8月, 2020年

「透明な壁」の時代なのか

2020-08-08
昨日、久しぶりに人と逢わなければならず、カフェとレストランへ行ったが、その両方で各テーブルごとに「透明な壁(アクリル板⁉)」が置かれていた。カフェの方は丸くオシャレな感じのもの、レストランの方は四角で大きなもの、それぞれ違ってはいるのだが、同じような印象を受けた。当然、両方とも感染症予防の対策として設置されたものだが、改めて「そういう時代になったんだな」と実感させられた。そうして、私のような年齢になってしまうと「壁」など在っても無くても、どうということはないのだが、“若いカップル”や“幼子のいる親子連れ”にとっては、良い兆候ではないような気がした。それでなくても、今の若い人たちは“本音で話をする”ということをあまりしたがらない。周りの状況や相手の反応を窺いながら、言葉を択びたがる傾向がみられる。若い頃にしか出来ない“激論”も、こういう「壁」があったのでは、とても出来そうにない。また、幼い子供を持つ親子連れの場合も、本来であれば無邪気に走り回る頃で、文字通り“濃厚接触の時代”なのに、親子でも、ご近所の友達同士でも、マスクなしで接触できないのではあまりに寂しい。そのまま大きくなっていったなら、文字通り、人と人との間で距離を取るような姿勢が身についてしまうのではないか。親子間でも、距離を取ることが当たり前になって、親元には“寄り付かない”ようになっていくのではないか。他人事ながら心配になる。もっとも、そういう時代に育っていなくても、私の娘など最初から“距離を取っている”ではないか。むしろ「透明な壁」があることで、親子の“一体感”が逆に強められる効果があるかもしれない。男女間のカップルだって「透明な壁」を乗り越えようと、これまで“あいまいになっていた関係”を改め「結婚」という手続き上の“一体感”に向かわせるかもしれない。そう考えると「透明な壁」も捨てたものではないなと思えてくる。相手のココロが視えなくなった時「透明な壁」を立て生活し直してみることで、相手のココロが視え出すという不思議は……やっぱり起こるはずがないのだと、しばらくして気付く⁉

「日本の母」から「我が児の母」へ

2020-08-07
人生において、人はときどき「方向転換」をする。それは“意識的”に行われることもあれば“無意識的”に行われることもある。私は、この人は多分“無意識”にそれを行ったのだと思う。つまり「日本の母」になることを棄てて「我が児の母」になることを選択したのだ。もちろん、本人にはそういう意識はまったくと言ってよいほどないに違いない。それでも「運命」は、そういう“切り替え”を潜在意識の中で行い、そういう方向へと舵を切ったに違いないのだ。政治家・野田聖子氏のことである。昨日、久しぶりに野田氏のことがネットのニュースで取り上げられていた。長男の真輝君の血管が切れて出血しているというのだ。さまざまな疾患を抱えて産まれた真輝君は、まぎれもなく野田聖子氏の長男であるが、米国人女性の卵子提供を受けて出産した“我が児”である。それに至るまで、野田氏は14回もの不妊治療を受けている。この数はすごい。或る種の執念さえ感じさせる。その後“流産”等も経験したが、それでもあきらめなかった。そして、ついにというべきか卵子提供によって真輝君を授かったのだ。けれども、彼女は“我が児”と引き換えに、自らの子宮も摘出している。そんなにしてまで“勝ち取った命”だが、未だ現在も諸病を抱え、健康体とは言えない。私は思うのだ。結局、人間は「先天的運命」として与えられていないものを、強引に奪い取ったとして、それはそれで“幸運”を与えるものではなく“不運”と“煩悶”に苦しむものでしかない。けれども、野田氏の場合は“それ”を覚悟のうえで“奪い取って”いるので、決して後悔などは無いように見える。そういう点、彼女は“勇者”なのだ。もし、彼女がかなり早い時点で「母親」になることをあきらめていたなら、どうだっただろう。私は、彼女には「日本の母」として「総理大臣」まで登り詰める可能性が十分にあったと思う。けれども、彼女は「日本の母」になるよりも「我が児の母」になる道を選んだ。神は、彼女に対して“我が児”を与える代わりに、“日本の母”から遠ざける形を取らせた。それだけに“宝物のような命”を彼女は必死で守り抜いていく。

