12月, 2017年

2018年1月の運勢アドバイス

2017-12-30

優しく、親切な国民…それが日本人か⁉

2017-12-29

時々、日本人は優しいなあ…と感じることがある。昨日、大阪で行われたロック・フェスティバルでB´zの稲葉浩志氏が喉の不調により、しばしばパフォーマンスを中断し、水を飲み、楽屋に引っ込み、結局、4曲だけでライブを終了してしまったらしい。歌手がいつもに比べて“思うように声が出ない”ということは時折あるが、完全に歌えなくなるほど“声が出ない”というのは珍しい。最近では、浜崎あゆみ氏がコンサート直前になって体調不良で中止している。歌手にとって、ライブ会場は“仕事場”であり、歌えなければ仕事にならない。だから、何時間もかけてやってきたファンもいる中で、直前に中止するとか、始まってから歌えなくなるというのは“厳禁”なわけだが、実際には時折見掛けるアクシデントである。そういう時、日本のファンは総じて優しい。ほとんどの場合、非難する声を聴かない。むしろ「頑張って!」と声援してあげるとか、代わりに歌ってあげるとか、惜しみない拍手で労ってあげる。“若い”と思っていた稲葉浩志氏も、もう53歳。喉が衰えて来る年齢だ。特にロックの歌い方というのは喉に負担がかかりやすい。そういう点では、若手のロック歌手たちも、喉に負担が掛かり過ぎないような歌い方に変えていった方が良いのかもしれないが、多分、それだとロックではなくなる。歌の歌えない歌手に声援を送るように、日本人は総じて優しい。昨日の朝に見た経済番組でも、今年の「株価予想」「為替予想」「金利予想」を、それぞれ外した方々をスタジオに招き「反省会」と題して、何故、外れてしまったのかを訊き、“来年予想”をたててもらっていた。もちろん、それぞれの金融分野のエキスパートたちであり、謂わば“専門家”たちなのだが、“外した”からといって特別お咎めもない。MCが、実に優しくフォローしていた。私の「占い」が外れた時にも、こういう“優しい人たち”がいれば良いのに…。いや、私も“親切”に出逢っていた。昨日、たまたま夕食を“讃岐うどんの専門店”で食べていた。その時、一人の女性が店内に入ってきて、私のテーブルに来て跪き「向かいの店の者ですけど、昨日いらして頂きましたよね。その会計の時に、実は別なお客様の会計も一緒になってしまって余分にお金を戴いてしまったのです。それで、今、お見掛けしたものですから、こうしてお金をお返しに来たのです」と、余分だった金額を手渡された。私は自分が余分に払っていたことなど知らなかった。そう言われてみれば、少し高かったかも…。だが、まったく気付いていなかったのだ。しかも、私は向いの店に入ったが、昨日とは時間も異なり、別に大声で話していたわけでもない。多分、横顔が半分くらい見える場所に座っていただけなのだ。それなのに、私を発見し、お金を届けに来る。何んと親切な店員であろう。こういう人たちが暮らしている限り、日本人は「世界一親切な国民である」と外国人たちは絶賛するに違いない。

 

“妖しい人物”の“妖しい通貨”

2017-12-28

女性で“妖しい”と表現したくなる人物は時々いるが、男性で“妖しい”と表現したくなる人物はそうそう居ない。けれども、この人物には“妖しい”という表現が良く似合う。それが歌手・俳優のGACKT氏だ。その彼が、突然、本名を公表した。「大城ガクト」というのが本名だそうだ。まあ、しかし「大城」という苗字は既に何かで知っていたような…。彼は本名の公表と同時に、“仮想通貨事業”に乗り出すことをも併せて発表した。「事業?」という部分が何となく引っ掛かる。どういうことなのだろう。実は、彼の言う仮想通貨は「ビットコイン」等ではない。どうやら新たな通貨(?)らしく「SPINDLE」という“投資通貨”らしい。その出来立てらしい事業開設コラムによると、要約すれば“透明性”と“公平性”が最大の“ウリ”の投資通貨のようである。まあ、一言で言うと“妖しい通貨”ということである。大体、“仮想通貨”や“投資通貨”と言いながら、その一方で「透明性」とか「公平性」とか謳うこと自体が不可思議である。本来、投資というものに透明性や公平性はない。それがあるのであれば、そもそも“投資”になどならない。どうなるのかわからないから“投資”なのだ。ところが、日本人で投資に興味を抱く人の中には、この“根本的な部分”を理解していない人が多い。つまり“投資”に確実性を求めるのだ。それは“占い”に100%の的中率を求めるのと同じで、無意味なことなのである。或る程度の“見込み”や“見通し”は建てられても、絶対性など求めてはいけないのが“投資”なのだ。それと同じで“透明性”や“公平性”など、強調すること自体が“妖しい”証拠なのである。その妖しい事業を始めるにあたって本名を公表したのは、自らの「透明性」を示したかったからだろう。けれども、もし、本当にそう思うのであれば、彼はもっとプライベートなどオープンにすべきである。それが出来ないのに、本名だけ知らされて“金”を預けられるであろうか。まあ、彼自身に“投資したい”というファンなら別であろうが、それ以外の人達には“妖しい存在”でしかない。“妖しい通貨”の“妖しい広告塔”として、正月が似合う“一流芸能人”の今後が注目される。

