私のように長いこと“占い師家業”をやっていると、いろいろな方の“人生の変遷”を垣間見ることが多い。そして、つくづく“人間の運命はわからない”と思うことが多い。例えば、最初に出逢った時には“無職”だったのに、今は会社の“社長”として多忙を極めている人もいる。最初に出逢った時には“真面目な学生”だったのに、好きになった相手が良くなかったため借金に追われ、今はシングルマザーとして夜の世界で働いている方もいる。最初の結婚で失敗し“二度と結婚しない”と話していた方が、その一年後に社長の後継者と“国際結婚”したケースもある。財産家の元に嫁いだが、その二年後に夫が自殺し、そのあと精神が崩壊して“ギャンブル依存症”となった方もいる。実に、人生はさまざまである。さまざまな出来事や環境の中で、人は外貌だけでなく性格も微妙に変わっていく。良い変わり方もあれば、悪い変わり方もある。意図していなくても、変わらざるを得ないようなときもある。人生は長いので“その時の一断面”だけで、人を推し量るのは難しい。そういうときの手助けとして運命学(占い)というものがある。日頃テキパキと物事を片付けていくような人でも、人生に一度や二度は“迷って”決断のつけられないようなときがある。自らの“方向を見失う”ようなときがある。そういう時に“客観的な眼差し”を授けてくれるのが“運命学”だと思えばよい。「運命」という言葉に“のめりこみすぎる”のも危険だが、「運命」という“道しるべ”を無視しすぎるのも危険なものである。使い方次第で“毒”にも“薬”にもなる。それが占い師の一言なのだ。
中国のネットで日本のアパホテル客室内に置かれた本の内容が問題視され、SNSに投稿された動画の再生回数が二日間で7700万回に達したらしい。その本とは、アパホテルのCEOである本谷外志雄氏が著述した『理論近現代史学Ⅱ』という本で、彼自身が客観的に検証する形で“南京大虐殺を否定する”記述が述べられているらしい。正直、私は「アパホテル」に泊まったことがないので、そういう本が置かれていることも、そういう内容の本であることも、その本の著者がCEOであったことも、すべては初耳であり「良い」「悪い」を言う以前の感想として、意外な印象を持った。何度かテレビで見掛けた本谷氏は、どちらかと言えば“奥様の陰に隠れた存在”のように映っていたからである。それだけに彼が“近現代史の本”を書かれるほど学究型の人物であったこと、その自著を全客室内に置き、或る種“啓蒙運動”をされていたことも驚きなのである。けれども、海外のホテルでは『聖書』などがホテル客室内に置かれていることは珍しくない。それと同じような感覚で“歴史の本”を置いたとすれば、別に何の問題もない。『聖書』を置いているホテルの経営者が、客に対して“キリスト教を強要している”とは誰も思わないだろう。まあ、暇つぶしに“読むのも良いかな”と思う程度のことである。したがって、同じような感覚で自著を置いていたとすれば、それを非難するのは“的外れ”でしかない。しかも、自分の政治思想を押し付けるような書籍ではなく、客観的な資料に基づいた“近現代史”であれば、批判する理由がない。これを投稿したのはアメリカ女性と中国男性のカップルらしいが、簡単にいうと「こういうホテルには泊まるな」的な意図を持っての投稿であろう。それは、もしかしたら“事実を知ってしまう”ことによって、それまでの思想や価値観が崩れてしまう可能性を恐れているのかもしれない。多分、それほど客観的に記述されている、ということであろう。私が「素晴らしい」と思ったのは、その動画炎上を知っての本谷氏の対応である。極めて冷静に、本来の趣旨や現在の状況を公開し、少しも感情的になっていないことである。研究者としてだけでなく、ホテル経営者としても、第一級の人物であることを見せつけている。
