何かと“世間を騒がす”上西小百合衆議院議員だが、その事務所に「殺害予告」が何通も届き、今日18日に浦和レッズサポーターとの間で“話し合いの場”を持つ方向で調整しているらしい。本来なら、警察に届けるのが先決だと思うが、まず“サポーターとの直接対決を行いたい”というのが、いかにもこの人らしい。問題の経緯は彼女のツイッターから始まっている。浦和レッズの試合をボロクソに批判し、それに怒ったレッズのサポーターたちから“怒りの反論”が届き、そこで黙れば良かったのだが、強烈な批判で返し“炎上”へと向かった。要するに、彼女からいわせると、たかがサッカーの試合に熱上げて“バカじゃないの”という論法なのだ。確かに、サッカーのサポーターたちは他のスポーツのファンと違って、少々“熱狂しすぎている”と思われる言動がないではない。実際、ファン同士のトラブルも後を絶たない。もう少し冷静に応援できないものだろうか…と個人的には思う部分もある。だが、サポーターたちの側に立つと、日頃、サッカーとは無縁のところに居るはずの政治家が、たまたま“カッコ悪い負け方”をした時にだけツイッターで口を出し、選手やサポーターたちを“へなちょこ扱い”するとは何事だ…ということになる。怒り心頭で、その勢いが“殺してやる”という「殺害予告」にまで発展したもので、もう口出しさせないための“脅迫”なのかもしれない。そうは言うものの、やはり「殺害予告」は行き過ぎだし、許されるものではない。それにしても、上西小百合議員は、よほど“闘い”が好きなのか、実にさまざまな方と闘っている。正に「闘士」であることは間違いがない。しかも「殺す」と言っている本人たちの前に出ていき、何百名か、何千名か知らないが、サポーターたちとの“直接対決”を望んでいる。私は、幼い頃によく見た「チャンバラ映画」を思い出す。敵陣にたった一人で乗り込んでいって、次々と敵を切り倒して本丸へと突き進んでいく“剣豪”の姿だ。そういう意味では“無駄にカッコ良い”。但し、何で政治家が、いつも政治とは関係のないところでバトルを繰り広げているのか、その辺のところは今一つ解からない。ただ、この人が度胸の良い人であることは間違いがない。多少、ドンキホーテ的なところを持ってはいるが、そして“庶民への理解力”に多少欠けてはいるが、彼女なりの“正義感の強さ”だけはひしひしと感じられる。
海外の科学サイトに「幸せな人達の九つのポイント」というのが紹介されていた。数百名を70年間にわたって追跡調査した結果から浮かび上がったポイントであるという。ただ私が日本人だからなのか、どうもいまひとつピンとこない。そこで、私でも理解できるような形にアレンジしてみた。ちなみに直訳的には、次のような9ポイントである。①信頼関係の構築。②お金より時間。③収入の高さ。④考える習慣。⑤小さな親切。⑥適度な運動。⑦モノよりコト。⑧瞑想。⑨友人との時間。…ということになる。なんとなく抽象的だし、全体的に解りにくい。そこでアレンジしたものを掲げる。①信頼できる相手がいる。②自由な時間が持てる。③生活に困らない程度の収入がある。④将来の可能性が残されている。⑤誰かを支援している。⑥毎日身体を動かしている。⑦新たな刺激を求めている。⑧心癒される場所がある。⑨愉しい仲間たちがいる。…というように具体化すれば、一応理解できる。私は個人的には、この中で①~④までが特に大切であるような気がする。④は、原文では「考える習慣」となっているが、これは日本だと「悩みやすい人」と重なりやすいものでニュアンス敵に少し違う気がする。彼らのいう「考える」は“自らの将来について熟考する”という風な意味で、それも建設的な未来に対する考察のようなものを指している。したがって“精神的な若さ”というか、“未来への志向”がないと育まれない“考え”である。だから「将来の可能性が残されている」とアレンジしたのだ。⑤~⑨までは絶対的な基準ではなく、確かにあった方が“より良いだろう”と思われるようなポイントである。結局、単独で“幸せを味わう”というより、常に周りに誰かがいて、そういう中で関わり合う形の方が“幸せは実感しやすい”ということなのかもしれない。
