12月, 2019年

ネズミは何故「鼠」でなく「子」なのか

2019-12-30

来年は言うまでもなく「子(ネズミ)」年である。そんなことは誰でも知っている。では何故「鼠(ねずみ)」ではなく「子(ねずみ)」と書くのだろうか。いや「ネズミ」だけでなく「ウシ」でも「トラ」でも「ウサギ」でも、なぜか「牛」ではなく「丑」と書き「虎」ではなく「寅」と書き「兎」ではなく「卯」と書く。みんな違うのだ。元々が「動物を意図したものではないから…」と言われそうであるが、実は、それも俗説だ。元々、動物を意識していた可能性は大いにある。例えば「ネズミ」にしても、鼠の繁殖力を意識していた可能性は大きいのだ。なぜなら原初の「ネズミ」に当てはめられた甲骨文字(漢字のもとになった文字)は“幼児の頭”の象形で、なぜ“幼児の頭”なのかというと、あっという間に毛髪が増えていく。その“部分”を重視して与えられた文字だからだ。もう一つの意味があって、実は古代中国の「殷王朝(彼ら自身は「商王朝」と呼んだ)」では「冬至朔旦(とうじさくたん)」というものを重視した。つまり、一年で一番日が短い“冬至の日”に、月の見えない“新月”の日が重なることである。古代において、月のない夜は暗い。しかも、一年で一番“夜の長い日”だ。つまりは“真っ暗闇の日”それが「冬至朔旦」なのだ。けれども、その日は同時に“蘇りの日”でもある。古代人たちは、その翌日からは少しづつ日が長くなって、月明かりもかすかではあるが復活していくことを経験的に知っていた。つまり、陰・陽の「陽」が復活し始める日なのだ。そこで、その日に“祖父の魂”の受け継ぎが行われる。つまり、産れて間もない幼児に、偉大なる王であった“祖父”の御霊を額から混入するのだ。「父親」から「男児」ではなく「祖父」から「男孫」に“混入の儀式”を行う。そうすることで、亡くなった祖父は「新たなる王」として孫の時代に生まれ変わる。冬至朔旦は、そのための重要な儀式の日となる。したがって“冬至”が存在する「月」は「子(ネズミ)」となる。十二支というのは、元々は各月の“重要な行事”を動物の名を借りながら当て嵌めていったモノなのだ。けっして「年」に対して当て嵌めたものではない。最初の頃は「年干支」は存在しなかった。「日干支」のみが存在し、30日と29日のカレンダーを構成していた。太陰暦なので31日というのはない。1日というのは、いつも“真っ暗闇”なのだ。真っ暗闇から生まれて、徐々に世の中を照らしていく。古代の王は、だから偉大だったのだ。

「マネーの虎」が予告していた金運

2019-12-29

年末年始になると、いろいろ普段とは違うTV特番が放送される。その一つに30日放送の「あの人今どっち⁉」というのがある。タレントの小峠英二氏と陣内智則氏がMCを務め“昔の風雲児の今”を当てるクイズ形式の番組らしい。その人物が“一世を風靡していた時代”のVTRを流しながら、当時を懐かしむと同時に、現在の姿を予想するという内容のようだ。もちろん、それらの人物の中にはスタジオに登場してくる人物もいる。要するに「あの人は今?」と言ったタイプのクイズ番組なのだ。さて、その中に今から17~19年前頃に話題を呼んだ「マネーの虎」というTV番組の出演者たちもいる。バブル景気で大成功を収めた人物たちが札束を持って集まり、若い“未知数の企業家”からのプレゼンテーションを受け、その企画・事業に対して投資するかどうか、その場で決め“現金を手渡す”という異色の番組だった。もっとも、応募者の中には、マネーの虎たちに“頭ごなしに説教されてお終い”という場面もしばしば登場した。当時から、その内容に対しては賛否両論あった。億万長者である出演者同士が激論を交わす場面もあり、億万長者(マネーの虎)と企画応募者(未知の企業家)との間で激論が交わされる場面もあった。そういう意味では“ヤラセなし”の強烈な内容だった。但し、その後、この番組に出演していた“マネーの虎”たちは、申し合わせたように次々と事業に失敗し出した。何百億という財産を築いても、失う時にはあっという間に失うものであることを、運命を研究する立場として、私は興味深く眺めた。もちろん、マネーの虎の中には、今もって大成功を続けている人物もいる。どちらかというと一挙に大金を得た人物の方が、一挙に失う率が高い。けれども、焦って自ら墓穴を掘ってしまわなければ、いったん丸裸になっても、必ずまた巨富を得ていくのが運命的な特徴でもある。その違いは最終的に“人間性の違い”にあるのだ。