或る事情があって、地方から札幌に出てくる若者向け“賃貸物件”をいろいろと調べた。予想していたよりも“安い”物件が多いことに驚く。3万円前後の物件が山のようにある。私自身が室蘭から札幌に出てこようと不動産屋さんを回ったのは30年以上も前だから比較にならないが、その時、私は3万8千円で借りたように記憶する。地下鉄駅に近い1DKの部屋だ。ところが今は、そのくらい出すと、もっと立派な部屋が借りられる。賃貸物件は総じて昔より、やや安くなっている印象なのだ。一方、分譲物件の方はというと、新聞に挟まれてくるチラシ等から推察して、ここ数年じわじわと値上がりしている。明らかに十年前より高くなっている。私の住む地域など、昔3千万円で買えた物件が今は4千万円で売れているのだ。もちろん地価の値上がりなどもあるから、一概には言えないが、総体的に札幌の分譲物件が高くなったことだけは間違いがない。建築資材などの高騰から近年の新築不動産はどうしても“高い”印象なのだ。この“賃貸安く”“分譲高い”という現象がしばらく続いてくれるなら、若い時に分譲で家を買い、ローンを払い終えた頃に売って、その後は賃貸で暮らすという方法が、ものすごく“お得”のような気がするのだが、どうなのだろう。何しろ、ローンを払い終える頃には普通30年くらいたっている。それで、購入価格よりも高値で売れて、そのあと“安い新築の賃貸”で暮らすことができれば、とても新鮮な気分で“リッチな生活”が出来そうではないか。なかなか“良いアイディア”のようにも思うのだが、何となく、訊く前から“冷たい眼”で見られそうな嫌な予感。う~ん、世の中は難しい。
昨夜、北見市内のインターネットカフェで、警察官の財布を盗んだ疑いで住所不定・派遣社員の男が逮捕された。財布を盗まれたのは28歳の女性巡査部長。財布の中には13000円。最近、この店では“置き引き”が多いということで、四人もの警察官が利用客を装って店内で張り込みをしていたらしい。一件、落着の事件なのだが、どうも釈然としない。私には、盗む方も、盗まれた方も、プロとしての意識が足りないのではないか、と思うのだ。もし、警察官が最初から自分たちの財布を“盗まれそうな場所”に置いたのだとしたら、プロの窃盗犯は“それ”を盗むだろうか。意図的に置いていると思えば、プロなら、そのモノには手を伸ばさないような気がするのだ。いつ盗まれたのか分からない、どこで盗まれたのか分からない、そう思わせるのが“プロ”だ。したがって、“盗んでくださいよ”では、捜査にならない。むしろ、本物ではない“出来心の人物”が盗んでしまう可能性さえある。だから、そういう捜査はやってはいけないのだ。もし、これが、そうではなくて“盗まれるはずがない”と思っていた巡査部長が盗まれたのだとしたら、それはもっと憂慮すべきことである。なぜなら“張り込み”の緊張感がなさすぎだからである。捕まえに行って、自分が盗まれてどうする。四人いたから良いようなもの、一人でいったなら、確実に“被害者”となっている。恥ずかしい。盗む方も、盗む方だ。どうして、警察官が来ていることを気付けないのか。そして“盗んではいけない相手”から盗むのか。警察官とか、裁判官とか、弁護士とか、刑務官とか、自分たちが“お世話になる人達”だけは、絶対に外さなければいけない。両方とも、もう少し「プロ」としての自覚を持たなければ…。
欧米人にとっての「黄色人種」は、“白人”の側なのだろうか、それとも“黒人”の側なのだろうか。実は、彼らが人種を二分する時、われわれ日本人(黄色人種)は「カラード」と呼ばれ、“黒人”の側に含まれるのだそうだ。まあ一般的に見れば、どう考えても“その中間”だが、欧米人には“黒”も“黄色”も、色がついているから一緒というふうに見えるらしい。私が、それを知ったのはもう40年以上も前で、確か『これが世界の人間だ』という全世界をヒッチハイクした旅行記に記されていた話だ。故マイケル・ジャクソンは黒人として産まれたが、徐々に白人化していき、最終的には“白人のような姿”で死んだ。その彼をコメディタッチで描くドラマで再現しようとした時、普通の感覚の持ち主なら“白人俳優”を起用する。その選択が間違いだと、私は思わない。ところが、その放映を目前にしてストップが掛かった。その番組の予告編を流したところ、白人俳優を起用したということで騒動が勃発し、マイケルの長女パリスが「吐きそうになった」とまで述べたらしい。放映は急きょ中止となった。われわれ日本人には、なかなか“理解しがたい”感覚である。確かにマイケルは黒人だが、白人を“目指していた”のは誰の目にも明らかである。それを“白人俳優”が演じて何が悪いのだろう。しかも、それはコメディタッチの“都市伝説”再現ドラマである。シリアスなドキュメンタリーではない。マイケルの白人化で、私が思い出したのは“生けるフランス人形”を目指している整形美女・ヴァニラで、30回以上も整形を重ねて“フランス人形”を目指している女性だ。もし、彼女の人生を「実際のフランス人形を使って再現したい」と持ち掛けたなら、どうだろう。彼女は「人種差別だ」といって泣き喚くであろうか。多分、恍惚とした表情でOKを出すに違いない。
