私が子供のころ、大みそかは「紅白歌合戦」を見る、というのが世間一般の“習わし”となっていた。そこには何の理屈もなく、一年の疲れを“華やかな歌や踊りや笑い”で癒しましょう、というコンセンスが取れていた。TVが“娯楽の王様”だった時代の話だ。けれども時代は変わり、もはや誰もTVを“娯楽の王様”だとは思わない。NHK「紅白歌合戦」への出場が、歌手にとって“一流であることの証”というステータスも薄れた。本気で「赤(女性歌手)」や「白(男性歌手)」の歌手だけを応援するという状況そのものが見られない。第一、男女混合のグループも多い。性判別そのものさえ微妙になっている。“周りの誰も”が見ている番組でもなくなった。日本における“歌の世界”が多様になっていて、昔のように“歌謡曲”というジャンルで単純に括れなくなっている。それでも“日本の国民的な番組”は、古典的手法にこだわり続けるかのよう「紅白歌合戦」というタイトルと形を変えていない。近年、俗に“大物歌手”と呼ばれる人たちが次々と“卒業”し、或いは“落選”した。最近は誰のどの曲がヒットしているのか、正直よくわからない。“歌番組”と呼ばれるTV番組が減って、国民の誰もが“知っている歌”そのものが消えている。“茶の間で見る歌”が存在しないのに“茶の間で見る歌番組”を作り続けること自体に無理がある。多分「紅白歌合戦」のタイトルや手法を変えることができないので、人選だけでも“新鮮”にしていこうという涙ぐましい努力の結果なのかもしれない。今や“男女別の紅白”など何の意味もないのだから、思い切って日本列島を“東・西”に分断して出身地域別の「東西歌合戦」にしてしまう方がスッキリするような気もする。それとも、かつての「歌のベストテン」のようにリクエスト集計をして、個人的な“歌合戦”にしてしまうという方法もある。もう「日本人の誰もが歌える歌」はなくなってしまうのだろうか。
西洋には「金持ち喧嘩せず」という“ことわざ”がある。確かに一部の例外を除けば、本当の“大金持ち”はケンカをしない。近年の日本人は表立ってのケンカは少なくなったが、その分ストレスとして溜め込みがちで、何となくぎすぎすした状態が作られやすい。これは日本の経済状態と無関係ではない。一応、生活は何とか保っていけるが、余裕ある経済状態の人達が少ないのだ。そういえば、ここにきて欧州では経済問題からの対立が多くなった。“心の豊かさ”にはいろいろな意味合いがあるが、心に“奥行き”があれば、人は相手を“許せる”もので、そういう意味での豊かさは“ぎすぎすしない日常”を授けてくれる。臨時国会の延長によって「TPP」や「年金改革」と共に、通称「カジノ法案」成立の可能性が出てきた。前にも記したがカジノ王国マカオでは、カジノの収益で潤った結果として国民全員に余剰金が配布されている。早い話、外国人が使ってくれたギャンブルのお金をみんなに回しましょう、という話である。かつて貧しい国の一つであったマカオは、こうして“豊かな国”に変わった。よく「お金」を“悪者”のように扱う人がいるが、儲けを平等に分け与えるなら、それは人々の心に“許し”を与えて、少なからず相手を受け入れる“心の余裕”を生むものなのである。かつかつとした生活の中では、ちょっとしたミスとか不備とかでも“ケンカの種”になったりする。世界中、貧民街は“怒号と取っ組み合いのるつぼ”である。そういう意味で「カジノ法案」の成立を目指すことは決して悪いことではない。日本には元々“パチンコの文化”があるのだから、新しい時代に向けた“華やかなエンターテイメント”としてのカジノ王国を目指せば良い。ギャンブル依存症を防ぐためには、日本人の場合に限って過去履歴からの入場制限をかける。また無料でも遊べる施設を多数設けてドバイやマカオに負けない“ファンタスティックな世界”の実現を目指せば良いのだ。
