10月, 2011年

占い書籍の問題点

2011-10-30

多くの方から、占い書籍の執筆・出版を期待されて、もう何年にもなる。今回は少しだけ言い訳というか、内部事情のようなものについて書いておきたい。

私の場合、間違っても人マネをするような形で著述することはない。自分自身の言葉や書き方で、過去の実占鑑定やデータを踏まえながら、読者にも理解できるようなものとして書いていく。それが「波木星龍の本」だと捉えている。ところが、そういう意図の元に占術書を書こうとすると、いろいろな部分で問題が噴出する。まず第一に、書籍というものには企画出版というものと自費出版というものがある。企画出版とは解かり易く言うと出版社がその製作費を受け持ってくれる形の出版形態で、多くの大手出版社はこの形を取っている。製作費だけでなく、宣伝費も持ってくれるので当然売れる確率が高い。逆な言い方をすると、売れそうなものでなければ企画出版の形を取らない。一方、自費出版の方は著者本人が製作費を負担するもので立派な本や図解多数の本にしようと思えば思うほど製作費が掛る。もちろん発行部数も企画出版と自費出版とでは相当に異なる。自費出版というのは余程話題にでもならないと広く流通しないように出来ているのだ。

そういう事情があるので、私としては出版する以上、本当はどこの書店にも置かれる書籍としたい。ところが、そのためには何よりも“解かり易いこと”“読み易いこと”“売れる本であること”が絶対条件となる。そうでないものは、土台が出版社を巻き込むことが出来ない。つまり、企画出版にならない。早い話が、理論的にも技術的にも実用書として、専門的に見て優れている占術書というのは元々あまり売れそうもない書籍内容となってしまうのである。昔から実占家が永年の研究やデータを網羅して著述した占術書はベストセラーになったためしがない。別にベストセラーに等ならなくても良いが、今は「出版不況」と言われて、売れそうもないものは大体が自費出版に回される。もちろん、望むような本が出来上がるのなら自費出版でも良いのだが、最初にも述べたように多数の図版・図表を含む本は、一般の自費出版専門の所は完全原稿として提出しないと中々OKを出さない。例えば手相の本を書く時、私のように図版が300枚とか入る場合、その図版と文字とがきちんと組み合わされた原稿なら受け入れるが、そうでなくてばらばらに提出した場合は途方もない金額が製作費として要求される。それでいて細かな間違いが生じやすい。これは元々自費出版というのは企画出版と違って優秀な編集者を付けないからである。つまり、大手出版社の場合には最初から企画編集するスタッフがいて、ページ割や図版配置等を決め、それに合わせた文字数の文章だけ著者が記述すれば良いように出来ている。これなら書く方も楽だし、見栄えも良く、読者にも解かり易い。占術書だけでなく、近年の実用書というのはそういう形式でまとめられたものが多い。もちろん、大手出版社の場合、製作費もかけるからカバーデザインだって多色刷りとか、派手なイラストとか、文字の強弱・大小・縦横とか自由自在だ。そういう諸々の作業を含めて最初から“売れるような体裁”に仕上げてあるのが企画出版なのだ。

そういう訳で、占術書の自費出版は様々な点で不利であり、良い本に仕上げるのは難しいのである。私は過去に手相の本を自費出版しているが、この時には精密な図版を280枚描くだけで1年以上掛った。正直、今、あの時のようなエネルギーはない。あの時のような細密な図解を280枚描けと言われても無理なのだ。しかも、あの時は文字もすべて自分で書いた。つまり活字を使わない“製図ペンを用いた手書きの本”なのだ。考えてみると、4ミリ四方の細かな升目を一文字一文字埋めていくのは大変な作業だった。それでも、手相書を技術書と捉えていた私は、精密な図解でなければ決して初心者が手相書からすべての掌線を理解することは出来ない―という信念を持っていた。もちろん、事情が許すなら、もう一度手相書を執筆する機会が与えられて欲しいが、多少角度を変えた企画本として上梓したいものだ。自費出版とするなら最初から専門技術書として、日本ではこれまで書かれたことが無いような内容のものとしたい。かつて占星学書として出版した『占星学秘密教本』は魔女の家BOOK社からの企画本だが、これは「自由に書いて良い」と言われて、思い切った内容で書かせてもらった珍しい本だ。この出版社が元々占術書専門の出版社だったからこそ可能になった話だ。この本でもホロスコープの実例を220枚以上入れさせてもらったが、後にも先にもこのように多数の実例を入れた占星学書は他にない。日本でも海外でも存在していないのだ。実際に調べてみると解かるが、どんな占術書でも実例図解をたくさん載せると製作費が高くつき、ページ数も増え、資料収集で制作時間もかかる。一般的にいえば占術書で実例が沢山載っているといっても数十例載せれば関の山で、実際に夥しいデータがなければ載せたくても載せられるものではない。ところが、実際に占いの本でベストセラーとなるのは、当たり前だがそういう小難しい本ではない。ほとんど実占経験が乏しそうな人物の書いた本が多く、いわゆる“初心者用の入門書”なのだ。そうしなければ、多くの読者を獲得することは出来ない。もちろん、入門書の執筆であってもかまわないが、実はこれまでの入門書には間違いが多い。ただ、それを是正しようとすると専門的な角度からの説明が必要となって、広く浸透している一般的な俗説を否定するところから出発しなければならない。いくら入門書だといっても、明かにおかしいことやデータ的に否定される事実を無視して記述することは出来ない。そういった諸々の問題があって、私でなくてもかけるオーソドックスな入門書の執筆には今一つ乗り気になれないのだ。