「逃亡者」は、ひっそりと暮らすべき

2020-08-06
レバノンの首都ベイルートで4日、大爆発が起こった。事故なのかテロなのかわからないが、死者100名以上、負傷者4000名、30万人が家屋を失ったとも言われる。日本から逃亡しているカルロス・ゴーンの家屋も被害を受けたらしい。彼の場合、日本の司法の手が届かない国まで逃亡し、安心してマスコミにも姿をさらし対応していた。その“安全な住まい”が壊されたということになる。別にそこを狙ったわけではないと思うが、日本からの逃亡者に“安住の地”などないのだ。少なくとも“逃亡者”であるゴーン氏は、もう少し“逃亡者らしく”ひっそりと暮らした方が良い。彼の性格が“ひっそりと暮らす”ことを許さないのかもしれないが、それだと「逃亡者」らしくない。もっと多くの“本当の逃亡者たち”から学んだ方が良い。ただ、今でも“鋭い眼”をしているゴーン氏の「眼」が、これ以上鋭くなるのもちょっと問題なのだが…。大爆発と言えば、今日は広島に原爆が投下されてから75年目にあたる。児童文学者・那須正幹氏は3歳の時に広島の自宅で被爆した。彼は最初のうち学者を目指したのだが、途中からなぜか児童文学に方向転換し『ズッコケ三人組』などベストセラーを生み出した。被爆体験を持っているだけに戦争には敏感で『屋根裏の遠い旅』はベトナム戦争を題材にした作品であり『折り鶴の子どもたち』は反戦をテーマにしたものだ。人はだれでも、自分の経験したことの中から“生きている証”を見出そうとする。それは「思想」とか「哲学」とかいう以前のもので、本能的に磁石のように引き寄せられてしまう。或る種の衝動を伴った“祈りにも似た想い”は人に届きやすい。戦争は多くの人を巻き込むが、その多くの人は悪くない。それなのに、人が人を殺し合う。憎しみで殺すのではなく、殺されたくないから殺すのだ。

12歳の頃「憧れだった人」からの影響

2020-08-05
漫画家の桑田二郎氏が7月2日に亡くなっていたことが昨日、公表された。大昔の漫画家なので、知っている人は少ないかもしれない。途中から「桑田二郎」になったが、私が子供時代に読んでいた頃は「桑田次郎」だった。「月光仮面」「まぼろし探偵」「8マン」などで知られる。私が、小中学生の頃、もっとも憧れ、夢見た漫画家の姿だった。実は小学生の頃、私は「占い師」か「漫画家」か、どちらかになりたかった。若干「占い師」の方に傾いたのが早かったのだが「漫画家」も、同じくらい憧れの職業だった。そして、漫画家になるなら、断然「桑田次郎のような漫画家になりたい」と思っていた。ただ、私はそれほど絵が上手くはなかった。桑田次郎の描く漫画をマネて、いろいろと描いてみるのだが、どうも上手く描けない。これでは漫画家はムリだとあきらめた。ただ、その当時いろいろと描いていたせいで、自分が手相や人相の執筆をするときに、図解は極力自分で描く。どんなに名著でも、あまりにも雑な図解を見ると、描き直してやりたい衝動に駆られる。そういう点では、図解くらいは描けるようになったので、桑田次郎氏に感謝である。観相家の中では大和田斉眼氏と亀田一弘氏が図解を自分で描いた。本来、微細な位置の違いが、意味を違わせることもあるので、観相家は本当は自分で図解も描くべきなのだ。桑田次郎氏の作品の中では、私自身は「まぼろし探偵」がいちばん好きだった。どうして“正義の味方”が、赤い帽子をかぶり、黄色いマフラーをなびかせ、二丁拳銃をぶら下げて、オートバイで登場するのか知らないのだが、とにかく“悪い奴ら”をやっつける最高のヒーローだった。元々、桑田次郎氏の絵はシャープで、漫画とはいうものの“劇画的なタッチ”が含まれていた。それはやがて「8マン」になって以降は強められ、都会的というか、超近代的というか、そういう雰囲気の漫画を描くようになった。ところが、彼は突如逮捕される。拳銃を所持していた容疑だ。連載はストップされ、一時的に漫画界から追放された。その後、しばらく経って、彼は「精神世界の本」を描くようになる。私は、自分の“憧れ”だった人物が、逮捕されたことにショックを受け、それ以降の作品は全く読んでいない。けれども、あの“都会的な漫画描写”は永遠に私のヒーローであり続ける。

