4月, 2020年

やがて「アラブの王族」は消えていく⁉

2020-04-18
あなたは「アラブの王族」に該当しているサウジアラビアにおける人物が、どのくらいの人数なのか、ご存じだろうか。王族であるから、もちろん“現サルマン国王”と何らかの血縁関係がなければならない。われわれの感覚からすると、何十人程度を想定する。ところが違うのだ。15000人を配する。超巨大親族集団なのだ。どうしてそんなに多いのか、一つにはイスラム教のお陰で男性は4人まで「正妻」を持つことが出来る。ここで注目すべきは4人共「正妻」であることだ。そこで何が起こるのかというと、当然のごとくに“権力争い”が起こる。王座を巡る権力争いが当然のように起こる。2017年まで皇太子だったナエフ王子は、その座を現皇太子であるムハンマドによって引き摺り下ろされた。現在、国王はサルマンだが、高齢(84歳)であるため、実質的には多くの権限を皇太子に譲っている。つまり、まだ34歳のムハンマド皇太子だが、実質的にはほぼ国王と言っても良いような状態にある。したがって、その権力は絶対である。つい先頃も、前皇太子ナエフと、現国王の実弟であるアハメドを拘束させた。自分の地位を少しでも脅かしそうな者は容赦しない。そういえば、2年前にはトルコのサウジ大使館内で、ジャマル・カショギ記者が殺害された。彼も、ムハンマド皇太子に批判的だったからだ。現在、世界に猛威を振るっている“新型コロナウイルス”はサウジの王族にも襲い掛かっていて、既に王族の内150人以上が感染したと言われる。王族内で次々と感染者が出ているのだ。或る意味では、あまりにも王族が多過ぎるので自然淘汰されて良いのかもしれないが…。対処としては少し遅すぎたが、3月5日からはメッカやメディナといったイスラムの聖地巡礼は禁止となった。それでも、それ以前にこの“聖地”が集団感染のメッカ(?)となったことは間違いがない。現在、サウジにはもう一つ、頭の痛い問題がある。原油価格の急落だ。今は20ドルを切っている。これではとても“金持国”ではいられない。前にも述べたように、世界的な投資資金も微妙な状態が続く。王族は減っていく、原油は急落する、投資資金は返って来ない、窮地に立たされつつあるのが「アラブの王様」なのだ。

「ケプラー星」の方が住み心地が良い⁉

2020-04-17

10万円がもらえるとか、もらえないとか、地球の“ヤバそうな状態”は当分続きそうなのだが、そんな時に入ってきたニュースが、我が地球に“似た大きさ”“似た温度”“似た条件”を持つ惑星の存在発見というNASAからの報告だ。発信元は信用できる。これまでの膨大な観測データからの発見らしい。その位置は我が地球から300光年の位置らしい。300光年が実際にはどの程度の距離なのかわからないが、宇宙レベルの話として聞けば、それほど遠くない。光の量は地球に比べて75%程度ということなので、少し暗いが、まあ曇りの日が続くと思えば問題はない。おそらくだが「水」は存在するらしい。これがないと、やっぱり生きるのは難しい。次に「大気」だが、これに関してはまだ調査中らしい。これもあってくれないと“普通に暮らす”のは難しい。大きさとしては地球の1.06倍くらいだそうで、ほぼ同じと言っても差し支えない。温度は光の量からすると、少し寒いかもしれないので、暖かい恰好をしなければ…。そういうわけで、少なくとも「砂嵐の星=火星」よりは、はるかに“人類の移住先”として相応しい。もっとも、既に「地球人」じゃなかった「ケプラー星人」が暮らしている可能性はある。どうして「ケプラー星」なのかというと、既に「ケプラー1649c」という名称がついているからだ。我が太陽よりも“小ぶりな恒星”を回っているらしい。だから、少し暗いのかもしれない。それにしても、どれだけの数の星(恒星→惑星)があるのか知らないが、意外なほど、我が地球と似たような惑星は存在していない。似たような条件があれば、間違いなく生物が誕生し、俗にいう「宇宙人」が存在するのだと思うが、私は昔から気になっていることがある。地球の大昔の支配者が「恐竜だった」という事実だ。恐竜がどの程度の頭脳を持っていたのかは知らないが、かなり進んでいたらしい研究もある。こんなことを言っては恐竜さんに失礼なのだが、やっぱり、恐竜さんの支配下の下で生活するのはちょっと…。けれども、もし、恐竜さんが絶滅しなければ、恐竜さん系が地球の支配者になっていたはずで、もしかして「ケプラー星人」というのは“恐竜さん的な外見”を持っているのではないか。宇宙人目撃の中にも「爬虫類系」直立生物の目撃例がある。そういう人達に握手を求められても…。