「時代」と「環境」が“運命”を紡ぎ出す

2019-12-28

よく「あの人は才能がある」とか「才能がない」とか言う。確かに、客観的にみて“才能の有る無し”はある。けれども、それだけで社会的に成功したり、社会的に不遇だったりするかと言えば、そうとも言えない。世の中に“才能がある人”は意外なほどたくさんいるからだ。けれども、それらの人達がことごとく成功・出世しているかと言えば、そうではない。中には“悲惨な人生”を歩む人や“不遇なまま”世に埋もれていく人も多い。それらの違いは何だろう。47年間の歌手生活を終え、昨日自らのブログでファンに感謝を綴った森昌子氏の言葉には、そのヒントのようなものがあった。彼女は自分が「時代と作品に恵まれ」その結果として、恵まれた歌手人生を歩み続けることが出来たと述べているのだ。これは大変に重要な視点で、彼女の場合は“歌手”という職業なので「時代と作品」と述べたが、これを一般の方達にも当てはまるような表現に変えれば「時代と環境」が相応しい。つまり、どんなに才能があっても、時代や環境に恵まれていなければ、その人は自分の才能を発揮することが出来ない。仮に発揮していたとしても、世間はそれを受け入れたり認めたりはしない。多くの人は社会的に成功・出世していく人を「才能がある」と評価する。中には「運が良かったんだな」としか思えないような成功者もいる。それでも「運も才能の内」というような捉え方もある。だから成功・出世してしまえば、世間というのは“評価せざるを得ない”ようなところもある。もちろん、子供時代から、群を抜いて才能を発揮する人もいるが、まったく逆のパターンもある。そういう点から考えても、ここでいう才能は必ずしも学習能力ではない。画家のゴッホは、生前2枚しか絵が売れなかったというが、弟のテオが生活を支えていた。多分、画商でもあったテオは兄の“たぐいまれなる才能”を見抜いていたに違いない。けれども、当時の世間はゴッホの絵を認めてはくれなかったのだ。それでも、ゴッホが“好きな絵”を描くことだけで生活できたのは「弟」という環境を得ていたからだ。現在、何十億とか何百億とかの値段がつくゴッホの絵も、その当時は誰も相手にしていなかった。「時代」と「環境」は、才能を引き出す陰の立役者なのだ。

