芸人「極楽とんぼ」の山本氏が十年ぶりに地上波のTV番組に出演したそうだ。彼は2006年7月に函館で不祥事を起こし、その後、吉本興業から解雇され、“芸人”としての活動ができなくなった。当時、相方だった加藤浩次氏が着実に複数の番組で起用され、成功していくのとは反比例して“転落の道”を歩み始めたのが印象的であった。元々“女癖が悪い”という評判もあり、17歳の少女に酒を飲ませてホテルに連れ込み暴行した、という記事はスポーツ新聞の一面を飾り、あっという間に「女性の敵」としてのイメージが定着してしまった。ところが、事実はかなり“違っている”という報道もある。元々は同じ野球チームのメンバー2人がナンパした少女と居酒屋で酒を飲んでいて、途中でホテルにいた山本を呼び出し合流して、山本がホテルに戻る時ついてきたので誘ったら応じた、という話もある。当時、少女には彼氏がいて、その相手に浮気がばれて“被害届を出させられた”というのだ。警察で少女は「酔っていたので覚えていない」を繰り返したらしい。どちらが真実かわからないが、ともかく“少女に手を出した”ことは間違いがなく、その後は芸能界から締め出された。一説には、或る女性タレントの陰謀に引っかかったとか、或る大物タレントの女性に手を出したので制裁を受けたという話もあるらしい。とにかく諸説入り乱れているのが“この一件”らしい。要するに“敵が多かった”のだ。十年という歳月は「人」を変える。彼は「山本圭一」から「山本圭壱」に名を変えていたらしい。姓名画数的に「圭一」は決して悪い画数ではない。むしろ、印象的には「圭一」の方が良い。多分、画数だけでいえば「圭壱」の方が“より良い”から変えたのかもしれないが、バランスや印象も姓名では重要で「圭壱」は“隠居老人”的な印象を与える。この名では“人気”を出せない。心機一転したいなら、もっと“根本的に変える”形をとらないと、“変わった”という印象を見ている人たちに与えられない。外貌的にも髪を伸ばすとか、髭を生やすとか、眼鏡をかけるとか、“別人”の印象を与えて初めて、大衆は「変わった!」と思うものなのである。何故“悪い印象”なのに、昔を引き摺るのか、明らかに“勘違い”している。
BSで“新日本プロレス”に関連したレスラーの個人特集をやっていて、それぞれのレスラーのデビューから現在まで“傑作選”を放映している。他のスポーツと違って、プロレスラーというのは外貌的にもパフォーマンス的にも“己の個性”を前面に出さないと生き延びることができない。ただ単に“強い”だけでは“パフォーマンス・ショー”としての魅力で観客を惹きつけることができない。極端なことを言えば“弱く”ても、観客を魅了し、楽しませることができれば“人気レスラー”として客を呼ぶことができるスポーツである。それだけに各レスラーが、デビュー時から徐々に“変貌していく姿”が、個人特集で年代を追っていくと大変にわかりやすい。元々が“肉体”を売る職業であるから或る程度の素質は必要だが、肉体的素質に優れていれば“成功できる”という職業でもない。時として“悪役”に徹しても人気を出せる不思議な職業なのだ。仮に観客を恐怖に陥れても、どこかに“人間的な魅力”や“共感性”を引き出すことができれば、或る種“演出力”が優れていれば、人は自分の中に潜んでいる“悪魔性”で親近感を持つ。“正義”だけが絶対ではないところも、どこか“我々の人生”を重ね合わせたくなる不思議なスポーツなのだ。人は自分自身では“己の魅力”を見つけられない場合が多い。意外なところに潜んでいる場合が多いからだ。自分が“引き寄せられるもの”の中には、無意識に“魅力の原石”が眠っている場合が多い。埋もれている“原石”となるものに、いち早く到達できた者こそが“輝く人生”を歩める秘訣のような気がする。
