12月, 2017年

易占では、大谷は「カブス」に決定⁉

2017-12-07

アメリカ大リーグに移籍する大谷翔平選手の移籍先が7球団に絞られた。ここまでは誰もが知っている。では、この先を教えよう。もっとも、この先を教えてくれるのは私ではない。「易占」の神様だ。7球団まで絞られているのだから、その中から“最終的な一つ”を選び出せば良い。しかし、日本人選手も、良い身分になったものだ。球団から“択ばれる”のではなく、大谷詣でをする多数の球団から一つだけ“選択する側”に23歳の若者が成っているのだ。そして、私自身も、この移籍は中々に興味深い。なぜなら、私は彼が日ハムに入団した年、まだプロとして通用するかどうかも解からない段階で、その年の暮れに北海道新聞の記者に対して「大谷選手はプロでも二刀流として成功するし、やがて大リーグの選手になっても二刀流として成功できる」と断言した。但し、日ハムに入ってすぐ活躍とはならず、実質的には「秋くらいからが本当の活躍となる」と断言した。奇妙なことに、大谷選手に関しては、昨年も正月用のTV番組占うことになり「開幕時に足を痛めるので活躍できない」と断言した。まさに、その通りの状態で今日を迎えたわけだが、7球団に絞られた中から「易占」の神様が選び出したのは「カブス」という球団だ。正直、私は余り大リーグに関心がないので、どういうチームかよく解からない。ただ、易占で次々に占っていった限りでは「カブス」という球団だけが「風火家人」の四爻変が出て、易経原文に「家を富ます。大吉」とある。それ以外のチームには、入っていきそうな“易卦”が出て来なかった。つまり易占上では、このチームの一員となって客を呼び、収益を上げ、チームへの貢献度が高く、最大級の活躍が出来る、と暗示している。大谷選手にとって、これ以上のチームはない。おそらく彼の決め手は「家族的な雰囲気」を感じ取ったことからだろう。それは、北海道日ハムの球団・選手・監督・ファンと、どこか重なるものを感じさせたからに違いない。こうして、大谷選手は一点の迷いもなく“自分が入るべき大リーグ”を決めた(?)のだった。

“謎”の競演―宮沢りえ&貴乃花

2017-12-06

人は時々「おやっ?」というニュースに目が止める。その二人、何かが共通しているような…そう25年前、宮沢りえ&貴乃花と言えば「婚約会見」を開いた二人ではないか。その二人が、今や別々の形で注目されている。宮沢りえさんの方は、突如インスタグラムのアカウントを削除した。“2017年末にも結婚か”と一部週刊誌で報道されていた歌手・俳優の森田剛氏との“熱愛”。ところが、その森田剛ファンからの批判・中傷が、宮沢さんのインスタグラム上で相次いでいた…と言われる。それを受けてのアカウント削除とされている。彼女は「私は美しい言葉が好きです」と最後に書き残していた。つまり、あまりの批判・中傷に耐えがたかったのだろう。最近、このような形で自らの“公式ページ”を閉じてしまうケースが多い。攻撃する側は、自分の素性を晒していない。つまり、アンフェアなのだ。私は、いつも思うのだが、著名人に対して何を言おうと自由だが、素性を晒さないのは卑怯である。私のような有名でない者にも、ごくまれに“批判・中傷”らしきものが来る。まあ、私の場合は、そういうもので傷つくほど“やわ”ではないから良いのだが、とにかく「批判したいなら自らの名や素性を明かせ!」というのが私の基本である。それが出来ないのは、自らに“やましさ”があるからである。私など、いつも著名人に対していろいろなことを書いているが、常に名を晒している。逆に言うと、名を出せないようなことは書かない。ところで、貴乃花の方だが、この人も“日馬富士&貴ノ岩”問題で何故か今や注目の的である。本来なら直接的には関係ないはずなのだが、一部ファンや関係者から批判・中傷の的となっている。ここで初めて本題に入る。つまり、25年前、婚約会見に続いての“婚約破棄報道”で世間から批判・中傷を浴びた二人は、いままた別の形で“謎”を抱え、信念の行動が“飛び火”しての批判を浴びて、大いに傷つき、けれども黙して語らずの状態となっている。奇妙にも同じ時期に“謎の本質”哀しみを語れない状態に陥っている。「運命」の神は“激やせ”を乗り越えた二人に、新たな試練を与えようとしている。