「業績予想未定」も、慣れてしまえば…

2020-04-16

“産業ロボット”の分野では世界的に名前の知られている「安川電機」が、初めて通期の業績予想、及び配当について「未定」と発表した。産業用ロボットや工作機械という分野は、景気の先行きを占ううえでの“先行指標”になるとされる分野だ。つまり、この分野の企業群に勢いのあるとき、業績予想の上振れを示すようなときには、日本の先行きが明るい時だとされている。その「安川電機」が先行きについては「未定」を打ち出した。ロボットメーカーと言えども、先が読めない、というのだ。今期は営業利益が前期比で55%の落ち込みとなっている。まあ、半分以下に下がってしまったということだ。こういう時、企業は従業員の給与を半分に減らすだろうか。普通はしない。だから、政府からの給付金の対象にならない。ほとんどの“大手企業”はそうである。少なくとも日本の企業は、従業員の生活を守ろうとする。ただ“先行指標”となる企業が、今期の見通しを示せなかったことは重要だ。日本だけに限らないが、景気の先行きが読めないということだ。大体、日本の大手企業は海外を主戦場としているので、現状のような“闇に包まれた”状態では、先行きが読めるはずもない。そうすると日本のサラリーマンの多くは不安がる。けれども、世の中には“最初から不安な人達”というのもいる。正社員ではない人達、パート・アルバイトで働いている人たち、さらにはフリーランスで働いている人たち……そう私のような“不安定な職種”の人達だ。私のような職種の場合、大体が景気の良い時だって、見通しなど示せない。常に「一寸先は闇」なのだ。そうして、そういう働きかたになって、もう何十年になるだろう。どこからも「給与」などという“安定したもの”は入ってこない。見通しなど「ゼロ」に等しい。まあ、それでも何十年も過ごして来ているのだから、人間というのは「環境に慣れる」ということが重要である。慣れてしまえば、どうということはないのだ。というか、何とかはなっていくのだ。世の中には、何でも“見通しの立たない”ことには手出しをしない人がいる。やたら、不安がる人がいる。けれども、神様は良くしたもので、ちゃんと誰でもが生活していけるよう配慮している。あまり先のことばかり心配し過ぎて“計画通り”進めようとしすぎる人の方が、途中で破綻してしまう場合が多い。大体、人間の一生は、計画通りになど絶対に進まない。計画通りに進まないからこそ、人生は素晴らしいのだ。隅から隅まで“予定表通り”なら、これほど“つまらない人生”はない。