そうはいっても、私ももう先が長くないかもしれず、これまでの研究の一端は何らかの形で後世に遺しておくことが使命だとも思える。残念ながら私と共通する実証データや研究成果を、私の著書以外で市販書では見かけることがないからである。今後、どういう形になるか解からないが、徐々に形として著わしていくつもりなので気長に待ってもらえたならありがたい。

「点」と「線」が織りなす運命

2011-10-17

私達は誰でも、多数の人と関わりながら生きている。無人島にでも住まない限り、人と関わらず生きていくことは出来ない。そして、その中で様々な人と出会い、様々な影響を与え合いながら生きていく。人と人とが出逢うのは「点」だが、その結果として新たな人(点)とも関わることになると、そこに「線」が生まれる。こうして、様々な点や線の交錯する中で、私達の人生・運命は展開されていく。

例えば、私はこれまで多数の方達を占い、また多数の方達に占いを教えて来た。特に、私から占いを学ぶことになった方は何度も会っていく中で、おのずと私との出逢いが「人生上の点」として作用し、その後の人生・運命に変化がもたらされる結果となったケースが多い。私と出逢ったことで、潜在的な能力が引き出されて、またたく間にプロ占い師として活躍され出した方も多いが、そうではなくて別の形で人生・運命が動き出すケースも多い。例えば私から学び出したことで、霊能力が発動し出して霊感師となった方もいるし、すぐ私より高額で占い教室を始めた方もいるし、妖しい心霊治療を始めた方もいるし、伯父の会社を相続し会長に納まった方もいるし、事務員からスナックの経営者に変わった方もいるし、会社員から蕎麦屋さんに変わった方もいるし、スクール経営からたい焼き屋さんに変わった方もいるし、マッサージ師から電子書籍作家に変わった方もいるし、店をたたんで水産加工労務者に切り替えた方もいるし、介護士からランジェリー販売に変った人もいるし、女高生から風俗嬢へと変化した方もいるし、専業主婦から和服販売で一財産築いた人もいる。もし、これらの方々が、私と出逢うことなく、私の元へ一時期でも来ていなければ、多分、そういった方向へ“人生の切り替え”をしていたのかどうか―私には大いに疑問に思えるところがある。

ただ、一つ確実に言えるのは、私と出逢ったことで元々本人に備わっていた潜在意識下の扉が開き、隠れていた能力とか素質とかが、働き始めたように見受けられることである。もちろん、そのような変化が起こったことが、そのまま幸せに繋がっているのかというとその点は微妙で、もしかしたらそれら素質や能力が、引き出されなかった方が幸福でいられた人もいるかもしれない。もちろん、私と出逢うことがなくても、何人かは自然に大きく運命が切り替わっていったかもしれず、その辺は一様には論ぜられない。それにしても、占いを学びに来たはずの方達が、全く畑違いとも言うべき方向へ動き出していくのはどうしてなのだろう。一つには、私の所に来たからかどうか知らないが、間もなく新たな出逢いが生じて、それが運命を変えていくからではないだろうか。そういう意味では、一つの誘い水として私の「占い教室」があるのだと言えなくもない。もちろん、誤解して欲しくないので記しておくが、そのまま占い師となられた方も少なからずいる。人と人とが出逢うのは一つの「縁」だと確信している私は、私と縁を持った方々が、どのような分野に向かおうと素質や能力を大いに開花させ、活躍されることを心から願っているが、途中から音信不通となってしまい心配している方もいる。

近年は、別に直接の交流はないけれども、以前から何らかの形で顔や名前を知っていて、活躍されていた占い師の方の中に、予想外の変貌をされている方が何人か出て来て私を驚かす。その1人はJ・H・マイヤー先生だ。彼女は、私が昔関わった榊天崇先生や木星王先生の元で彼女が働いていたことがあり、彼女の占い連載を偶然にも私が引き継ぐことになったり、私の付き合った女性が彼女の店で働くことになったり…いろいろ奇妙な縁があったものだ。そのマイヤー先生だが、私がニフティ等で占いのコンテンツを開始して間もなく、東京へと進出し、同じようにコンテンツを開始して、札幌から消えてしまった。ところが、今年になって大震災が起こって間もなく、東京からも引っ越して、何と沖縄へと住居を移したらしい。その1人は天野雲海先生だ。彼は私の「新西洋占星学プロ版」というソフトを開発してくれた恩人で、元々は愛媛県の出身だが北海道の大学を出ていて、会社勤めの後、占いソフトの開発に力を注ぎ、その後コンテンツなどでも活躍するようになった。東京にも事務所を持っていたが、今年に入って、愛媛の自宅も、東京の事務所も売り払って北海道の鹿追町へと住居を移した。馬をこよなく愛していて、牧場主へと転身を図ったのだ。