ここ20年くらいの間に、われわれの生活は大きく変わった。ITが変えたといっても良い。そういう時代の変化に対応できていないと思えるものの一つが“日本の教育機関”だ。皇族・愛子さまの“登校”は、徐々に本来の姿に戻り始めているが未だ完全ではない。実は90年代後半以降、小・中学生の不登校児は比率的に観ると微増し続けていて、現在は小中合わせ12万人以上の不登校児がいる。昔であれば、学校へ通わなければ正規の教育を受けられなかった。そうすると“卒業資格”を得られない。卒業資格がないと上の学校へ進めず、就職面でも大変に不利となる。だから何とか義務教育だけは…と、親は考えたものだ。けれども、ITが発達した今、必ずしも、教育は「登校しなければ受けられないのか」疑問も付き纏う。もちろん、集団生活の中で“人間としての成長”がもたらされる部分もあり、登校した方が良いのは言うまでもない。けれども現代の“学校の枠”や“児童のまとまり方”が、一部の子供たちに“閉塞感”や“疎外感”を与え、集団からはじかれがちな状況を生み出している事実も見逃してはならない。問題は教育機関にあって“不登校児を減らそう”と努力していることにある。そうではなくて、長期的な教育スタンスとして「登校」を“する”&“しない”の選択制に出来るようなシステムの構築を急ぐことにある。登校しなくても、学校に来たのと同じように“学べる仕組み”を作っていくことだ。ITの活用で、自宅でのパソコン学習が可能となっているはずだからだ。或いは“教員免許を持った家庭教師制度”の本格化で、学校に行かなくても“卒業資格”や“受験資格”を得られやすい制度を急ぐべきなのだ。企業の方でも、最初から“自宅勤務”を可能とするシステムを本格化していけば、必ずしも会社に出社する形でなくても、“入社資格”を得て働けるシステムとなっていれば、大人になって困ることもない。世の中“集団が苦手”という人は山ほどいるのだから…。
世の中には“どうでも良いニュース”というものがある。ところが、ニュースのネタに欠く日には、そういうニュースでも“事件のように報道”される。昨日、兵庫県のパチンコ店で休憩用のベンチに座っていた女性の下半身を盗撮したとして、公務員の男性が逮捕された。容疑の男性は“全体像を撮影していた”と一部否認している。多分、その男性はパチンコで負けてストレスが溜まっていたのだろう。ちょっと頭を冷やそうか、という感じで休憩室に行ったら、そこのベンチにショートパンツをはいた魅力的な女性が足を組んで雑誌を読んでいた。おそらく、この推測に間違いあるまい。彼はなんとなくスマホを使って動画撮影をした。別に深い意味があったのではない。魅惑的な肢体に魅せられ、何となく動画として残したかっただけなのだ。警察は女性が“ショートパンツ姿”だったと公表している。別に女性から警察に通報があったわけではない。たまたま非番でパチンコ店にやって来た男性警部補が、女性の前を行き来していた男性を見つけて署に連絡したのである。こうして公務員の男性は“盗撮容疑”で逮捕され、全国ニュースに載った。氏名が全国に公表され“逮捕”という履歴までついた。すべては“偶然”のなせる業である。彼は、決して盗撮に来たのではない。パチンコをしに来たのだ。そして途中まで負けていたから、気分を変えに休憩室に行ったのだ。そこで女性が雑誌を読んでいたのも偶然である。ショートパンツも偶然である。というよりも、その女性は普段から、そういう姿をしていたので、別に見られても、撮られても、どうということはなかった。発見した警部補もパチンコをしに来たのだ。捕まえに来たのではない。なぜ、警部補は一言「今回は見逃すけど、今度やったら盗撮として捕まえるぞ」と肩を叩きながら、彼に片目をつぶって笑えなかったのか。そうすることで、すべては、治まったことではないのか。時代が誰もの心を狭くし、一人の男性の人生を破滅させた。
このところ「日経平均株価」がじわじわと上昇し続けている。7営業日続伸で“年初来高値”まであと一歩だ。もっとも、頼みの“円安”が、ここにきて“113円前後”で一時的に反転し始めているので、ちょっとだけ下落する“調整期間”が出て来るだろう。大きく下落することはない。「トランプ相場」とも呼ばれる“予期せぬ追い風”は、新大統領の決定と同時に始まった。アメリカの金利が大きく上昇に転じたからだ。日米の“金利差拡大”によって“円安方向”への旗が振られ、一気に円安が進んだことで“日経平均”は黙っていても上昇する形となった。どうしてかというと、外国人投資家の多くは“ドル換算”で「日経平均」を見ている場合が多いからだ。したがって円安が進むと、“昨日と同じ値”はドル換算で“安くなった”と映るので“買い”意欲をそそることになる。逆に“円高方向”に振れると、ドル換算で“高くなった”と映るので“売り”のサインが点灯することになる。何しろ、日本株は外国人投資家に支えられている。