一般的に言えば「向上心」が強いことはとても良いことだ。勉強でも仕事でも、向上心が強い人たちは日々努力をする。どうすれば、より良い生活が送れるか、より自分を高められるか、常に“前向き”で、努力を怠らない。但し、その「向上心」が“仇”となってしまうことも世の中にはある。なぜなら、どんなに努力をしても、どんなに上を目指しても、自らの“思い”に“結果”がついて来るとは限らないからである。向上心が強ければ強いほど、その努力に見合う“成果”が出せないと、煩悶してしまうことになる。要するに「ストレス」が溜まるのだ。人一倍“向上心”が強い人は、人一倍“ストレス”を溜め込みやすい人でもあるのだ。第三者的にみると、あんなに努力して、日々奮闘して、頑張っているのに、どうして“成果”を出せないんだろうと思うことがある。本人も、こんなに日々一生懸命なのに、どうして“目標”には届かないんだろうと思うことがある。実は“頑張りすぎ”も、良くないのだ。自分自身にプレッシャーが掛かり過ぎ、のびのびと過ごせなくなって、素質や能力も“萎縮”してしまうケースがしばしばみられる。そうするとますます“自信を失い”自らを“過小評価”し過ぎるように変わってしまうことがある。つまり、これだけ一生懸命頑張って、この程度の結果しか出せないのだから、自分には能力がないのだとか、元々が力不足だったのだとか決めつけてしまう。違うのである。強すぎる「向上心」が手足を縛り、プレッシャーを掛け、本来の素質や能力を閉じ込めてしまうケースがあるのだ。向上心が強いこと自体は決して悪いことではない。ただ自分に“負荷”を掛け、“目標”で縛り、“絶対に…”という「枠」をあてはめすぎると、身動きが取れなくなって、ストレスが溜まり、結果的に“本来の力”を発揮できなくなってしまうケースもあることを知ってほしい。
大昔、私は3週間ほど、東京で暮らしたことがある。夏の終わりで、あまりの暑さに毎日“かき氷”ばかり食べていた。東京はとても人間の住めるところではないと感じた。あれから、何十年も月日が経って、私の身体は、完全に“北海道仕様”になっていて、夏場は室内でエアコンを使っているから、外へ出た時には札幌の“ちょっとした夏の気温”でも、長時間は歩き続けられない。さいわい札幌は“地下道”を歩くことで主要なところへ出ることが可能なので、その点は暮らしやすい。だから海外で気温が50度以上などと聞くと、改めて“日本で良かった”と思えてしまう。7月22日にはイラクのバスラで53.9度。7月21日にはクウェート北西部で54.0度。とてもではないが“生存可能”に思えない。そもそも日本人の肌は弱いから、3年前の四万十市41.0度でさえも“普通に暮らせる気温”とは思えない。これまでの世界の観測史上最高の気温はカルフォルニア州デスバレーの56.7度だそうだ。世界は広く、生存という観点からは“過酷すぎる環境”が山ほどある。人間は本来、そういう自然環境と闘いながら生き延びてきた。過酷な環境では“互いに助け合わなければ”生き延びることができない。ごく自然に“結束力が生まれる”ように出来ている。けれども、過酷な自然環境を脱出すると、一致団結することが難しくなる。そういう環境の中で“さまざまな宗教”や“さまざまな思想”や“さまざまな利害”が生まれて、今やどの国も自国を守ることに必死で、“共存”や“結束”を忘れ去ろうとしている。地球温暖化による気温の上昇は、そういう人類に神が与えた“共存・結束”の最後のチャンスなのかもしれない。
「ポケモンGO」は日本の“漫画キャラクター”が、今や“世界基準”に変わりつつあることを証明し始めた。そのこと自体は喜ぶべきだが、喜んでいられない問題も次々浮上している。昔「ディズニー」が世界を席巻した時、人はそれを“微笑ましく”迎えた。なぜなら“害を与える”ものではないことを誰もが感じ取っていたからである。むしろディズニー作品は、現在でも子供たちの“情操教育”にとって有効である。日本でも「宮崎駿作品」などは、そういう点では大いなる評価を与えて良い。ただ、いつの間にか“漫画世界”は、日本で独自の進化を遂げ、さまざまな作品が人気を得るようになっていった。そうなったことで、必ずしも人気やブームを呼ぶのが、子供たちにとって“良い影響”を与える作品だけとは限らなくなってしまった。しかも、現代は“子供の漫画”と“大人の漫画”の境界が無くなっている。子供が大人の漫画を読むとか、逆に大人が子供の漫画に夢中になるなど珍しくない。そうすると、どうしても“情操教育”だけを念頭に漫画を制作することは出来ない。特に“現代社会”を舞台として漫画を描くとき、あまりに“浮世離れした作品”は読者からも受け入れられない。