は最終的に三万人を超えると予想されるし、ミャンマーのサイクロンによる死亡者は七万五千人以上とも云われる。両方ともものすごい数だが、かろうじて生き延びることが出来た被災者はその何倍、或いは何十倍に達することもまた確実であろう。どちらも形は異なるが自然災害であり、前もって予測できるような時間的余裕もなく、まさに「一瞬の天災」としか言いようがない。

いつも思うことだが、大自然の脅威に対し人間は無力なのだ。中国はオリンピックを成功させようと「人間らしい」努力を重ねた。チョモランマにチベット系の人達を登頂させて、世界各地で何度も「消えた聖火」を高く掲げ、6時間にもわたってTV実況させた。謂わば強引に「発展する中国」「世界の中国」「統一された中国」をアピールしようとした。

けれども大国中国の敵は意外なところからやって来た。阪神神戸大震災の30倍とも言われる規模の大地震だ。近代化する上海や北京とは裏腹に、やや見過ごされ続けてきた感のある山間部・辺境地域に対して望ましくない形でスポットライトが当たってしまった。私は前にもここで「急ぎ過ぎた中国」と指摘したが、巨大な国土を持ち、巨大な人口を抱える中国は、急ぎ過ぎてはいけない国なのだ。

中国もミャンマーも、海外からの救助隊を何故か最初は拒否した。その結果、もしかしたら救出できたかもしれない命の多数を失ったように思える。被災者の命よりも、国家の機密の方が優先する悲しい国なのかもしれない。私は最近、日本でも個人情報保護法のせいなのか、振り込み詐欺が横行したせいなのか、個人の情報を公表してはならないと云う風潮があるが、何もかも隠して生活することが良いことだとは思わない。暗証番号とか、パスワードとか、認証番号とか…どれがどれだったか分からなくなって、結局、自分自身のものなのに自分が使えなくなってしまうようなことも多い。例えば「楽天」に私の認証番号やパスワードはあるのだが、忘れてしまっているので買い物が出来ない。記録していなかった私も悪いが、認証番号やパスワードと云うのは、それが必要な人だけが行うような方式に変えてもらえないものだろうか。

コンピュータ社会は情報の伝達処理と云う点においては確かに速くて正確でもある。けれどもいったん何かの非常事態が起こって、緊急を要するときに、本人や担当者以外では認証番号やパスワードが判らないと何一つ作業が進まないとか、対処できませんと云うのでは、ウサギとカメの競争のように昔の方が結果的に早かった、と云う事態にならないとも限らない。

占いの世界においても、一時期、私は自分が監修した占いソフトを使ってホロスコープや四柱命式を出していたが、今ではまた元に戻して手書きのものを使うようになってしまった。私の場合は手書きの方が早いし、何よりも感覚的に判断しやすいのだ。コンピュータ画面ではどうしても惑星記号・度数が重なりやすく、判別しにくいケースが出て来る。それに占いはホロスコープや命式が正確だから的中すると云う性質のものでもない。1分1秒の違いさえもおろそかにしない研究者がいるが、そういう人たちが実際の判断ではオーブと呼ばれるアスペクトのずれをイージーに扱っている。これでは正確さなど意味がない。見せかけの正確さで「科学的」などと云う表現を用いるのはおかしい。

大体、近年、日本の科学技術が世界的に再び見直されて来つつあるが、その中には日本人の経験的な指先技術の優秀さや、視覚・触覚に頼った先端技術も含まれている。地震予知や気象予知の分野も、データに頼り過ぎているせいか、巨額の研究費用を投じている割にはなかなか成果を上げられないでいる。

古代人は、経験的な記憶の集積と身近な自然界における変化、本能的な予感能力によって、種々な自然災害や天災に対処してきた。地震雲などは自然界における前兆の良い例であって、大地震が起こるたび多数の報告や写真が伝えられている。今回の場合は知らないが、私はきっと存在していたはずだと思っている。サイクロンとか、竜巻とか、台風とかにしても、巨大で大災害をもたらすようなものは、必ず何らかの前兆を伴っているはずだ。

以前アメリカで同時爆破テロが起こった時、崩壊していくビルを写した写真の中に、悪魔のような形相の顔が煙幕の中で心霊写真的に出現していた。ただの偶然と云うには余りに奇妙な現象ではないか。過去の様々な歴史文明の中には、明らかに突然それまで築かれてきた文明が崩壊してしまったかのような遺跡群も多い。もしかしたら驕り高ぶった人類に対して、警告を発するような意味合いも含めて、太刀打ちできない自然災害はやって来るのかもしれない。