「僕らも10年前は挑戦者だった…」

2017-12-27

人が話す“言葉の内容”には「年齢」が出る。無意識にその人の“精神年齢”のようなものが出る。そういう意味で「僕らも10年前は挑戦者だった」という言葉、或いは「われわれも頑張る、まだ挑戦者だ」という言葉、これらは大変に若々しく、そしてどこかすがすがしい。人間としての“おごり”がない。これらは昨日の記者会見で述べたソフトバンク・孫正義氏の言葉だ。楽天が“携帯電話事業”に参入することになっての感想を訊かれて出てきた言葉だ。実際、その通りだった。孫氏の“携帯電話事業”は、たかだか10年前に始まった事業にすぎないのだ。10年前は“挑戦者”の方に居たのだ。ところが、今は誰も“挑戦者”等とは思わない。なぜか最初から“三強の一角”を形成していたかのような錯覚を持っている。そのくらい完全に浸透してしまった。考えてみると奇妙である。孫氏の事業というのは、基本的にみんなそうである。最初は、誰もが“違和感”を抱く。拒絶反応が起こることを承知でスタートさせていく。ところが、その“違和感”がいつの間にか消えていく。考えてみればCMの“犬が父親”等という発想も、冷静に考えれば、とてつもなくおかしいし、受け入れがたい。ところが何度も何度も見せられているうちに、いつの間にか“違和感”は残っているのに、いつの間にか“拒絶感”は消えている。むしろ「父親って、犬のような存在なのかもしれないな」と受け入れている自分がいる。発想の転換が、いつの間にか行われているのだ。或る種、誰をも“洗脳させていく力”を持っていると言えるだろう。現在、アメリカで買収した電話会社が“今一つ”の状態であるが、おそらく孫氏は焦っていない。なぜなら、日本でも、昔はそうだったからだ。孫氏は何度か「携帯事業参入は失敗か」とマスコミに報じられた。会社自体が、巨額の負債で「倒産する」と報じられたことも一度や二度ではない。そのたび“不死鳥”のように蘇えってきた。しかも、通常はそういう時に“事業縮小”等を行って乗り切るものだが、孫氏の場合はそうではない。逆に、より大きくして乗り切っていく。万一、いまソフトバンクが経営破たんしたなら日本全体に次々と連鎖倒産が起こる。いや、日本だけではない。サウジアラビアやアメリカなど多数の国がファンドで一体化している。世界の経済に影響が出るのだ。その彼が「今までのソフトバンクはこれからのソフトバンクの助走にすぎない」と断言した。果たして、彼の“野望”は、どういうところへと突き進んでいくのか、私は見れないが“30年後”辺りが楽しみである。

