4月, 2018年

「血」は、どこまで受け継ぐのか

2018-04-07

アーティスト宇多田ヒカル氏が既に離婚していたことが報道された。2014年2月に謎のイタリア人男性と再婚してイタリアに暮らすと報道された時、誰もがその“行く末”を危ぶんだ。その心配は「やはり…」と思うような形で結実した。けれども、私が思うに、彼女自身は、決して後悔はしていないだろう。むしろ、或る意味で心から「良かった」と思っていることだろう。それは、子供を得ていることである。彼女にとって、それこそが一番の目的だったに違いないのだ。そして、もしかすると、その子は幼くして音楽の才能を発揮する。何しろ「血」を受け継いでいるのだ。父親は、確かロンドンの酒場で出逢ったギタリストだった。それほど売れていなかったとしても、宇多田ヒカル氏が“惚れたギタリスト”なのだ。それなりの腕を持っていたのに違いない。そして母親は言うまでもなく「世界の宇多田」。日本でデビューする以前から、幼くしてアメリカでも評価されていたアーティスト。もちろん、その母親(祖母)は日本で一世を風靡した「藤圭子」。祖父もまた音楽プロヂューサーとして優れた能力を発揮した人物だ。つまり、折り紙付きの血統書。そういう点で「血」というのは受け継がれることが多い。しかも、シングルマザーの家庭で育つのが良い。両親に愛されてぬくぬく育った芸術家より、家庭的にどこか偏りある家で育った芸術家の方が大成する例が多い。そういう点では宇多田ヒカルの家庭は、極めて異様だった。何しろ、宇多田氏と藤圭子氏とは8回も結婚と離婚を繰り返している。“天才演歌歌手”として一世を風靡した藤圭子氏だが、死ぬまで“家庭”に安住することは出来なかった。宇多田氏との前にも、前川清氏とも短い期間結婚していた。同じように、宇多田ヒカル氏も紀里谷和明氏と結婚していた。そうして母親と同じように、27歳で芸能界を休業した。母親はその後はアメリカに渡ったせいもあり、本格的な復帰はしなかったが、宇多田氏の方もロンドンなどに移り住んだが、結局、日本に戻り始めている。母娘とも“似た人生”を歩んでいるだけに、まだ2歳の息子が将来アーティストとして才能を発揮し出した後が少しだけ心配である。母親と同じように、ギャンブルにのめりこむような人生にならなければ良いのだが…。

あまりにも「不平等」な“痴漢容疑”

2018-04-06

世の中には「不平等」なことが沢山ある。しかも、その「不平等」な扱いを、“正義”として取り入れようとする人たち、不本意ながらも“忍従”するしかないと受け入れる人たち、何かが明らかに狂い始めている。大体、日本人は“潔癖感”が異常に強い。インドなど海外の電車光景を見てもらいたい。ハッキリ言ってぎゅうぎゅう詰めである。“痴漢”も“へったくれ”もない。いや、昔の日本では、同じような光景が見られた。ぎゅうぎゅう詰めの車内に、乗り込もうとするサラリーマンを駅員が外から押し込んで入れていた。触ったとか、触らないとか、いう話ではなかった。あそこもここもびったりとくっついています…という状態だった。もっとも、私は比較的早くに会社勤めではなくなったので、そういう思いはしなくて良い生活に変わった。ただ、今だったら確実に「痴漢」にされてしまう状態が毎日続いていた。なのに、誰も、そんなことを言わなかったし、思わなかった。昔のことわざに「袖触れ合うも多生の縁」という教えがある。和服などは袖が長いので、行き交う時に袖だけが触れ合うことがよくある。その“ふれあい”は決して単なる偶然ではなく、たくさん生まれ変わって来た中で生じた縁、つまり“過去世でも何らかの関りがあった証”としての触れ合いだという教えだ。決して“多少は触れ合いますよ”という意味ではない。そういう古来からの教えなど“完全否定”なのが「触らなくても痴漢」「においをかいでも痴漢」「いやらしい眼で見ても痴漢」という最近の“痴漢容疑”としての定義なのだ。しかも、それは女性だけに適用されるという。逆はなぜないのか。被害者側の“印象告発”だけで認められることもあるという「不平等」極まりない捉え方なのだ。これは、どう考えてもおかしい。例えば、ゲイの男性が居て、好みの男性に接近したとする。それを感じて“印象告発”したなら「迷惑防止条例」で捕まえてくれるのだろうか。おそらく、それはしないだろう。だが、これが男女の場合には成立するというのだ。例えばそれが70代の女性であっても、見た目はどう見てもオッサンにしか見えないような外見の女性であっても、女性と男性の構図であれば成立する。何かがおかしい。