円安になると、黙っていても日本株は上昇するようにできているのだ。それにしても、トランプ氏はまだ大統領には就任していない。それなのにアメリカ経済の先行きを見越して金利が上昇し、円安が進み、日本株もその恩恵を受ける。安倍総理も、黒田総裁も、内心はホッと胸をなでおろしていることだろう。なぜなら円高を止められず、日本株も浮上せず、四苦八苦していた矢先だったからだ。これで黙っていても、日本経済の“先行き”に“明るい兆し”が見えてきたからだ。アベノミクスの成果でも、日銀の手腕でも全くないが、日本人にとっては結果的に“豊かな社会”“恵まれた経済”が築かれていくのであればそれで良い。そういう意味では、もしかしたらトランプ氏は何もしていないのに“日本を救った恩人”に昇格していく可能性を秘めているのだ。
一瞬、緊張が走った。私が「最初に訂正させていただきますが、先ほどの紹介で「筆跡占い」とありましたが、そうではなくて「墨色判断」という占いです」と言ったからだ。ブラマヨの吉田氏が「筆跡占い」として紹介したのは台本にそう書いてあったからである。実は前日、自宅での打ち合わせ段階で、私はこのことをスタッフの方に指摘し「訂正しておきます」と確認をとっておいた事項なのだ。最初に、ここから入ったので吉田氏は気分が悪かったのだろう。そのあとの展開でも終始私の言葉に否定的であった。日ハム“大谷翔平選手の2017年を占う”という関西系TVの番組収録での話である。大谷選手は若干、戸惑ったような表情を浮かべたが、それだけだった。収録は直前になって“事前打ち合わせ”と、いろいろな部分が変わった。前日までは吉田氏にも大谷選手同様に書いていただき、その比較も行う、という“手はず”であった。変えるのであれば“事前打ち合わせ”など意味がない。私はいつもそうだが、TVは最初から“ぶっつけ本番”で収録してくれる方が楽である。大谷翔平選手に筆文字で「日本一」と書いていただき、その“筆文字によって占う”のが今回の役割だ。「墨色判断」は1000年以上の歴史を持つ本格的な占いである。遊びではない。だから大谷選手が書いた「日本一」には“弱点”があったので、そのまま素直に解釈して判断した。「スタート時に問題あり」「下半身、特に足の怪我に要注意」「フルシーズン働ければ素晴らしい成績を残せるが、それは難しい」などである。多分TVなので、大谷氏自身は気にしないだろうが、配慮した流し方をするだろう。だから、あえてここに書いたのだ。彼の書いた「本」という文字の左右の祓いは明らかに掠れていた。膝から下に故障が起こってくるサインだ。さて、これらが実際に流されるか、そして吉田氏とのやり取りが流されるか、要注目!
世の中には“ウソのような本当の話”というものがある。日本では“語呂合わせ”から11月22日が「いい夫婦の日」と定められている。ちなみに最近かと思ったら1998年から施行されているそうだ。さて、都内に高齢でも“ご夫婦とも元気”で介護サービスを受けていない仲の良いカップルがいた。お子さんはなく、お二人とも97歳&93歳と高齢なので民生委員の方は心配されていたが、奥様の方は元々“水泳の先生”だったらしく健康で、旦那様の方も“銭湯の大浴場に入るのが楽しみ”という健康体で干渉できなかった。ところが、ここ3~4日、室内の電気が点けっぱなしになっているということで、民生委員から警察の方へ連絡が入った。こうして21日に室内を調べたところ既に亡くなっていて、死体解剖の結果、二人とも同日に“病死した”らしいことが判明した。はからずも「いい夫婦」の前日に、奇跡のような形で“一緒に旅立った”のだ。お二人の“死因”については公表されていないが、お二人の年齢から推測すると“老死”である可能性が強い。“老死”というのは、人間の死の中で“もっとも穏やかな死”であるといわれる。痛みや苦しみがなく、天国へと旅立てるのだ。通常は“死の数日前”から、その予兆が訪れて食欲が乏しくなるらしい。ただ二人の食卓には“梅干し”が用意されていたというので、案外、予兆はなかったのかもしれない。こういう“奇跡”を耳にすると、神様も“粋な計らい”をするな…と感心する。普段、まどろっこしい行いばかりで毒づきたくなる神様だが、たまにはこういう“奇跡”も起こして、その“いたずらっぽい部分”をアピールしてくる。本当に“憎めない神様”なんだから…とでも言ってほしいのだろうか。