歳月は早い。本当に早い。それを奇妙なことから実感することがある。今日は“マイクを置いて”結婚し、完全に家庭に入った歌手・山口百恵さんの長男が、もう33歳になっていたことを知って愕然とした。まだ20代半ばくらいに思っていたからだ。それが、もう33歳。“山口百恵の息子”から“歌手・三浦祐太郎”に変わって当然の年齢だった。7月に母親の名曲だけをカバーしたアルバムを出したらしい。「いい日旅立ち」とか「秋桜」とか「イミテーションゴールド」…確かにどれも懐かしい。昨日の音楽番組では、珍しく父・三浦友和氏もコメントを寄せていたという。母親と父親の後押しも受けながら、歌手・三浦祐太郎が“かつての名曲”を復活させる。絵に描いたような「二世タレントの形」ではある。けれども、それで多くの人達が共感し、日本人の魂を揺さぶることが出来るなら、それはそれで“歌手・三浦祐太郎”の役割であり、使命なのだと割り切る方が良い。実際、彼のホロスコープでも、月と水星と金星とが0度で一体化し、その180度向い側に“復活の神・冥王星”が居て、その地点に現在トランジット(移動中)の天王星がアスペクトを投げかけている。つまり“伝説の歌姫”の息子は、かつての名曲を“蘇らせる役目”を出生時の時から担っていたのだ。けれども、彼はもちろんそんなことは考えたこともなく、名前を隠して音楽バンドの道に入り、歌手デビューした。けれども、母親のようにスターにはなれず、やがて映画デビューもしたが父親のようにスターにはなれず、結局、いつの間にか「いい日旅立ち」へと辿り着いた。33歳になっていた。そう、私が「もう、そんなに…」と思うほどの年齢になっていた。けれども、この年齢になったからこそ、これらの楽曲が“実感”として歌える。おそらく、母親は“実感”には辿り着かない年齢で歌っていた。歌唱力でそれをカバーしていた。本当は、このくらいの年齢で歌うのが、一番ふさわしい詞や曲なのである。そして、今の日本も、本当はこういう詞や曲をどこかで望んでいる。親子間での“血なまぐさい事件”が多いこの頃、こういう詞や曲の世界を誰もが探し求めているのだ。
まず最初に断っておくが、私は政治的に誰が好きとか嫌いとか、応援するとかしないとか、その種の気持ちは全くない。ただ時々、メディアとかマスコミの報道や批判に首をかしげることがある。アメリカの大統領トランプ氏夫妻と、フランスの大統領マクロン氏夫妻がエッフェル塔内のレストランで会食した。元々トランプ氏は実業家だけに、会食しながら相手との関係を見極めていくのが好きである。そういう点ではフランスの大統領も元々実業家であり、温和な風貌で個人的関係を嫌うようには見えない。さて、二人の大統領は夫人を同伴しているが、その婦人たちは、或る意味で対照的だった。一方はずっと年上であり、また一方はずっと年下である。ただ共通しているのは、両方とも元々“政治家の妻”になろうとした人たちではない。公式の場に慣れているのはアメリカ大統領メラニア夫人の方で、元々がモデルということもあって、どこへ行っても堂々としている。公式の場に慣れていないフランス大統領ブリジット夫人の方は、ちょっと緊張気味で、自分がどの位置に立てばよいか、誰と並べばよいか、常に気にしているように見える。そういう中で、トランプ大統領はブリジット夫人に対して「素晴らしいスタイルだ、美しい」と褒め称えた。これは多分、やや緊張気味のブリジット夫人に対して、多少、緊張を和らげて上げようという意味もあり発したトランプ氏なりの“やさしさ”だったのではないか、という気が私にはする。ところが欧米のメディアは、この発言を一斉に取り上げ「セクハラまがいの発言だ」と批判した。