徐々に“過激な内容”、“極端な描写”、“飛躍の多い内容”が描かれるようになっていく。そういうものを見て、或いは読んで、世界中の子供たちが育っていく。もはや、子供たちから、それらを“選別していく”のは難しい。しかも、現代は“大人向けの漫画”も多くなったことで、大人になっても漫画を読み続ける人が多い。ここで重要なのは“漫画世界”は、あくまでも“単純化”して、“誇張”して、デリケートな部分をカットして“描かれているもの”だということだ。一見、リアリティを感じさせても、漫画独自の“単純化と誇張”が、どの作品にも織り込まれている。毎日のように、それらの作品を見て、読んで、日々を送ると、頭脳そのものが実生活に投影され、“単純化と誇張”が行われ始める。或る種の“洗脳”によって、周りの人達の“細やかな心のひだ”を読み取れない大人へと成長していく。
久しぶりにTVで「ねむの木学園」の宮城まり子氏が出ていた。もう89歳となったようだが、若々しい声で「新たな映画を撮りたい」と意欲的だった。そのTVで「ねむの木学園」が“日本初”の肢体不自由児の学園であることを知った。“日本初”という部分を私は知らなかったのだ。私財をなげうって、肢体不自由児と向き合い続けた彼女の功績は立派以外の何物でもない。実は私は20代の一時期、“障害児”を対象としたボランティア活動をしていた。そのサークル名が「ねむの木の会(?)」だった。だから最初、私はその活動が“宮城まり子と関係があるのか”と思ったくらいである。実際には“肢体不自由児”ではなく“精神薄弱児”を対象としたボランティア活動の会だった。今、思うと、あまりボランティアに向いていない私が、よく何年もの間続けられたと思う。一時的には「青少年北海道ボランティア連盟理事」にまでなっていた。その後、演劇のサークルとか、小説のサークルにも入ったが、仲間的な交流が一番活発だったのは「ねむの木の会」だった。そう“仲間としての友達”を初めて得た。というか社会に出て“初めての友達”が彼らだった。少なくとも、私の中ではそうだった。そう思って一時期を過ごした。ところが、そのメンバーの中でも、もっとも仲が良かった人物の一人と、十数年経って全然別の何かで再会した時、彼はなぜか私を無視した。初対面であるかのようにふるまったのだ。本当に忘れているのではないかと、私が昔を持ち出しても、明らかに“無視”された。早くも“白髪交じり”になっていて、その風貌の変化にも驚いたが、何よりも“心の変化”に戸惑ってしまった。仲間数人と、朝まで彼の部屋で過ごしたことさえあった。忘れるわけがないのだ。私は正直ショックで、もう“昔の仲間に会うのはよそう”と思ったくらいだ。あれから30年近くが経った。あの時、既に“白髪交じり”だった彼は、もう会っても“本当にわからなくなっている”ような気もする。
ロシアの“ドーピング問題”で、68人の陸上選手たちが参加できないことになったらしい。もっとも、それ以外に関しては基準さえ満たせば“出場OK”のようなので、関係者は一安心といったところだろう。毎回のように“ドーピング選手”が出て来る。そこまでしてメダルを取りたいのかとも思うが、国によってメダル獲得者は、その後の“人生が保証される”ところもあるから、或いは“国家の威信”が掛かっているところもあるから、不思議ではないのかもしれない。確かに、日本でもメダルが有る無しではマスコミの扱い方が違うから、それに“報奨金”の獲得もあるから、必死となるのは当然なのかもしれない。ただ本来のオリンピックは、“参加することに意義がある”アマチュアの競技大会だったはずだ。もはや、そういう“面影”はなくなってしまった。今やオリンピックは“巨大マネーが動く舞台”と化していて、“平和の祭典”などという言葉からも程遠い。都知事選から「東京五輪」の言葉が消えたのは、都民の関心がもはや“そこ”にはないことの表れだった。実際、現在のような情勢になってくると「リオ五輪」に「イスラム国」は“参加するのか”という心配の方が先に立つ。不謹慎な“冗談”として語れば、館内のどよめきの中で「イスラム国」が入場し、観客めがけて“銃を乱射する”という恐怖のシナリオを、笑い飛ばせないのが怖い。せめて「東京五輪」のころまでには“平和の祭典”に戻せるよう、額をこすりつけて祈らなければ…。