20年後は「女医さん」だらけに…

2018-04-05

入学したばかりの小学一年生に「将来何になりたいか」を調査した結果、男子は「スポーツ選手」、女子は「ケーキ屋さん」で、これらは15年前の調査と変わらない。男子は、スポーツ選手以下、警察官、レスキュー隊、運転士、アニメのキャラクター、研究者、医師…と続く。女子の方は、ケーキ屋さん以下、芸能人、看護師、花屋さん、医師、保育士、教員…と続く。それでは、そういう子供たちを持つ「親」の方は何に就くことを希望しているのかというと、男子は、公務員、医師、スポーツ選手、会社員…と現実的だ。女子の方は、看護師、公務員、薬剤師、医師、医療関係、教員…と望んでいる。それにしても、女児たちの親が“医療関係”を望むケースが多いのに驚く。私には、どういうわけか昔から“医療関係の相談者”が多い。一応、医学も“科学の一分科”なのだが、その医療業務に就いている女性達の多くに「占い」を信じる方が多い。たまたま私のお客さんがそうなだけなのかもしれないが…。その一つの理由として、科学や医学では割り切れない“現象”を実際の医療の現場でたくさん見て来ているからに違いない。もう一つの理由は、どういうものか医療関係の女性は“恋愛”や“結婚”で不幸な“男択び”をしているケースが多い。一言で言うと“男性を見る眼”に欠けている女性達が多い。医療の現場なので、当然、たくさんの男性達にも関わっているはずなのだが、それでいて“男択び”の下手な人が多い。むしろ、一般の会社員などの方がそういう点は優れている。一つには学生時代、つまり十代半ばから二十代初めの女性として一番“男性に興味を持つ時代”を、勉学だけに振り向けているせいかもしれない。したがって、優秀な能力を持っているのに、通常の女性ほど男性を見る眼が養われてこなかったのだ。特に“奨学金”を得て看護学校や医学部を出ている方は、仕事に就いて気が抜けるのか、途端に“良くない男”と恋愛して堕ちていく女性が多い。20年後、巷に美しい女医さんが沢山表れるのは良いことだが、くれぐれも恋愛で崩れ落ちていかないよう祈るばかりである。