「飛び火」は「チェルノブイリ森林火災」で実現‼

2020-04-15

私が「四川省の森林火災」について書いたのは4月1日だ。その時、最後に文字通り「飛び火」することを怖れる…という趣旨で締めくくった。ところが、それから3日後、実際に「飛び火」は起こっていて、旧ソ連、現ウクライナのチェルノブイリ原発の周辺地域で森林火災が発生していた。昨年に米カリフォルニア、年初にオーストラリア、さらに中国四川省、そして今回のチェルノブイリ、すべては森林火災であり、いずれも自然発火であり、何日も、何十日もかけて、広大な面積を焼き尽くす。私が年初から言っている「防ぎようのない自然災害」なのだ。今回のチェルノブイリ周辺火災で注目されるのは、あの原発事故地域に及ばないのか、という点である。実は最初、放射能数値が通常の16倍まで跳ね上がったと報道されたが、なぜかその後に打ち消されている。火災は4月4日に発生してすでに十日以上、400人以上の消防隊員とヘリコプターを投入しているが鎮火していない。現在、チェルノブイリ周辺は住居禁止区域だが、もっとも近いプリピャチ市は「原発観光」で欧米人に人気の街となっている。実は“火の手”は、既にこの街にまで到達しようとしているのだ。どうも今年は「防ぎようのない自然災害」があちこちから“火の手”を挙げながら、じわじわ地球人類に迫ってきているようで、不気味な年としか言いようがない。まだ4月なのだ。前半すらも終わっていない。第二幕、第三幕の「防ぎようのない自然災害」の“舞台”が密かに用意されているはずなのだ。「歴史」は常に“行きつ戻りつ”しながら、人間の“愚かさ”や“脆さ”や“危うさ”を露呈してきた。人間は、どう頑張ってみたところで人間で、神の領域に“手を伸ばそうとすること”自体が間違っていることを教えられてきた。それでも、人間は懲りずに、何度でも“神の領域”に近づこうとする。確かに科学技術は格段の進歩を遂げたが、人類の最大の敵ともいうべき「自然災害」にはからきし弱い。その“弱さ”“脆さ”を、これでもか、これでもか、と見せつけるのが、燃上がる地球の“怒り”「森林火災」なのだ。

強盗に襲われ18年経ち「頭の痛い問題」が発生

2020-04-14

強盗に襲われた体験を持つ人は少ない。ましてや強盗に刃物を突き付けられ、しまいには頭部を刃物で突き刺されて、のたうち回った経験を持つ人は少ない。それでも、命は救われ、やがて普通に生活できるようにまで回復した。突き刺された刃物はどうなったのかというと、頭の内部に収まったままだった。現在76歳のこの男性が強盗に襲われた1994年当時、中国の山東省済南市の病院では、微妙なところに突き刺さっている刃物を上手く抜き取るだけの技術がなかった。抜き取る手術は、生命に“危険が及ぶ”とみなされたのだ。不思議なもので、応急措置が施されたまま抜き取ることなく生活してみると、それはそれで大丈夫となっていった。だから、そのまま放置していたのだ。ところが、強盗に襲われ18年が経過した2012年になって、頭部に何ともいえない“痛み”が生じるようになった。そこで病院へ行って視てもらったが、今の状態で刃物を抜き取ることに対して医師たちは慎重だった。本人はときどき“痛み”が生じるが、強烈な痛みというほどでもなかった。だったら、そのままの方が良い、という結論に達した。けれども、その後も“痛み”は治まるどころか徐々に強まり、しかも“視力”の方にも影響が出てくるようになった。もう限界だった。これ以上、待てない。そこで、今年4月2日に多数の医師たちにより、慎重に取り除く手術が挙行された。こうして、頭の中から10センチに及ぶ“刃先部分”が取り出されたのだ。無事、脳内を傷つけることなく手術は成功した。強盗に襲われ26年が経っていた。人生には時々、予期せぬ“災難”が襲ってくる。生命力の強い人は、どのような災難に出遭っても、生き延びられることが出来る。さらに生命力の強い人は、大きな後遺症も残らず、現役に復帰することが出来る。それでも、実際にはどこかに“悪魔の爪痕”を残している場合が多い。よく「古傷が痛む」という表現を使うが、まさしくそういう感じで何年も、時には何十年も経ってから、その“傷”が痛みだすことがある。もし、あなたの身体が生れてからずっと“無傷”のままであるなら、それ自体が“幸運な人生の証し”なのだと知っておいた方が良い。