「改名」は“画数”だけ良くても…

2017-12-26

「有吉反省会」というTV番組でミニスカポリスなどで知られるグラドル大原かおりさんが出演し、事務所に内緒で勝手に改名していたことを“反省”した。どう変えたのかというと「大原かおり」を「大原がおり」に“改名”したのだそうだ。つまり「か」を「が」に変えたのだ。その理由は姓名判断で「か」の文字が、あと二画数ふえれば“幸運な名”になれるというので考えたが見つからず、苦肉の策で「が」を思いついたということらしい。う~ん、日本の姓名学で“最も多い誤り”を、この女性タレントも犯している。まず、その前に、改名するなら芸能人なのだから一応、所属事務所は通した方が良い。それに、せっかく改名するのであれば、多くの人に「変わった!」と印象付けられる改名の方が良い。「かおり」から「がおり」に変えても、正直、言われなければ気付かない。そういう“微妙な変え方”だと、仮に変わるとしても“微妙に”しか変わらないものだということを気付いてほしい。多分、この人はご自分の“運気”を大きく変えたかったはずだ。それなら“目立たない改名”は止めた方が良い。ところが、占い師の元に“改名”を求めて来られる人の中にも、この“ちょっとだけ改名”をやりたがる人が多い。つまり、漢字の一文字だけを変更したいとか、同じ読みが出来る文字での改名をしたいとか、そういう人が多いのだ。けれども、私は基本的に、そういう改名ならしない方が良いと思う。なぜなら、それでは“根本的に変わらない”からだ。根本的に変わらなければ、運勢を“大きく変える”ことなど出来ない。運勢を“大きく変えたい”のであれば、その名前も“大きく変えなければ”意味がない。変わりようがないのだ。但し、ご自分の名前に“愛着”の在る人は、運勢が悪いからと言って、着やすく名前を変えるべきではない。そういう人の多くは、また元に戻そうとしたりするからだ。ご自分の“名前が嫌いな人”が“心機一転”で名前を変えるのは大いによろしい。そういう人はすぐに“新たな名”に馴染むことが出来るし、改名効果が表れやすい。もっとも、いつも言うことだが「改名」は画数が良ければ、それで良いというものではない。特に、強引に読ませる“当て字”を使うのはもっとも良くない。へんてこりんな文字合わせで命名している占い師が、プロにもいるが、困ったこととしか言いようがない。誰が見ても“読めない名前”に、幸運が宿るはずなどないではないか。

日本の「神様」は“変幻自在”なのだ

2017-12-25

アメリカで「メリークリスマス」という言葉が“控えられつつある”って初めて知った。その理由は“宗教色”が出過ぎているからだそうだ。つまり、これはイエス・キリストの誕生を祝う言葉だから、キリスト教徒固有のメッセージになるから、そうではない人々も多くなってきているアメリカでは「ハッピーホリデー」に切り替えようという動きらしい。もっとも、それを嫌がったのがトランプ大統領で、彼の公約の一つが「メリークリスマス」の“用語復活”だったそうだ。ここで興味深いのは、イスラム教徒や仏教徒だけでなく、ユダヤ教徒にとっても「メリークリスマス」は“禁句”であることだ。われわれ日本人からすると、キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、共に『聖書』に基づいた信仰であるのに何故メリークリスマスじゃないの(?)と考えがちである。実は、ユダヤ教というのは“神の子・イエス”を認めていないのだ。だから『聖書』も『旧約聖書』だけで『新約聖書』は用いない。同じくイスラム教も“神の子”を認めていないので、ユダヤ教と同じように“唯一神”のみが信仰対象となる。だから、根っこのところでイスラム教とユダヤ教とは“「神」の概念が同一”なのだが、その「神」と「人間」の“橋渡し”をする“預言者”がそれぞれ異なるのと、どちらも“民族的色彩”が色濃く反映されているので、まったく異なった宗教のような印象を与えている。ところで日本神道の場合も「神」というのは“見えない存在”で、キリスト教のように“偶像崇拝”ではない。それではユダヤ教やイスラム教と同じかというと、これが微妙に異なる。その一番の違いは「神」が“唯一絶対神”ではないことである。ユダヤ教も、イスラム教も、唯一絶対神なので、人間は「神」に対して“従属的な存在”ということになっている。ところが日本の「神」は“八百万の神”で“唯一絶対”という形を取らないので、人間は「神々」と共存し合って生きていく。そこが日本の「神」と、ユダヤやイスラムの「神」との“決定的な違い”なのである。早い話、日本の神は“変幻自在”で“忍者のような存在”だと思えば良い。もう一つ、ユダヤの「神」や、イスラムの「神」は、自らを信仰しない“民族”を徹底的に排除・排撃する。それに対して日本の「神」は、あらゆる“民族”に寛容で排除・排撃したりはしない。穏やかで大人しい神様なのだ。

視点を変えると「夢」は実現する!