そうだろうか。トランプ氏はメラニア夫人よりもはるかに年長なブリジット夫人に対して気遣う意味もあって「顔」ではなくて「身体」のラインを褒め称えた。解かりやすく言えば「顔は年齢を隠せないけど、プロポーションはとても若々しく、素晴らしい美しさです」と言いたかったのだ。もちろん、欧米のメディアは、それを承知の上で、それこそまさに「セクハラ」そのものと批判する。では、何と言えば良いのか。彼は日本の首相昭恵夫人に対しては「素晴らしいスタイルだ」とは言っていない。もし昭恵夫人との会食の時、そのように述べていたのなら“セクハラ発言”も解からないではない。しかし、彼は“そのような噓”はつかなかった。近年、メディアは“自由で率直な発言”を叩き過ぎる。トランプ氏の発言には、確かに“セクハラ”や“パワハラ”もある。けれども何もかも、そういう風に追い詰めるのでは「自由な国」が泣く。
「カリスマ占い師の人生指南・第9弾」―私が移動運に注目するのは、それが自らの意思で動いた場合でも、そうではなく強制的に動かされる形で動いた場合でも「吉凶、動より生ず」と云う運命学的な諺が示すように、動いたことによって人生が或いは運命が大きく異なった方向へと舵を切られていくケースが多いことである
―風水アドバイスや旅行先での開運スポット、海外での占い体験など、波木流風水術が盛りだくさん。
かつてTVでも何度か取り上げられたことがある“やり手”の女性社長が「商標権の侵害」で逮捕された。格安の“キャバクラ女性ドレス”をネット販売して大成功した美人社長である。現在では従業員も70名以上いるらしい。けれども逮捕容疑は“ドレス”ではない。高級ブランド・エルメスの「バーキン」にそっくりのバッグを販売した容疑なのだ。ただ彼女自身は、これを否認している。つまり“似せて作った商品”ではないと否認している。問題の商品だが、画像で見る限り“瓜二つ”で、似せて作った商品であることは間違いがない。ただし、それが“意図的かどうか”という点になると難しい。大体が、バッグというのは基本的に“似たようなデザイン”になるもので、細かくチェックしていけば、ほとんどの商品が似せて作っているような商品となる。この場合、ブランドの“ロゴ”なども同じにすると、これはもう“コピー商品”で、明らかに「商標権の侵害」となることは誰でも解かる。問題は、ブランドの“ロゴ”などは変えて、自社製品にしてしまう場合である。実は、この手の商品というのは決して少なくはない。多くの人は、ブランドが異なることで「別物」と認識し、格安となっているその商品を購入する。通常、購入者からクレームが来ることはない。それは最初から“似せた商品”であることを購入者も知っていて、格安で入手するからである。時計とか、バッグとか、Tシャツとか、そういうものはいくらでもある。つまり、本当は「商標権の侵害」に当たるのだが、ギリギリ黙認されているような商品がたくさん存在している。おそらく逮捕された女性社長の商品は、かなり高価だったのではないだろうか。或いは、販売する時に「エルメスのバーキン」と勘違いして購入されたからなのではないだろうか。そして、せっかく大成功していた女性社長は“利幅の大きい”ブランド“そっくり商品”に手を伸ばしたことで、すべてを失ってしまうような気がする。コンビニのアルバイトから始まった彼女の立志伝は、一気に儲けようとしたことで躓いてしまった。