ハラスメントの宝庫「男はつらいよ」の謎⁉

2019-12-27

今日12月27日から映画「男はつらいよ」の50作目「お帰り寅さん」が封切りされる。22年ぶりのシリーズになる。もっとも、主役だった車寅次郎こと渥美清氏は、もういない。まるで、車寅次郎になりきるかのように産まれてきた俳優は、風のように逝ってしまった。その主役不在の中で、ベテラン俳優となったシリーズの面々が集まって作ったのが今作だ。私は以前、この「男はつらいよ」と「007」とは、共通点が多いと記したことがある。住所不定の“怪しい風来坊”が、行く先々で美女と関わり、一つの事件を解決に導いていく。その点では全く同一なのだ。一つだけ大きく違っていたのは、007のジェームズボンドは次々と役者が入れ替わったが、寅さんの方は入れ替わりようがなく、欠員のままになってしまった。それだけ強烈なキャラクターだったともいえる。だが、あのキャラクターだからこそ“許されていた場面”も多かった。今、考えると「男はつらいよ」は、セクハラ、モラハラ、パワハラのオンパレードで、今であれば絶対に公開できない内容が多かった。“時代”と言ってしまえばそれまでなのだが、われわれはどこかで彼が関わるセクハラも、パワハラも、モラハラも、すべて容認しているところがあった。なぜなら世間的にもごく日常的に、それらは行われていたからだ。日本に“勢いのあった時代”、それらはどこかで“おうように見逃す風情”があった。なぜ見逃せたのかというと、“こころ”にも“ふところ”にもいささか“余裕”があったからのような気がする。それは個々の問題ではなく、日本という国として、そうだったような気がする。人は精神的に余裕がなくなると、細かなことでも許そうとしなくなる。また経済的に余裕がなくなると、小さなことでも見逃そうとしなくなる。そして、コンピューター社会になって、人はどこかで“異質”なものを無意識に弾き出す習性を身につけたのではないか。だからちょっとしたハラスメントでも許せなくなってしまったのではないか。それが時として“温かさ”や“励まし”や“癒し”に繋がっているとしても、受け入れる度量を持ち合わせなくなっていったのではないか。それに伴う形で“勢い”までも失われていったのだ。

「瑛太」→「永山瑛太」“改名”が意味するもの

2019-12-26

俳優の「瑛太」氏が、来年年明けのドラマから「永山瑛太」の本名に改名することを表明した。元々が「瑛太」で文字も変わることなく、苗字の「永山」をプラスするだけなのだから一見“大きな変化”とは言えないが、姓名学的な観点から見ると、この変化は大きい。これは俳優の方達だけではないが、最近「姓・名」の「名」の方だけを職場など“公的な場”で用いる人が増えてきている。ただ、そういう人達に知っておいていただきたいのは、元々が「名」というのは、私生活で頻繁に用いられるものだということである。家族や親戚間において「姓」で呼び合うのはおかしい。したがって「名」だけで呼び合うことになる。社会生活上でも「名」は用いるのだが、基本的には「姓」と“セット”として用いるのが一般的である。つまり、公的世界においては「名」だけでは通用しないものなのだ。例えば“夜の世界”において、ホステスさんとか風俗嬢とかが「名」だけを使用するケースは多い。そして、なぜか、そこに違和感は生まれない。それは彼女たちには“職場”なのだが、客にしてみれば“プライベートの場”でありたいからだ。ところが近年は、そういう世界であっても「姓名」を用いる女性達も多くなってきた。但し、それは本名ではない。あくまでも“源氏名”“芸名”としての別名なのだ。基本的には俳優や作家などと同一で、もう一つの“職業名”である。したがって、ホステスや風俗嬢でも、職業名としての「姓名」を持っている人は、それだけ“社会的な自覚”を持ちながら、その仕事を行っている、ということになる。もちろん無意識なのだが、無意識であっても、それは運命的に“そういう形”で作用することになる。したがって、どのような世界の仕事であっても、その仕事に就いていることを「世の中に認めさせたい」のであれば「名」だけではなくて「姓名」にした方が良い。したがって、これからは永山瑛太氏も、本格的に“俳優”として世の中に顔を出すことになる。一般的に言って「名」だけの姓名を用いている場合、その“プライベート的部分”がそのまま“社会的評価”の対象となる。占い師の中にも「名」だけの“占い師名”を使っている方が多くいるが、そういう方は“どこかに属して”仕事をした方が良い。もし、完全に独立の形で「名」だけを使うのなら、プライベート的な部分を“売り”にしなければならない。そして、行く先々で名前を変え、やがて「昔の名前で出ています」となる⁉

