4月, 2010年

曲がり角の時代

2010-04-14

時代は“急速に変化している”という実感をいろいろなところで思い知らされる。いつもの通り道なのに、先日まで存在していた店が無くなり、新たな店がオープンしている―そんな光景はことさら珍しくもない。都会の中心部ではどこでも日常的に体感できる。ところが地方へ行くと、そうはいかない。何十年経っても、変わらない風景というのがある。それが美しく景観に恵まれた地域であれば、その方が良い。けれども、そうではなくて重苦しい雰囲気の錆ついた商店街とか、老齢化した住宅街の場合、変化のなさは活気のなさに繋がっている。

世の中全体は急速に変化しながら、それに取り残されていく地域、企業、人、分野等もある。急速に変化すること自体、良いのか、悪いのか、一概には結論付けられない。多分、良い面と、悪い面とがあるのだろう。そういう探求などする間もなく、時代は間違いなく変化する方向へと動き出している。例えば小学生の教科書が四割増しとなるのだという。“ゆとり教育”等という言葉がもてはやされた時代、円周率を「3」という整数で教えた教師が、再び「3.14…」に戻すのだという。その分、また教科書が厚みを増した、という訳だ。普天間やダムの問題だけでなく、こういう微妙な問題でも、行政の犠牲となってしまう子供達はいる。薄い教科書で教えられた子供達は、その前後の世代が厚い教科書で教えられていることに、やがて気付き“薄っぺらな人間”に育てられたことを嘆くかもしれない。近代史をきちんと学べない日本の子供達は、中国や韓国や北朝鮮などの一方的ともいえる歴史解釈に対抗できない。北朝鮮ほどではないが、教科書で学ぶ“近代の日本国”は、中国や韓国の子供たちにとって“良い国”ではなかった。それでもインターネットの発達によって、或いは日本旅行や留学体験によって、それらの誤解や弊害やわだかまりも徐々に薄れつつある。世界の“思想”や“情報”や“文化”の共有という点において、インターネットのもたらした功績は計り知れない。

その一方でインターネットのもたらす功罪もまた忘れてはならない。大衆を先導してしまう可能性のある手段でもあるだけに、使い方によっては“悪魔”とも“凶器”ともなりうるからだ。特に「ツイッター」という活用の仕方は、政治や企業に悪用される可能性も含んでいて、私個人はあまり好感が持てない。それでなくても、日本人というのは根拠のない“噂”であるとか“風評”であるとかに先導されやすい。週刊誌のようなネタに洗脳されやすい民族なのだ。例えば雑誌とか、TVとか、ネットとかで、何度も同じお店が紹介されると、いつの間にか自分自身もその店を訪れていたかのような錯覚に陥る。そして周りの人に対しても、雑誌読者やTVモニターの話を、あたかも自分自身の体験であるかのように話してしまったりする。そういった或る種危険な催眠術的効果をツイッターというのは促進しやすいのだ。

日本ばかりでなく、インターネットの普及によって、世界がほぼ同時進行のような形で、渦を巻く時代の変化に押し流されそうになっている。ところが実際には、それは国や地域の中枢部とも言うべきところで生活や仕事をしている一握りの人々で、大部分の地域や大衆は遅れながら、ゆっくりとその後を付いて歩んでいるにすぎない。それでも確実に世界のどの国や地域もが、大きな時代の渦に飲み込まれつつある。或る意味では国や人種や民族の個性が無くなり、横一線に並び始めたとも言えるし、特に“新興国”と呼ばれる地域で、追い付け追い越せのパワーが、今や“先進国”地域を抜き去り始めたともいえる。但し、あまりに急速に、あまりに多くの矛盾を抱えながら走り始めた国々は、やがて立ち止まらざるを得ないときが来るのに違いない。

既に立ち止まり始めた国々では、もちろん日本もその中にあるのだが、手作りとか、触れ合いとか、長年の勘とか、伝統とか、絵手紙とか、古式豊かな技法とか…に“大いなる価値”を見出す時代に入りつつある。“エコ生活”というのも、その多くは“昔に帰ろう”という呼びかけに過ぎない。もちろん、その一方で“太陽発電を取り入れた住宅”や“電気自動車”や“省エネ家電”等も次々と発売され、近未来と手を繋ぐエコ製品も、金さえあればの話ではあるが…我々の暮らしを徐々に変えつつはある。

一時期、日本は国民の7割までが“中流”と答えた時代があったが、もはやそれも遠い昔へと変わりつつある。明らかに経済的な格差と歪みが種々な形で生じつつある。先にも述べたように、それは個人としてだけでなく、地域にも、企業にも、分野にもあって、今後ますます広がりを見せていくのに違いない。平等にしよう―という努力のはずが、どっちつかずと成って、結果的に“縮小していく日本”を作り、皮肉なことに“格差の拡大”を生み始めていることにどれだけの人が気付いていることだろう。あらゆる面で“曲がり角に来ている時代”大都会では今日も新しいビルが完成し、新しいお店がオープンし、新しい装いをした女性たちが闊歩している。その一方で、忘れ去られたように何十年も前のビルのシャッターが閉められ、歩く人も乏しく、老朽化した住宅が立ち並び、まるで揃えたかのようなくぐもった服装をした老人達がふらふらと歩いている地域がある。