“身内の変化”は「眉」に出る

2018-04-04

昨日、イベントで登場したビートたけし氏が「自分が作った会社を出て行って何で文句言われるのか分からないんだよ」と嘆いていたらしい。う~ん、ごもっとも。通常は、そういう時、自分から辞めるのではなく、株主総会などで辞めさせられる形になって出て行くケースなら時折存在する。実際、そういう形でいったん辞めさせられて、何年か経って再び社長に舞い戻って来るようなケースさえある。企業も“生き物”なので、創業者が抜けると、途端に弱体化してしまう場合が多い。一般の企業でも、自分で創業してようやく軌道に乗り始めたころ、さっさと手放して、自らは新たな会社を興す、というパターンを繰り返しているような人もいる。大体「オフィス北野」のように“自分の名(姓)”を冠した企業の場合、創業者の血族が絶えてしまうと傾いていく場合が多い。だから、創業した企業を継続したい場合は“姓名”を「社名・店名」に入れないことである。よく「家業」と言えるような“伝統的な職業”の場合、逆に「社名・店名」に“姓名”の一部を入れておくことで、血縁者に継承され続ける作用を生むこともある。とにかく「オフィス北野」は創業者が抜けたのだから、弱体化するのは眼に見えている。そういう場合、社名の一部を変えて、例えば「オフィスKITANO」のように印象を一変することで“新たな生命”が宿ったりする。ところで、私が気になったのはビートたけし氏の顔貌の変化だった。いつの間にか左右の眉が極端に“上下している”のだ。元々顔の左右に歪みの大きい人だが、眉の上下はかなり極端、しかも最近の変化だ。これは文字通り、自分の“分身のような会社”を手放したことと無関係ではない。眉の上下が目立つ人は、先祖関係、家族関係、住居関係に何らかの問題がある。昔は「異腹の兄弟有りの相」と言われた。現代は、それよりも“相続・遺産・後継”に関してトラブルが生じやすい相と見るべきだろう。果たして彼の愛犬は“良き後継者”となりうるのであろうか。

「政治塾」に“書類審査”は必要か

2018-04-03

4月1日、野田聖子氏が塾長となって岐阜市内で「女性向け政治塾」がスタートしたらしい。そして自らが政治家となって「32年経った今でも政治の中に女性はほとんどいない」と嘆いていたらしい。確かに日本では、まだまだ女性政治家は少ない。けれども、だからと言って、それがそのまま“女性が活躍できていない”と捉えるのは少し違うような気がする。今や女性は“あらゆる分野”で活躍している。「日本」という国は、一部の方達が言うほど女性が活躍しにくい社会ではない。私のお客さんでも、女性で経営者や自立して活躍している方はたくさんおられる。確かに“政治分野”に進出する女性は少ないが、もともと政治の世界というのは、体力とか、説得力とか、指導力とか、どちらかというと男性の方が優っている部分が求められる分野でもある。だから比率的に男性が多くなるのは仕方のない面もある。そういう意味では野田聖子氏のような“肝っ玉母さん型”の女性政治家がもっともっと育って欲しいと誰もが願うところだろう。ただ私が引っ掛かったのは、この「政治塾」が“書類審査”を必要とする、という部分だった。そして応募した女性が200名もいたのに、実際に参加させてもらえたのは72名だったという点である。なぜ、そんなに“絞り込む”必要があるのか。自ら「女性が出て来ない」と言いながら、出て来ようとする女性を“選別”していては、自らが“垣根”を作っているようなもので、今一つ“開かれた政治塾”という印象を受けない。例えば、私は自分のところに“占いを学ぼう”とする方を、選別したことは一度もない。ただ遠方すぎる方とか、毎週通えない方とか、約束を守らない方はご遠慮いただくが、それ以外の方を選別したことはない。それは、実際に学ばれていくうちに、自然と淘汰され、学び続けた方だけがプロとしての技量を身に付けていくことをたくさん見て来たからだ。基本的には、どの分野でも、この点は同じだと私は思っている。最初の「扉」を狭くしてどうするのか。これが2000人も応募があったのなら書類審査も解かるが、たかが200人ではないか。小学校しか出ていない「天才・田中角栄」は、書類審査なら落とされたのではないだろうか。