「隔離性同一性障害」という病気(?)の犯罪

2017-12-05

世の中には「わかりやすい人」と「わかりにくい人」がいる。この人の場合は、わかりにくい。まず「隔離性同一性障害」という病気をご存じだろうか。俗にいう「多重人格」だ。複数の人格が“本人”の中に存在していて、自分の意志とは無関係に時折出現してくる。その出現時には、本人の身体は相手に“奪われている”ので、自分自身としての記憶はない。言ってみれば「霊媒体質」で、心霊世界では昔から存在した。ただ、それが数分とか数十分とかだと、それほど問題はないが、数時間ということになって来ると、いろいろと生活に支障が生じる。「声優のアイコ」で一躍有名になった犯罪者が、それだ。この人、元々が「性同一性障害」で、この病気と「解離性同一性障害」とは“異なる病気”だが、この人の場合はその両方を患っているらしい。まず「性同一性障害」は、“心と体が異なって生まれて来る病気”であり、この人の場合「男」なのに「女」の身体として生れてきた。したがって、この人は大人になって乳房を切断し、日頃は男装し、男性名で生きて来た。ここまでは理解できる。やがて「隔離性同一性障害」としての“別人格”が出現し、しかも、この別人格は“女性”だった。そこで、当然というべきなのか、この別人格女性が支配している間は“女装”し、“女性”として振舞うのだそうだ。そうして、男性達を手玉にかけ、こん睡させて金品を奪うという犯行を重ねた。その時に使う名が「声優のアイコ」だった。ところが何を間違ったか、この「声優のアイコ」は金品を奪ったのとは多分ぜんぜん別個の相手と性行為に及んでいた。別人格が女装しても疑われなかったように一応“可愛い女性”のままベッドに入ることも多分可能だったのだ。その結果、本人も気づかぬうちに、妊娠していた。こうして、神いっき被告は刑務所内で出産する。「男」なのに“母親”になってしまったのだ。この人は、最初から一貫して“犯行時の記憶がない”と主張している。もっとも、その主張は認められず、懲役十年の判決となった。この人は、自分の犯行を認めていないわけではない。犯行は認め、罪も認めて、ただ自分は多重人格としての病気だから“正規の治療を受けたい”と望んでいるだけだ。この“母親”のどこをどうすれば、“本来の姿”に戻せるのか、また“本来の姿”というのがどっちなのか、もしかすると、現代医学の出番ではなく、宗教呪術とかの世界なのかもしれない。

「善意」が「仇」になってしまう可能性も…

2017-12-04

最初は「素晴らしいことだ」と思った。けれども、よくよく考えると、もしかしたらこれは“大間違い”なのかもしれない、と思うようになった。ホームレスに対する英国の慈善団体からの“画期的なアイディア”である。それは不意の時でも困らないようにホームレス専用の“自販機”を設置するというのだ。つまり、慈善団体の方から認定を受けたホームレスには専用カードが配られ、それを用いれば、一日に付き三回まで無料で“生活必需品”が自販機から出て来る。確かに、これがあれば、夜間などでどうしても生活必需品が必要となった時、路上でそれを誰に気兼ねなく得ることが出来る。画期的なアイディアなのだ。飲料水、果物、サンドイッチ、靴下、トイレットペーパーなどの品々だ。確かに、夜中、そういうものが欲しくなることって、有りますよね。だから、そのアイディア自体は素晴らしいし、それに協力してくれる自販機の製造会社とか、食物の供給会社とか、種々の処にも協力を取り付け実現しようとしている努力は見上げたものである。確かに、それはそうなのだ。けれども、何かがおかしい。そう、これは“ホームレスの支援方法”としては間違ってはいない。間違っているのはホームレスから“通常社会”へと復帰するための意欲や意志が挫けてしまう可能性が大きいことだ。なぜなら、生活に“困らない”からである。むしろ、ホームレスにはなっていない一部の貧困者からすれば、贅沢なくらいの生活が享受できる。黙っていても、欲しいものが手に入るのだ。だから、“ホームレス生活”を脱出しようという意欲や意志が無くなってしまう可能性が大きいのだ。したがって、支援活動そのものとしては間違っていないのだが、自立への歩み、或いは本来の社会への“復帰活動”に対する意欲を奪い取ってしまう働きをしかねない。そういう意味では“大間違いの自販機”で、むしろホームレスを増やしてしまう可能性さえある。もちろん「善意」の発想であることは間違いないのだが、“ひきこもりの子”を“甘やかす親”との関係に、どこか似ている。

「トイレ戦争」には、どっちにも言い分がある

2017-12-03

物事に対して何でも「白・黒」ハッキリさせなければ気の済まない人がいる。けれども「どっちも正しい」ということも世の中にはある。「トイレ戦争」は正にその典型のような気がする。ここでいう「トイレ戦争」という名称は、私が勝手につけただけで実際には戦争でもなんでもない。ただ単にトイレを譲るのが正しいのか、譲るべきではないのか、という問題だ。ことの発端は11月30日に登校された“ツイッター”らしい。つまり、公共のトイレに並んで待っていたところ、そこにやって来た母親が困った様子で、泣きそうな女児の手を引き、明らかに我慢できそうもないような雰囲気が見て取れた。そこで先頭に並んでいた投稿者が自分よりも女児の方を先に譲った。そうしたら、後ろ三番目くらいの女性から「後ろの人のことも考えてよ!」と怒られた。そこで、自分は後ろに回ったが、そのあと二人も同様に後ろに回ったというのだ。それを投稿したところ、その行為を「こういう大人でありたい」と賛同・賛美する人達と、「大人だって漏れそうなことがある」「勝手に割り込ませるのは良くない」という人達とで真っ二つに分かれ、論争が巻き起こってしまったというのだ。う~ん、この問題、なかなか奥が深いな。そう言えば私は、若い頃、何時間でも我慢できたな。それが最近は齢のせいか中々我慢というものが出来ない。だから、多分、女児とお年寄りとは“漏れやすい年齢”で、そういう人達には“特別割り込み枠”を与えてやるのが一番いいのかもしれない。そう言えば大昔、深夜放送で或る女子アナが「私はたちしょんをしたい!」と叫んでいた。どうしてそんなことをしたがるのか、理解に苦しんだが、あれはみんなが並び過ぎていて、到底間に合いそうもない時、覚悟を決めてみんなの目の前で「たちしょん」という意味だったのかもしれない。