新宿の母『手相の真実』は“名前負け”の本だった

2019-12-25

私が“栗原すみ子氏”のことを最初に知ったのは55年位前になる。私がまだ子供の頃だ。その頃、既に栗原氏は“伊勢丹横に立つ手相見”として有名になっていた。もちろん直接知ったのではなく雑誌に載っていたからだ。何となく興味を持った。特に私が興味深く思ったのは、テーブルも椅子もなく、立ったまま手相で鑑定していたことだ。しかも、その周囲には“のぼり”のようなものが建てられている。また手書きの手相図がいくつも貼りだされていて、そこに“玉の輿に乗る手相”とか、“結婚できない手相”とか、“大金持ちになる手相”とか、いろいろ書かれている。何となく怪しかった。けれども、そこには常に“長蛇の列”があった。若い女性達が群がっていたのだ。やがて栗原氏は「新宿の母」と呼ばれるようになり、風貌的にもどこか“母親っぽさ”が滲み出るようになった。いつの間にかマスコミの寵児ともなって、雑誌やTVに引っ張りだことなった。著書も何冊か刊行した。その中の一冊に『手相の真実』という本がある。大体、その人の著書を読むと、その人の鑑定方法が分かる。その鑑定人数は何十万人にもなるということで、私は注目して読ませていただいた。けれども正直なところ、がっかりの一語だった。とても何十万人もの人達を実際に鑑定してきた人の手相書とは言えなかった。『手相の真実』というタイトルだが、あまりにも粗雑な内容で“真実”からは程遠いよう思われた。粗雑な本はさして評判にもならなかった。彼女は“東北訛り”がきついのだが、それが独特の“母親っぽさ”を生み出していた。だから、地方から東京に出て来た若い女性達の“母親代わり”として、自らの体験を踏まえての“指導”に定評があった。つまり、彼女の占いは「手相」(のちに九星も加えられた)による判断と思われているが、どちらかというと彼女の体験的“人生勘による判断”と言って良かった。そこには田舎から出て来た先輩としての“人情”と“励まし”があった。「占い」は当たれば良いというものではない。おそらく彼女の「占い」は、当たったから評判を呼んだのではない。いつまでも“母親っぽかった”から支持されたのだ。ところが、マスコミは「当たる」と勘違いして宣伝をかける。そうすると、いつの間にか本人にも「当てなければ…」的な意識が強まり始めた。こうして「新宿の母」人気は、潮が引くようにしぼんでいった。

「男女と同じか」で争う「女と女」

2019-12-24

精神的に「若いかどうか」を占う簡単な方法がある。まず、あなたは“50年後の未来”に興味があるだろうか。ここで「ある」と答える人は精神的に相当若い。もし、あなたが50代、60代で、50年後の未来に興味があるなら、社会の第一線で働いていることだろう。人間というのは自分に直接的な関係がなくなって来ると、あまり興味を持たないものなのだ。そういう意味では、ちょっと心配なのが、まだ30代とか40代なのに、50年後の未来には「まったく興味がない」と答える人たちだ。そういう人達の多くは、ここ数年先のことさえ茫漠としているのに、50年も先もことなど考えること自体が“無意味”であり、“どうでも良い”ことだと思っているに違いない。ただ、そういう人達でも、50年後ではあるが「家庭問題」とか「不貞問題」についてであるとすれば、多少は興味を持ってもらえるかもしれない。実は昨日、東京高裁で一つの損害賠償請求を求めた裁判の口頭弁論が始まった。そこで争われているのは、同性同士のパートナーの“不貞行為”が、男女間の内縁関係における“不貞行為”に相当するものなのかどうか、ということが一番の“争点”となっているのだ。早い話が、女同士の「愛」は、男女の「愛」と“同様に扱っても良いのか”、という問題なのだ。それで、一方は「同じ」と主張し、一方は「違う」と主張している。だから、高裁にまで持ち込まれた。この問題というのは、司法という“公的な眼”が、同性愛というものを“どういう風に捉えているか”を知る一つの指標になる。私はちょっとだけ双方ともに可哀想な気がする。なぜなら元々は一緒に暮らしていた二人なのだ。それが一方の“浮気”で別れざるを得なくなった。男女間でもそうだが、いったんこじれると「愛」は「憎しみ」に変貌する。おそらくお金の問題ではない。この二人は今後、何年間にもわたって争い続けることだろう。たとえ最高裁まで行って、最終判決が出たとしても、それで気持ち的に終わるわけではない。もしかすると、同性を愛したこと自体を悔いるようなことになるのではないだろうか。今のままのペースでいくと、同性愛カップルはどんどん増えていく。50年後には“3割近いカップル”が誕生しているかもしれない。そして、この二人の主張が、その50年後にも繰り返される⁉

