8月, 2020年

「見せるリポート」より「泥臭いリポート」を…

2020-08-20
フジテレビの番組で安藤優子キャスターが現地リポーターの女性に、暑さの中で熱中症気味になってしどろもどろの状態での「報告」を執拗に継続させようとしたとして批判を浴びている。この手の番組は多いので、必ずしも彼女が批判されるというより、現地入りさせて何時間も取材させたのち“報告させる”手法そのものに、問題の本質があるよう思われる。臨場感を出すために、その時々の異常な状態を現地取材させるのはニュースやワイドショーにおける定番のやり方だし、そのこと自体が間違っているとは、私は思わない。実際、アナウンサーやリポーターを目指した人の中には、そのいう現地取材や報道をやりたくて報道記者やリポーターを目指した人もいると私には思われる。ところが、多くのニュース番組やワイドショーなどでは、そういう元々が“希望していた人たち”を現地に向かわせたがらない。“見た目的”にというか、“絵面的”にというか、TV画面に登場させると視聴者受けしそうな人物を現地に向かわせがちである。例えば強風の時に、枯れ枝のような細い身体の女性をリポーターとして現地に向かわせる。その方が臨場感が伝わりやすいからだ。もちろんニュースやワイドショーに一般の視聴者が、そこまでの演出を求めているかは疑問である。ただ各局が視聴率で争いを演じている以上、少しでも「臨場感のある取材をしたい」と意気込むのは解からないでもない。問題は人選にあるのだ。日本の場合、リポーターという職業自体が実に曖昧である。アナウンサーなのか、報道記者なのか、タレントなのか、専用リポーターなのか、ほんとうのところよく解からない。時には、キャスターがリポーターを兼ねているケースも多い。本来、危険な現場にも出かけるリポーターはそれなりの訓練とか体力とか素質を供えた人にすべきだし、そういう規定を早く作るべきだ。そうでなければ、そのうち問題になるようなことが必ず起こる。なぜか厳寒の中で「天気予報」をさせる北海道の各局も考え直した方が良い。

今年だけなのか、今年が始まりなのか⁉

2020-08-19
連日、猛暑が続いているが、日本の猛暑など、デスバレーの人達から比べれば、表現がおかしいが「赤子の手をひねるような暑さ」に過ぎない。元々その地形的に暑くなりやすいカリフォルニア州のデスバレーだが、今年の夏は特別らしく8月16日には54.4度という信じられない暑さに見舞われた。もし、正式に認められれば「世界一の暑さ」として記録に残る。ただ、私が思うのは、これが本当に「世界一」なのか、それとも、今後この暑さはどんどん塗り替えられていく、その最初の年としての“暑さ”に過ぎないのか、という点である。何しろ、異常気象であることは森林保護防災局に寄せられた24時間だけの「山火事通報」が76か所に及んでいることでも明らかだ。17日の朝になっても39.9度までしか気温が下がらない。落雷数も一晩2500回。各地域で「火炎竜巻」と呼ばれる巨大な“火の渦”が巻き起こっている。どう考えても、地球がまだ「われわれの地球」として「落ち着く以前の地球」に戻ったかのような状態にある。今年は年初からおかしかったし、私は年初からそれを指摘してきた。豪雨による災害も、世界各地で頻発している。火山の噴火もたくさん起こっている。氷河も溶け出し、地震も頻発している。原初の地球が、人間が生きていくには過酷過ぎたように、あらゆる「防ぎようのない自然災害」が次々と襲ってきている2020年という年が、果たして「たまたま異常だったんだよ」と笑える年になるのか、それとも「あの年からすべてが始まったんだ」と恐れおののく年のスタートになるのか、予断を許さない。私は以前から「地球生命体」という表現を使って、地球そのものも“生きている”から、その“生物としての地球”の怒りを買ってはならないと主張していた。それは、どこぞの団体のような「地球環境保護」がどうこうということではなくて、いかにして「地球ヤドカリ生命体=人間」として“調和を保ちながら生きていくか”が重要という意味だが、それこそが私の捉える「風水」の根本なのだ。そういう意味で言えば、ヤドカリである人間は「自国ファースト」などと言っている場合ではない。みんなで手をつないで「地球生命体」のご機嫌を取って、手なずけて、怒りを納めてもらう、野獣の調教師のように“科学者たちが結束する時期”に来ている、と私は思うのだ。