4歳長男は義母に股間蹴り上げられ意識不明

2020-04-13

事件そのものは2017年9月に埼玉県草加市で起こった。夫の“連れ子”である長男は当時4歳だったが、時々“おねしょ”をした。母親は、それが我慢ならなかった。自分の“産んだ子”でもないのに、自分がその後始末をしなければならない。“前妻の子”であるというだけで、なぜかはわからないが無性に腹が立った。しかも、その子は何度注意しても、それをきちんと聞いている風でもない。「謝りなさい‼」長男は無言のまま後ずさった。それがますます怒りに火を点けた。「悪いことしたでしょ、謝りなさいよ‼」この時、もし、長男が少しでも悪びれた感じで「ごめんなさい」と言ってくれれば、こういうことにはならなかったのだ。長男はこの時、丸くなってクルリと背を向けたのだ。もう我慢の限界だった。母親は長男の背中を足で突き飛ばしていた。体制が悪く、長男は頭を壁にぶつけてうずくまった。背後からは小動物のようにも見えた。前妻も、こういうお尻をしていたのだろうか。一瞬、妙な妄想がよぎった。その瞬間、思わずその股間部分を思いっきり蹴り上げていた。小動物は跳ね上がり、床に突き刺さるように崩れた。長男が、意識障害を起こし、全身まひを伴う急性硬膜下血腫を患った瞬間だった。その日から現在まで、長男の意識は戻らず、入院状態が続いている。実は直接の逮捕容疑は別件にある。元々結婚当初から長男への虐待は続いていたらしい。それに対して、夫は何も気づいていなかったのだろうか。この場合は“夫の連れ子”だが、暴行事件が多いのは“妻の連れ子”の方である。大抵の場合、再婚した夫や妻が“連れ子”に対して“虐待気味”なのは気付いている。気付いていても、それを制止するケースは少ない。どうしてかというと、その虐待が“前妻”や“前夫”に向けられたものであることを何となく感じるからだ。何故なのかはわからないが、後妻として、或いは後夫として一緒になった者は、その前配偶者に“繋がっている存在”に対して優しくなれない。圧倒的に“そういうケース”が多い。ここで興味深いのは長男が亡くなっていないことだ。意識戻らぬまま“生きながらえる形”となれば、それは母親に「刑期」よりもはるかに“重い実刑”として、生涯、背負わざるを得ないことだろう。

事実は小説よりも奇なり『ペスト』&『首都感染』

2020-04-12

二つの本が密かに売れている。その一方は50年以上も前に出版された『ペスト』という小説。もう一方は10年前に出版された『首都感染』という小説。『ペスト』の方は累計で100万部を突破した。ノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミュ氏の小説で、ペスト感染の拡大防止のため封鎖されたアルジェリアの港町で闘う医師らを描く長編小説だ。『首都感染』の方は累計で7万部に迫る。1999年にミステリー大賞でデビューした高嶋哲夫氏の小説で、強毒性を持つ新型インフルエンザの感染拡大を防止するため首相が東京封鎖に踏み切るサスペンス系の小説だ。どちらも“新型コロナウィルス”ではないが、感染症の恐怖を扱っていて、街を完全封鎖するという点で“今日的な情景”を先取りしているかのような小説だ。しかも、片方は50年以上前の小説であり、もう一方も10年前の小説である。歴史は繰り返し、人間の営みは変わらない。そして古来から「事実は小説よりも奇なり」という。小説はときどき“過去を再現する”が、同時に“未来を先取り”もする。そして、そういう時に、人間として本当はどう対応すべきなのか、示唆していることもある。賢い人はだれでも“過去の体験”から、未来に起きて来る“予測される現実”への備えをしようとする。多分、この二つの本がそれほど宣伝を掛けるでもなく、じわじわと売れていくのは、より“身近な出来事”として読めるようになった今だから、人々が本能的に手に取るのだ。そして、よりリアリティーのあるものとして受け止め、小説としての面白さを感じながらも、現実的にはどう対応すべきなのかを考える。それにしても、この日本でカミュの小説が累計にしろ100万部を突破したのは驚きでしかない。いかに動かしがたい歴史と、小説としての物語性とを上手く結びつけ、文学性豊かに描き出したか、傑作は時代を超えて読者を惹きつけるのだ。

