郷ひろみが一般女性と三度目の結婚をしたのに続いて、松田聖子もそれに合わせるかのように一般男性と三度目の結婚をした。かつて“結婚目前”と思われていたこの二人が「生まれ変わったら一緒になろうね」のセリフと共に破局したとき、誰がこのような未来を予測しただろうか。
その後すぐに松田聖子の方は神田正輝と結婚、郷ひろみの方も二谷友里恵と結婚した。そして双方共に子供を得ながら不倫・浮気などあって離婚した。さらに、双方とも一般の方と電撃的に再婚する。けれども長続きせず、再び離婚。そしてどちらも、もう結婚には懲りたのかと思われていた矢先、電撃的に三度目の結婚をした。つまり、この二人辿っている人生コースが似ているのだ。
最初に話を戻すと、実際には二人の間では婚約していたが、結婚後の仕事や両家の反対等あって破局したらしい。つまり、愛情が無くなって別れたわけではない。このようなケースは双方共に、その後の恋愛・結婚に微妙な影を残すもので、どこかで最初の相手を引き摺りながら生きていくケースが多い。「運命の人」という表現があるが、実はプライベートだけの「運命の人」ではなくて、その後の人生全般に影響し、文字通り運命を大きく変えていくから「運命の人」なのだ。良い意味でも悪い意味でも、その人との出逢いがなければ“人生が変わっていただろう”と思わせるケースは多い。多くの人は「運命」を固定的なものとして捉えているが、私の研究では決してそのようなものではない。人との出逢い、モノとの出逢い、時期的タイミングによっても運命は驚くほど変わっていく。天と地ほども変わっていく。ただ間違えて欲しくないのは、それら種々な出逢いやタイミングを生み出すのも、日頃の本人の意識、意志、願望が潜在的に導きだしている可能性が強いことである。けっして先天的な宿命だけに操られているわけではない。がんじがらめの宿命で自分ではどうしようもない…と思いこむと、実際にそういう方向へと進んでいくし、絶対に逆境から抜け出してみせるという不屈の信念があれば、必ず良い出逢いや幸運への導きが表れるものだ。
郷ひろみと松田聖子に話を戻すと、二人は間違いなく「スター・アイドル」としての輝きを失わずに今日まで来た。本業としての「歌」だけでなく、プロポーションの維持やファンサービス、ダンス、海外進出、事業など失敗に終わったことも含めて似たような努力を続けて来ている。或る種ライバルとしても、無意識に互いを高め合う存在だったかもしれない。そして多分一番それが出たのが「結婚」なのだ。運命学的な観点から言えば、本当は双方とも最初の離婚をした後、再び出逢って“再婚”へと動き出せば上手くいく可能性があったのだ。つまり松田聖子がいみじくも語った「生まれ変わったら一緒になろうね」という言葉には真実が含まれているのだ。奇妙なことに初婚同士だと幸福になれないが、いったん別れて別々の相手と結婚・離婚し、再婚同士で結ばれると幸福になれる組み合わせがあるのだ。大体、運命的な相手というのは別れて相手の消息を知らなくても、新たな出逢いの時期とか、恋愛・結婚の時期とか、離別の時期とか、縁を持つ相手の条件とか、何らかの部分で共通項が変らないものなのである。だからタイミングという面では合わせやすいのが普通なのだ。もっとも、勝手に一人だけで「運命の人」と思い込んでいる場合も多いから注意しなければならない。その場合は「ストーカー」となって、それはそれで双方とも運命を狂わされてしまうようなケースも出て来る。文字通り「運命の人」には違いないのだが、執着型のタイプは人生の時計を自ら止めて、新たな人生に背を向けてしまうケースも多い。恋愛や結婚は二人で成立させるものであるだけに、一方的に暴走すると不幸な結果に至るケースが多い。「愛」が倖せの大部分を握っていることは間違いがないので、考えようによっては何度も恋愛や結婚を繰り返すのは“しあわせな人生”なのに違いない。