2017年12月の運勢アドバイス

2017-12-02

80歳迄「再雇用」が“当たり前”になる

2017-12-02

世の中、変わりつつある。「定年」という制度も変わりつつある。札幌東区にある運送会社が今年10月1日より、それまでの“70歳までの再雇用”を“80歳までの再雇用”に十年間も引き上げた。つまり65歳でいったん“定年”となった従業員に対して、希望があれば80歳までの期間、正社員として再雇用するというのだ。但し、職種は事務か営業に回る。確かに運送会社だけに、80歳で車の運転を業務とされても困る。事務や営業なら、80歳でも問題ない(?)という考えらしい。それにしても、退職金を満額出したのちに“再雇用”というのだから、見上げた制度というほかはない。こういう会社はここだけではない。愛知県のパン工場でも“80歳まで雇用し続ける”企業がある。元々は人手不足から始めた“苦肉の策”だが、ベテラン技術者の方がパン作りには適しているということもあり、今では60年勤務の大ベテランまでいる。パン職人は朝が早く、午前4時半から午後1時半までが製造部門の勤務時間となる。その“早朝勤務”には年配者の方が応じやすいのだ。確かに、若者は夜の勤務、年配者は朝の勤務、と分けた方が効率的な気がする。近年、60代70代を雇用する企業は多くなったが、さすがに“80歳まで”を標ぼうとする企業は稀にしかない。けれども、寿命が延び、健康な年配者が多くなっていく今後、定年退職が“65歳”というのは少し早すぎる気がする。したがって、いったん“定年”の形を取って“再雇用”というのは大変に良い制度であるよう私には思われる。見ず知らずの退職者を“新たに雇う”のは難しくても、これまで雇っていた従業員を“再雇用”するのであれば、仕事上の“即戦力”として期待もできる。おそらく、今後、このような企業が増えていくのではないだろうか。もちろん、65歳の定年まで働き退職金を得て、あとはのんびりしたい、という人もいるだろう。人それぞれ働き方は自由なので、あまり型にはめるのは良くない。私のように“定年”の無い職業もあるが、あと十年も働けば、もう“お客様”のほうから黙っていても「さようなら」をしてくれる。

懐かしいバリ島からの恐怖

2017-12-01

このところバリ島観光が“アグン山の噴火”で怪しくなっている。ングラ・ライ国際空港は閉鎖され、当然のことながら観光客はピタリと止まる。観光産業で成り立っているバリ島にとって、その観光の“出入口”が閉鎖されているのだから、どうすることもできない。しかも、それが火山の噴火という自然界の出来事で、人間の力でどうこう出来る出来事でもない。一日空港を閉鎖しただけで20億もの収益減になると算出されている。これからクリスマスとか、年末年始とか、絶好の“来客シーズン”だというのに、火山の行方を見つめるしかない、信心深いバリ島民にとっては神に祈りを捧げるしかない日々が始まろうとしている。今から7年ほど前だと思うがバリ島から本島のボロブドゥール遺跡を見に行くため、小型の飛行機に乗った。時間や乗り場ゲートが変わるなど、搭乗する前から変な感じはあったのだが、海外のことであまり気にしていなかった。ところが、飛び立ったは良いが激しい豪雨と雷雲に向かっての飛行となった。大丈夫か。誰もがそう思ったに違いない。実際、機体は激しく揺れ、行きつ戻りつのような展開となった。今にも墜落しそうな雰囲気があった。赤ん坊があちこちで泣き出し、雷の光がうるさかった。そうして結局、機体は素晴らしく輝く夜景の街へと降り立った。乗客の誰もが機長に向けて拍手をした。そこはインドネシア第二の都市スラバヤだった。つまり、目的地には着けず、第二の都市でしばらく休み、それから再び飛び立って、ようやく何時間もかけ真夜中になって目的地に着いたのだった。とどのつまり、インドネシアというのは“自然に逆らえない地域”だということである。バリ島とインドネシア本土と二ヵ所で占いもしてもらった。バリ島の占い師は、私が後から占い師であることを告げると、私は最初からそう思った、と通訳をしてくれる日本人妻に言って得意満面だった。手相を見るのではなく、手から発するオーラを観る、という観方をした。本土の占い師は「あなたの額に輝くものが当たっている」という風なことを言った。だから今後に関しても心配ない、ということらしい。それなら見てもらいになんか来ないぞ…内心、私は毒づいたが、気分としては最高に良かった。

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