5月, 2011年

本当の「正義」とは何か

2011-05-27

2001年9月11日に起きた「同時多発テロ事件」の首謀者とされるウサマ・ビンラディンが米特殊部隊によって殺害された。

一説には人気が下降気味のオバマ大統領が“人気回復の手段”として強行した大博打だとも言われるが、果たせるかなアメリカ国民はこのニュースに熱狂的な支持を送った。アメリカ人の国民性から言って、当然ともいえる反応ではあるが、日本人の一人である私としては何ともやりきれない感慨が先に立つ。

かつてアメリカは似たような意識の元にイラクのフセイン元大統領を処刑台に送った。どちらも世界中が納得し、喝采するのが当然と言わんばかりの公表の仕方であった。確かに、アメリカの映画やドラマ等でよく見るシーンだ。この手のアクション映画がアメリカには多い。「正義の使者」と、それに対抗する「悪魔の手先」との攻防で、ついには正義が勝って、悪は滅んでいく…というストーリーだ。

もちろん、フセインもビンラディンも“手段を択ばぬ攻撃”をしかけ、その結果あまりにも多数の罪もない人々が犠牲となったことは事実で、その意味で「大罪」を犯していることは間違いがない。その点では全世界の人達に異論はないだろう。ただ、だからと言って問答無用に急襲し、殺害し、それを歓喜し、全世界の人達もその美酒に酔え―というのはいささか乱暴で怖い論理のような気がするのだ。

確かに身勝手な論理の元、罪もない多くの人を急襲し、死に追いやった行為は許されることではない。そういう指導者を抹殺したい気持ちは分かる。しかし、それで本当に「悪魔」はこの世から消えるのか。かつてアメリカはそう主張し、フセインを葬った。けれども、あれから何年も経過したが、未だにイラクの情勢は不安定だ。フセインが消えたのに、むしろ消えた後の方が多数の一般市民やアメリカ兵が犠牲となっている。完璧に「平和な国」になど変わってはいないのだ。同じことがビンラディンにも言えないだろうか。確かに「9.11」の首謀者は消えたかもしれないが、それで“イスラム過激派”が壊滅するわけではない。第一、格闘技の世界ではないのだから、やられたらやり返す―という論理は堂々巡りとなる可能性を秘めている。心から安心できる解決法であるとはとても思えない。

或る意味で、アメリカ人の思考は単純で解かりやすい。とにかく危険なものは徹底的に力で抑え込むのだ。アメリカの“考え方”が全世界にとって正しく、アメリカの「正義」は世界にとっても正義なのだ。それ以外に「正義」はない。

私はここで一つの思想を思い出す。

古代エジプトの世界では「正義」と「真実」はイコールで繋がっていた。彼らは「正義」と「真実」と同じ文字綴りで当てはめていたのだ。文字通り「正義」=「真実」だったのだ。現代アメリカの思考方式は正にこれなのだ。だから何の迷いもなく、敵が丸腰であっても問答無用で殺害できるのだ。それはアクション映画で正義のヒーローが、最終的に悪魔の手先を死に追いやっていく手法そのままなのである。日本でも昔の時代劇はそうであった。その方が映画や小説なら解かり易くて良い。悩まなくて済む。

現実の世界でも、例えば“悪魔の手先”が1人なら、或いは少数なら、すべて皆殺しにしてしまえば、それでことは済み、世界の秩序は一応保たれるのかもしれない。例えば今回の場合、いわゆる「アルカイーダ」と呼ばれる彼の組織を根こそぎ襲ってしまえば、終わりが来るのだろうか。これが、そうではないのだ。何故なら、ビンラディンの組織の根底に流れているのは“イスラム過激派の思想”だからだ。決して、単なる軍事思想とか、改革過激思想なのではない。過激すぎるとはいうものの“宗教思想”の一派なのだ。「聖戦(ジハード)」という言葉が一時流行ったが、その言葉に代表されるように、宗教的な神に捧げる聖なる闘い―それこそが正に「聖戦」なのだ。それがどうして厄介なのかというと、悪いことをしているという自覚など全くなくて、いやむしろ正しい行いと信じての「殺掠行為」とか「ゲリラ闘争」を繰り広げている点にある。「神」の名の元に本気で正しいと信じ切って“過激殺掠行動”に出ている。「アルカイーダ」と似たような集団は他にもいるが共通しているのは「聖戦」の意識で、若干異なっても“イスラム教”が背景としてあることは間違いがない。