天使の女性が「ゴミ箱奥の命」を救った

2019-12-23

「運命」というのは、どこでどう働くか誰にもわからない。その日、たまたまゴミ収集車の到着が遅れた。もしも、いつも通りの時刻に来ていれば、ゴミ箱の中身はすべて一括して収集車に回収され、押しつぶされて“その命”も果てた。ところが、その日は定刻よりも遅れた。丁度その時間帯に、天使の女性は野良猫たちにエサを与えていた。けれども、その女性の行為は、必ずしも周辺住民からは歓迎されていなかった。「天使の女性」ではなく「物好きな女性」或いは「おせっかいな女性」とみられていたのだ。その日に限って、一匹の猫だけがゴミ箱の周辺に居た。だから、その近くまで女性もやってきた。そしてゴミ箱の中から“鳴き声”がしていることに気付いたのだ。ゴミ箱(ゴミ捨て場)と言っても、日本のように“簡易の金具箱”ではない。ギリシャ南部のカラマタ市のそれは石造りのガッチリとした円筒形であり、底まで3mはある。円形の丸い蓋がついていて、それを開けてゴミを投げ入れる方式だ。したがって、鳴き声はしても、外からは見えない。最初は動物の鳴き声かと思ったが、やがて人間の赤ん坊の“泣き声”だと女性は直感した。慌てて警察に通報し、ゴミ箱の蓋を開いて中を覗いた。それらしきものは見えない。けれども“泣き声”は乳児のものだった。付近を歩いていた人達にも声をかけ、救い出そうとした。何人か寄って来たが、中を覗いても何も見えない。“声”はするが、どこか動物のようでもある。「ネコなんじゃないの」とスタスタ歩きだす人もいた。誰も真剣に救い出そうとしない。やがて、警察から救急隊が着て、紙袋に入っていた赤ん坊を救い出してくれた。こうして“棄てられた命”は救い出されたのだ。もし、ゴミ収集車が定刻通り到着していたなら、ゴミ全部を引き上げ中に放り込み押しつぶすので、間違いなく死んでいた。また「天使の女性」がいなければ、その泣き声は誰にも気付かれなかった。そして野良猫が一匹だけゴミ箱の方へ行かなければ、その女性も傍まで行かなかった。「神」はいるのか、いないのか、誰にも答えられない。