「88888」電話番号を「3500万円で買う」人々

2020-08-18
中国人は“縁起物”が好きである。本場中国における「風水グッズ」は、その半分以上が“縁起物”である。「風水」の理論など“付け足し”に過ぎない。中国では、その方が“売れる”ようなところもある。電話番号にしても、車のナンバーにしても“縁起の良い数字”をことのほか好む。まあ、日本人もそういう部分がなくはないが、中国人ほど極端ではない。例えば、8月16日に北京で裁判所の“差押え品”のオンラインによる競売が行われたのだが、その中の一つが「88888」と“8並び”電話番号の使用権があった。それに対して入札数は何んと5000以上というから驚く。そして、その結果として落札した金額が日本円で約3500万円だったというのだ。たかが「電話番号」である。中国人にとっての「8並び」が“縁起が良い”ということは広く知られている。「発財」という意味があるらしく、要するに“金持ちになれる数字”だというのだ。そうはいっても、たかが電話番号である。確かにおぼえやすくて良いが、今は数字を見て掛けることは少ないだろうに…。電話番号に3500万円もの大金を注ぐなら、もうその時点で“お金持ち”ではないか。少し“欲深すぎる”ような気がしないでもない。第一、その番号は裁判所の“差押え品”である。“縁起が良い”とはとても思えない。どうも、中国人の発想というか、感覚というか、いま一つ日本人には理解しがたい。それでも、今の中国がそれだけ“経済的にゆとりのある人たち”が多いことだけはよく解かった。最近、私はたまたま80年代のTV番組を立て続けにTVのYouTubeで観た。80年代と言えば、日本の経済がもっとも豊かな時代でバブルまっしぐらという時の番組だが、舞台装置にしろ、舞台衣裳にしろ、実に金を掛けている。或る女性タレントが「日本はとても恵まれていますが、海外では生活がやっとという人達もまだまだ多いのです」と話していたのが印象に残った。まさか彼女は、それから三十数年経った日本が、決して“豊かとはいえない”経済状況に陥っているとは夢にも思っていない。だから、TVの視聴者たちに「日本はとても恵まれていますが…」と語りかけたのだ。「バブルの時代」を“悪く”いう人達は多いが、多くの人が“心も豊かになっていた”ように思うのは、私だけなのであろうか。

「先祖たち」に文句を言いたくなる時

2020-08-17
私は、どう言葉を掛けて良いか解からなかった。本当に、その通りだと思ったからだ。妻が「先祖も神様も何にも力なんか貸してくれない」と泣き出した時だ。私は何も言えなかった。「御守りも絵馬も、クソの役にも立たない」と号泣した時「本当だね」というしかなかった。私は自分の占いも役に立っていないので、そういう点では自分も責められているような気がした。妻は4~5年前から膠原病を患っている。過去に、さまざまな病院を受診し、さまざまな療法も試みたが、どれも上手く行かなかった。民間療法などもいろいろ試したが、上手くいったものはない。さまざまな健康食品とか、健康飲料とか、いろいろ試したが好い結果が出ない。年々症状が重くなり、今では動くこともままならない。手指が利かなくなってきているので、私が手伝うことも多い。信仰・呪術的なものもずいぶん行ってみた。さまざまな神社から御守りやお札や祈願や絵馬など全国各地のものを授かった。けれども、どれも何一つプラスに働いてくれないのだから、毎日、さまざまなものを供えたり、手を合わせたりして来ても、効果がないのだから、ぶつけようのない悲しみや怒りが沸き上がったのも無理がない。妻は最近はほとんど熟睡することが出来ないので、それに対しての苦しみも苛立たせている。「もう死にたい」とたまにいう。それだけ、痛みや痒みが激しいのだ。結婚して5~6年経った時、朝目覚めると、妻の肢の一部が青紫に変色していて驚いたことがある。「どうしたの?」と訊くと「わからない」という。寝ている内に何処かにぶつけたのだろうか。それにしては大きな痣だなと思った。けれども、それは数日のうちに消えた。だから私は「やっぱり、どこかにぶつけていたのだな」と思った。けれども、実はそうではなかった。これこそ、彼女の病魔の“潜伏化”した姿だった。数年間は普通に皮膚科などに行って手当てしていた。けれどもだんだん症状が重くなり、あちこち廻るようになった。四年ほど前からは、明らかに異常な事態となった。占っても、これという手立てが見つからない。思うように動けず、外出の出来なくなった妻は、お盆でも墓参りにいけないことにも苛立っている。先祖たちは妻の“嘆き”を知って、どう反応するのだろうか。

