9月, 2020年
2020-09-06
人体の“臓器”の中でも「心臓」は、やはり“特別な臓器”という印象が残る。その人自身を“象徴している臓器”のような気がするから不思議だ。ましてや、それがアルコールの瓶に密閉され、丁重にブリキの箱に収められる形で埋葬されていたなら、なおのことであろう。しかも、その場所は街のシンボルである“芸術的彫刻が施された噴水”の真下だった。実は、このシンボル的噴水は現在、改修工事の真っただ中にある。その工事によって、ブリキの箱に収められた“アルコール漬けの心臓”が発見されたのだ。「心臓」が誰のものなのかは解かっている。ベルギー東部、スキーリゾートの地として知られるヴェルビエにおいて初代の市長を務めたピエール・ダビド氏の心臓である。なぜなら、噴水の下に埋葬する時、厳かな式典が行われ、本人の希望通りの形で死後44年も経ってから、アルコール漬けの形で組み込まれたことが、市の公式記録にも遺されているからだ。けれども、もうそれから137年も経って「心臓」のことなど誰もが忘れていた。だから改めて“その意義”が見直され、今度は街の美術館の方で、初代市長の心臓は展示されることになった。古代エジプトでは「心臓」という臓器を特別なものとみなしていた。したがって、彼らの“死後法廷”では、必ず本人の「心臓」が天秤に載せられる。その一方には、死後法廷の女神マアトの「毛羽」が載せられる。その二つの“均衡”がとれていれば、無罪放免となる。そういう風に、古代から「心臓」という臓器は“特別なもの”とみなされていた。ヴェルビエの初代市長も、同じような気概を持っていたのに違いない。自分は亡くなっても、自分の魂が“この街”を見守り、市民に“癒しの噴水”を与え続ける。少なくとも、スキーリゾートの地として、街はその当時の“面影”を今にとどめている。人々はもう一度、今度は美術館の中で彼の“人となり”などを知ることになるだろう。
2020-09-05
大英博物館は9月3日、江戸時代の浮世絵師である葛飾北斎の“本の挿絵原画”103点がフランスで見つかり、それらすべてを収蔵したと発表した。それらの作品は順次ウェブサイトで公開し、早ければ来年にも“一般展示する”予定であることをも伝えた。一連の作品は、1829年に本の挿絵として描かれたもので、1948年にオークションにかけられ、その後フランス人コレクターが秘蔵していたものらしく、昨年パリで発見された。今や「葛飾北斎」の名は世界に通用する。日本人のわれわれが観ても素晴らしいと感銘するが、とりわけフランスでの評価が高い。ゴッホなどヨーロッパの画家には“浮世絵”の影響を受けた人物も多いのだ。江戸時代には、我が国はまだ“鎖国状態”だったはずなのに、こと“浮世絵”などの芸術作品は海外のコレクターに流れたものも多く、フランスやオランダやアメリカや中国などで、日本の“未公開の作品”が埋れたままになっている可能性はまだまだある。美術品というのは、人によってその価値観がまったく異なる。ある人にとっては「国宝級の作品」が、ある人にとっては「紙くず同然」に過ぎなかったりする。したがって、コレクターだった人物が亡くなった後、二束三文で処理されてしまうようなケースも多い。考えてみれば、私が所有している“占いの古書”なども、必要のない人にとっては“ゴミの山”にしかすぎず、そういう扱いを受ける可能性は十分にある。占い専門の古書店では、時々、異常に高い値のついた古書を見掛ける。それは古書店主が、或いはコレクター的な人物が、その古書に対して価値を見出しているからだが、あまりに高額だと、さすがに“売れ残って”いつまでもある。もう少し“値”を下げれば、購入したい人はいるだろうに…と思うことが多い。作品としての“価値”も大切だが、誰にも読まれることなく埃だらけになって、世の中に“埋もれてしまう”ことの方が、私には損失であるよう思う。古書というのは、当たり前の話だが、売れても著者には一円たりとも印税が入らない。売れないまま“取り残される”より、読まれてその価値を見出される方が、著者にとってもどれだけ嬉しいことだろう。占いの古書の場合、購入者は大体がプロ占い師か、プロではなくても研究者に決まっている。プロ占い師で“大金持ち”の人など滅多にいない。そして“大金持ち”の占い師は、そういう本には興味を示さない。これからの時代は“埃塗れの本”自体が敬遠される。若者は、手にさえ取ろうとしない。古書店が、なぜ頑なに“高額の価格”を守り続けるのか知らないが、もう少し柔軟性があって良いような気がする。
2020-09-04