「異人たちとの夏」の奇妙なリアリティ

2020-04-11

映画監督だった大林宣彦氏が亡くなった。2016年8月に「肺がんステージ4」を告げられ、余命3カ月と診断された。それから3年8カ月も生き延びての82歳だから「大往生」と言える。昨年の11月には“特別功労賞”も受賞し、その悦びを「あと3000年、映画を作りたい」と表現した。私は彼の映画をそんなに見ていない。けれども「異人たちとの夏」だけは“強烈な印象”として残っている。確か映画館で封切り直後に見たのだが、その時に独りで観たのか、誰かと一緒に観たのか、どうして観ようと思ったのか、それらがどうしても思い出せない。私は一人で映画館に行くということが滅多にない。大人になってからは2~3回くらいしかない。ただ、この映画は独りで行ったような気もするのだが、そうだとすれば独りでも行くだけの“動機”が必要で、何が、私を映画館に向かわせたのかが思い出せない。この映画はストーリー的には、妻と離婚した男がふとしたことから既に亡くなっている父母と出逢い、そこに通い詰めていくうちに身体が変調を来たし、衰え弱っていく…という風な物語だ。ちょっと「耳なし芳一」の現代版のようなところもある。ただ映画そのものは恐怖仕立てではなくて、奇妙な“なつかしさ”と“やさしさ”と“ほのぼのとした情景”が引っ張っていく。だから、怖いはずなのに、引き摺り込まれるような情緒性があって、奇妙なリアリティがある。公開された年代を調べると、私は既に自分の母親や父親を亡くしたのちの映画で、そういう意味で観ようとしたのだろうか。どうも、違うような気がする。純粋に夏場の“恐怖映画”を期待したのか。それとも、私が好きだった秋吉久美子氏が出演していたから観たかったのか。或いは、もしかして私は思い出せないが、誰か女性から強く誘われ観に行ったものだったのか。もう一度観てみたい気もするが、今だと怖くて後ずさりする気持ちの方が強い。おかしなもので、私は若い頃“恐怖映画”を好んだ。確か20代半ばに江戸川乱歩原作の「陰獣」という映画を当時、一緒に小説を書いていた仲間の女性二人と観に行った。ところが刺激が強すぎたのか、片方の女性が途中からひきつったように泣き出して止まらなくなり、慌てふためいた記憶がある。やはり「異人たちとの夏」は独りだったような気がする。最近は、映画だけでなくTV番組でも“恐怖仕立て”のものはあまり見ない。昔はあれほど好んだ“心霊もの”なども、なぜか拒絶反応が強い。もしかすると「あの世」から引き摺り込まれてしまいそうで、死者が手招きをしてきそうで怖いのかもしれない。

なぜ占い師は「議論」を戦わせないのか

2020-04-10

最近、TVのワイドショーなどで時折、出演しているコメンテーター同士が、見解の相違、考え方の違いで議論を戦わせるケースが多い。元々、全員の意見や考え方が“一致する”ということ自体がおかしいのだが、なぜか日本の「ワイドショー」などでは、これまでそういう風な形で“一方向にながれる”ような番組構成が多かった。多くの人達が“同じような考え”なら、その辺のところに話を持っていくようにすれば、どこからも攻撃を受けずに済む。或る意味では、誰も傷つかなくて済む。だから、そういう方向で話をまとめましょう、という事前の“打ち合わせ”があるのか、ないのか知らないが、とにかく無難ともいうべき番組が多かった。ところが「新型コロナ」の問題が発生して以来、それぞれへの“関わり方”が微妙に異なるせいもあって、各番組のMCとかコメンテーターとかの“捉え方”“考え方”“反応の仕方”の違いが浮き彫りになりつつある。そして、TV局自体も明確な“方向性”を持っていないので、コメンテーター同士が衝突し合った場合、最終的に“どの意見でまとめるか”判然としていないような印象を受ける。けれども、本来、個々の意見とか考え方とかいうものは異なっているのだから、まとめる必要などないので、そういう意味では本来の“在り方”に戻ったと言っても良い。さて本来であれば、こういう“謎”の騒動では、今後の可能性とか、収束の見通しとかに関して「占い師」に問うことがあっても良い気がするのだが、そういう情報番組はまずない。それだけ「占い」というものが社会から遊離している証拠と言えよう。もっと言えば「社会的な信用を置かれていない」ということだ。真摯な問題を取り扱えるような人物がいないということだ。政治や経済も絡むような問題とか事件に対する将来的な展望を、占ってもらいたくなるような“見識ある占い師”が見当たらない、ということであろう。この“社会からの隔絶感”はなぜ生じるのか。一つには、占い師同士がまともに意見や考え方を戦わせていないことにある、と私は思っている。「なあなあの世界の人達」を誰が信用するだろうか。もっと、占い師は、普段から「占い」そのものに対する根本的な議論をすべきなのだ。著名であるとかないとか、人気があるとかないとか、そういうところからではなくて、ほんとうに人類のためになる占いとは何なのか、人類として“遺していくべき占い”とは何なのか、もっと議論すべき時期に来ているのだ。