「風水」の原点「先祖」との関係性

2020-08-16
「風水」というと、すぐに“家の方位”等を思い浮かべる人が多い。それも確かに「風水」の一部だが、あくまで一部に過ぎない。元々「風水」というのは古代中国で“王朝繁栄の地”を探すことから始まっている。確かに、一つの王朝、現代で言えば国の“政権”、或いは自分が属する“企業”を意味すると思うが、それが末永く繁栄することによって、自分たちの暮らしぶりが豊かになっていくことを意味する。したがって“王朝繁栄の地”を求めるために、殷王朝などは8度も“遷都(王都を変えること)”している。そうやって、理論的にも、実利的にも、都が繁栄しやすい“土地”を探し続けたのだ。現代でも、よく会社の企業名とか拠点となるべき場所とか、次々と変えていく企業もある。元々「風水」の原点というのは、そういう風に“都が繁栄する地”を求めての「体験的教え」から来ている。但し、現代と違うのは「先祖たちも含めての王朝」と捉えていたことだ。つまり、彼らは“先祖の墓地”も含めての「最良の地」を求める。生きている自分達だけが“繁栄すれば良い”という考えではないのだ。彼らの場合、先祖たちは、自分たちを見守って、守護してくれる存在である。したがって、守護しやすい位置に“墓”がなければならない。それは、どういう場所かというと、王朝全体を見渡せるような高台の地だ。もっとも理想的なのは、自分たち生者が仰ぎ見て合唱できる場所、また墓からは先祖たちがこちらを見て“見守れる場所”、この両方を兼ねるようなところこそ最高の「風水の地」なのだ。こうして殷王朝(彼ら自身は「商王朝」と名乗った)は500年以上の長きにわたって繁栄を続けたのだ。もちろん、現代においては、そんなに都合の良い「都」は存在していないかもしれない。ただ、それに近いような“墓所”と“自宅”、或いは“墓所”と“職場”の関係は見いだせるかもしれない。それが難しい場合には、自宅の中で「仏壇」と「家族」の位置関係を、それに近いものにすれば良い。太陽に日差しを浴びる位置に「墓所」があることで、先祖である“死者たち”が活き活きと生命力を発揮し、その子孫である“生者たち”に繁栄する力を与えるというのは、“血縁の法則”としては何となく理解できる。もちろん、墓所、或いは仏壇には、死者たちにパワーを与える読経とか合掌とか日々の供え物とか、が必要である。特に“日々の供え物”は、死者たちがパワーを発揮するのに格好のエネルギー源(⁉)なのだ。こうして、実際に「力」を発揮できる「風水」関係が誕生する。

「霊的生命力」で再び“脚光”を浴びるか⁉

2020-08-15
私は25年前に『占星学秘密教本』という著書を上梓しているが、その中で「霊的生命力」という言葉を用いて太陽と冥王星の150度アスペクトについて多数の実例を掲げて解説した。ホロスコープにおいて、このアスペクトを持つ人達は或る種の“霊的な生命力”のようなものを持っていて、不思議な力を発揮している場合が多いのだ。極端なことを言うと「死んでも死なない」。実はまだ記憶に新しい俳優の三浦春馬氏も太陽と冥王星の150度アスペクトを持っていた。そして、それを実証するように、彼の出演ドラマは未完成であったのに“完成品”として代役を立てず、そのまま放映された。歌にしてもそうで、新たなる歌は死後になって発売された。水泳の池江璃花子氏もそうで、彼女も白血病と診断され「命さえ危ぶまれた」のだが、プールに復活、再びオリンピックを目指している。そして昨日、俳優の渡哲也氏が8月10日に亡くなっていたことが明らかになった。かなり前から闘病されていたので、亡くなったのは驚きではない。私はまだ十代の時に渡哲也氏の初期作品を何本も見ていた。渡哲也氏と言えば「西部警察」などでの“刑事役”を思い浮かべる人が多いかもしれないが、初期作品はいずれも“ヤクザ役”で命を顧みず単身敵の館に乗り込んでいく孤独な後ろ姿と枯れた声に、私は惹かれたのだった。だから、それがいつの間にか“刑事”に変身し、TVドラマに出て来たときは驚いたものだ。その渡氏が亡くなった。もちろん、彼も太陽と冥王星とが150度アスペクトなのだ。当然「霊的生命力」が発揮され、彼の“作品”や“映像”や“歌”などが活き活きと蘇ることだろう。大体、石原裕次郎氏が亡くなった時、遺言で「石原軍団」は解散する予定だったのだ。ところが、いつの間にか渡哲也氏が“軍団”を蘇らせていた。或る意味では、裕次郎氏がいた時よりも繁栄した時代があった。今回、渡氏の「霊的生命力」はどういう形で姿を現すのか解らないが、何らかの形で“蘇える”には違いない。