私は以前アメリカの株価指数「ナスダック」に“世界の資金”が集まっていて、その上昇に勢いがついていること、けれども同時にそれが徐々に“実体経済”との間で乖離が目立ち始めているので、あまり急伸し過ぎると「危険水域」に達してダムのように崩壊してしまう可能性があることを予告しておいた。昨日、日本の株価は今年2月の“急落前の数値”にようやく戻ったばかりだが、はるか昔に“戻り値”を更新しているアメリカの方は、しばらくもみ合いの後「ダウ」も「ナスダック」も、一気に急落した。「ダウ」は一時1000ドル以上下落し「ナスダック」の方も一時600ポイント以上下落した。但し“終値”では若干戻していて、最近の急上昇に対する反動での“調整”に過ぎないのか、それとも“実体経済”と遊離する“バブル相場”の終焉なのかが問題となる。私の観るところでは、少なくとも今日の下落でいったん止まるのであれば「ダウ」も「ナスダック」も単なる“調整”に過ぎない。問題は、今日一日で止まるのかどうかだ。もし、明日の“アメリカ株”も今日と同じくらい、或いは今日よりも大きく下げるようなことになると、これはもう“調整”等ではなくて「危険水域」に達して一気に崩壊したダムのごとく、世界の株価が急降下していく前兆となる。もちろん日本も、やっと「急落前の株価に戻った」などと悠長なことは行っていられない。なにしろ、日本の場合には、アメリカの株価が急伸する時には追従していかないのに、急落する時には紛れもなく“追従する性質”を持っているのだ。もちろん、そうなれば、その“悪い部分”だけは、間違いなく“実体経済”にも反映される。日本だけ、なかなか経済の回復が戻らないというシナリオが待っている。そうなってほしくないので、とりあえずここは「調整だった」と安堵させてくれるように、明日(アメリカ時間では今日)の「ダウ」や「ナスダック」が“少しでも上昇する形”で終えてもらいたい。
2020-09-03
作家・松本清張氏の小説でドラマ化された作品は多い。それも何度も繰り返しドラマ化されている作品が多い。この「黒革の手帖」も、いちばん最初にTVドラマ化されたのは、作品が単行本化されて2年後の1982年だった。その時、このドラマの主人公で銀行員から銀座のママに転身した女性・元子役を演じたのは山本陽子氏(当時39歳)であった。その後、すぐに別な局で元子役を演じたのは大谷直子氏(当時33歳)であった。さらに1996年には浅野ゆう子氏(当時36歳)が元子役を演じた。そして2004年には米倉涼子氏(当時29歳)が元子役に挑んだ。それら大物女優の後を引き継ぐ形で2017年に元子役を演じ注目されたのが武井咲氏(当時23歳)であった。ところが彼女の場合、ドラマ終了とほぼ同時に電撃結婚をしてしまった。その武井咲氏の三年ぶり女優復帰第一作が「黒革の手帖~携帯行~」(テレビ朝日系)となることが決まった。“銀座のママ”という特殊な役どころを、復帰作として敢えて望んだというのだ。それにしても、どうしてこの作品は何度も繰り返しドラマ化されるのだろう。おそらく、何度ドラマ化しても、それなりの視聴率がとれ、話題に上るからに違いない。私は何よりも、その魅力の根源はタイトルにあるのだと思う。「黒革の手帖」というタイトルが、何となく良いのだ。銀座のホステスではなく、銀座のママが愛用している手帖である。しかも、その手帖には、日本の一流企業に勤める重役たちの“夜の秘密”が記されている。なんとなく誰もが、ちょっとだけ「覗いてみたい」ような誘惑にかられる。ここで大事なのは、その手帖が“黒革”であることだ。毎年、多くの人が今でも“黒革”かどうかはともかく、年末になると手帖を購入する。多くの人が、その“自分だけの手帖”に他人には見せない何かを記述する。そして、それを保管する。几帳面で大事なことは何でも記述したがる日本人の性質には“手帖”がお似合いなのだ。そして、それが銀座のママであれば“黒革”であってほしいのだ。「ピンクの手帖」では、このドラマは成り立たない。実際には、この小説が書かれた80年代はバブル真っ盛りである。いまのように“つつましく杯を交わす”銀座ではない。けれども、今もって日本の銀座には“日本の未来”が握られている。「黒革の手帖」は日本の「道しるべ」に繋がるかもしれない“妖しいやり取りの手帖”なのだ。
2020-09-02