昨日夜、新潟に向かう電車が途中で停電し、3時間ほど動かなくなったらしい。大雪で送電システムに故障が生じたのだ。もちろん、暖房や照明もストップしたらしいが、幸い乗客に体調を崩した方は出なかったらしい。もし、このような事態が北海道の真夜中に起こっていたなら、大変な事態になる可能性がある。昨夜など氷点下29度まで下がった地域があるからだ。3時間もストップしていたら、その車両全体が「冷凍人間缶詰」として固まってしまう。ましてや今日・明日と大学のセンター試験が全国一斉に行われる。受験生に「すべる」は禁句だが、大雪に寒波は間違いなく“滑りやすい路面”を作り出す。「固まる」とか「すべる」とか、どうも“縁起が良くない”ではないか。それにしても大雪というのは北国・北海道よりも、北陸や関東甲信越の方が2メートルを超す地域さえあり、はるかに上回っている。住宅メーカーは、屋根の雪を“瞬時に溶かしてしまう”装置のようなものを開発できないものであろうか。毎年、屋根の“雪下ろし”で亡くなる人が出るたび、それを思う。IT技術は、あまり日常に関わらないようなものに関しては“目覚ましい進化”を遂げているが、肝心の暮らしに直結するような部門に関しては、中々発明・発見や技術改良などがおこなわれない。JR電車の“大雪停電”によるストップなど、今回は直接的な被害が出なかったから良いようなもの、早急に“対応策”を考えなければ、冗談ではなく「冷凍缶詰」の車両が生まれて来るだろう。
子供の頃にね、テレビのお姉さんが言ってたんだ。「おともだち何人できるかな」「おともだちいっぱい増やそうね」って。だからね。ボクは“そうしよう”と思うんだ。あのね。近所の子たちとね。たくさん、会うの。そうすると、お友達できるでしょ。ただね。そのとき、ちょっとだけ“おみやげ”必要だけどね。でも、そうやって、つぎつぎと、お友達を作ってるんだ。だって、仲間はずれは嫌だし、怖いおうちとか騒ぎ立てるおうちとか近くにあるんだ。だから、お友達たくさん作って、守ってもらうの。いままで「おともだち」だった子が、さいきん、ちょっとおかしいの。なんていうかなあ、大きな声で威張るんだよ。おまえのことはずっと仲良くしてやってんだから、これからも仲良くしてほしいなら、“ちゃんということきけよ”って、すぐ吠えて来るんだ。でもね、ボクは、すぐ会いに行ったんだよ。これからも“お友達だよ”って。ちゃんと“おみやげ”も持って行ったよ。うん、上機嫌だった。あの子は“単純なんじゃないか”と思う。だけど、すぐ、だれかれかまわず、ケンカしたがるんだ。だから、ホントは、あんまり好きじゃないかな。でもさあ、カラダ大きいしさ、うるさいしさ、仲良くしとかないとね。もうひとり、ボクはわりかし好きな友だちがいるんだ。こんどね、一緒にあそぶの。一緒に、いろいろと作って、カッコいいのつくって、みんなに見せてやるんだ。あの子はね。みんなから怖がられているけど、ホントはやさしくて良いやつなんだよ。スパイ映画に出て来るみたいな感じなので、怖がられてるけど、いいやつなんだ。こんど、みんなで一緒に写真とりたいなあ。みんな一緒で“笑っている”ところが良いんだけど、できるかな。そうだ、近所の“小池ちゃん”とか加えちゃおうか、あの子“えがお”はとっても好いんだよね。
