9月, 2016年

“若さ”で暴走する「浪速のエリカ様」

2016-09-07

「浪速のエリカ様」こと上西小百合議員が、最近、暴走気味である。一部で「嚙みつき芸人」とも呼ばれているらしいが、確かにそういう一面もある。ここにきて芸能事務所タイタン・太田光代社長に噛みついて注目されている。この事務所には元大阪市長の橋下徹氏が属しているからだ。元々、上西小百合議員は橋本氏が率いる「大阪維新の会」から出てきた議員だ。言ってみれば、橋本氏は自分を“世の中に出してくれた恩人”なはずである。けれども、ふたりは上西議員が“お泊りスキャンダル”を週刊誌にすっぱ抜かれて以降、衝突する仲となり、今は二人とも「維新の会」から外れている。まあ、上西議員の場合は“周囲は皆敵”という感じで、最近はさまざまな人たちに“ケンカを吹っかけて”いる。どうも、この人は“ケンカ好き”らしい。一般論として言えば「生意気な女」であり「礼儀知らずの失礼な奴」なのだが、私はこの女性の持っている“若さ”を面白いと思う。というか、うらやましいとさえ思う。私も若い頃、よく暴走したものである。人間、多少“生意気”だったり“礼儀知らず”な部分を持っている奴の方が、“大きな才能や資質”を秘めていることがある。“若さ”には勢いがあり、情熱があり、行動力があるものだ。少し強引で無礼で破壊的ではあるが、男性優位の“政治世界”で名を成そうともくろむのであれば、これくらいの“暴走族”はいた方が良いのかもしれない。過日、三原じゅん子議員を「ばか」と公言した。いくらなんでも「ばか」はないが、せめて「おバカな部分もあるのでは…」程度にしておいたほうがよろしい。まあ、そういう風に、もう少し表現に気を付けた方が良いが、しかし“面白い人物”であることは間違いない。

見た目が異なる「日本人」が増えていく

2016-09-06

「ミス・ワールド」の日本代表に“ハーフ女性”が選ばれた。父親がインド人、母親が日本人で“日本国籍”を持っている「吉川プリアンカ」という女性だ。確かに国際派の美人だが、正直“外貌はインド人”っぽい。通訳でモデルもしているらしいが、象に乗ることができる「象使い」の免許を持っているらしい。それにしても、これはオリンピックを見ていても感じたのだが、近年は“ハーフで日本国籍”の日本人が多くなった。このような現状は日本国だけでなく、さまざまな国で出現し始めている。“中華系アメリカ人”も多くなったし、逆に“欧米系中国人”も多くなった。韓国などは意図的に国家戦略として、“優秀なハーフの遺伝子”を得ようと努力している印象さえうかがわれる。世界的に「国際結婚」が広がることで、あらゆる人種や民族の“垣根”が取り払われ「世界平和」が実現するのであれば、この“奇妙なブーム”は大いに寄与することになるに違いない。但し、国際結婚には“宗教の壁”が立ちはだかっていて、これをクリアできないと本当の意味での“垣根”はなくならない。歴史的にも宗教が“戦争の火種”となってきたケースは多い。そして、いったん戦争に巻き込まれてしまえば、この“ハーフの人達”こそ両国の間で“煩悶”し、時として“敵視される場合”さえ出てきてしまう。最近、京都は“世界の京都”になったが、あまりにも外人観光客が多すぎて、どこへ行っても外人だらけで、本来の“日本的な情緒”や“わびさびの美しさ”が失われつつあるような気がする。つまり、京都が京都でなくなりつつあるのだ。同じように、やがて日本なのに一見すると“日本人がいない”町や村が数十年後に誕生しだすに違いない。