大手生命保険や内閣府の調査によると、20代~40代の独身男性たちが「恋愛」というものに戸惑っているようすが見事に浮かび上がっている。「気になる人がいても、どのように声をかけてよいかわからない」「どうしたら親しい相手と恋愛に発展できるかわからない」「恋愛としての付き合い方がわからない」「正式な恋人として付き合いだすのが何となく怖い」「また昔のようにフラれるのではないかと不安になる」「自分には魅力がないと思う」いずれも、多数を占めている回答だ。この中でもっとも多かったのは「自分には魅力がないと思う」という回答で、ほぼ3割がそう思っている。“自分の魅力”なんて、そもそも自分自身にはわからないのがふつうである。それをどうして「ない」と決めつけるのだろう。それは多分“男性の魅力とはこういうものだ”という思い込みがあるからだろう。異性の魅力とは、本質的に“きちんと説明できる”ようなものではない。なぜなら本当は“何となく”理屈ではなく“惹かれていく”ものだからである。少なくとも、本当の恋愛とはそういうものだ。だから、最初から「自分には魅力がない」と決めつけるのは、勘違い以外の何物でもない。まあ「自分は魅力的だ」と思い込む必要もないが、もしかしたら“一部の人”にとって“魅力を感じさせる部分”があるかも…と思っているくらいが丁度良い。大体、恋愛とか結婚とかは、本来は“ただ一人の相手”と行うもので、大勢と行うものではない。だから、極端な話“一人の人”だけに魅力が伝われば、それでよいのである。何故“多くの人達”を対象としているような意識や感覚を持つのか。それに女性と違って、男性は“ぶざま”な方が魅力的に見える場合もある。例えば、泥だらけになりながら仕事をしているとか、汗だくで走り回っているとか、誰よりも一生懸命なのに仕事がのろいとか、誠実だけど上手に会話できないとか、仕事以外のことは何も知らないとか…それぞれが“魅力的に映る”場合がある。“ぶざま”だからこそ輝く魅力もあるのだ。
人生に“浮き沈み”があることは、誰でも知っている。特に“人気稼業”と呼ばれるような職種において、それは際立っている。元々が“大衆の人気”のもとに成り立つ職業は、一般的な職業よりも“浮き沈み”が大きなものとなる。したがって“安定した人生”が良い場合には、“人気稼業”は選ばないことである。大体、“大衆の人気”ほど移ろいやすく、無責任なものはない。大衆の人気に“持続性”とか“公平性”を要求してはならない。或る日、突然生まれて、或る日、突然去っていく。そういう“性質”を持っているのが“人気”というものなのだ。英国の詩人バイロンは「或る朝、目が覚めたら、僕は有名になっていた」と語ったらしいが、それこそまさに“人気の正体”というものである。ここで間違えてほしくないのは“人気”と“名声”とは同じではない、ということである。つまり、有名だから人気があるのではない。有名でも人気のない人はいる。但し“国民的な人気”は、“名声”を伴っている場合が多い。基本的に“人気稼業”というのは、“不特定多数”を相手とする職業である。人気の有無によって、収入が左右されるのが“人気稼業”で、文字通り“人の気持ち”が集まるかどうかで収入が上下する。もちろん、年功序列など関係がない。よく言えば“実力の世界”ともいえるが、職務能力そのものの実力ではなく、人の“気持ち”を捉えたかどうかだけが“実力”と評価される。そういう職業であるから、浮き沈みが大きくなるのは仕方がない。芸能界など、その典型である。一時期、人気を得ていた人が、何かがあって人気が低迷し、表立った世界から消え、忘れかけたころに再び“人気沸騰”するような人がいる。そういう人は、必ず“天性の人気運”を持っていて、人気が低迷していた時代に、人間としての“深み”と“陰影”が育まれる場合が多い。役者などは、そういう人の方が“仕事に幅が生まれ”演技の実力も備わった人気役者となっていく。