昨日も東北地方で地震があり、津波警報が出た。東日本大震災で被害の大きかった地域の人たちは、嫌でも“あの時”を思い出したに違いない。幸い今回の被害は少なかったが、“自然災害の恐怖”を改めて感じずにはいられない。どのような自然災害でも「運」と呼ばれるものが背中合わせにある。普段どんなに「運」というものに対して否定的な人であっても、予期せぬ形で訪れる自然災害に関してだけは「運・不運」を否定できない。どんなに計画的に生きようと思っても、われわれの人生には“予期せぬ出来事”が起こることがある。こんなはずではなかったのに…と嘆いても、“予期せぬ出来事”が生活の中に侵食し、人生の歯車を狂わせていくことがある。そういう時、人は初めて「運」というものの“魔力”に驚き、神・仏の存在性を心から願うのだ。つまり、われわれが本当に“神・仏を発見しようとする”のは、予期せぬ不運や災難に遭遇した時なのである。人知ではどうしようもない状態の時、人は“人知以上の力”、或いは“奇跡の出現”を願うようになる。実際、そういう時に“何か”が救ってくれた体験をしてきている人は多い。私自身、海で溺れた時にも、車で跳ね飛ばされた時にも、地獄谷で滑り落ちた時にも、眼に見えぬ“救いの手”が差し出されていたような気がする。不思議と“自分の生命”に関しては、何かが守ってくれているような気がしてならない。私は今年“義母”を喪った。今から40年前に“実母”を喪っているが、その時から私の本格的な「占い師」としての人生が始まった。なぜか背中を押されるように「占い師」の看板を依頼し、新聞や雑誌広告を出して、プロとしての第一歩を歩みだしたのだ。今となっては、なぜあの時「占い師」をスタートしたのか、本当のところ思い出せないのだ。もしかすると事故で“実母”を喪ってパニックだったのかもしれない。今だったら、とても恥ずかしくて…。
タイトルは“美しい情景”を連想させるが、実際には“美しい情景”とは程遠い。入所者19人が殺害された「津久井やまゆり園」仮移転の話だ。このほど施設の建て替えが正式決定し、その仮移転先として横浜市港南区の障碍者施設「ひばりが丘学園」に移ることが決まった。この施設はほぼ同様の施設であり、来年の春には閉鎖することが決まっていて、古いが仮移転先としてはもってこいなのだ。方位学的な話をすると、丁度、南東方位の中央付近に当たる。もし、今月から移動し始めるのであれば、年方位盤も「一白」、月方位盤も「一白」という組み合わせとなる。元々“南東方位”には「信頼回復」の意味があり、一度失った名誉や信用を取り戻すためには“最適の方位”なのである。おそらく無意識に、というかそれ以外には見当たらず、この施設を活用する形になったと思われるが、方位学的には願ってもない選択となった。「一白」には“古い”とか“暗い”とか“安い”とかの意味があって、実際そういう施設なのに違いないが、同時に“情愛が深い”とか“家族的な”とか“細かな気配り”などの意味もある。つまり、入所者たちにとっては“居心地の良い施設”になるに違いない。老人ホームとか、介護施設とか、療養施設とかでもそうなのだが、この種の建物は“新しければ良い”というものでもない。なぜか古くて暗くて安っぽい感じの施設の方を、入所者自身が好んで利用するようなケースが多いからだ。だから、もしかすると真新しい施設を建設するよりも、昔の保養施設とかリゾートホテルとかで閉鎖されたままになっているものをリノベーションした方が本当は悦ばれるのかもしれない。殺人事件で19人もが犠牲となった施設をそのまま使うわけにはいかない。けれども、真新しく変わった時、果たして入所者たちが“居心地良く”過ごしてくれるのかは大いに疑問なのだ。
世の中には“名前”で得をする人もいれば、“名前”で損をする人もいる。清原和博氏もその一人だ。といっても、あの「清原」ではない。20日に行われた神戸マラソンで4位入賞した一般参加の清原和博氏(25歳)だ。彼は、同姓同名に相応しく中学までは野球をやっていた。けれども“控え投手”で表舞台に立つことはなかった。父親が「野球・清原」の大ファンで息子に与えたのが「和博」の名であった。確かに自分が“清原姓”であれば、命名時にそうしてしまったのは心情的にも理解はできる。実際「徳川」という姓では「家康」の名を与えられる息子が多いのだ。ただ以前「田中角栄」が“ロッキード疑惑”に揺れていた時、同姓同名の子供たちが“イジメられる”という悲劇が起こった。