今年3月から政府支援で開設された24時間無料相談の「寄り添いホットライン」に1日2万件以上の電話が掛って十分に対応出来ない状態なのだという。あらゆる相談を無料で受け付けているという点と、種々な支援体制を用意しているという点が悩める多くの人達を引き付けたのだろう。今は電話を20回掛けて1回繋がる程度というから、その盛況ぶりが窺える。相談の多くは貧困と孤独に関してのようで、5日間何も食べていないとか、死にたいとか、待ったなしの状況で掛って来る場合も多いようだ。生活保護費を不正に受給する人達もいれば、本来はすぐ受給すべき状態なのに中々与えられない人達もいる。近年は働きたくても働けない若者達も急速に増えて来ていて、いったん生活保護となったら今度はそこから中々抜け出せない社会構造もある。ここ20年程の間に日本は急速に経済がやせ細って“普通に生活していく”こと自体が難しい国へと変ってしまった。
私は“人間の運命”を占い師という立場から研究し続けてきたが、永い人類の歴史上という観点から見れば“平和で実り多い時代”もあれば“争いや苦難に翻弄される時代”もあった。どちらかといえば今は、後者の時代に突入しつつあるのではないかと思える節がある。さらに「国」という単位の推移で見れば、日本は平安時代や安土桃山や江戸時代後期が比較的世の中が安定し経済的にも恵まれ文化芸術に彩られた時代だったような気がする。同じように繁栄したのが敗戦後の昭和30年代半ば~60年代半ばにかけての約30年間で、高度成長期からバブル期まで良し悪しは別として“経済が潤い未来が輝いて見えた時代”であったような気がする。その一方で経済至上主義的な“狂乱の時代”でもあったが、世界中にその存在感をアピールできた時代でもあった。
ところが、急速にやせ細った日本経済は失業者を増やし、生活保護家庭を増やし、企業倒産や自己破産者を増やし、治安状態さえも徐々に悪化している。地震・津波・原発問題で多数の市町村を破壊し、職や住居を奪った。かろうじてそれらから逃れた人達にも、次々と重税の波が押し寄せようとしている。そういう時に「寄り添いホットライン」が出来たのだから、貧困と孤独の悩みが多数寄せられるのは当然と言えば当然かもしれない。妙な言い方になるが、今の世の中の不公平感が、これに拍車を掛けている。世の中が公平に感じられれば、周りのだれもが似たような生活の仕方をしていれば、貧困と孤独というのはあまり感じず済むように出来ているのだ。丁度“戦後の焼け野原”がそういう状態で、周りのだれもが生きることに必死で、多くの人達が愛する家族・親戚を喪い、似た者同士としての“暗黙の連帯感”を持っていた。だから貧困ではなかったし、孤独ではなかったのだ。或る意味で「戦争」は国民全体に平等で、その結果としての焼け野原は“生きていくための戦場”に変わった。いやでも「生きる」という強い意志を持たなければ生きていくことが出来ない日々だったのだ。
けれども、今は違っている。世の中が公平ではないのだ。天と地ほどの収入格差がある。労働力の「差」というのでもなく、才能の「差」というのでもない。いわば“運の差”なのだ。世の中のだれもが孤独でもない。幸せな家庭・家族に囲まれている者もいれば、一人膝を抱えなければならない者もいる。大勢の仲間・友達に囲まれる者もいれば、常に単独行動を余儀なくされる者もいる。性格の「差」というのでもなく、常識の「差」というのでもない。これらが、よりいっそう貧困と孤独を強めるのだ。
占いは、これらの人達の救いにはならないか。実はこれこそが私が占い師を継続し続ける最大の理由なのだ。もちろん、個人的な悩みにはこれまでにも対応してきているが、こういう根本的な問題「運命」にどう対処すれば貧困や孤独から脱出できるのか。いや正確に言えば「運命」をどう利用すれば“幸運を掴める”のか、その完全解明と提唱こそが私が果たさなければならない最大の課題なのだ。
NHKのEテレビで「貧困女性」を扱った番組が二日間にわたって特集された。番組内で扱われたのは、主に20代~30代の単身女性達で正規雇用外で働く収入の低さと不安定さ、貧困の実態がインタビューやメール等で語られていた。番組では「若い女性達」に限定しているような内容であったが、実際には若い女性ばかりでなく、男女・年齢を問わず、さまざまな形で“急速に貧困化が蔓延している”のが日本の現状のように思われる。