『進撃の巨人』などの発掘で知られる敏腕編集者が“妻殺害の容疑”で逮捕された。以前から妻がDV相談もしていたようであるし、任意の取り調べでは「妻をヘッドロックした」との供述もあるようなので、衝動的に首を絞め、殺害した後で“偽装工作した”可能性が高いのであろう。子供たちに対する“教育方針”からしばしば衝突したらしいが、近年、そういう夫婦が増えてきている。その場合、単に夫と妻が対立するだけでなく“夫側の近親”&“妻側の近親”という対立にまで発展して泥沼化するケースも多い。特に一方が“教育者の家庭”とか、“医師の家庭”とか、“ハイレベルな学歴の家庭”の場合に、それが発生しやすい。まあ、何となく、その辺の人達は“同じような価値観”の相手を選ばないと、苦労しそうな気がする。ただ“価値観”というのは、育ってきた家庭環境が似ていれば共通しているか、と言えばそうでもない。一番影響するのは本人の性格から生み出される“幸福観”にある。そういう意味では“何を幸福と感じるか”は大変重要な意味を持つ。それによって“子育ての方針”はおのずと違ってくるからだ。逆に言えば、その辺が共通していれば、子供の教育方針で対立するようなことにはならない。それにしても、在日の敏腕編集者は、本当に“衝動的”だったのであろうか、それとも“計画的”だったのであろうか、その両方が入り交じった“発作的行動”だったのであろうか。推理小説なら、ここで“新たな女性”が登場する。つまり、数か月前から夫の方に“新たな女性”が出来ていて、そのことが単なる“子育ての対立”から“不倫疑惑”も加わって、より深刻なものになっていた。幼い子供たちは、暗黙ながら“妻に味方”する。5対1の空間、そういう中で掛って来た不倫相手からの電話と、それに気付いてしまった妻…。
どうも日本人の感覚からは“信じられない”ことを平気で行うのが“中国人気質”らしい。汚職撲滅キャンペーンで、処罰された共産党員の数が一年で120万人もいるというのだ。これが仮に120人だったとしても、日本でなら“大ニュース”となる。つまり、日本人は仕事上で禁じられているようなことは、通常しないし、出来ないものだ。ましてや金銭がらみのことは、よほどのことがない限り実行など出来ない。“良心”がそれを許さないし、管理体制としても、それを周りが許すような“雰囲気”を持っていない。万が一、それを実行したとしても、良心の呵責に日々襲われることだろう。こういう風に書いてくると、なんてわれわれ日本人というのは“善い人たちなんだろう”と思えてくる。それに比べて中国の120万人という数字は、そもそも“汚職”が日常化していて、何ら“罪の意識”なく行われていることを露呈している。大体、本来はそれを取り締まる7900人の“汚職捜査官”が不正行為をしていたというのだから終わっている。これだけの数になると、個人の資質というよりも、国自体の問題ということになる。もう少し“モラル”とか“マナー”とかを幼少時から、国としてきちんと“教え”なければならない時期に来ている。もう、中国は“犯罪がなければ生きていけない”後進国ではないのだ。国内の“汚職撲滅”キャンペーンも良いが、国際的な“ルール順守”もきちんと行ってくれないと困る。特にアメリカが“世界の警察官”ではなくなった今、ここぞとばかりに“世界を荒らされては困る”のだ。古代中国では、尊敬すべき“教え”や“人物”が綺羅星のごとく出現した中国、3000年の歴史の中で“なにをどこに”忘れて来たのだろうか。
私のように北海道で暮らしていると、この時期はいつも寒く、雪が降り積もるので、多少それが続いたとしてもそれほど大事のようには感じない。けれども、元々が雪の少ない地域とか、あまり気温が低くならない地域で暮らしている方たちにとって“真冬の大雪”や“大寒波”というのは生活に支障が出やすいものなのに違いない。そういう点で気になるのは、今後1週間ほど日本の上空に“寒気が居座る”という予報である。それに伴う“大雪”や“大寒波”が心配されている。確かに、それは数日前から“予報”されている。けれども、去年の年末や今年の年初めに、それを予報した「天気予報士」の方はいたのであろうか。私は、年末に“来年は穏やかで平年より暖かな正月になる”と聴いた。年始の長期予報でも“今年は例年よりも暖かな冬が過ごせそうです”と聴いた。つまり、天気予報士は、誰も“大雪が降る”とか、“大寒波になる”とか予報していない。まだ年始から十日しか経っていないのだ。一体、天気予報士って何なの? 今日の天気なら、空を見れば何となくわかるし、明日の天気なら、漁師さんに訊けば直ぐ答えてくれる。つまり、今日・明日の天気など、何百人もの天気予報士の方達が“ねじり鉢巻き”で考えなくても、勘の良い人なら判ってしまうたぐいなのだ。そうだとすれば、本当は“数日後の天気”、或いは“十日後の天気”、さらには“一月後の天気”を的確に教えてくれる“予報士”として、国家資格を持っているのではないのか…と言いたいところだが、残念ながら、その点に関しては実に“頼りない”のが実情である。まあ簡単にいうと“当てられる”自信はないというのが天気予報士の本音なのだ。そこへいくと私など一年前に「暦」の原稿を書いている。そして、その中で2017年の予測として「冬場の大雪や猛吹雪で“身動きが取れなくなる形”が出ている」と警告しているのだ。
