2月, 2023年

「越国」「比国」「豪国」が“日本”を救う国⁉

2023-02-04
興味深い電通などによる調査が公表された。どこの国の人たちが、いちばん「日本」を好ましく感じているか、を調査したものだ。それによると韓国の人たちは58%が「日本」を好ましく感じている。アメリカの人たちは65%が好ましく感じている。中国の人たちは70%の人たちが好ましく感じている。フランスでは73%、オーストラリアでは76%、ロシアでは84%、イタリアでは89%、香港では95%、ベトナム、タイ、台湾ではいずれも98%の人たちが「日本」のことを好ましく感じているようだ。すばらしい。「日本」はそんなに“好かれる国”だったのだろうか。この調査、信用して良いのだろうか。同じ調査の中に興味深い事実が載っていた。それはオーストラリアという国は、日本との“姉妹都市”が107もあって、日本語を学んでいる人達が40万人以上もいる、という事実だ。英語圏であるオーストラリア人にとっては“日本語”は難しい言語のはずだが、それなのに40万人もの人たちが学んでいる。同じように、日本語を学ぶことに熱心な国としてフィリピンとベトナムとがある。こちらの両国からは、これまでにも「日本」で働こうとする人たちが多くやって来ている。したがって日本語を学ぼうとする人たちが多いのは頷けるのだ。けれども、オーストラリアから“日本に出稼ぎ”ということは聴いたことがない。それなのに40万人もの人たちが“日本語”を学んでいる。日本人は一般的に言って“日本語を話せる外国人”に対して優しいし、親切だ。仲間的な親近感を感じやすいせいかもしれない。オーストラリアの人たちが比較的多く集まっているのは、日本では北海道のニセコ周辺である。ここに降る雪は“雪質が良い”ということで、特にオーストラリア人たちには広く知られている。そのスキーのためだけに長期休暇を取ってやってくるオーストラリア人も多い。ただ奇妙なのは、ここにやってくるスキーヤーのほとんどは英語で会話している。日本にやって来たからといって“日本語”を使っての会話などしていない。ニセコは日本では珍しいほど“欧米人の比率が高い地域”で英語表記が“当たり前”の地域でもある。つまり、日本語を学んでいるオーストラリア人は見掛けないのだ。いったいどういう人たちが“日本語”を学んでいるのか、そして、それにはどういう目的があるのか、どなたか知っている方は教えて欲しい。

自ら自分の「名付け親」に変わっていく時代⁉

2023-02-03
現行の「戸籍法」が改正される。いちばんの驚きは「改名せざるを得ない人達」が大量に出てくる可能性があることだ。なぜなら、これから出生する人だけではなく、これまで戸籍を届けているわれわれ全員も“読み方”を新たに登録しなければならないからだ。しかも、その際に、氏名の読み方として“一般に認められているもの”以外は受け付けない方針であるらしい。大丈夫なのだろうか。近年はだいぶ減ってきたが「キラキラネーム」はまだまだ多い。いわゆる“当て字”というものが使われる名前だ。したがって、当然ふつうだと読めない。これまでは“漢字”で戸籍登録すれば、たとえ普通に読めなくても了承されてきた戸籍だが、今度はふつうに読めなければ認めない方針であるらしい。そうすると、嫌でも名前を変えなければならない。たとえば普通に読めない文字を使っていても“変更できる文字”がある場合は良いが、通常は漢字を当てはめにくい名前の人たちが相当数いる。それに、名前は或る程度“字面の整い”というものもある。「キラキラネーム」の場合、そういう意味で、あえて“その文字”を加えている場合も多い。つまり、読み方の方に合わせようとすると、字面として奇妙なことになってしまう場合も出てくる。文字に“呼び音”を合わせるにしても、呼び音に文字を合わせるにしても、難しいケースがたくさん出てくる。したがって、或る程度までは“変則的な読み方”も認めておかないと「改名せざるを得ない人達」が大量に出てくるはずなのだ。なぜ、大人にまで“読み方”を登録させるのかというと、マイナンバーカードによる“海外使用”を可能としたいからだ。そうすれば海外居住の実態を把握できる。税金逃れのために、海外を転々とする人たちが居るからだ。したがって、或る程度までは行うべき改正なのだが、自分のせいではないのに“改名しなければならなくなる”のは何んとも悔しいに違いない。もっとも、これからは18歳の時点で「自分の名前を変更できる」改正案も含まれているらしいので、これからの子供達には“有意義な改正”となるかもしれない。成人の祝いとして、自分の名前を自分で付ける。確かに「幼名」と「成人名」とで名前を変える方が、或る意味では“大人としての自覚”が生まれ、自分に責任を持つ上では良いのかもしれない。