確かに非正規雇用の女性達が、現代日本の景気低迷のあおりを最も受けているのかもしれないが、ここ数年は若い男性達の就職でもそれはあり、定年後やリストラ後の再就職でも同じことが言える。一時的に大きな病気になるとか、身体に障害を抱えてしまったとか、イジメや鬱から休職してしまったとか、一時的に引き篭もりになったとか、さまざまなハンデを抱えている人の場合はもっと深刻だ。いつの間にか日本という国は、正規雇用で働くこと自体が難しい国になってしまった。それでいて単身生活者が増えているため、発展途上国のように親戚や近隣者が互いに助け合うという図式も難しい。昔の日本には存在した“親子兄弟が助け合う姿”を失ってしまっているため、経済的な“貧しさ”だけでなく精神的な“孤独さ”がプラスされ、余計に生活も精神も合わせて貧しくなっているような気がするのだ。
現にアジアやアフリカの底辺地域等では、同じように経済的には貧しいのだが、生活そのものは実に陽気で明るいのが特徴だ。一つには経済的に豊かな区域と貧しい区域が分かれていて、貧しい人達同士が助け合っていく姿が自然なものとして定着している。だから“自分だけ取り残されている焦燥感”を持たず生きていけるのだ。ところが今の日本にはそれがない。いったん家族との間に距離が生れると、天涯孤独に変化してしまうケースが多い。友達はいても“心からの親友”はいないケースが圧倒的だ。家族との交流が苦手な人は、総じて仲間内との交流も苦手だ。つまりは日本の貧困者達には心のよりどころが無く、或る意味で“心身とも貧しい”唯一の国民なのだ。
このような状態を打開する手立ては二つしかない。昔の日本のように“家族・親戚が一体化”して助け合う、或いは“隣近所が一体化”して助け合うような“古き良き日本”に立ち返るか、それとも日本の経済全体をもっと底上げし、先行き明るい豊かな国造りをして、個々の収入や雇用を増やして、どのような形で働いても余裕がある生活が出来て、福祉的にも充実した社会を作るか、この二つの選択しかないのだ。ところが、今の日本では“古き良き日本”に戻ろうとしても、実際には非常に難しい。特に都会ではマンションやアパートなど誰が暮らしているのか解からないようになっている。隣近所が一体化するのは土台が無理なのだ。そうであれば、あとはもっと“豊かな国造り”を目指す以外にはない。全体的な経済が底上げされれば、必ず、底辺の人達にもその恩恵が及ぶ。国の経済が枯渇していく時には必ず、その底辺の人達が最初に苦しみを味わう。この方程式は古今東西変わらない。それでは低迷している日本の経済を潤わせるためには何が必要なのだろう。先ず日銀と政府が一体となって極端なほどの追加金融緩和を行い“円安”に誘導し“株価の上昇”を促すのが何よりの特効薬だ。ところが日銀も政府も大胆だったのは2月14日だけで、それ以降は元の姿に戻ったかのように“慎重な金融緩和”の姿勢へと転じてしまった。当然のように、円安は止まり、株高もストップした。2月半ばに大胆な金融緩和を実施して、明かに市場はそれに反応して円安となり株高となったのに、何故それを続行しないのだろう。及び腰の金融緩和など意味がないのだ。どうせ行うなら極端なほど大胆に行わなければ現在の世界経済は動かない。
何故、円安や株価上昇が必要なのか、解からない方も多いと思うが、詳しく説明すると長くなるので、要するにそれが“一番手っ取り早い”方法だからだ。その後の本格的な景気上昇を狙うなら、東京、大阪、札幌、福岡にカジノの誘致を行うのが一番効果的なはずだ。これを実行できれば、必ず景気は大きく上向く。もちろん、これらを行おうとすると反対する人達が多数出て来て結局は流れてしまう可能性が大きい。ただ世界120カ国以上にカジノがあって、特に先進諸国には必ずあって、近年それに力を注いだマカオやシンガポールの経済成長率が急上昇している事実を見逃してはならない。資源の乏しい日本の経済を立て直すには、そういう特効薬や起爆剤が絶対に必要なのだ。そうすれば、国全体の経済が底上げされて、税金も少なくて済み、正規雇用も増え、賃金も上がって、年金も減らずに済む。何か“変りとなる起爆剤”があるのなら、もちろんそれでも良い。政治家たちよ、少しでも早く手を打って、日本の経済の枯渇を防ぎ、未来が明るい日本を創って欲しい。