11月, 2011年

勢いを失っていく地球の人々

2011-11-19

昨今のニュースはどれもこれも暗い話題ばかりだ。将来に対する閉塞感が若者達の間に生まれて来るのも無理がない。いったいいつから日本の国は、こんなに“未来に希望の持てない国”に変わってしまったのだろう。最近はTVドラマを見ても、重苦しいテーマや内容を扱ったものが目立つ。こういう時代を反映しているのだろうが、観終わった後で何となく異物が喉に突っかかっているような不思議な気分になる。

もちろん、将来への閉塞感は日本固有の問題でもない。世界各国が何故か失速してしまって国としての勢いを失い始めているような気がする。大震災や津波や放射能に襲われた日本だけでなく、今も洪水に襲われているタイも、国自体が危うい状況のギリシャ、その余波におびえるイタリア、ポルトガル、スペイン等のヨーロッパ諸国、長期独裁政権が覆され始めたイスラム諸国、そしてさまざまな問題を抱えて失業率が高止まりしているアメリカ、正に勢いに陰りが見え始めている中国、その影響をもろに受ける東南アジア各国、何処一つとっても順風ではない。

先頃、生活保護受給者が205万人を超えて過去最高となったことが報告された。戦後の混乱期よりも多いというのだ。これは日本ばかりではなくアメリカも同様で、何と日本の10倍以上の受給者がいると知って驚いた。働きたくても働けない現状が世界的に広がっている。欧米と違って日本の場合、いったん生活保護を自給すると新たに就職を果たすのが大変に難しい。特に40代以降はそうだ。仮に新たな職場を得ても生活保護の金額より少ない収入になってしまう矛盾等も生じやすい。そうであれば受給し続ける生活を択ぶのは仕方のない選択かもしれない。ただ若い受給者の中には、働けるのに働かないで“福祉に甘える生活”に慣れ、そのまま受給し続けてしまうケースも多いようだ。短期間しか働く経験をせずに人生を投げ出し就職をあきらめてしまうとか、10代後半や20代前半でシングルマザーの道を択び、生活保護に頼る人生を選択してしまうのは何かしら寂しい。生活保護というのは最後の手段であるはずだからだ。社会福祉が充実するのは良いことだが、その一方で働いても生活保護と同程度の収入しか得られないとか、それよりも低い金額になってしまうのでは労働への意欲が失われるのも致し方がない。その点を改善していくための方策が行政には求められる。

高度成長期の日本は、国としても勢いがあったし、多くの人達が日本の輝かしい未来を信じて生きていた。この“輝かしい未来を信じて”ということが、人間が生きていく上では大変に重要なのだ。極端なことを言えば、今現在はどのような生活をしていたとしても、未来に希望を持って生きている時、人は活き活きと輝いて働くとか、真剣に学ぶとか、心から愛するとかが可能になるのだ。今現在がどんなに満たされていたとしても、将来に希望が見いだせなければ、人は暗く憂鬱になって閉塞感ばかりが強く輝きを失った生活となる。私が幼い頃には、科学が進んだ未来の生活というのは“快適で素晴らしいもの”というイメージが強かった。そういう風に雑誌にも描かれてあったし、ニュースでも放映していた。もちろん、その多くは現実のものとなり、実際、快適にはなったのだが、その弊害もいたるところで現れ、結局、快適なだけではなかったことを知ることになる。その代表例は原子力だろう。そう、我々は実際には科学というものに対して“過大な期待を掛け過ぎていた”のだ。経済的な繁栄に関しても、社会福祉の充実に対しても、実際にはそれが必ずしも“生活を潤すばかりではない”ことに気付かされた。つまり、何十年も前の人々の幻想は幻想にすぎなかったのだが、それはそれで良いのだ。何故なら最初から幻想と気付いていれば、今日のような世界は生み出されなかったかもしれないからだ。人間の心理とは不思議なもので、仮に予測が正しかったとしても、荒廃する世界は誰も望まない。つまり、あらるることが予測出来過ぎるのは時として不幸を呼ぶのだ。そのような点から言えば、若い人達には特に、未来の希望となり得ることを探し出して、その部分を強調して将来への判断してあげることが、占い師にも求められる時代に入ったと言えるのかもしれない。