お盆で「菩薩像」&「1500体人骨」が出現

2020-08-14
全国各地で「再開発地域」の土地整備が行われている。それが、時として、その地下に眠っていた墓を掘り起こしたりする。昨日、JR貨物梅田駅付近の“再開発地域”の地下から、1500体以上の人骨が発見されとの報道があった。この地域は江戸時代に「大阪七墓」と呼ばれる“墓巡り”のコースの一つで「梅田墓」と呼ばれた地域であるらしい。したがって、人骨が整然と並べられていたのは当然と言えば当然なのだ。本来、その「七墓巡り」は“お盆行事”の一つなので、それにふさわしい時期に“人骨が発見された”のは何となく啓示的である。しかも、この墓には“若い人骨”が多く、当時のおもちゃなども一緒に葬られている。研究者によると、当時の疫病によって若死にしたケースが多く、その徴ある人骨もあると言う。いま、日本は“疫病”と言っても良い“新型コロナ”に汚染されている。さまざまな符合が“人骨”の発見につながったような気がする。そこから少し離れて、滋賀県では龍應山の西明寺の国宝である本堂の柱から「菩薩像」八体が発見された。どうやって発見されたのかというと、赤外線撮影によって発見されたのだ。実は、このお寺、織田信長の命令で“焼き討ち”に遭っている。それでも、何とか逃れたのが真っ黒に煤で汚れた二本の木柱なのだ。もちろん、ここに「菩薩像」が描かれていることは誰も知らなかった。今回、たまたま広島大学と大阪教育大学とが共同で調査に当たって偶然に発見したのだ。その「菩薩像」の図像姿から、これまで九世紀の建立と観られていた本堂が、実は七世紀半ばではなかったのか、という議論まで起きている。これも、お盆に出て来た「菩薩像」なのだから、何とか修復して表出できないものか、さすが今年の「お盆」は、いつになく“あの世”の方にも動きが起こっているような…そんな出来事が続いている。

「乳房雲」「吊るし雲」「笠雲」が“雨を呼ぶ”

2020-08-13
そういう雲があること自体、私は知らなかった。「乳房雲」という乳房に似た形の雲。「吊るし雲」という蛍光灯型の雲。「笠雲」という“股旅笠”に似た形の雲。それぞれの雲らしきものが画像などで紹介されているが、一番のお気に入りは「吊るし雲」で、この形をした一部の雲は、蛍光灯というよりも“UFO型”にしか見えない。「乳房雲」は残念ながら“乳房”というより、たわわな果実の連なりのようで、官能が刺激されることはない。これらが出現するのは、気象が変化する直前、その多くは豪雨や風雨が来る直前とされている。大抵の場合は青空に浮かぶので、パッと見は“へんてこりんな雲”くらいにしか思わない。けれども、その後、急速に天候が変化してきて大雨や強風へと変化するらしい。それにしても、こういう雲が存在していたこと自体、私は知らなかった。雲と言えば「積乱雲」とか「鱗雲」とか「地震雲」くらいしか、形としての印象はない。もしかすると、これらだけではなくて、もっといろいろな興味深い雲の形が存在しているのかもしれない。もう少し、こういう“雲の形”と天候との関係などを、子供の時に詳しく教えられていれば、後になって役立ちそうな気がする。いや、もしかすると、学校では教えているのか。教えられてはいても、忘れているだけなのか。少なくとも「地震雲」については、民間で言われているだけで気象庁が認めた“雲の形”ではない。けれども、亀裂が走ったように出現する「地震雲」は大地震の直前に各地で目撃されている。少なくとも、天気予報士の人達は気付いても良さそうな気がするのだが…。良く、魚師の人達などは沖合の雲を見て、翌日の天気が解かるという。そういう経験と勘とが生み出す予報というのは外れることがない。天気予報士というのは今では相当数いるのだから、魚師に負けるのでは心もとない。地震でも、雷でも、豪雨でも、強風でも、天気図さえ見ればたちどころに予見できる人物の一人や二人出て来ても良さそうなものである。出でよ、雲を見る天才⁉