もはや科学のかけらもない「ホンマでっか」

2020-08-04
最近、TV番組「ホンマでっか」が変容しつつある。昔は科学者陣をそろえて、世の中の不思議を“科学的に解明する”番組だった。明石家さんま氏が仕切って、面白おかしく科学の“新常識”を伝える番組として好評だった。ところが、徐々に変容してきて、現在では「科学」はほとんど付け足しになった。科学者たちも一応出演しているが、彼らが解説する時間は短い。実質的にはもはや“科学的な内容”とはとても言えない。その典型が「霊視企画」である。とても一流科学者たちを座らせながら、行うような内容ではない。芸能人のオーラをどうのこうの言うのだが、本来なら、この番組の趣旨からすれば「オーラ判定機」のような機械を用いて写真化すべきものである。そのうえで、このオーラの色からすればどうこうというのであれば、まだ納得する部分もある。それが霊能者まがいの芸人が出て来て「こういう風に見えるので、多分これはどうこう…」といった評価で、しかも、それをランク付けまでする。それらに対して科学者たちは茫然と見ている観客にすぎない。大体、最近は「占い師」でもそうだが、芸人なのか、占い師なのかハッキリしない人物が多い。霊視企画も、芸人としての“お笑いトーク”なのか、霊能者としての“予言トーク”なのか、判然とすべきだ。さらに「イマドキの恋愛事情」では“若い女性達”を集めて、その恋愛観や男性観を述べさせたのだが、これが視聴者から反感を買っているらしい。つまり、今の十代、二十代を「勝手に決めつけすぎている」というのだ。同じように見られたくない、としてクレームが続出しているらしい。若い女性の代表として出演させたのはタレントまがいのSNS上で話題の女性達で“一般女性”とは程遠い。確かにモテる男性の条件として「フォロワー数が多いこと」などと言う条件は、あまりにも特殊過ぎて、一般女性達が「共感できない」と反応してきたのも無理がない。若い世代が、番組制作を行うように変わりつつある中で、TV業界全体がムリに「若作り」し過ぎているような気もする。“万人”を対象としなければならないTVでは、“大多数”が共感できる内容でなければ視聴者が離れていく。

占い以上の精度は欲しい「地震予報」&「気象予報」

2020-08-03
このところ「地震予報」が立て続けに外れている。そういえば大雨などの「気象予報」も外れが少なくない。特に、地震予報の方は一瞬、緊張感が走るだけに、何も起こらないと「オオカミ少年」のようにだんだん信頼度が落ちて来る。こういう“科学的”と呼ばれている予報も、実際のところは“データからの可能性”を示すもので、その本質においては「占い」とそれほど大きく違っているわけではない。ただ「占い」に比べると、過去のデータ量が膨大である。それをコンピュータ処理しているはずだから、大きく「外す」というのは、データ処理の仕方に問題があるのか、自然界の“気まぐれ”に追いついていないのか、どっちかだということになる。「占い」は“必要なデータ”を集めること自体が大変に難しい。例えば、私は“新型コロナ”に感染した人々の生年月日から、この病気に掛かり易い人の特徴として「ドラゴンヘッド」が関与していることを突き止めた。コロナによって死亡した人、死亡はしなくても重傷だったとか、暮らしが激変したとか、仕事上への影響が大きかったとか、そういう人々を主体にデータを集めた。その結果、新型コロナが運命的な役割を果たした人達には、共通してドラゴンヘッドの関与が視られるのだ。おそらく、それはドラゴンヘッドという“擬似惑星”の正体に関係している。それは黄道と白道との“交点に当たる”位置で、われわれは「日食」や「月食」としてドラゴンヘッドを観察している。コロナに限らないが、おそらく感染症というのは、人と人との“接点”から生じる病気なので、太陽の軌道と月の軌道との“接点”であるドラゴンヘッドは、感染症と共通の性質を持っている。もちろん、これは私が勝手に言っていることで、他の占星家がどう思っているのかは知らない。というか、私は他の研究者たちが「新型コロナ」に関して、どのような研究材料を持っているのか自体知らないのだ。もしかしたら、私以外に、そういうことに興味を持つ人はいないのかもしれず、いても既存の占星学に無いことは“お手上げ状態”なのかもしれない。或いは、私などよりももっと進んだ研究団体のようなものがあって、とっくに解明しているのか…いずれにしても、国家予算を投じている「地震予報」の精度が“占い程度”では、いかにも心もとない。