最近、出産した乳幼児を母親が殺してしまう、或いは遺棄してしまう事件が後を絶たない。24歳の母親はドラッグストアの女子トイレに生後間もない男児を遺棄したが「一人で育てることに不安があった」という。36歳の母親は生後2か月の女児が泣き止まずにイライラが募り「殺せば静かになる」と思ったという。確かに静かになる。少子化が叫ばれる中で、昔と異なり核家族で“子育て”を教えてくれる人が身近にいないケースが多い。妊娠・出産・子育ては、他の家事などと違って家電製品が補えない。どんなに科学が進んでも、どんなに生活が楽に変わっても、この部分だけは“動物に戻り”原初と同じ道を通らなければならない。しかも、男性は“代わること”ができない領域なのだ。女性だけが妊娠・出産・(乳幼児)子育てで“苦痛”を味わわなければならない。けれども、それゆえの“特別な喜び”も同時に味わう。「母親」は女性にしかなれない。しかも、女性なら全員なれるのかというと、そうではない。或る意味では「母」という“選ばれし者”なのだ。そのように捉えるなら、子供は「親を選べない」というが、本当は「母を選んでいる」かもしれないのだ。或いは「神に選ばれている」かもしれないのだ。そういう“神聖な行為”が、妊娠・出産・子育てともいえる。もし、それが嫌なら、妊娠が発覚した時点で「堕胎」を決意すれば良い。その方が、選んでくれた神にたいして“失礼のない行為”であることに気付いてほしい。出産し「命」を預かったなら、育てていくのは義務だ。ただ現代は“義務”を過大視し、あまりにも手を掛け過ぎている人たちが多い。子育ての義務は“幼児期”までであって、それ以降は黙っていても子供は育つ。手を掛け過ぎるのも「命」を“枯らす”原因となるので注意しなければならない。
こういう番組をどう捉えれば良いのだろう。制作サイドは日本の視聴者をあまりにも軽んじすぎているのではないだろうか。7月18日のTBS古代エジプト世紀の大発見プロジェクト「ツタンカーメンと伝説の王妃3300年の新事実」は、見事なまでに期待を裏切った番組だった。まず第一に番組名がおかしい。「世紀の大発見プロジェクト」って、実際には何も“新たな発見”などない。既に「古代エジプト」に関心を持つ人たちにとっては“知られすぎている事実”を、何を血迷ったのか“世紀の大発見”と騒ぎ立てているに過ぎない。大体、制作サイドが古代エジプトの歴史について、あまりにも無知なのではないか。だから騒ぎ立てるようなことでもないことに対して「世紀の大発見」などと加えるのだ。今回の番組で扱っているのは“すべて仮説”に過ぎない。仮説が実証されたとき、仮説は初めて“発見”になる。まあ百歩譲って、仮説上の発見ならそれでも良いが、もう少し“大胆で興味深い仮説”でなければ“大発見”などとは言えない。この番組の制作者たちは「ツタンカーメン」と「大発見」のキーワードを入れておけば、視聴率が取れると思っていた節がうかがわれる。その証拠に出演者たちが偏りすぎている。古代エジプトに対して“無縁”なタレントを出しすぎである。何よりも“再現ドラマ”がお粗末すぎる。古代エジプトのファラオを日本人俳優が演じても良いが、もう少し古代エジプト人らしい外見の俳優がいくらでもいたはずである。何故、あんな“縄文土器を作っているおやじ”のような男性をファラオに仕立てるのか。幼少のツタンカーメンにしても“アンパンマンの子供”のような鈴木福君を起用するのか。学芸会にしか見えないではないか。
大体、この番組が“誰”にスポットを当て、“何”を伝えたいのか、考古学的仮説を伝えたいのか、いくつかの“謎”を伝えたいのか、安っぽい“ファラオ物語”を再現したいのか、制作の意図がつかめない。もし本当に「大発見」を伝えたいのなら、少なくとも新たな遺跡とか、遺構とか、埋蔵物とか、何かしら“新たなもの”を提出しなければいけない。番組独自の“証拠品”とか“新仮説”とか“新データ”とか、何かは見せないと、“UFO”や“霊体”と同じく「あるかも…」で終わるなら、わざわざ3時間番組を作る意味がない。古代エジプトに関しては、これまでにもさまざまな仮説が唱えられ、その中には実証には至っていなくても“興味深い仮説”がいくつも存在している。そういった仮説を集めて放送するとか、いくつかに焦点を当てて検証していく番組があっても面白いと思う。実際、海外にはその種のドキュメンタリーが存在している。あまり専門的になりすぎてもつまらないが、総じて日本のこの種の番組は低俗に過ぎる。