かつて一世を風靡した歌手の沢田研二がステージ上で歌詞を忘れ、土下座してファンに謝ったらしい。今年はデビュー50周年だそうで、そのための全国ツアーも予定されているらしい。それにしても「沢田研二」は変わった。心身ともに変わった。「心」の方でいえば“裸”になった。もう少しわかりやすく言えば“気負い”がなくなった。「身」の方でいえば“普通のおじいちゃん”になった。“カッコいい熟年”にはならなかった。どう見ても“カサブランカ・ダンディー”ではない。どこにでもいる“中年太りのおじいちゃん”でしかない。つまり、彼は本当の意味で「かつてのアイドル」から卒業したのだ。自分を“昔のアイドル”と思わなくなれば“自由”になれる。外見も、言動も、誰に対しても、気を使わなくても済む。これこそまさに“真の自由”なのだ。ところが、実際には、これがなかなか難しい。別に芸能人でなくても、有名人でなくても、“老いていく自分の姿”をさらすのは勇気がいるものだ。けれども、本当はその方が“楽”だし、楽しく生きられる。確かに老齢となっても、若き頃そのままをほうふつとさせる人はいる。緊張感を保ち、時代に乗り遅れないよう気を配り、スマートに仕事を続けている人たちはいる。けれども、そういう“生き方”は確かに素晴らしいが、ちょっとだけ疲れる。その一方で、もう“普通に年老いていくよ”と悟りきった人たちもいる。もちろん、どちらが良いかは一概に言えず、その人の“人生観”に掛かっている。私は昔、緊張感を保ち、最期まで“理想を追い求めていく”生き方に憧れていた。けれども、最近の外貌はどうだ。とても緊張感を維持している体形ではないし、緊張感を維持している頭脳でもない。やはり「神様」は“運命を平等”に授けているのだろうか。
「日本三大火祭り」と呼ばれるものの一つが1月7日の夜に行われる。一方は福岡・久留米市の大善寺玉垂宮の「鬼夜(おによ)」であり、もう一方は福岡・太宰府市・太宰府天満宮の「鬼すべ」である。奇妙なことに、この二つの“火祭り”は似ているのだが、微妙に違っている。その両方をネット動画で見たが「鬼夜」の方が迫力があり、鬼気迫る“神事”としての趣が感じられる。「鬼夜」では、“火”を“神”と見立てているのは明らかで、その火の粉を浴びることで、その年は“無病息災”で過ごせると信じられている。燃え盛る大たいまつは長さ13メートル、重さ1トン以上で、それを6本(?)並べるのだから、まさに夜空を焦がす“鬼火”ということになる。一方の「鬼すべ」の方は、松明の火を“もののけ=悪霊”とみているようで、それを鎮めるための神事のようである。もしかしたら、この辺は私の勝手な解釈なので、違っているかもしれない。ただ、どちらも大きな燃え盛る松明を“引き回す”という点では共通なのだ。しかも、同じ日に同じ福岡で行われる神事なのだ。「鬼夜」の方は、1600年の伝統行事として、無形民俗文化財にも指定されている。古代中国では「鬼」は「キ」と読まれ、死体をかたどった象形に“賊害”を意味する「ム」を加えて“鬼神”に見立てるケースが多い。日本では「鬼」という文字に対して「かみ」「たま」「もの」「おに」と訓じて、いずれも“死霊世界”に関係のある表現を使った。俗にいう“火の玉”が、霊魂の正体だという捉え方もある。いずれにしろ福岡で行われる“二つの火祭り”は「鬼」を「火」に見立てているのは明らかで、夜空を焦がす炎が“災いを焼き尽くしてくれる”ことを願った“古代の人々の心意気”が伝わった神事といえるだろう。
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