「夏場だから水分補給した方が良いわよ」とか「お茶を淹れておいたから飲んでね」とか、いつも優しい言葉をかけてくれる同僚の年上女性…その女性が淹れてくれたお茶は“睡眠導入剤入り”の「怖いお茶」だった。ミステリーじみた話だが、そういう事件が立て続けに起きた。7月11日に逮捕されたのは愛知県で介護施設に働いていた高屋律子(51歳)、7月12日に逮捕されたのは千葉県の老人ホームで働いていた准看護師・波田野愛子(71歳)である。どちらも手口は共通で、お茶に“睡眠導入剤”を混ぜて飲ませる手法で、自分が働く職場の同僚たちにのみ行った点である。その結果、愛知県の方は施設内で働く10人が体調不良に襲われた。千葉県の方は車で家に帰る直前のお茶で交通事故を起こし3人が重軽傷を負った。まだ容疑の段階だが交通事故死した職員もいる。その他職員5人が繰り返し体調不良を訴えていた。睡魔に襲われ仕事が出来ず、同僚に自宅まで送られ18時間眠り続けた職員もいる。それぞれの容疑者である“親切な同僚”は、逮捕後に容疑を認めている。特に准看護師の方は、同僚が仕事で席を離れたすきに、他の同僚と会話しながら慣れた手つきで、お茶に粉末を混ぜ淹れるという大胆さだったらしい。しかも、それを繰り返している。被害者女性は、尊敬していただけに“愕然とした”という。これから水分補給が必要な時期はまだまだ続く。そういう事件を知って、老人ホームや介護施設で働く人たちは、年上女性から“やさしいお茶”を差し出されたら、何となく“怖いお茶”ではないかと疑ってしまいそうだ。疑うのは良くないが、自家用車で帰ろうとする直前に「水分補給した方が良いわよ」と優しくお茶を差し出されたなら、一口で止めておいた方が良いのかもしれない。
スイスで11日にIOC(国際オリンピック委員会)の臨時総会が開かれ、2024年と2028年のオリンピック開催地を同時に決めてしまう案が有力となった。おそらく2024年が「パリ」、2028年が「ロサンゼルス」で決着するのだろう。何しろ、それ以外の候補地が住民投票などで無くなってしまったからだ。近年のオリンピックは、いろいろな意味で“妖し”すぎる。もはや「参加することに意義がある」という時代でも大会でもなくなってしまった。ハッキリ言ってしまうと「商品」「権力」「商売」「観光」の“場”と化していて、“健全なスポーツの祭典”ではなくなってしまっている。大体プロもアマチュアも同時に参加して競い合うこと自体がおかしいし、あらゆる面で“平等性”が保たれているとはいいがたい。昔と違って「国籍」というもの自体も、あいまいになっている。あまりにも競技種目数が増え、それに伴ってメダル数が激増している。金メダルだけで“308個”も存在するのだ。つまり、それだけの競技種目数が存在するということになる。多分、われわれはそのうちの半分の競技も観ていない。それが現代のオリンピックだ。当然、開催地や国民からの支持も失っているので立候補する都市も少なくなっている。ホテルの問題や警備の問題もあり、事実上、お金持ちの都市でなければ開催できなくなったからだ。あらゆる部門で“世界大会”が開催されている現実を見ても、わざわざ「オリンピック」という舞台を設ける必要性があるのか疑問もある。商業主義の道を歩み出した時点で、近代オリンピックは“破滅への道”を歩み始めたのかもしれない。もしも、オリンピックの時だけはイスラム教の人達も“ハダカ”になって競技する…というなら、その価値もありそうだが、そういう雰囲気でもない。国際紛争時も、オリンピックだけは“休戦協定”を作って「平和の祭典」とするなら良いのだが、そういう雰囲気でもない。何の役割も果たせないのなら、それこそ「休止」して、新たなる時代まで“封印”してしまう方が良い。
何年か前から「カジノ」の合法化とともに、“ギャンブル依存症”への対策が叫ばれるようになり、その一環として警察庁はパチンコ出玉規制の強化に乗り出す方針を固めたらしい。現行4時間で10数万円となる出玉を、その半分にも達しない5万円以下まで減らそうというのだ。そうすれば“パチンコ依存症が減る”と思っているらしい。もし、これを実施した場合、どうなるか、間違いなくパチンコ店が続々倒産していくだろう。もしかすると、それが狙いなのだあろうか。ただパチンコの遊戯人口は1070万人とも言われる。