日露共同で「仮想通貨」を北方領土に⁈

2018-04-02

最近は“重苦しいニュース”が多い。それに“世界のニュース”に比べて、何となく“日本のニュース”が時代的に取り残されている。何しろ日本は“堅実さ”が「売り」だから、仕方がないと言えば仕方がないのだが、目まぐるしく動いている「世界情勢」の中では今一つ見劣りがする。そこで、こういうニュースを“ぶっこんで”みたくなるのは私だけなのだろうか。ロシアと日本が手を結び“政府管理下”の「仮想通貨」採掘を北方領土で始めるのだ。こうすれば、北方領土は両国にとって“宝を生み出す島”となって、どちらの国にとっても価値のある島に変貌していくような気がするのだ。実はこれは“バカげた幻想”ではない。プーチン大統領は本気で政府管理の仮想通貨発行を考えているらしい。その名も決まっていて「クリプトリーブル」。既に政府管理の仮想通貨はベネズエラで「べトロ」が誕生している。いや、ベネズエラだけではない。トルコでも「トルココイン」を発行しようともくろんでいるし、マーシャル諸島共和国でも「ソブリン」の発行が計画されている。一方で「通貨とは認められない」と共同認識された“仮想通貨”だが、新たな形に変貌して“誕生する”可能性は強まっているのだ。着手には至っていないが、ドバイ、カンボジア、エストニア、イングランド等で同じような動きが始まっている。ところで、私がなぜ“北方領土”などを持ち出したのかというと、基本的に仮想通貨の採掘事業は“寒い地域”であることが絶対条件なのだ。国際的にもやや追い詰められてきたプーチン氏が政府管理下の「仮想通貨」に本気なのは、この“ロシアの風土”が強く関係している。仮想通貨を管理するには“冷却装置”が必要で、そのために莫大な費用がかかる。ところが天然の冷蔵庫であれば、その費用が掛からない。そういう点でロシアは“仮想通貨採掘”には最適の風土を備えている。加えてロシアの通貨である「ルーブル」の国際的な価値がぐらついているので仮想通貨への流通・切り替えにはもってこいの時期なのだ。そういうわけで日本もちょっとだけそれに乗っからせてもらって“仮想通貨事業”で国民を豊かにしてもらえないだろうかと…仲良くできそうなのに…グスン。

2018年4月の運勢アドバイス

2018-04-01

「西部劇」が続いているアメリカ

2018-04-01

大昔、私がまだ子供だった頃、TVではアメリカの「西部劇」が放映されていた。その内容は日本の「チャンバラ映画」に似ていたが、そこに出て来る保安官にはどこかヒューマニズム(優しく言えば人間的な思いやり)が漂っていて、ただ単に“悪い奴らは殺してしまう”ような場面は決して出なかった。そういうTVドラマを見て育った私には、どこかで“アメリカの良心”を期待する部分が残っていて、近年のアメリカからそれが失われつつあることを受け入れがたい部分がある。けれども、現実にはそれを受け入れなければならない事件が頻発しつつある。例えば3月18日、一人のアフリカ系アメリカ人の男性が警察官たちから銃撃を受け、命を失った。この警察官たちは、パトカーに乗っていて「男が車の窓ガラスを割っている」という通報に基づき、現場に向かう途中で容疑者らしき人物が建物の庭に逃げ込むのを発見、それを追いかけて直ちに包囲し、建物の庭になだれ込み、男に対して一斉射撃した。まさに問答無用の銃撃である。なぜ、このようなことをしたのかというと、庭に逃げ込んだ人物が両手を上げて背中を向けたからである。アメリカの場合、警察官に取り囲まれたなら、このポーズがお決まりになっている。そうでなければ、それこそ銃撃されても文句は言えない。武器の無いこと、抵抗はしないこと、その意思表示としてのポーズなのだ。ところが、この時、クラーク氏は一つだけミスをした。携帯電話を手放さなかったのだ。それが光を発して、警官たちに「銃を持っている」と誤解させたのだ。結局、一斉射撃の標的となってしまった。こうして、彼は何ら武器も持たず、警察官に背中を向けていて、抵抗もせず、しかも、犯人でもなかったのに、一斉射撃を受けたのだ。昨日、検視の結果、8発の銃弾とも背中から撃たれていて、つまり彼は後ろ向きで、警察官たちには何の脅威もなかったのに発砲していたことが改めて証明された。しかも、彼が逃げ込んだとされた場所は、祖父母の家の庭だった。アメリカのヒューマニズムは死んだのだ。一般市民が“銃を持っている社会”とは、警察官たちに「撃たれる前に打て!」という精神を培わせるのだ。

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