2017-12-24

平昌五輪に出場する選手枠に一人の興味深い人物が滑り込んだ。スキー男子エアリアルで五輪代表を射止めた田原直哉選手(36歳)である。実は、彼は元々スキーの選手ではなかった。8歳から体操を始めて2004年のアテネ五輪に“体操選手”として出場予定だった人物だ。けれども彼は、その選考会において普段の能力を発揮できず選考から漏れてしまった。北京五輪へと気持ちを切り替えようとしていた矢先、今度は右肩に激痛が走り手術しなければならなくなった。五輪どころではなくなったのである。絶望的な状態の中で、たまたまトリノ五輪の“エアリアル映像”を見る。その時「これなら今の自分にも出来るかもしれない」と思い立つ。その気持ちを家族に伝えたが、もはや五輪出場などはあきらめ、普通に働くべきだと逆に諭された。当然と言えば当然だった。けれども、彼はあきらめなかった。民宿で住み込みのアルバイト等で働きながら、密かにスキー選手への転向を始めたのだ。そして地道な努力の末、徐々に頭角を現していった。体操で落選から13年、ついに彼は五輪代表の座を射止めたのだ。このストーリーは「夢の実現」というものの、大きなヒントをわれわれに与えてくれる。多くの人は、一つの「夢」や「目的」に向かって生活していったとき、その途中で“何かに躓く”と、その時点で万事休すと捉えがちである。けれども、粘り強い人は一つや二つの障害やアクシデントでは決してあきらめない。まず、そのことが重要である。但し、実は粘り強い人は結構いるのだ。けれども、粘り強ければ成功できるのかというと、そうとは限らない。むしろ、何度チャレンジしても失敗してしまうケースの方が多いのだ。ここが重要なのだ。実は、何度も失敗する人というのは、同じ方法でチャレンジしているケースが多い。けれども、何度目かで成功する人というのは、チャレンジ方法を変えている場合が圧倒的に多いのだ。彼の場合でも、もし“体操競技”にこだわっていたのなら、おそらく失敗したであろう。彼は右肩を酷使しなくてもチャレンジ可能な競技へと“方向転換”した。これが、結果的に“夢の実現”を成功させた一番のポイントだ。こだわりを捨てると、幸運の女神は“手を貸してくれる”ものなのだ。

「それぞれに倖せがある」を描いたら、売れた!

2017-12-23

カラテカの矢部太郎氏をご存じだろうか。細くて小さくて、いつも“ひょうひょう”とした感じの芸人だ。その矢部太郎著『大家さんと僕』が売れに売れている。10月に発売して既に15万部を突破したらしい。矢部氏が8年前から2階を間借りしている一軒家の大家さんとの関係を描いた作品で、漫画家の倉科遼氏に“作品化”を勧められ、描き出したらスイスイと形になった不思議な作品である。たまたま前に借りていた部屋がトラブル続きで“広いところ”に住みたいと見つけ出したのが現在の住居だ。大家さんとの出逢いからのエピソードを、ほっこり切なく描いてある。39歳の孫息子と87歳の祖母との関係のような、奇妙とも心温まるともいえる“不思議な関係”を描いた作品である。彼自身は、2階の自分と1階の大家さんとの暮らしや繋がりから「それぞれの倖せがある」ということを描きたかったのだという。実は、私がここに取り上げたのは、この二人は気付いていないが、運命学的にはここに“パートナーの法則”が作用しているからだ。つまり、二人は、それぞれに“孤独”だったのだ。その二人が“一つ屋根の下”で暮らすことになった。こういう風になった時、それが“異性同士”である場合、運命学的には“パートナー関係”が作用し始める。早い話が“結婚”したのと同じような“形”が作用し始めるのだ。もちろん、本人たちに“そういう意識”は全くないし、無い方が良い。けれども、運命学的には“そういう作用”が働くので、二人の相性が良い場合、公私ともにプラスの作用が働くことになる。したがって、二人の関係をそのまま描くことによって、矢部氏は“人気”や“収益”を得られることになったのだ。もちろん、彼女の方も“若さ”や“健康”を得て、さらに母親のような感覚での“生きがい”を得ることにもなった。しかも、もう一つの大切なことは、正に矢部氏の言うがごとくに、人には“それぞれの倖せ”があり、決して型に当てはめたような“倖せ”だけが、倖せではないということを世間に知らしめることが出来た。これこそが“二人”がデートをしながら、体験的に知ることになった“最大の功績”なのである。