哀しい政治家たち

2010-04-07

北海道5区選出の民主党・小林千代美議員の裏口座に北海道教職員組合からの1600万円の違法献金が入金されたことが確認されたらしい。政治家絡みの違法献金とか賄賂とかは珍しくもないが、それが“教職員”によって行われたのかと思うと暗澹たる思いが拭えない。子供達に“道を説く人達”が違法なことを行い、それによって当選した議員が「自分は知らなかった」と言って、議員を続けようとする…私は彼女の経歴を知らないが、多分、前歴は教育関係者であったことは間違いない。本人なのか、秘書なのかは知らないが、議員側から違法献金を求めていたことは以前から指摘されている。資金不足なら、最初から政治の世界になど打って出なければ良い。もし誰かに担ぎ出されたのなら、どうして最初から、その点を理由に断らなかったのか。思想・理念のためなら法律を冒しても良い…という理屈は成り立たない。未来を担う子供たちを教える教職員が、犯罪に加担してどうするのか。何をはき違えているのだろう。

時々「正義とは何だろう」と思うことがある。以前、或るTV番組でジャーナリスト出身の鳥越俊太郎氏が「この程度のことは許されるんじゃないですか」と、民主党・政治家の献金疑惑をかばったことがある。自民党政治家たちには“甘え”を容認したことがなかっただけに、その言葉は意外な響きで私に伝わった。結局、彼の正義も公平なものではなかったようだ。人間は誰でも自分に甘く、他人に厳しい傾向がある。かくいう私だって、自分には甘い。だから偉そうなことばかりは言えない。ただ、普段いかにも公平に見せながら、倫理を説き、正義の使者らしく振舞いながら、仮面の下の素顔に“地位”や“金銭”に縋りつく部分が見えると、何とも言えない哀しい気持ちになる。自民党を“出る”“出ない”で騒いでいる人達もそうだし、かつては“理路整然とアメリカ外交を説いていた”現政府首脳たちもそうである。政権を取ると同時に口が重くなり、語れなくなり、一つの決断さえも出来ず、先送りばかりしている。いったい、政治家たるものの信念はどこへ行ったのか。いや、最初からそんなものは持ち合わせてはいなかったのか。

政治も宗教も“すべての人に対して公平”等ということは土台が無理なのだ。完全無欠などということは、最初から謳わない方が良い。私が行っている占いの世界でも、よく“的中率99%”とか“科学的占い”とか“必ず開運する”とか“望みを叶える”とか“癌でも治す”とか、あり得ないことを公言している占い師たちがいる。この“あり得ないこと”を、まともに信じる人達もいる。占いは、あくまでも占いであって科学ではありえない。この点さえも反論しようとする人たちもいる。科学とは何か…という根本の部分が分かっていない人達だ。別に占いは科学でなど―ある必要性はない。むしろ、科学とは言えない部分があるからこそ、まだまだ未知数で探求の価値があるのだ。学術として未完成だから、種々の可能性が残されている分野の一つなのだ。また逆に正統科学的なメスを加えて研究し直すべき分野の一つでもある。

的中率に関しては、大体がいい加減なものであって、世間的な占い師への評価など、それこそ科学的に見て不自然極まりない。思い込みで的中率が評されているケースは極めて多いのだ。そういうものに振り回されると確かな研究など出来なくなる。必ず開運する―というのもおかしな話で、確かに占いには“開運(改運)法”というものもあって、そなれりに効果は期待出来るが“絶対”ではない。そんなことは当たり前であって、科学の1分野である医学であっても、病から命を救える確率はまだまだ低いのと同様である。当然“癌を治す”特効薬などではない。

“夢を叶える”とか“望みを叶える”とかいうことに関しては、これも当然ながら叶えられる場合と、叶えられない場合とがある。ただ、叶える確率を高めることは出来る。但し、占いから示唆された通りに実行してくれた場合の話ではあるが…。それとても、絶対などという奴は信用できない。的中率でも開運法でも、100%とか、絶対とか、あり得ないことを真顔で言う占い師は、そもそもが自分を何様だと思っているのか。ユーモアとか軽いジョークを含めて言う分には罪はない。真剣に言っているとすれば、そのことの方が問題なのだ。医者でもそうだが、優れた医師ほど“絶対に治せる”などとは確約しないものだ。“確率としては五分五分です”とか“とにかく最善を尽くすとしか言えません”とか“治る奇跡に賭けてみましょう”とか言うはずだ。

政治家だって同じことだ。最初から出来るかどうか解からないものを“必ず出来る”と断言する政治家は信用できない。“出来るよう命懸けで取り組みます”が、正しい答えだろう。それだと選挙には勝てないから、必ず出来る―と断言するのは卑怯なやり方だ。商売としての「政治屋」ならそれでも良いが、使命感に溢れた政治家のすることではない。多分その背景としては、いったん政治家としてバッチをつけた以上、二度と元の仕事に戻れないとか、新たな仕事先を見つけるのが難しいとか、高額な収入源を失いたくないとか、名誉を維持し続けたいとか、そして何よりも所属する党上層部から“無言の監視がある”等と言ったことがあるのだろう。

そういった種々の背景が分からないほど私も世間知らずではないが、どういう理由があったにせよ、国民からの税金を所得源とする政治家の場合、さらに「法律を作る側」である政治家の場合、ましてや小林議員のように“子供達を導く存在”であったはずの前職である場合、政治屋の色に染まらず、もっと清やかな生き方をして欲しい…と願うのは私だけであろうか。