日本人と外国人が入れ替わる日

2011-11-10

近年、日本のMANGA(漫画)&アニメ、可愛い系ファッション&メイク、アイドル&ロック系歌手、スシ&イザカヤ(和食)等の世界的な普及によって、現代の「日本」というものが無理なく理解され「日本」を愛する外国人が増えて来つつあるように思える。日本に在住している外国人だけでなく、日本に一度も来たことが無い外国人の中にも“日本びいき”というか“日本大好き”というか、日本の文化を抵抗なく受け入れ、自分なりに吸収して、見事に取り込んでしまっている外国人が急速に増えて来ているような気がする。特に“お宅系の若者”はそうである。おそらくインターネットの普及が、日本の文化全体を世界に広めていく上で、大いに役立っていることは間違いがない。さらに子供の頃から日本の漫画・アニメを見て育った若者が増えてきたことで、若い外国人の中には日本語を話せる人達も急速に増えて来ているような気がする。かつて「難しい」という評価が高かった日本語が、意外にも簡単に吸収してしまう若者が増えて来たのだ。これも、MANGA・アニメや音楽・歌や映画・TVなど、子供の頃から慣れ親しむことによって無理なく吸収し始めているような気がする。グローバル戦略に拍車を掛ける日本企業の海外進出、或いは逆に外国人を国内で受け入れている企業が、これに一役買っているような気もする。

さまざまな要因が潜んでいるようだが、とにかく「日本」が外国人に受け入れられ「日本」が世界中に普及・浸透していくのは良いことだ。お隣の韓国が“国家戦略”として「コリアン文化」を世界に普及させようと努力しているが、あまりにも強引であったり、不自然さがあったりして、今一つ海外における評価は総合的にみると高いとは言えない。それでも、大規模な国家予算を投じての戦略はそれなりの成果を上げていて、日本でもいつの間にか「新大久保」が“日本におけるコリア・タウンの聖地”と呼ばれるまでになっている。「韓国」が海外普及を目的とする場合の特徴は、それぞれの国家・民族に見合った方法を取り込んでいくことで、日本のように“日本丸ごと受け入れさせる”方法は採らない。その証拠に日本をターゲットにしている還流スター・アイドルは、日本語を勉強させられている。そう、日本語を勉強しているのではなく、日本語を勉強させられているのだ。そうでなければ長く日本で活躍することは出来ないことを知っているからだ。来日するごと日本語が上手くなっているのは憶えさせられているからなのだ。ただ、どのような理由があるにせよ、日本語の上手い若者たちが増えていくのは日韓の交流、及び「日本」文化の普及という点に関して言えば良いことだ。何国人であろうと、若者の多数が日本語を学び、日本語を話し、日本にやって来て、日本人と交流を持つのは良いことだ。十数年後を見据えて考えた時、少子高齢化が急速に進む日本は“孤立した国”になってはならないからだ。さまざまな国から日本にやって来て、日本人と共に生活して違和感を持たない外国人が増えていくことが望ましいからだ。

戦後の日本は、敗戦ショックや高度成長も後押しして欧米文化を精力的に吸収し、いつの間にか“東洋の西洋人”に生れ変わっていた。その容貌にしても、明らかに現代の若者達は“欧米人とアジア人の中間”に変貌しつつある。その生活様式も規制は少なく、集団・統一行動は失われ、個性が尊重されて、その服装や髪形など、世界でもっとも“自由な国”に変わってしまった。もはや70年前の日本人はどこにもいない。親が決めた相手と“顔も知らずに嫁入りする女性”は、いったいどこの国の話であったのだろう。“天皇万歳と叫んで自決する兵隊”は、いったいどこの国にいたというのだろう。私が幼い頃、今頃の季節にはどの家のひさしにでも漬物用の大根が干されていた。それが当たり前の光景だったが、もう都会では全く見ることが出来ない。おしめを干すという光景も見ることは出来ない。かつて「神田川」という歌の一節で「横町の銭湯 一緒に出ようねと言ったのに いつも私が待たされた」と歌われたが、そのような光景も見ることは出来なくなった。大震災が起こって、人々は“日本人の原点”を思い知らされたが、やはり何かが違う。終戦時の70年前の日本人達は、もうそこにいないのだ。いつの間にか日本人は“新たなる人種・民族”へと生まれ変わっていたのだ。欧米人とも違う、東南アジア系の人々とも違う、中国・韓国とも違う、不可思議な人種・民族へと生まれ変わっていたのだ。これを「新生日本人」と呼ぶべきなのかもしれないが、少なくとも「平成」に入って以降生れて来ている日本人は「昭和」までの日本人達とは明らかに違って来ている。けれども、そのお陰で「西洋」にも「東洋」にも自由に出入りできるような感性や思考が生まれながらに備わっている。大変貴重な人種・民族なのだ。今後、日本国内でも、海の向こうでも、日本人と外国人の国際結婚はますます増えていくだろう。多種・多様な人種・民族との間にハーフの子達が誕生し、多様な容貌、多様な言葉、多様な生活様式が繰り広げられる国家へと徐々に変貌していくことだろう。どのような国に変貌していくかは、どの国との国際結婚がもっとも急上昇していくかに掛っている。50年後、私はもういないが「新生日本人」の容貌・言語・生活様式が“どの国に近づいているのか”チェック出来ないのが、いささか残念ではある。