「開運印鑑」は、どこへ行った

2017-12-22

一時期、新聞の一面広告等で派手に宣伝されていたのが「開運印鑑」である。ところが、近年、あの手の広告をめっきり見かけなくなった。そう思っていたら、印鑑販売大手の「旭フォトマイクロウェア」が東京地裁へ民事再生法の適用申請をしていたことが判った。つまり、大手の印鑑屋さんが潰れたのだ。近年、行政手続きの簡素化が進み、役所や企業内において、印鑑を使用するケースが減った。またネット販売と機械彫りの普及で、安い印鑑が大量に出回ることになった。昔は街に存在していた「印章店」そのものが消えてしまった。もう印鑑を精魂込めて“手彫りする”時代ではなくなったのだ。そう言えば宅配の時に、印鑑を使わなくなって久しい。宅配の方も、すぐサイン出来るペンを渡してくれる。そうなると、もう誰も「開運印鑑」などと言わなくなる。手掘りの何万もする“開運印鑑”が売れなくなるはずだ。大昔、私がまだセミプロだったころ、唯一親しかったスナックのママが、私に「いろいろと持っているのよ」と楽し気に開運印鑑のコレクションを見せてくれたことがある。無造作に化粧箱に入れられた印鑑が十数本はあった。「こんなに、どうするの?」「だって、いろいろな人が、こういうのが良いと売りに来るのよ、みんな言うことが違うの、だから増えちゃった」彼女は楽しそうに笑った。「名前だけのと、苗字も彫るのと、どっちが良いの?」「仕事に使うなら、名前だけのは良くない」「そうなの? 印鑑と通帳と新しく作ったばかりだけど…」困ったような顔をした。彼女は豪華なマンションに暮らしていた。「ねえ、シャワーを浴びない?」「いや自宅に戻ってから浴びるから…」一瞬、彼女の顔が曇ったのに気付かなかった。自宅で占ってほしい…と言われたやって来ていたので、その時、私には彼女の一言の意味が分からなかったのだ。それに、彼女はよく“付き合っている男性”のことを私に相談した。だから、彼女が“そういう気持ち”だったとしても、私はそういう気にはなれなかった。一瞬だけ、奇妙な沈黙があったが、それだけだった。あれから何十年も経った。開運印鑑をポンポン並べて楽しそうに笑った彼女はどうしているのだろう。

「第2のバブル」はやって来るのか⁉

2017-12-21

世の中には“奇妙な偶然”というものがある。時には「都市伝説」と呼ばれたりもする。今年、正式に決まったものの一つに“新たな天皇と元号”の開始時期がある。確か2019年5月1日から開始に決まった(?)ようである。この“元号の変化”は、日本の“景気動向”と大いに関係がある。多くの人は忘れているが、日本の本格的な“バブル景気”は「昭和」から「平成」へと変わる約2年前から始まり約1年後には崩壊しているのだ。つまり、元号の変わる前後に生じている。とすると、もしかして既に今年から“第2のバブル景気”は始まっていて、東京オリンピックの終りと同時に崩壊してゆく可能性もあるのだ。もっとも「今年から始まって…」などと言われても、そんな実感「どこにもございませんけど…」と食って掛かられそうである。う~ん、確かに書いている本人にもないんだけど…でも、しかし、それらしき現象は散見されるのだ。例えば、日経新聞で林真理子氏が「愉楽にて」という“へんてこな恋愛小説”を書き出した。こういう“恋愛小説”或いは“官能小説”が経済新聞で連載されると、その時期には経済が“上向く”という「都市伝説」があるのだ。事実かつて渡辺淳一氏が「化身」を連載していた期間は16%株価が上昇した。「失楽園」を連載していた期間は15%株価が上昇した。「愛の流刑地」を連載していた期間は55%株価が上昇した。渡辺淳一氏の官能小説は“日本経済を押し上げるのか”と真顔で囁かれたものだ。つまり林真理子氏は再び“景気浮揚の作家”になれるかと期待されている。この小説自体は「男性」というものが、私に言わせると“全く描けていない”読むに値しないような作品だが、世間的な評判は上々らしい。まあ「林真理子」という作家が直木賞を受賞したのは本格的“バブル”が始まる前年で、或る種“景気浮揚の運”を持っていることは確かだ。実は、今年は「講談社文庫」開始から46年ということでの企画「乃木坂文庫」というものが10月から開始された。これはアイドルグループ乃木坂46のメンバーが文庫本のカバー写真として使われているもので、46冊の表紙をアイドルたちの“顔”が飾っている。要するにそれだけなのだが、それが何んと奇跡を起こし、例えば林真理子氏の大昔の小説『星に願いを』を飾っているのは乃木坂46・西野七瀬さんなのだが、一挙に1300倍もの売り上げを記録した書店もある。ハッキリ言って、まったく売れてなかったのに、「顔」を林真理子氏から西野七瀬さんに変えただけでベストセラーになったという話だ。これは林氏にとって、悦べる話なのかどうか…やや疑問だが、とにかく売れたのだから素晴らしい。読まれるのかどうかは保証できないのだが…。

