6月, 2010年

“ニューヨークの4人の女性達”と“日本の4人の女性達”

2010-06-15

『セックス&ザ・シティー』というアメリカ映画がある。元々はTV番組で好評を博し、それを映画化してヒットした作品だが、その「2」の日本公開に先立って主演女優4人が来日した。多分40代?の女優達だが、日本女性にもファンが多いらしく熱烈な歓迎を受けている様子がTVに流れていた。私などの好みからいえば、特別美人とか、可愛いとか、知性的とか、セクシーとか感じさせる女優は残念ながらいないが、いかにもニューヨークらしい華やかな雰囲気の女優達ではあった。この作品には以前から興味はあったが、映画館にまで足を運ぶほどのものとも思えず観賞していなかった。ところが先日この映画の「1」の方がTV放映されていたので録画して見てみた。それぞれの女性達が、いかにもニューヨークらしい“愛の生活”を送っていて、もはや若くはない女性達の“友情?”と“恋愛の顛末”を明るく描き出している。このような作品が、実際にアメリカで生活している女性たちばかりでなく、日本の30代以降の女性達からも一部熱狂的な支持を集めていることが、私には興味深くもあり、不思議でもあった。そこで上映開始となった「2」の方も映画館に足を運んで見てきた。こちらの方が、よりドタバタ劇的で映画作品としてなら面白いかもしれない。何より“アメリカ的”なのだ。それに今回のロケ地となった“金満の国・アブダビ”は、この女性達の舞台としてふさわしい。ただ風刺しているのかもしれないが、海外シーンには不適切な場面が無いでもない。

この作品がアメリカ女性に受けのは、4人が着こなす“衣裳”とか“装身具”とか“暮らしぶり”等にもあって、或る種の羨望や流行の先取りとして注目を集めている…と報道されていた。確かに、この作品の背景となっている街、住宅、ホテル、衣裳、装身具のどれをとっても、地味な会社勤めのOLとは無縁なものとなっている。自己主張の強い“アメリカ女性の典型”とも言えそうな上昇志向というか、虚栄というか、或る種の単純さが随所に表れている。だからアメリカ女性に受けるのは分かるのだ。けれども日本女性が持っている“繊細さ”とは微妙に異なるドラマだ。確かにファッションなどは一見の価値がある。けれども“女性の生き方”という点に関しては、日本ではこのドラマのようには必ずしも展開しない。いやアメリカだってそうなのかもしれないが、より日本の方が、日本人社会の方がこのドラマのような展開を快く捉えないだろう。だからファッションとか、暮らしぶりとかに憧れを抱くのは良いが、生き方そのものにまで憧れてしまうと、後になって後悔することになりそうな気が私にはする。

もっとも、最近の日本には“華やかな生き方”を選択する女性達が増えてきたことは事実だ。“恋愛”“結婚”“家庭”“仕事”に対しても、明かに“アメリカ的”に変わりつつある。特に芸能人にはそういう生き方が多くなった。例えば、神田うの、三原じゅん子、青田典子、酒井法子など、それぞれが自らの“個性を前面に出した生き方”をしている。ただ日本女性4人の周辺は、ニューヨーク女性4人のように暖かい眼差しばかりではない。この4人は、いずれも“仕事と結婚”を天秤にかけているかのような部分があり、“傷ついた過去”があり、自分なりの“愛の在り方”を主張しているような部分もある。それらは、もちろん現代日本が今後抱えて行くだろう“アラフォー世代の愛”そのものの縮図とも言えそうだ。ただ何度も言うが、日本はアメリカではない。そして日本女性はアメリカ女性ではない。骨格逞しいアメリカ女性とは違って、もっと繊細で傷つきやすい生き物なのだ。そして日本社会も“それぞれの生き方”を基本的に承認するアメリカとは微妙に異なる。そこに日本女性の“選択の難しさ”があることをユメユメ忘れてはいけない。