“監督”も“四番”もいない方が勝てる「中日」の不思議

2016-09-05

ここにきて中日ドラゴンズが“破竹の6連勝”である。奇妙だ。一週間ほど前まで、中日は負け続けていた。何しろ、シーズン途中で谷繁監督が居なくなった。分かりやすく言うと辞めさせられた。現在は“監督不在”である。開幕からずっと四番だったビシエドも居なくなった。左足首ねん挫でリハビリ中だ。ところが、そういう状態となってのち6連勝しているのだ。実は中日は開幕からおかしかった。今シーズンは、接戦になると、必ず負けていた。谷繁監督になって、それが続いていた。接戦になった時、勝つか負けるかは“監督の技量+運”しだいである。基本的にプロのスポーツはそうだ。プロのスポーツというのは、各選手の技量そのものは、そんなに大きく違うものではない。元々持っている素質をいかに引き出すか、試合の流れの中で、いかに“効果的に発揮させられるか”、それは監督の“腕しだい”なのだ。プロスポーツは“運”や“ツキ”を味方にすることも重要である。それを味方にできるかどうかも監督の持っている「運」が七割方握っている。もちろん、これらは“接戦の試合”の場合であって、“大差がついている試合”では何の効力もない。ところがプロ野球とかサッカーなどは接戦の試合が多い。だから、監督の持っている力が大きく働くのだ。つまり、元々“強い運”を持っている人物が監督になると、チームは強くなる。それが証拠に中日は落合監督だった時、接戦の多くをものにした。だから常に上位球団で居られたのだ。彼が監督だった時、あまり大差のついた試合は少なく、ぎりぎりで勝っていく試合が多かった。元々の戦力はそれほどないのに、監督の技量と運とで、勝ち上がっていったからだ。だから敗れるときには“大差で敗れる”ことも多かった。監督を去って後、妙な形で球団に残ったが、それは“大きな間違い”だった。彼のような「運」を持っている人物は“表側”に立たないと、その運を発揮できない。“裏側の人物”では力量を発揮できないのだ。さて、来期の中日はどうするのだろう。いっそのこと、監督もいない、四番もいないチームとなって、がむしゃらに勝ち進んでいくチームになれば「燃えよドラゴンズ」の栄光を掴めるのかもしれない。

自動運転の「バス」や「タクシー」が走る時代

2016-09-04

「自動運転」という言葉を聞いても、いまひとつピンとこない。遠い“未来の話”のような気がするからだ。ところが、どうもそうではないらしい。オランダでは既に自動運転のミニバスが試験走行を開始している。シンガポールでも自動運転による「ロボタクシー」が、現在は試験段階で2018年の実現化を目指している。ドバイでは2030年までに無人化で“スマート車両”による「完全自動車両」の実現を想定している。こんなふうに世界は着々と“その日”に向かっているのだ。ドバイやシンガポールなど、どちらかと言えば「お金持ちの観光国」がそういうことに対して積極的である。日本も“それ”を目指すなら、オリンピックまでに“一部バス車両を自動運転”に切り替えるなどの努力をした方が良い。そのためには“早急な開発”が必要で、もちろん日産とかトヨタとか日本の自動車メーカーも“研究実験”は進めているが、2020年のオリンピックまでにというスローガンを掲げて国家規模で予算も出して進めた方が、早く実現化しやすいと思う。しかも、そうすることで“世界に売り込むこと”ができるようにもなる。日本は自動車産業の占める割合が大きいので国益にもかなっているし、訪日客にも利用しやすい。日本の交通網はなぜか発展が遅れがちである。今回も台風が来たら、たちどころにメイン道路や線路が絶たれて、北海道ではJRが1か月も動かない地域が出てきた。これではビジネスにはもちろん、海外からの観光客にとっても“融通の利かない国”“身動きのできない国”と思われても仕方がない。とりあえずの“補修”ばかりで進歩の乏しい観光国は、世界から取り残されていくのではないだろうか。

“ココロ”と“カラダ”が「大人」に変わる時

2016-09-03

法務省が、現行の民法にある“女子16歳から婚姻可能”の条文を“成人年齢の引き下げ”と合わせて、国会で改正審議入りする方向で調整しているようだ。つまり、男女ともに「18歳」を“子供と大人の切り替え時”として、“結婚・入籍”にしても、“飲酒”にしても、“選挙権”にしても、“犯罪の少年法”にしても、すべてを“統一化”したい希望のようだ。確かに、さまざまな部分で“現行の民法”が矛盾を抱えていることは否定できない。私自身、なぜ「女性だけが16歳から結婚できるのだろう」と少年の頃に漠然と疑問を感じた記憶はある。その答えは、どうやら十代においては“女子の方が性的身体の発育が早い”という解ったような解らないような理由から考案された制度であるらしい。したがって、それらを改正することは一応“矛盾を解消する”意図があるのかもしれないが、現実的には2014年度に“1394人の16~17歳の女性”が結婚しているらしい。妙な言い方になるが“女高生妻”が1000人以上も存在している、ということになる。そういう事実をほとんどの人は知らないことだろう。例えば少年が殺人を犯して「少年法」によって“刑が軽くなる”現実があり、それらに対しては多くの人が疑問に感じるのだから、或る程度、見直すのは“当然のこと”でもある。それに対して“婚姻制度”を見直すのは、まさか“身体の発達が遅れだした”からではないだろう。それにしても正式に結婚した“女高生妻”たちは、結婚後も学校に通っているのだろうか。“学校”より“結婚”を選んだ結果なのか。それとも“不覚の妊娠”が“、入籍せざるを得ない”状況を作り出しただけなのであろうか。謎は尽きない。