「オカルト」と「アダルト」の奇妙な類似点

2019-12-22

久しぶりに街に出て書店を覗いた。この時期になると、なぜか書店が人であふれる。クリスマスが近いからか。冬休みが近いからか。年末でカレンダーや日記帳や年賀状や図書カードや雑誌の正月号を買い求める人が多いからなのか、ボーナスが出た後だからなのか、真相はよく解からない。とにかく、人があふれていた。そこで、いつもは立ち寄らないようなコーナーを見て歩いた。そして気付いた。「アダルト系雑誌」と隣り合わせるようなところに「オカルト系雑誌」が売られていたのだ。それも両方共かなり“マニアックな感じのもの”で、そのせいか両方共にビニール袋で封印されて、中が読めないようになっている“ビニ本形式”の雑誌となっていた。昔から一部のアダルト系雑誌が“ビニ本形式”で売られていたのは知っている。けれども、オカルト系雑誌まで“ビニ本形式”なのを観たのは初めてだった。表紙には「UFO」とか「心霊写真」とか「怪談」とかの文字が躍っている。まぎれもなくオカルト系雑誌だ。ただ私自身は初めて観た雑誌である。多分、刊行されて間もない雑誌のようだ。もしかすると「雑誌」の形式を借りた「ムック本」なのかもしれない。とにかく、これでは表紙を観て“買う”“買わない”を決めなければならない。アダルト系雑誌の“ビニ本形式”はそれなりに解かるが、オカルト系でこの手法を使われて、購入する人がいるのだろうか。私には珍しく、迷った末に止めた。その代りというわけでもないが、来年を予測した経済誌と神社系の雑誌とを購入した。それにしても、なぜ、あのオカルト雑誌は“ビニ本”にしたのだろう。おそらく、興味を持って中を開いても、或いはその一部を読んでも、書棚に戻す人が多いという過去の経験則からの処置なのに違いない。それは確かにそうである。「アダルト」も「オカルト」も、それなりの興味は誰でもあるが「どうしても読みたいか」「購入したいほど見たいか」と問われれば、多くの人が首を横に振る。実際に購入するのは、ごくごく一部の人達だ。けれども、特にオカルト系の場合は、頭から“ビニ本”にされてしまうと、そこまでされても“購入する”という気が起こらなくなる。少なくとも、週刊誌の“袋とじ”のような“ここは購入しないと読めない”程度にしておかないと、何となく止めてしまう気がするのは私だけであろうか。

日本人が求めるのは「批評力」より「理解力」

2019-12-21

文春デジタルが13歳から86歳の男女1万名以上に対して行ったアンケート調査の結果が公表された。何の調査なのかというと、TVのキャスターやコメンテーターの中で「誰が一番嫌いか、どこが嫌いか」というアンケート調査である。年齢層が幅広く、しかも1万名以上という数なので、この数字には信頼性がある。言ってみれば、今の日本の“平均的な街の声”と言っても良いだろう。それによると「嫌いなキャスター」のダントツは宮根誠司氏であった。歯切れ良く、司会進行を進めていく手際に関しては誰もが評価しているが、多少、自己中心的な纏め方や主張の強さを毛嫌いしている視聴者が多いよう感じられた。2位は立川志らく氏、4位が坂上忍氏、6位が加藤浩次氏、7位が小倉智昭氏、8位が安藤優子氏、10位が関口宏氏で、この辺のメンバーは立川志らく氏を除けば、いずれも長く「その番組の顔」としてリードしてきた人達である。つまり、日本人はTVニュース番組とかワイドショー番組とかで、個性が強く「自らの番組だ」という雰囲気を醸し出すようなタイプは本質的にあまり好まない、ということのようだ。いずれの人達にも共通にあった“嫌いな部分”として「自分の観方は絶対に正しい」風な物言いとあって、いかに日本人が“謙虚であること”を重要視しているのかが分かる。もう一つあったのは「思想的な偏り」で、これは3位、5位、9位に入っているコメンテーターが、青木理氏、玉川徹氏、長嶋一茂氏の三氏で確かに少々偏りがありそうな面々ではある。コメンテーターに関しては、11位に松本人志氏、14位に室井佑月氏、16位にテリー伊藤氏、20位にビートたけし氏が入っていて、社会事象全般のコメントを求める人選としてTV 局側が考えるべき問題も含まれているよう私には思われた。「お笑い」として人気があることと、社会事象を批評することとは別次元と理解すべきだ。また“偏りの強い思想”の持ち主が出る場合、それに相応出来るような“対極思想”のコメンテーターも入れておかないと後から問題が生じやすい。もっとも「嫌われる」ということは、それだけ「観られている」ことの証しでもある。視聴率という問題も絡むことで、他人事ながら人選は難しいかもしれない。