とかく日本人は、この部分が理解出来ないのだが、実は過激な宗教思想というのは昔からあって、世界各地にあって、つい20年ほど前には「オウム真理教」という過激集団が日本にもあったではないか。あれは特殊だとか、あんなものは宗教ではないと思うかもしれないが、あれだって宗教団体には違いなかったし、実質的にはヒンズー教に近いが仏教的な思想も取り込んだ新興宗教であった。実は彼らは近年の宗教思想団体だが、江戸時代にも、鎌倉時代にも、妖しい宗教思想はあった。例えば「真言立川流」という密教系の宗教思想がある。妖しい部分だけが取り上げられがちだが、仏教思想が背景としてあることだけは否定しようがない。欧米ではイスラム教の分派である「アサシンズ」というカルト殺人教団が昔から存在した。キリスト教系でも昔から「KKK教団」という“白人至上主義思想”と“悪魔崇拝”が存在している。一時期「人民寺院」という宗教組織が集団自決して注目を浴びたりもした。要するに、妖しい思想とか、危険な思想を含む宗教思想団体というのは、いつの世にも、どこの地域にも存在しているものなのだ。

彼らに共通しているのは“正しいと信じて行っている”ことで、それが或る種の“集団催眠”であったとしても、いったん「正しい」と潜在脳にまで植えつけられた意識は余程でなければ覆せない。「どうして、そんな宗教に…」と誰でも思うのだが、子供の頃から教え込まれた思想を根底から覆すのは、実は大変に難しいのだ。

ビンラディンの「アルカイーダ」の場合でも、徹底した軍事訓練だけでなく、思想教育も行っていて、その思想が“イスラム過激派”としての宗教思想なだけに、敵の頭領の首を捕ったら終わり―という集団ではない。過激派でなくても、イスラム教の根本的な思想として、神は“自分たち一族・血族・民族に力を与える存在”として信仰し続ける。決して“個人の為の神”ではない。ここがキリスト教などと根本的に異なるところだ。したがって、自分たちの世代で達成出来なくても、子孫の世代で達成してくれるなら“祈りは通じた”という考え方が背景にある。だから「自爆行為」も辞さないのだ。そういう集団を敵に回してのビンラディン殺害は何を意味するか、アメリカの「正義」は「真実」と繋がるのか、今後の歴史が証明するだろう。

時代は占い師に何を求めているのか

2011-05-07

「占い」が時代や地域を反映している“文化の一つ”であることは否定しようがない。インターネットというものが普及し始めて以降、さまざまな意味で“占いの世界”は大きな変節を迎えた。それまでの“直接占ってもらう”という形式から、オンラインやモバイルを通じて占ってもらう形式を世の中に浸透させたからだ。その結果として、今やパソコンや携帯電話を使って占ってもらうことは当たり前の時代に変わった。

もちろん、それによって“直接占ってもらう”形式が廃れたのかと言えば、そうではない。むしろ、そういう世の中に変わったことで、逆に直接目を合わせて占ってもらうことに価値を見出している方も多い。占う側も、直接鑑定の方が気持ちが入り、対個人としての心情がプラスされ、より真摯な意識で鑑定・アドバイスする場合も多い。鑑定料金もどちらかと言えば割高となる場合が多く、それでも来て下さるお客様を大切に思うのは自然な流れでもある。

もっとも、占いというのは相性があって、直接鑑定が良い人、電話鑑定が良い人、メール鑑定が良い人、PC-Web&モバイルコンテンツの占いが良い人…それぞれあって、どれだから当たるとか優れているとか一概には決めつけられない。人によっては状況により“占い方法”を変えていく方もいて、それはそれで良いのではないかと私は思っている。もちろんこれは「波木星龍」に対しての方法論であるが、占う事柄によって“占い師を選別する”というのも一つの方法としてお勧めできる。別に誰か“他の占い師”に占ってもらったら悪い…などと思う必要は全くない。少なくとも私の場合はない。