「月」は、なぜ「変化の星」になったか

2020-04-09

昨日、一昨日と二日間にわたって「スーパームーン」と呼ばれる“大きな満月”が夜空を彩った。われわれは時として無意識に「お月さま」という表現を使う。本来なら「お」や「さま」は不要(「お金星さま」とは表現しない)なのだが、太陽に対して「お天道さま」という表現があるように、月に対してはもっと自然に「お月さま」と口にする。なぜなのだろう。それは多分「月」が、どこか人間的なものを感じさせる“何か”があるからなのだ。われわれは本能的に、その時々の気持を反映しながら「月」を見る。だから、同じ「月」なはずなのに、その時々で見え方が異なる。例えば昨日のスーパームーンは、いつもの月よりも14%くらい大きく見えるのだという。何となく…ではなくて、視界においては実際に大きいのだ。もちろん古代人は、それに気付いていた。“夜空の精密な観察者”であった古代人は、われわれよりもはるかに夜空を見上げる機会が多かった。また“天文官”として、星々の動きや輝きなどを記録する仕事の人たちもいた。古代においては“天文官”は同時に“占星術師”を兼ねていて、星々の動きから、未来を予測するのが常だった。そういう古代の占星術師でなくても、月の変化は判り易かった。“篝火(かがりび)”以外に、夜間の照明がなかった時代、月は太陽の“代わり”を果たして、“月灯り”を与えてくれていた。けれども、月の灯りはいつも同じではなく、その時々により“明るさ”が異なった。それは、月が“その形を変える”からだ。「満月」が一番明るく「三日月」の夜は暗くて「新月」には、月の姿がない。毎夜、その形を変える。時間によっても、その位置が異なった。さらに、同じ月なはずなのに、その“色合い”も変わって見える。白金色にも、暗白色にも、蒼白色にも、白桃色にも、黄土色にも、赤銅色にも見えることがある。まるで、乙女心のよう“七色”に変化するのだ。この惑星が「変化の星」でなくして何だろう。こうして、占星術上の月には「変化と移動」の意味が与えられた。その象徴ともいうべき「スーパームーン」は、我が国に「緊急事態宣言」をもたらした。文字通り、大きく変化していくべきことを「特別な月」で囁いたのだ。