神は「数100か所以上」で“火遊び”をする

2019-12-20

今年、日本の“神様”はひかくてき大人しい。それに対してオーストラリアの“神様”はちょっとやんちゃである。色々なところで“火遊び”をしているからだ。その数、何んと数百か所。もちろん、猛威を振るう森林火災のことだ。こういう自然災害にだけは環境活動家たちも沈黙せざるを得ない。抗議するとすれば「神様」になるからだ。オーストラリアは広い国土の国家だが、各州の中でも東側に位置するクリーンズランド州が70ヵ所以上、同じく東側南部のニューサウスウェールズ州が100か所以上、火の手が上がっていて、その半数は「制御不能」の“お手上げ状態”なのだ。その消火には本国だけでなく、アメリカやカナダからの応援部隊も駆けつけている。それでも、どうすることも出来ないので7日間の「非常事態宣言」が出された。問題は森林だけで終わってくれるかどうかだ。何しろ、ニューサウスウェールズ州にはシドニーなどの大都市が位置している。山間部では既に800棟以上の家屋が焼失してしまった。加えて現在、真夏に入りつつあるオーストラリアは熱波にも襲われている。シドニーでも40度とか41度とかの毎日なのだ。ポートオーガストでは47度を記録している。火事ではなくても熱いではないか。さらに強風だ。風速27メートル以上の強風が吹き荒れている。戸外で“火を扱うこと”は厳禁になったというが、誰がのんきにバーベキューをしているのか。こういう状態だから、森林火災の条件が揃いすぎているともいえる。大自然に恵まれたオーストラリアのイメージが、焼けただれた大地へ変貌していくのは避けたい。オーストラリア先住民“アボリジニの守り神”はどこへ隠れたのか。こういう時こそ呪術師とか祈祷師とかの登場ではないかと思うのだが、なぜかこういう時に限ってスピリチュアル系の人達も、環境破壊防止と叫ぶ人たちも沈黙してしまうのだ。ITやAIはわれわれの生活を便利にしたが、こういう自然災害にはからきし弱い。森林を支配する神々の“火遊び”を許してはならない。

「AI崩壊」は、ハリウッドを超えるか

2019-12-19

今から10年後の日本を想像するのは、簡単なようでいて、実際にはなかなかに難しい。その“難しい領域”に挑んだ作品が入江悠監督・大沢たかお主演の映画「AI崩壊」だ。AIを暴走させてしまった容疑をかけられ、逃げ出す主人公を追っていくサスペンス・パニック作品。設定は2030年の日本列島。完成報告会見で、2年間休業していた俳優業を復活させた主演の大沢たかお氏は「AIを扱った作品だから、CGを多用するのかと思ったら全く違って…」と全編が“肉体労働”であったことをぼやいている。確かに、近年の特にアメリカ映画は“近未来”を扱った作品では、必ずと言ってよいほどCGを用いる。そのせいなのか、近年のアメリカのサスペンス映画、及びパニック映画は、確かに映像で見る限りは華やかで迫力があるのだが、それでいながら本当の意味でのハラハラドキドキ感が乏しい。思うに、こんな映像はCGに決まっているという考えが、どうしても頭の隅から離れない。したがって、一方では映画世界に引き込まれる自分が居るのだが、もう一方では“CGの絵空事”として観ている自分が居る。だから迫力の割には感動できない。どこかで「確かにすごいけどね…」で完結している。考えてみれば、それは昔のような本当の感動ではない。昔の映画はCGなど用いなかったが、用いなかったからこその迫力があった。結局、人には“つくりもの”は“つくりもの”として受け止める習性のようなものが備わっているのではないか。そういう点から言えば、特にAIにまだまだに馴染み切っていない日本人にとっては、全編、人間の身体そのものを使って表現しようとしたこういう作品の方が、実際の恐怖や焦燥感を感じさせてくれるのではないだろうか。そして、日本の映画が“ハリウッド作品”に勝てるとすれば、こういう方法を駆使するしかないようにも思えるのだ。これは映画界だけの話ではなく、日本人が「世界」を相手にしていこうとするなら、アメリカを手本にしてはならないのだ。アメリカの“逆手”を取っていく発想でなければ「世界」に輝く日本にはなれない。

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