「長寿」は“素晴らしいこと”なのだろうか

2016-09-02

インドネシアのジャワ島で記録上「1870年12月31日生まれ」で、現在145歳とされる男性が確認された。英メディアが伝えているもので、その映像も公開されている。現在までの“ギネス記録”では122歳のフランス人女性なので、20歳以上も更新することになる。まあ通常の72,3歳の寿命を二度分“生きた”ことになる。もちろん、本人もそんなに長く生きるとは思わなかったらしく、122歳の時に“墓を準備”したらしい。人相上の「長寿の相」には、“下頤に達する法令線”、“極端に長い耳”、“眉の中に長い毛が生じる”、“耳毛が長い”、“顔の側面に生じる茶斑点”、“額3~4本の長い横皺”、“眼尻の切れが極端に長い”、“耳の手前の肉付きが良い”などがある。ただ、このごろ“長寿=幸福?”なのだろうか、と考える。確かに、俗に「還暦」とも呼ばれる60歳以前の若さで亡くなってしまう「短命」は“不幸”なことかもしれない。けれども、それ以上は、俗にいう“余生”であって、生きていること自体が“授かりもの”のような捉え方もあった。もちろん、現代のように平均寿命が長くなってしまうと、60代、70代でも“まだまだ現役”で、それが当たり前となりつつある。私自身も60代で、自分が“お年寄り”とも思えないが、けれども確実に“肉体的な衰え”を感じることが多い。健康で長寿ならよいのだが、病気で長寿はつまらないし、周囲に迷惑をかけてしまう。いや例え“健康”であっても“100歳以上”は、仲間がいなくなるばかりなのだから、早く“お迎えが来てほしい”…と願っているに違いない。

2016年9月の運勢アドバイス

2016-09-01

人生には「重い扉」を開かねばならない年がある

2016-09-01

長い人生の中で、だれしも一度は自らが「重い扉」を開かねばならない年があるものです。ほかの誰でもなく、自分自身で「重い扉」を開かなければならない状態の時があるものです。誰もが躊躇し、逃げ出したい気持ちも入り交じりながら、その「重い扉」を開いてゆかなければ、前へとは進んでいけないことを“本能的に自覚している”時があるものです。日頃、神仏など信じないような人でも、そういうときには無意識に両手を合わせてしまうような“真摯な想い”が宿るものです。“合掌”というのは元々本能的な行為で、教えられなくても“真摯な想い”から運命に立ち向かうとき、人は自然とそういう意識になるものです。つまり、人はそれが“運命的な時”であるかどうか、或いは“運命的な状態”であるかどうか、本能的に“知る”ようにできているのです。人間の“潜在意識”は、自分の置かれた環境下で“少し先の未来の映像”をぼんやりと把握しているので、目の前に出現した「重い扉」が、他の人たちが開いてくれる“日常的な扉”か、人生に何度も出現しない“自分自身が開かなければならない扉”か、ちゃんと解るようにできているのです。「重い扉」の向こうには“新しい自分”が待っていることも、本能的に解っています。ただ“運命の扉”を開くためには、少しの勇気と“真摯な想い”が必要なのです。どんなに“逃げ出したくて”も、いつの間にか「重い扉」は眼前に迫っていて、容赦なく迫っていて、泣きながらでも開かなければならないものです。そういう時、人は背後に後ずさり出来ない“強い力”を感じて、前へと“突き出される”ように進み始めるのです。人間が「運命」という“どうしようもない巨大な力”に翻弄されながら生きていることを、改めて自覚するのは“そういう年”なのです。

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