誰にでもわからせようという意図があるのかもしれないが、そもそもこういう番組は興味のある人しか見ない。ということは或る程度の“予備知識”は持っている人たちが見ている、という前提に立たなければならない。そうであるなら、多少、専門的な知識も加えるとか、新たなデータを持ち出すとかしなければ、“そんなの知ってるよ”という時間が長々と続くことになる。推理ドラマでも、説明しすぎるものはつまらないが、解説は文字で小さく記すとか、ナレーターが説明するとかして、極力、臨場感の溢れる番組制作にしないと興味を引っ張れないことに気付くべきである。少なくとも「ツタンカーメン」や「大発見」のキーワードだけで3時間は持たないのだ。
一時期盛んだった「大ピラミッド」に関する“謎番組”もめっきり減った。大ピラミッド脇の地下から「第二の太陽の船」が発見されたのに、その具体的な解明はどうなってしまったのか。たくさんの文字が描かれてあったのに、その文字に何が記されていたのか、何故か、どの研究者もきちんと報告していない。“第二の船”の組み立ては進んでいるのだろうか。吉村作治氏はもはや「太陽の船」には興味がないようで、そのこと自体も“謎”である。むしろ、そういうことに関して、どこかの局が徹底的にマークして“その謎”を解き明かしていく番組を作ったなら、その方がよっぽど面白そうである。
私は以前『古代エジプト守護神占星術』を書いた。その本の中で、古代エジプト「王国の緯度」と「王室肘長」の関係、「スフィンクス像」と「しし座」の関係、「ハピ神像」と「みずがめ座」の関係、「シリウス」と「大ピラミッド」の関係など、さまざまな仮説を展開した。これらに対する反響は乏しく、古代文明に興味を持つ読者が“どう感じたか”知ることができずにいる。私が本当に読んでほしかったのは、エジプト学者たちだった。少なくとも、頭から否定できる仮説ではない。この本にコラムとして記した「古代エジプトの神話に秘められた真実」もぜひ読んでほしい部分で、これまでの通説を根底から覆す仮説を提示してある。簡単に記せば『旧約聖書』創世記の記述や教えは、古代エジプトの“神話伝承”におうところが大きいのだ。そういう意識で「創世記」を読み返せば、すべての謎が氷解するのである。
最近、街に出ると新たな「カフェ」がオープンしているのを見かけることが多い。一時期「喫茶店」が次々と閉鎖していった時期があった。私は10代後半~30代半ばにかけ喫茶店をずいぶん利用していたので、次々と閉鎖してしまうのを寂しく思っていた。携帯電話の普及によって、多くの人は昔ほど喫茶店を利用しなくなった。待ち合わせ場所が「喫茶店」でなくてもよくなったからである。特に若い人たちは、喫茶店でコーヒーや紅茶を飲むことを無駄と捉える風潮が強くなっている。確かに、缶コーヒーの方がずっと安いし、無料で利用できる公園のベンチやテーブルまで備えた休憩所も多くなった。軽食を求めるならハンバーガーの店とか、おにぎりの店まである。それらに比較すると、確かに喫茶店のコーヒー代は高い。それに、現在の喫茶店には昔から営業している店が多い。歳月が内装やインテリアを古ぼけたものにしている。ただ現在でも営業している店は立地の良い店が多く、“待ち合わせ”場所や“一休み”や“読書”や“癒されたいとき”などにはうってつけである。近年オープンしている「カフェ」の方にはオシャレな店が多い。インテリアに凝っているとか、メニューに凝っているとか、流している音楽も独特なところが多い。日本の店でありながら、海外のカフェに迷い込んだかのような“異空間”を演出しているところも多い。こういう店内なら「タロット占い」が似合いそうだな…と思うこともある。ただ逆に、奥のテーブルで“一人占い”をしている翳りある女性がいたなら、その方が似合いそうだなと思ったりもする。「カフェ」であれば、アルコールを提供できるので、多分利益率が良く、それもあってオシャレな「カフェ」にするのだろう。居酒屋さんの“賑やかさ”を嫌う人達にとって、今後ますます需要な多くなっていくような気がする。
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