「セクハラ」はブーメランのように

2017-12-20

どうも“電通”という会社は問題が多いようだ。そこに勤めていた二人が“場外乱闘”を繰り広げて、結局、両方ともに“ノックダウン”というスッキリしない話なのだ。ことは二人ともに「電通」という会社に勤めていた時から始まる。上司だった男性が入社間もない女性に対してセクハラを繰り返す。なんか、どっかで、聴いたようなお話。ところが、その入社間もない被害者女性は、特定の男性ではなく“童貞”という男性たちに対してツイッター上で繰り返し“童貞いじりツイート”を繰り返していた。もちろん、それは特定の男性へではなかったから、誰もそれを咎めようがなかった。やがて、その女性の方が先に「電通」を辞めた。本人によれば、セクハラ・パワハラに耐えられなくなったから…のようである。その後しばらくして、その上司の方も会社を辞めた。こちらが辞めたのは、自分で会社を立ち上げたからである。ところが、それからしばらくして、“電通時代”に彼からセクハラを受けていたという女性からの“実名告白”が、ネット上で拡散して注目を浴びることになる。広告業界における“ネット上の噂”は致命的となった。自らの会社を立ち上げて半年後、心ならずも実名告発を受けた社長・岸勇希氏は辞任することになる。実名告発した女性は一躍、注目を浴びることになった。ところが、その被害者であるはずの本名・伊藤春香氏が広く知られたことで、彼女がかつて行っていた“童貞いじりツイート”もまた、表に出されることになった。ネット住民たちは見逃さなかったのだ。その後になって、彼女は、自分のした行為がセクハラに当たるものだとは認識していなかった旨を述べたが、その感覚こそ“セクハラ加害者”に共通の感覚であることを指摘され、改めて謝罪している。こうして「電通」という会社は、問題の多い会社である、ということだけが誰にでも解かった。

韓国芸能界に必要な“心の美容整形”

2017-12-19

また一人、韓国の芸能人が自殺を図った。男性アイドルグループ出身でソロでも活躍した歌手・ジョンヒョン氏だ。近年、韓国の芸能人には自殺者が多い。2008年10月にトップ女優・チェ・ジンシルさん39歳。2009年3月に人気女優・チャン・ジャヨンさん29歳、2010年3月に俳優・チェ・ジニョン氏、2010年6月に「冬のソナタ」で人気があった俳優・パク・ヨンハ氏32歳、2011年5月の来日直前に自殺した歌手・チェ・ドンハ氏30歳、2015年10月に練炭自殺した歌手・キム・ヒョンジ氏…他の国に比べて突出している。この多さは何だろう。私には韓国が突出している“もう一つのモノ”と深く関わっているような気がしてならない。つまり「美容整形」だ。いつからか、韓国では“美容整形をする”ということが、成功への“条件の一つ”でもあるかのように受け止められている。化粧品の数も異様なほど多い。つまり韓国は“外見重視”の社会が形成されている。そのことに抵抗感がない。これは或る意味では大変に“怖いこと”で、極端な話、金を掛ければ誰もが“美しい容姿”を手に入れることが出来、それを手に入れれば、あとは才能など二の次で成功が得られる可能性がぐ~んと強まる。そういうことを社会全体が容認している国なのだ。確かに美しいとか可愛らしいとかは、良い印象を与える。けれども、それが“つくられた美しさ”なら、それだけで人気を維持するのは至難の業となる。次々と“生産されていく美”は、或る意味で“人形作り”と同じで、いくらでも“新たな美”を作り出すことが出来る。“美しい芸能人形”はいくらでも生産可能で、次々と“古くなった人形”は捨てられる。もう個々の“個性”等どうでも良いのだ。したがって、美しさから少しでも遠ざかり始めた時、芸能界には居場所がないのだ。良くも悪くも“IT社会”でもある韓国は、人も物も次々と取り替えていくことに抵抗感がない。日本人のように、一人の人をいつまでも応援し続けてくれる情愛が乏しい。おそらく、幼少期にも“情緒性の教育”をあまり受けずに育っているのだ。かつて弘田三枝子が歌った「人形の家」の歌詞に「ほこりにまみれた人形みたい…愛されて、棄てられ…泣きぬれる部屋の片隅」とあったが、まさしくそういう風に、忘れられた韓国の芸能人たちは震え泣いているに違いない。

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