変化し始めた評価の基準

2010-06-09

世の中がいろいろなところで変わり始めていることは誰もが感じていることだろう。あきらかに誰の眼にも分かる形での変化は理解しやすいのだが、案外、眼に付きにくい形で変化しつつあることも種々な分野で出始めている。例えば、男・女に対しての評価である。私が若かった頃、男性が“顔の美醜で評価される”ということはほとんどなかった。いや正確に言うとあったのだが、その多くは俳優とか歌手とか、いわゆる“顔を商品としている職業”の人達であった。一般のお店とか会社勤めの男性達までが“顔の美醜”で評価を受ける…等ということは余程極端な出来栄えの顔でもない限り考えられなかった。もしかしたら、皆それぞれに「彼はイケメン」等と感じていたのかもしれないが、そのことと社会人としての“男性の評価”とは全く別物と捉えられていた。ところが、どうも最近はそうでもなくなって来ているように感じられる。もちろん、それだけで評価されることはないにしても、その部分へのウエイトが大きくなったことだけは間違いない。

そして、それを象徴するように、似たような顔立ちの“イケメン俳優・歌手”が圧倒的に多い。若い人達が次々と出てくるので、私など、今や顔の判別さえつかなくなってしまっている。しかも日本人だけなら、まだ理解も出来るのだが、最近はどういう訳か韓国人男性が多い。日本語さえたどたどしい韓国人タレントに、何故、ああも熱狂するのか“韓国顔”が良いのか、奇妙でさえある。奇妙と言えば、女性芸能人の方は“韓国顔”は男性ほど支持されていない。あくまでも“韓国イケメン”が受けているのであって“韓国美女”ではないようだ。

それはともかく、古今東西、あらゆる時代・地域で、女性は“美しく”が評価を得る第一の基準だった。それに対して男性の方は“腕力”“財力”“能力”のどれかが、第一の評価の基準だった。“戦いに強いこと”が評価の時代もあれば、 “金があること”が評価の地域もあれば、“頭の良いこと”が評価の民族もあった。決して“顔の良いこと”は評価する基準に含まれていなかったはずだ。ところが時代は確実に“男の顔の美醜”を評価基準にしようとし始めている。

占いの世界でも、最近は“イケメン”に属するような占い師が多くなった。まだまだその比率は低いので、私のような“普通の顔立ち”でもどうにかなっているが、そのうち“イケメン占い師”でなければマスコミには登場させない、などという時代が来るのかもしれない。私が尊敬する19世紀末~20世紀初頭にかけ活躍した手相家キロは、誰が見ても“イケメン”と思えるような絶世の美男子であった。私が少年期から強く憧れたのも、もしかしたら本能的にそういった容貌的雰囲気も手伝っていたからかもしれない。残念ながら私にその要素はなかった。能力的にもはるかに及ばなかったが、何よりも容貌的に“遥かに遠い存在”のままであった。キロが身分の高い女性の顧客をたくさん抱えていたのは当然と言える。

現代でも、彼のような容貌があればたちどころに人気が出るのは確実である。彼の場合は能力的にも素晴らしかったからだが、現代日本であれば、多分、能力等そこそこで良い。TVや女性雑誌に頻繁に出れば、間違いなく爆発的に人気を掴む。昔の日本女性ならそうとも言えない部分があるのだが、現代女性なら100%確実である。何がそうさせるのだろうか。その、最も大きな理由は日本女性が変わったからである。

つまり、現代は女性でも自分で腕力や財力や能力を持つことが出来るので、それらを男性の評価に求めなくなったのだ。ここで言う“腕力”には肉体的なそれもあるが、それ以上に古代は戦いによってのみ得られた“社会的地位・権力”をも意味している。自分達が得られるものに対して、魅力を感じなくなるのは当然と言えば当然と言える。だから新しい男性像として、古来女性の評価基準として求められてきた“美しさ”を評価の基準として加えるように変わったのだ。男性達もまた女性に対して“美・醜” だけで評価する時代ではなくなりつつある。けれども、本能的に男性は女性の“美”に弱いし“優しい気遣い”や“可愛らしさ”に脆い。女性を評価する基準として、それらが外せないことは隠しようもない事実だ。どんなに“権威”があり、“財産”を持ち、“才能”を備えていたとしても、美しさや、優しさや、可愛らしさの全くない女性を高く評価するのは難しい。それらから考えると、日本女性は大きく進化し、日本男性はいつの間にか取り残されつつある…時代と言えるのかもしれない。