人は予想外の所から人生・運命が転換していく。私自身も、このまま占い師としてだけの道を歩み続けるのか、それ以外の方向にも分散していくことがあるのか、正直、よく分からない。その方が不可思議で、魅力的でもあり、茫洋とした可能性を感じさせるではないか。決まり切った人生ほど、つまらないものはない。

自然災害の脅威

2011-10-05

台風15号が日本列島を直撃している。今年は様々な意味で、大自然の脅威を痛感させられる年だ。噴火→大雪→地震→津波→放射能→台風→洪水→崖崩れ→土砂ダム→と、終わりのない脅威が続いている。私は自分自身がまだ幼かった頃のことを思い出す。物心ついた時、私は雨漏りのする家で暮らしていた。雨漏りのする家というのは当然のことながら、雨が降ると寝るのが難しくなる。あちこちに空き缶を置かなければならなくなるからだ。優しい雨なら2~3個の空き缶で済むが、激しい雨の場合は8~9個の空き缶が必要になる。しかもすぐに溜まって溢れだすので、放って置けないのだ。夜通し寝ずにいることも大変なので、交代で寝る。どうするのかというと、比較的雨漏りの少ない場所を確保し、そこに蒲団を敷き、その上にビニールを掛けて寝るのだ。こうすると、たとえ雨漏りがしても顔に当らない限り寝ることが出来る。

雨漏りはまだ良い。もっと困るのは床下浸水だ。私の暮らしていた所は土間のある長屋だったので浸水しやすいのだ。床下浸水というのは、当然のことながら、いつ床上にまで浸水して来るか解からない。徐々に水かさが増えていくのを間近で見守るというか、見つめるというか、あと何センチという思いの中で畳を上げて準備するのは本当に怖い。体験したことがある人でないと解からない恐怖があるものだ。私は物心つく頃から小学校5年生くらいまで、そういう環境で育った。台風12号の時、私が現在暮らしている札幌では豊平川の水位が上がり、普段の川幅の二倍になった。あと数時間振り続ければ、間違いなく氾濫するだろう…というところまで水位が増した。それを橋の袂に建つマンションの12階の窓から見て、私には久々に幼い頃の記憶がよみがえった。忘れかけていた記憶がよみがえった。あの恐怖が今、全国各地で起きている。恵まれた現在の境遇にも改めて感謝をしたが、何故、こんなにも日本列島は襲われるのだろう…と素朴な疑問がわいた。

政治的な意味合いのあることはあまり書きたくないが、どうも民主党政権になってから「日本国」は様々な方面から“襲われっぱなし”で、諸外国からもそうであるし、地球という生命体からもそうである。加えて、財政的にも「生活を守る」というスローガンはどこへやら、むしろ日本国自体の財産は減って、借金だけが膨らみ、日本人個々の収入は増えず、税金だけが増え続けているような印象がぬぐえない。「生活を守る」どころか「国を守る」こと自体が危うい状態だ。

もちろん、リーマンショックなどの外的要因や大地震等の自然災害があったから、何もかもが政治の責任という訳ではない。けれども、印象的に民主党政権に代わってから「良くなった」と言える部分があまりにも少ない。特に“国土・領土・領域”に関する対策、“景気・財政・税金”に関する対策があまりにも後手後手に回っていて、政治に若さが感じられないのだ。かつて小泉政権が次々と新しい政策を打ち出した時、それが様々な格差を助長すると言って反対した民主党だが、自ら政権を握ってそれが無くなったのかと言えば、そうも言えない。格差はむしろ広がり、天下りは消えず、日本経済自体も収縮し、増税が確実となり、弱者に優しいはずの対策も茫漠としたままだ。甘い言葉は、言葉だけだった…と誰もが気付き、もはや後戻りも出来ず、暗澹たる思いの中で誰もが黙りこむ。あれだけ自民党を叩いたマスコミやワイドショーは沈黙し、個人攻撃はしても民主党攻撃はしない。もちろん、誤解して欲しくないが、私は自民党の回し者ではない。政治色の団体に属したり、その種の団体から頼まれているわけでもない。元々行政にも政治家にもあまり興味はない。その種の思想にもタッチしていない。

そういうことではなくて、あくまでも占い師の直感として、自民党政権時代との違いを何となく感じ取るのだ。だから怖いのだ。何かの思想とか信条とかで言っているのなら、個人的な思い込みで済むのだが、そうではなくて本能的な予感として“民主党政権の日本列島”に明るい未来を感じられないのだ。それが問題なのである。誰が良いとか悪いとかではなく“崩壊していく日本”にだけはなって欲しくないので、その点だけを危惧しているのである。願わくば自然災害だけでも、今年だけの集中的な現象で、来年以降は本来の“穏やかな美しい日本”が還って来て欲しいものだ。