「夫」が、家を出ていく時代

2020-08-12
週刊誌からの記事を読んでいて、時代の変化を痛切に感じることがある。昔は「家を出ていく」と言えば、夫や姑に罵倒された“妻の姿”だった。私が子供の頃は、それが普通だった。けれども今は、妻に罵倒されて“夫が出ていく姿”に変わっていったようだ。その記事では「離婚秒読み」とも目される女優・前田敦子氏の家庭とタレント・小倉優子氏の家庭が取り上げられていて、どちらも子育てに理解ない夫が、妻から罵倒され、“家を飛び出した”形のままであると伝えている。そして、家庭問題コンサルタントの女性が「そんな夫とは離婚すべし」と切り捨てている。もっとも、夫婦間のことは、夫婦間にしかわからない。本当のところ、出産・育児の問題が大きかったのかどうかは解からないことである。ただ判然としているのは、両方の家庭とも「夫」の方が家を飛び出していること、また両方の家庭とも「妻」の方が夫を罵倒していること、そして、その後の様子では「夫」の方が“自宅に戻ることを拒否している”らしいことである。これらの共通性から見ると、現代では夫の方が怒鳴りつけて、妻を家から追い出すような家庭が無くなった代わりに、妻の方が夫を怒鳴りつけて、夫を家から追い出すような家庭が多くなったということだろう。昔が良かったのか、今が良くなったのか、よく解からないのだが、ともかく、時代は変わったのだ。色々な意味で世界が変わっていくのだから、仕方がないのかもしれない。私が好んで観ているTVドラマ「オスマン帝国外伝」は16世紀半ばのオスマン帝国、現在のトルコの辺りを扱ったドラマだが、文字通り“男尊女卑”がまかり通っている感じがする。けれども、当時から“気の強い女性”は居て、その典型ともいうべき女性達がたくさん登場する。要するに、時代は変わっても、気の強い女性や心優しい男性はどこの世界にもいるということを、改めて教えてくれる内容なのだ。

64%が「婚活」の“出逢い”を休止

2020-08-11
最近の調査によると、近年の“成婚者”の場合、4人に一人は「マッチングアプリ」などの“婚活サービス”を利用しているという。そういうものを活用する方が「結婚」に到達しやすい時代に入ったということだろう。正直、私は「マッチングアプリ」などの仕組みをよく知らないのだが、なんとなくは想像できる。それはそれで良いことだと思うのだが、その“婚活サービス”を利用していた人たちが、今回の“コロナ騒動”で「密接」のリスクを避けるため、とりあえず今は婚活を64%の人達が休止しているというのだ。もっともな選択だともいえるが、何んともアッサリ過ぎて「婚活」の優先順位は、その程度のものなのかと少々拍子抜けする部分もある。大体「婚活」などというものを行わなくても、本能的に“好きになる相手”が出て来るのが、われわれの青春時代だった。いま思えば、何んと性懲りもなく“恋活”を繰り返していたことか。あの頃、もう少し“仕事”に対して意欲的であったなら、会社員としての成果を上げられていたと思うのだが…。ともかく「時代が違う」と言われればそれまでだが、青春時代は本能的に恋愛(片想いも含めて)する本能を持っている方が輝いて見える。いや青春時代でなくても、人は恋愛をしている方が、活き活きと輝けるものなのだ。時代を反映するように、現代は“恋愛の歌”が少ない。TVドラマでも“純粋な恋愛”を扱ったドラマが少ない。歌でも、ドラマでも、人は“純粋に恋する”ものに共感しやすい。どこか、ゲーム化されたような恋愛には共感しきれない。「マッチングアプリ」を提供している会社も、オンラインによる“デートシステム”に切り替えつつあるというが、なんとなく味気ないし、営業マンとして優秀な人達だけが評価されそうで、“癒し”を求める家庭とは相いれないシステムのような気もする。結局“コロナ騒動”が早く収まらないと「結婚」に至る“出逢い”のチャンスさえも、摘み取られてしまいそうな婚活者達。