私は昔から、人間の才能に関しては“二種類”あると思っている。その一つは「潜在的な才能」で、元々素質としては持っているのだが、表に出て来るかどうかわからない才能。もう一つは「顕在化している才能」で、早くから“形として”明確に表れていて、本人もそれを自覚し、周囲からも認められている才能。ほとんどの人の場合、わかりやすい「顕在化している才能」だけを“自分の才能”として自覚している。けれども、実際には、誰もが「潜在的な才能」も備えている。ただ多くの人は、それを“眠らせている”ケースが多いのだ。さて、運命学の“四柱推命式”とか“ホロスコープ”とかいうのは、実はこの「潜在的才能」を教えてくれる秘法なのだ。当たり前の話だが、四柱推命式やホロスコープで示されている“才能”は先天的なものである。そして、かなり“抽象的な暗示”である。だから、そこから正確に読み取るのは“至難の業”ではある。けれども、潜在的才能が示されていることだけは間違いがない。それを“顕在化(世の中に表す)”かどうかは、本人に掛かっている。例えば元祖「二刀流」として“世の中に出て来た”大谷翔平氏は、いま海外で不振にあえいでいる。決して“二刀流”としての才能がないのではない。それはアメリカでも、誰もが認めている。但し、肢や腕を故障してから、本来の力が十分に発揮できていない。投げる方でも苦しんでいるし、打つ方でも苦しんでいる。実は昨日、中日の大野雄大投手が5試合連続完投勝利を勝ち取った。しかも“二試合連続完封”のオマケつきである。さらに“V打点”も叩き出し、まさに、投げる方でも、打つ方でも活躍した。まるで甲子園の高校野球でよくあるような自分で投げて0点に抑え、打ってはV打点を叩き出して勝利をもたらす“投打の柱”だ。それが今季は二度目となった。まさに「二刀流」ではないか。実は私が初めて大野投手をTVで見たのは、9年前になる。その時はまだ入団2年目で1軍に上がって来たばかりであった。けれども、その投球姿を見て、私は「久々に中日の星になる選手だ」と思った。とびぬけて活躍するようになっていく選手だと直感した。ところがである。彼は私が思うほど活躍できなかった。その年が4勝3敗、翌年が10勝10敗、次が10勝8敗、11勝10敗、7勝10敗、7勝8敗……もはや限界のような低迷ぶりであった。もちろん、通常の投手なら、この程度勝っていれば一応“合格点”かもしれない。そこそこの活躍と言えるのかもしれない。けれども、彼の“潜在的な素質・能力”は、このような凡庸な数字に終わるような投手であるはずがなかった。だから私は、自分の直感が衰えたと感じたのだ。ところが、今頃になって彼は見事に潜在能力を開花させ始めた。やはり、潜在能力は「嘘」をつかない。それを開花させるのには、ある程度の“忍耐”も必要なのだった。
2020-09-01
昨日8月31を持って「そごう徳島店」など、徳島の“そごう西武”の店舗4店が一斉に終了した。地元百貨店が閉鎖した山形県に続いて全国二番目に“百貨店が消えた”地域となる。しかも、このような現象は、今後続々と続いていく予兆が窺われる。全国の人口が徐々に減少している地方都市に共通の現象だからだ。元々少子化で若い人たちの数が減っていることに加えて、就職先が限られ、地方都市に留まっているメリットが乏しい。そうすると地方都市には高齢者たちだけが残る。これまでは「百貨店」を、その高齢者たちが支えてきた。けれども、昨年、消費税が値上がりし、今年は“新型コロナ”により“外出自粛”が求められている。つまり、お年寄りたちは怖がって、必要な時以外にはわざわざデパートまで足を運ばなくなったのだ。地方都市の場合、百貨店は必ずしも自宅近くにあるとは限らない。年齢が進むほど、苦にしなかった“デパートまでの距離”が遠くに感じるようになる。ましてや「自粛」「自粛」と叫ばれると、用事がなければ出てはいけないような罪悪感に駆られる。それにプラスして、便利なものが“ネット通販”である。「アマゾン」「楽天」「ヤフー」等での購入に慣れてしまうと、デパートの実店舗まで足を運ぶこと自体が面倒になる。実店舗の方が「観て買える」「触って買える」「試着して買える」安心感はある。だから、人によっては購入するものによって、ネット通販と実店舗での直販と使い分けている人もいる。細かいことを言えば、デパートの“紙袋”は20円~40円もする。ネット通販は、購入代金によっては送料が消える。しかも、安くて速い。そうなって来ると、デパートは“接客の良さ”でしか対抗できない。ところが、その“接客”そのものが“新型コロナ”で距離を取らなければならない。近年の百貨店は、訪日客による購入が大きな数字を占めていた。けれども今は、その訪日客など影も形もない。これでは、じり貧になるのは当然なのだ。1991年が百貨店売り上げのピークで約10兆円に近かった。昨年ではそれが5兆8千億円となっている。今年の“売り上げ”は多分「訊かないでください」というような数値だろう。このまま地方都市から百貨店を奪って良いのか⁉
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