何かが違う「ニューヨークの現実」

2020-04-08

アメリカにおける“新型コロナ死者数”は12000名を突破しているが、そのうちの半数近くをニューヨーク州が占める。あっという間に“ウィルス”が蔓延した街になってしまったのだ。それを抑えるため、一気に都市の封鎖に踏み切った結果、大量に増えたのが失業者だ。3月後半だけで1000万人以上が失業保険の申請をした。職種的には“サービス業”部門での失業者たちがもっとも多い。実はここにアメリカの“根深い問題”が潜んでいる。アメリカ人は、仕事で雇うのも早いが、切るのも早い。日本のように個々の事情とか情緒的な思惑などを加味することはない。雇っていた相手が“突然の首切り”で路頭に迷っても、関係がない。特に飲食店やホテル業などサービス業分野はそうだ。ところがニューヨークで働くためには、その付近に居住しなければならない。その家賃が、近年はめっぽう高い。どうして高いのかというと、景気が良くなってきて物価が全体的に上がり気味だったからだ。失職したニューヨーカーは家賃を払うことが出来ない。ここでも、大家さんは日本のように「クビを切られて大変だね」などと待ってはくれない。即刻、追い出されてホームレスになる。今、急増しているのは“テント暮らし”のホームレスだ。もちろん、失業保険の給付は受けられる。けれども、サービス業の場合は、ちょっとした“からくり”がある。アメリカには“チップ制度”が残っていることだ。このチップこそが“本来の取り分”として、給料そのものは安く抑えられているケースが多い。失業保険で対象となるのは、もちろん“正規の安い給料”である。街は“コロナで封鎖”されたが、健康保険には加わっていない人達が多い。したがって万一病気に掛かっても、病院に行くことが出来ない。べらぼうな医療費を請求されるからだ。加えてアメリカ人はローンを抱えている人が多い。さらに問題はアメリカ人の貯蓄率が8%と極端に低いことだ。もちろん、低所得者層に貯蓄を望むことはムリで、その意味でも“テント暮らし”が急増することは間違いがない。そういう人達用のシェルターもあるが、ひと部屋4人以上の相部屋となる。多くの人が「アメリカンドリーム」を望んで集まるニューヨークだが、別に“新型コロナ”の問題がなくても、何かしら“心寂しい街”なのだ。

今後、増えそうな「間接コロナ死」

2020-04-07

世界的に“自粛ムード”となって、密かに増えて来ているのが「家庭内バトル」らしい。何しろ、多くの家庭では夫婦が顔を合わせている時間など、これまでは極めて短時間だった、というのが大方の家庭らしい。夫も会社勤め、妻も会社勤め、という組み合わせの場合には特にそうだ。ところが、今回の“騒動”は、そういう人達にとって“久しぶり”の、或いは“初めて”の何日も続く「夫婦水入らずの時間」ということになる。だから本来は“悦ぶべきこと”のはずなのだが、外出も出来ず何日も続いていくことで、心身ともにストレスが溜まっていくものらしい。これは何も日本に限ったことではなく、むしろ“個々の時間”を重要視し、戸外生活を好む欧米での方が、不満やストレスのやり場に困って、早くも「家庭内DV」が横行し始めているという報道がある。ところ変わって日本では“お酒好き”の人達が特に困っているようだ。毎日のようにバーやスナックや居酒屋に通っていたような人達も、出来るだけ家で大人しくしていなければならない。東京、江戸川区に住む牧野和男(59歳)容疑者と妻の美紀(57歳)さんも、久しぶりに“我が家”の食卓で酒を酌み交わしていた。途中までは、それなりに会話しながら楽しく飲んでいたのだ。ところが、店と違って、室内で飲むとついつい酒量が進む。だんだん“楽しいはずの酒”が楽しくなくなってきた。最初に“キレた”のは妻の方だった。「大体、アンタの稼ぎが悪すぎるのよ」と毒づく。夫も負けてはいない。「お前の給料が減ったからって、俺のせいにするなよ」「だって、そうでしょ、元々私は働きたくなんかなかったの、アンタの稼ぎが良ければ働かないの」「なんだと、おまえ本気で言ってるのか」「当り前じゃない、私はガマンして働いてんの」「俺が悪いのか」「言われて悔しかったら、もっと稼げば…」その言葉が終わらないうちに、夫の手が出た。妻を平手で殴ったのだ。当たり所が悪かったのか、妻は床に倒れた。変な倒れ方をした。後頭部を打ったようだった。夫は傍に駆け寄り「大丈夫か」と揺り動かした。少し痙攣をしているような気がした。だが、夫は119番をためらった。ちょっとした脳震盪かもしれない。すぐ何事もなかったように目覚めるのではないか。いや、やっぱり119番通報をした方が良いのではないか。だが、万一の時、自分は何んと説明すれば良いのか。夫が観念して電話を入れた時、既に40分以上経過していた。こうして、妻は運ばれた先の病院で亡くなった。「コロナ」が直接の原因ではない。けれども「コロナ」がなければ、普通に暮らしていくことが出来た夫婦だった。

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