「美白」に反応し過ぎる差別感覚

2020-08-10
われわれ日本人にとっては“「白」=「美」”という感覚には、どうしてもならない。元々「白」の方が「黒」よりも“美しい色”という観念が存在していないからだ。例えば同じ日本人でも、沖縄に暮らしている人は北海道に暮らしている人よりも、一般的に言って“色”は黒い。けれども、それは年中日差しを浴びているからで、もし沖縄に暮らしていても、日差しを浴びることが少なければ、色黒にはならない。同じことは北海道に暮らしている場合にも言えて、戸外労働で年中日差しを浴びていれば、色黒の肌になっていく。つまり先天的要素よりも、後天的作用の方が強いことを経験的に知っているので「白」の方を“無条件に優先する”考え方にどうしてもなれない。ところが、世界的にみると、日本人のような捉え方は少なく、多くの場合「白」は「黒」より美しく「白」は「黒」に優先する、という考え方が強くはびこっている。インドなどでは自国の「カースト制度」とも微妙に結びついていて、高カーストは低カーストより“色が白い”という観念が定着しているらしい。したがって「美白」を謳う商品は“人種差別的な商品”として、攻撃の対象となった。その結果、英国のユニリーバ、フランスのロレアル、アメリカのジョンソン・エンド・ジョンソンなどは自社製品から「美白」や、それを連想させる文字・表現は削除しなければならなくなった。こうして“人種差別反対”を唱える人々は「われわれが勝利した」というのだが、そうだろうか。強引に、その種の文字や表現を“目隠しした”だけのように私には思える。元々が、そういう意識を強くもっているから、その種の製品は売れて来たのだ。意図的に、それらを排除したから、その種の“考え方”も無くなるというのは、あまりに単純すぎる。本来であれば、日本人のように元々が「白」と「黒」とは、それぞれが“美を生み出す色”と捉えなければ、何の意味もない。日本人にとっては「白人さん」も「黒人さん」も同じような存在で、どちらにも多少の“違和感”は抱く。白人さんだから好感を抱くともいえないし、黒人さんだから嫌悪感を抱くこともない。LGBT(広義の同性愛者)の人達にしてもそうだが、無理やり「みんな同じ」としてしまうとかえって違和感を抱く。要するに「いろんな人が生きている」という理解に立った方が、自然だし差別などせず暮らせるのではないだろうか。

「モンブランの氷河」が溶け出したら…

2020-08-09
「予想しにくいこと」というのが世の中にはある。アルプスの最高峰であるモンブランの“氷河が溶け出す”という現象も、現実にはなかなか予想しにくい。けれども、実際にもう“溶け出して”いるらしい。「地球温暖化」がこういう形で現実になってくると、単なる“科学的なデータ”ではあまり感じなかった“不気味さ”をひしひしと感じる。実際、氷河の下に位置するリゾート地クールマイヨールの住民たち七十数名は、既にそこから批難し始めている。溶け出している氷河が崩落してきたら、ひとたまりもないからだ。それにしても、このような事態を一体だれが想像しただろう。もう「地球」としての“構造的な変化”は終わったものとして、言ってみれば「完成品」として、われわれは受け止めて来ていた。ところが、そうではなくて、かつての“地球の支配者”である恐竜たちが絶滅していったように、もう一度“大きな構造変化”を始めようとしているかのようである。もしも、そうなら、あと百年くらいは静かにしていて、それ以降くらいから変化していってほしいものだと、考えてしまったりする。最近、“富士山の火山噴火”を予想する火山学者も出てきた。今年の場合には、自然現象も明らかにおかしいので、何がどうなっても不思議ではないが、人間というのは勝手なもので、せめてもう百年くらいは「大人しくしていてほしい」と妙な形で、願ったりする。「日本沈没」とか「地球最後の日」とかは、SFの世界だけの話だと、のんびり構えていたのがいけなかったのか。もっとも、考えようによっては、みんな一緒に「火山に埋もれてしまう」なら、「氷河で押しつぶされてしまう」なら、下手に小説のような「わずかな人々だけが生き残る」みたいにならないで、みんな一緒に絶滅していくのが、いちばん良い。どこかの幼稚園みたいに「みんな一緒に手をつないで」同時に埋もれ去っていくというのが、ドラマチックでもあり、地球人の最期として、なんか美しいではないか。 « Older Entries Newer Entries »