2020年8月の運勢

2020-08-02

「星」は“芸能界”だけに輝くのではない

2020-08-02
よく「成功する」という言葉が使われる。確かに、人として生まれて、成功しないより、成功する方が良いに決まっている。けれども、必ずしも“華やかな成功”が良いとは限らない。また“若いうちに成功”するのが良いとも限らない。1985年7月に一人のアイドル歌手が「教室」という歌でデビューした。皆さんはご存じだろうか。私は知らなかった。「森川美穂」という名の歌手である。多分、私と同じように「知らない」という人が多いのではないだろうか。その彼女が、デビュー35周年を迎え、それにちなんで35年間を振り返る“35曲を盛り込んだベストアルバム”を7月に発売した。私は知らなかったが、彼女はアニメソングなどでそれなりのヒット曲を持っているようだった。けれども、私はだから取り上げたのではない。彼女は2007年から大阪芸術大学演奏学科の教授に就任していたのだ。“地味なアイドル”だった彼女は、いつの間にか「大学教授」という肩書を持つようになっていたのだ。芸能界のような“華やかな世界”に身を置くと、どうしても“地味な世界”からは遠ざかりがちになる。彼女は、幸いにして「アイドル」の1人とはいうものの、ほとんどの人は“見過ごしてしまう存在”だった。だからこそ、十分に勉強する時間が取れたに違いない。また、だからこそ将来に備えて、しっかりと学問を身につけたに違いない。結局、何がプラスに働くか、何がマイナスに作用してしまうか、永い人生ではその「断片」を切り取っただけでは分からないのが現実なのだ。おそらく、彼女自身、大学教授になりたいと思って勉強をしたわけではないだろう。けれども運命は彼女に「華々しい人気」は与えなかったが、その代わりのように「確固とした地位」を与えた。そして、地味だったかもしれないが着実な“歌手としての35年間の業績”をまとめる形のアルバムを世に送り出した。デビュー当時「華やかだったアイドル」のいったい何人が今も歌っているだろう。そして、仕事としての「足跡」を遺しているだろう。輝ける「星」は、芸能界だけにあるとは限らない。

「危なっかしさ」が魅力となるか⁉

2020-08-01
大昔「よど号ハイジャック事件」というのがあった。いまから何十年も前の話だが、その時、私はあることに気付いた。その事件に関わった学生たちの多くが、ホロスコープで共通した惑星のアスペクトを持っていたのだ。つまり、火星と天王星とがハードアスペクトの者達が多かったのだ。当時の私は「これはハイジャックの暗示なのか」と思った。犯行が行われた年月も、トランジットの天王星と火星とが奇妙に関わっていた。その後になって、火星と天王星とが強くアスペクトしている人にハイジャック以外の特徴はないか、入念に調査するようになった。その結果、共通していたのは、いずれも“衝動的な性質”を持っていること、スピードの出る乗り物とかスポーツに趣味を持っていること、事故・事件に遭遇しやすいこと…などであった。さて、なぜ、私がこのようなことを書いたのかというと、昨日、小倉優香氏(タレントの小倉優子氏とは何の関係もない)というモデルタレントがMBSラジオの生放送中に“番組降板”を直訴するという事件が起きていたことが明らかになった。所属事務所との話し合いではらちが明かないので、生放送中に直訴して、番組を降板しようとしたのだ。前代未聞と言って良い事件である。実は、彼女のホロスコープが、火星と天王星とがピッタリ180度に位置しているのだ。そして、現在、トランジットの天王星は出生時の天王星に90度、同じく出生時の火星にも90度、さらに出生時の太陽には120度なのだ。まさに、起こるべくして“起きた出来事”のように私には思える。そういえば「よど号事件」も、自分たちの主張が通らないからハイジャックしたのだった。私は、普段の彼女がどういう人物で、どういう趣味を持っているか知らない。けれども、このような占星学的に“わかりやすい行動”を取ったことで、改めて世間の認知度を高めたのは間違いがない。実際、天王星と太陽との120度は“悪いアスペクト”ではない。むしろ、その強烈な個性が輝かしいスポットライトを浴びる時にも出現する。今回が、どっちに転ぶのかはわからない。「危なっかしさ」が魅力となるのか、“危険タレント”として排除されるのか、ホロスコープの“謎解き”が待っている。 Newer Entries »