有名人の名をそのまま用いる命名は“一生もの”であることを忘れないでほしい。そうは言うものの社会的に大成功していたり、一代で大金持ちになったりする名前には“それなりの才能や手腕”が潜んでいるもので、“同じような分野”に進むのであれば、同姓同名は悪いことではない。そういう意味で4位入賞の清原氏も野球では大成しなかったが、現在“ジム・インストラクター”として活躍している。そしてマラソンでは、始めてからわずか3年でトップランナーとなった。やはり「清原和博」という名は、スポーツの世界では活躍できるのだ。ただ彼自身も、時には名前でバカにされるとか、からかわれたこともあったに違いない。その時、父親を恨まなかったことが“今日の彼”を作り出したのだ。人間は、時として自分の家系や血縁や境遇を“恨みたくなる”状況に追い込まれることがある。そういうときでも彼のように「これは背負っていかないとしょうがない」と開き直ることで、人生は輝くものへと変わっていくのだ。
私はそういうのをやったことがないが、世間では「自撮り」と呼ばれる“カメラの自分撮り”が大流行だ。自分自身の“好きな角度”とか、“好きな背景”とか、“好きなポーズ”とかを誰にも干渉されず自由に撮って掲載することは、別に悪いことではない。ここ数年の世界的なブームだと言って良い。但し、それによって“かけがえのない命まで犠牲にする”事故が多発すると「?」がつく。なんと過去二年間で、自撮りの最中に“命を失った人”が127例も存在する、というのだ。信じがたい数値だ。もっとも報告が多いのはインドで、そのうちの76名がインド国内で起こっているらしい。走ってくる列車の手前で“自撮りする”ことで、多くの人から注目され、称賛やエールが送られる。それに気を良くして、徐々に“危険水域”へと向かっていく、というケースがもっとも多い事例であるという。他には、崖の上での自撮りも転落死の危険が付きまとう。“高所恐怖症”の私などからすると、そういう危険な場所へ行くこと自体も無理だが、おそらく“死と背中合わせ”の中で、よりキワドイ写真を狙うのは“ヌード写真集”の売り上げアップを望む出版社や女性タレントと共通の心理かもしれない。そういえば現在も存在するか不明だが、昔、一般素人女性の“露出写真”ばかりを扱った投稿雑誌があった。あそこに投稿する“ハダカ”の写真とも、どこか共通の心理がありそうだ。最初は“控えめな露出写真”なのに、ライバルの女性たちが増えていくと、徐々に“過激な写真”へとエスカレートするよう変わっていく。まあ“露出写真”で死ぬことはないが、危険な自撮りは「死」と背中合わせであること…そして、命の犠牲を払うほどの価値はないものだから…。
2016年の「新語・流行語大賞」のノミネート30語が発表された。それらを一覧して、お笑い芸人などが流行らす“ギャグ的な言葉”がほとんど見当たらず、ニュースや週刊誌で使われた言葉、特に“世界の政治や経済”にまつわる言葉が多い。それだけ“笑えない一年”だったのだ。確かに「トランプ現象」「マイナス金利」「パナマ文書」「EU離脱」「民泊」など、どれも“今年を象徴する言葉”だ。今年の場合は「流行語」というより「注目語」と呼んだ方が良い。こういう言葉が頻繁に使用されたということは、それだけ世界が大きく動き出しているということで、その余波が我々庶民の生活にも及んでいることの証であるかもしれない。昔と違って、現代は“世界の動き”と“日本の生活”とが切り離されていなくて連動するようになっている。「日本だけ違います」とは言えなくなっているのだ。それが、こういう新たな言葉を日常に浸透させる原動力なのに違いない。島国である日本は、嫌でも世界的な歴史の動きを意識しながら、常に対応していくべきことを教えている“言葉達”なのだ。そうでなければ、われわれは良くても“子孫の世代”が孤立してしまう。よく日本が“世界の流れ”に飲み込まれることを嫌う人がいるが、もう完全に飲み込まれているのだから、その中で“いかに日本を大切にすべきか”考えるのが“賢い生き方”なのである。実際、世界の人達から見て、随所で“日本のすばらしさ”が再認識されつつある。そういう部分を、もっともっと世界に発信していくことが“使命として必要になりつつある”時代が始まったといえるかもしれない。
« Older Entries