単純に言えば、続々とパチンコ店を廃業に追い込み、1000万人から“ささやかな娯楽”を奪ってしまうことになる。なぜ、倒産するのかといえば、ほとんどの遊戯者が行かなくなるからだ。遊戯人口が一気に半分となったら、企業として成り立たなくなるだろう。なぜ半分に急減してしまうかといえば、最初から“勝てない”ものに、人は挑まない。勝てるかもしれない、と思うから行うのがギャンブルである。通常、4時間もの長い時間、パチンコを打ち続けていた場合、まったく“当たり”が出なければ最大5万円くらい負けることになる。もちろん、この金額は人によって異なり、打ち方によっても、貸し玉の金額によっても一様ではない。もっと、少ない金額で楽しむ方もいるだろう。ただギャンブルは総じて短時間でお金を失うように出来ている。その代わり、勝った時には、その“何倍もの金額”が手に入るのがギャンブルの常識なのだ。それが“5万円”失うものに対して、最大で“5万円以下の勝ち”しか得られないのであれば、誰が、そんな割の合わない勝負を挑むだろうか。大体、負ける方が圧倒的に多いことは誰でも知っている。それでも行うのは、勝つ時は何倍にもなるからだ。私自身は、今は滅多に行かなくなったが、人生に絶望していた一時期、よく通ったものである。無心に球を打つことで、すべてを忘れられる。そういう“人生の一時期”もある。だれしもそういう時期があるから、人生は素晴らしい。運命は或る意味で平等でもある。それを確かめたくて、パチンコ台に向かうのだ。実際、そういう時期ではないかと思えるサラリーマン、OL、風来坊、主婦、おじいちゃん、おばあちゃんが一堂に集う。或る種、無言の社交場でもある。そういう“ささやかな娯楽”としての側面もパチンコにはある。おそらく1000万人のうち、900万人以上は、お金だけが目的で打っているのではない。“依存症”は、仮にパチンコを規制したなら、それで無くなるという単純な話ではない。
世の中には時々“解からない事件”というものが存在する。7月8日午後1時40分頃、静岡市の北口駅前広場で一人の女性が“現行犯逮捕”された。逮捕の罪名は「公然わいせつ罪」。けれども、女性はハダカになったわけではない。暑かったから上着を脱いだだけなのだ。つまり、広場で下着姿になったところを、いきなり逮捕された。40代無職の“普通”の女性である。別に、みんなに“下着姿”を見せようとしていたわけではない。とにかく暑かったから、脱いでしまった…だけなのである。その日、その時間帯の気温が29.8度。多分、駅前はもっと暑かっただろう。これが例えばグラビアモデルとか、AV女優とか、夜のお仕事だとかいうのであれば、一応、逮捕も解からないではない。そうではなく、普通の40代女性が“暑くて”下着姿になっただけである。東南アジアなどでは、裸の男性や下着姿の女性が路上に座り込んでいる姿など珍しくもない。もちろん、ここは日本で“広場”という公共の場であるから、通報があれば交番から警察官が出向くのは、職務として当然である。そこまでは何の問題もない。ただ乳房も下半身も露出したわけでもない状態で“いきなり逮捕”というのが解からない。せめて「ここは公共の場だから、洋服を脱いだらわいせつ罪になりますよ、すぐに洋服を着てください」とまず注意してあげて、それでも洋服を着なかったなら、逮捕するくらいの配慮があっても良いのではないだろうか。実際に“脱ぎたくなる”くらいの暑さなのだから…。その時、女性は黒いズボンを着用していたらしい。もし、彼女が“露出好き”だったのなら、黒いズボンなど着用していないだろう。もっと、男性の目を引きそうなファッションがいくらでもある。つまり、どう考えても、女性は暑かったから“脱いだ”だけなのだ。そして、自分の下着姿が“わいせつ”だとは思ってもいなかったのだ。通報された方も「しょうがない奴だなあ」と笑って許してあげるくらいの寛容さがあっても良かったのでは…。札幌の大通公園“噴水の前”など、真っ裸の男女が何人もいる。但し、3歳以下の子供達だが…。