よりよい人生を歩むために活用するのが「占い」だと思っている私は、あらゆる人があらゆる形で利用できる部分を利用すれば良い―と思っている。もちろん、中には「占いなど信用出来ない」と思っている方もいるだろうし、実際、そういう占いもある。それに“占いに人生を振り回される”のはもっとも良くない。一から十まで占いで決めているような方もいるが、そういう使い方は感心しない。あくまでも、大きな局面、二者択一、危機の回避、チャンスへの可能性等に用いるべきだ。そして、占ってもらう以上は、占いの結果やアドバイスを参考とし、尊重しながらも、最終的には自らの判断で決断し行うべきである。占い師が自分の判断に自信を持っている場合“強く示唆する”こともあるが、占いは強制するようなものではない。稀に強制するような占い師もいるが、そういう本来の役目を履き違えた占い師を信用してはならない。

今回の“大震災”は未曾有の災害をもたらし、日本全土にその影響が及んだことで、占い稼業をしている者たちにとっても様々な教訓や反省をもたらした。私の場合、ほとんど毎年のように「来年の日本を占って欲しい」という企画・依頼がマスコミ等から来るケースが多いのだが、何故か昨年は全く来なかった。したがって、日本国全体の2011年の運勢とか、2011年の自然災害とか、世の中の重大事件とか、そういうのを一切占っていなかったし、発表していなかった。わずかに、似た意味合いでなら「菅総理の2011年の運勢」については発表している。そこでは、3月と10月にこの政権の危機があること、過去の歴史に学ぶことが彼には大切なこと、次々と決断・決定が迫られ内部批判をかわしやすいこと―などが記述されている。一応、的中している部分が多い。けれども、このような大災難が襲ってくるとは予知できなかった。そういう意味では反省点が多い。

私は感覚的に捉えたこととして、このコーナーで今年を神戸の大震災の年と比較し「これだけでは終わらない」と言い切り“サリン事件”に匹敵する何かが起こらなければ…と書いたが、図らずもそれは“放射性物質拡散”という形で今も続いている。こういう悪い予知の的中は、当たっても決して嬉しくない。むしろ外れて欲しい…と願うケースが多い。個人の占いでもそうだが、そういう時に限って的中してしまう。因果な商売だ。もちろん、個人の場合、それを回避する方法も一応伝えておく場合が多い。ただ、あまり回避法を強調するのもおかしいので、その辺が難しい。

私は今回の大震災を「戦後の焼け野原」にたとえ、それゆえの“逞しき復興”が必要であると強調した。実は全てが失われた“大いなる変身”は「占い」にも「占い師」にも必要なのだと私は思っている。「占星学」を象徴する惑星でもある天王星が「おひつじ座」に入ったことで、大震災が起こったことで、津波で地形が変化したことで、放射性物資を撒き散らしたことで、日本の占い&占い師は新たなる時代の“新たなる占い”を要求されている…と私は思うのだ。これまで通りの占いで安穏としていてはいけない。終戦後、間もなく、私の最も尊敬する中村文聡氏は次のように書いている。

「私は第二次世界大戦で古今東西の文献のすべてを失った。但し、その時、私はこう感じた。運命学は時代を背景として生きている学問である。そうだとしたなら、戦後の運命学は戦前の運命学と根本的に異なる運命を持っているはずである。(中略)故に文献を失ったということは、新しい運命学を研究せよという一つの啓示であると悟った…」

このような決意のもと、彼は次々と“新しい占い方”“新しい見方”を生み出して、それを実験証明していった。その占いに対する貪欲な探求心と実占姿勢こそ、私が最も尊敬する所以なのだ。今後は「地震」「津波」「放射能」にさえ負けない“強力な占い”が必要なのだ。私ひとりの能力や発想など知れている。賛同される占い師が一人でも増えて、新しい時代の新しい占いを構築すべく力を貸していただければどんなに心強いことだろう。