このところ九州と北海道が「気象災害」の標的となるケースが多い。昨年、九州では“熊本地震”もあったが、火山の噴火も多かった。それが今年は福岡や大分の集中豪雨で台風以上の被害がもたらされている。地震も怖いが豪雨による土砂崩れや流木で家が飲み込まれるのも怖い。大地と天空に見守られるように人々は生きて来た。けれども、いったん、それらが“怒り出す”と、手に負えない“生き物”と化す。邪馬台国がどこにあったか定かではないが、九州説では、このところ災害が多発している地域の近くが有力とも言われる。今回の豪雨被害が大きかった地域は“卑弥呼の聖地”だという説もある。その一方で、北海道では何日か前、深夜に震度5の地震があった。ところがその数時間後の早朝、今度は九州の熊本で震度5の地震が発生した。興味深いのは、ここ三日間、北海道の帯広など広い範囲で急速に気温が上昇し、35度以上の“猛暑日”が続いていることだ。公式の気温は35.5度の帯広だが、駅前にある気温計では39度越えを達成している。熱中症による救急搬送者が全国で525人にも上っている。ただならぬ暑さなのだ。つまり、日本の北では猛暑の夏と化し、南の端では豪雨の夏と化す、正に“怒れる天空と大地”に挟まれてわれわれは生きている。太古の日本が、各地域の大自然に“神々を見た”のは当然であるのかもしれない。その神々の“怒り”を鎮めるために、われわれ日本人は八百万の神々を祀ってきた。山を“神”とし、樹を“神”とすることも多かった。今回の“無数の流木”は、そのまま“神々の遺体”なのかもしれないのだ。実際、樹齢何百年という樹に、じっと掌を押し当ててみると解かるが、明らかに樹木からの強い脈動が感じられる。生きていることを実感するものだ。古代の人々のように、“天空への祈り”や“大地への祈り”が、神々に見守られる日本を呼び戻すためには必要なのかもしれない。
7月7日「七夕の日」に、“秀吉自筆の手紙”であることが正式に認められたのは、彼の“側室”で、当時は病気療養中であった茶々への気配りと励ましを綴った手紙であった。ちなみに“側室”というのは、今でいう“愛人”のことだが、戦国時代の武将は“複数の側室を持つこと”が戦略的にも必要なことであったので、現代の“愛人”とは多少ニュアンスが異なる。ちなみに秀吉の場合には十数名が、家康の場合には二十数名が“重要な側室”であったとされている。その十数名の一人が茶々なのだが、血統的には同じ戦国武将・浅井長政の娘である。自分の娘が側室に入っていることで、相手からも狙われず、自分からも攻撃できない、ヨーロッパの宮廷でも各国間で似たような婚姻制度であった。秀吉の場合、正室(本妻)は世継ぎを産まなかった。そこで「秀頼」を産んだ側室の茶々は、太閤・秀吉にとっても、歴史上にとっても、重要な存在となっていく。手紙の中で「さすがは秀頼の母」という表現で、秀吉は茶々を称えている。それにしても、この手紙に見る秀吉の自筆はなかなかに豪放闊達である。比較的筆まめだったらしく、現在まで60点に及ぶ手紙が発見されている。その内、茶々への手紙が5点である。自らを「太閤」と記し、彼女のことは本名「茶々」として記している。それにしても戦国時代というのは或る意味冷酷で、茶々の父親は信長の命を受け、秀吉が処刑している。母親は再婚し、残された娘であった茶々が側室として入った。そして「秀頼」を産み、秀吉の死後は“秀頼の母”として権勢をふるった。けれども、最期は自害して果てている。けれども、秀吉の手紙からは、どちらかといえばひ弱だったらしい茶々の側室時代を垣間見ることが出来る。戦国武将の娘、戦国武将の妻、そして戦国武将の母親を演じ分けて生きていた。
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