「過去の罪」を人はどこまで“背負うべき”か

2023-02-02
数年前「チャラ男芸人」としてブレイクした兼近大樹氏が窮地に立っている。フィリピンで捕まった“連続強盗事件の首謀者”として日本に強制送還されることになった渡辺優樹容疑者と十年以上前“仲間的な知り合い”だったからだ。本人は“今回の事件”に関しては「まったく関係がない」と断言し、そのこと自体はほとんどの人が疑ってはいない。問題は、そういう人物と十数年前とは言え“仲間的な行動”をとっていたことにある。兼近氏本人は、そのことを認めたうえで「過去は過去なのでどうしようもない」という“割り切り方”をしている。決して彼は「自分は関係ない」と言っているわけではなく、過去の罪は“今とこれからの生き方”で贖罪していくしかない、という立場をとっている。実際、その通りで、人間誰でも“消したい過去”はあるものだが、消し去ることは出来ず、死ぬまで自らが“背負っていく”しかないのが現実なのだ。それはそうなのだが、世間というか、世の中というか、それが“刑事事件的な犯罪”になると、彼自身が割り切るほどには、簡単に割り切ってはくれない。そういう犯罪や社会的な事件・問題に巻き込まれたことよって、多くの人たちが、その社会的な地位を失い、職業を失い、財産を失い、家族を失い、その後は煩悶の人生を送っている。実際“ただ一度の過ち”から人生の階段を踏み外していく人は多い。特に、日本人はそれほど“寛容な人種”とは言い難いし、時代的にも、現代は高度成長期ほど“寛容な時代”ではない。少なくとも、今回の一連の事件が“一応の決着”が付くまでは、兼近氏は“公の場”から姿を消す可能性が強い。人はだれでも間違いを犯すが、それを「許す」ことが出来るのは一体誰なのだろう。仮に刑事事件で裁判となって“刑期”を与えられ、その刑期を終えたなら、そこで“許しを得た”ことになるのだろうか。世の中は、なかなか“そういう過去を持つ人”を簡単には許さない。兼近氏の“考え方”からすれば、一人でも多くの人たちに“笑い”を与え“楽しませる”ことで、贖罪していこうとするだろう。どのような環境からでも“這い上がれる”ことを証明しようとするだろう。いまの「日本」という社会は、それを受け入れてくれるだろうか。多くの有名人が“その壁”に突き当たって苦悩した。彼が自らの“生き方”を証明できるかどうかは、この騒動が収まってからにある。

お客様は「外国人」と化した「日本の百貨店」

2023-02-01
昨日1月31日で東京新宿の「東急百貨店」や北海道帯広の「藤丸百貨店」が閉店した。東急の方は55年の歴史に幕を下ろし、藤丸の方は122年の歴史の幕を下ろした。東急百貨店については多くの人が知っていると思うので、藤丸の方の話をしたい。北海道でいくつもの百貨店があるのは札幌市のみで、帯広市も北海道としては“大きな都市”なのだが、それでも「藤丸」という“唯一の百貨店”すら守ることが出来なかった。最盛期の三分の一にまで売り上げが激減していたらしい。一時期、どの都市でも“百貨店の危機”が伝えられた。ところが、その後になって、大都市の多くは“その勢い”を盛り返しつつある。奇妙なことに、大都市にはいくつもの百貨店があるのに崩れ去ることがなく、地方都市には“唯一の百貨店”だったところが多いのに、次々と崩れ去っていった。どうして、そういうことになったのか。その違いは“観光客の購買力”にある。大都市の場合、観光客が百貨店を利用するのだ。例えば札幌の場合、道内の地方からも、本州からの観光客も、そして海外からの観光客も、いずれもが“札幌の百貨店”を利用する。特に海外からの観光客は、例え札幌以外の道内に来ていたとしても“札幌の百貨店”に立ち寄って「お土産品」を買っていく。札幌で買う方が何かと便利で都合が好いからだ。札幌の百貨店の多くが“札幌駅周辺”にあることも、それを手助けしている。外国人客を“扱うこと”に慣れていることも、それを後押しする。たとえば札幌の「大丸百貨店」は札幌駅直結である。場所が分からないという心配が絶対にない。またインバウンド向けの店舗構造になっていて、特に“外国の超高級ブランド品”を扱う売り場が、入り口入ってすぐから並んでいたりする。ここはインバウンド消費が活発になって後、改装して“特別のブランド店舗群”となった。つまり、頭から地元民ではなくて“外国人”をターゲットにした店舗改装を果たしている。ハッキリ言って広い売り場に“客の姿”を見ることは少なく、地元民はその横を通り過ぎるのが普通で、その中まで入っていく人を見たことがない。それでも立派に商売として成り立っているのだ。おそらく地元民以外の観光客、特に外国人観光客にとっては、その豪華な店舗を見ただけで“偽物を掴まされることがない店”として安心して買い物ができる。そういう意味では確かに“同じもの”が帯広の「藤丸」にあっても、外国人なら多少、不安になってしまうだろう。札幌から出掛けて行っても「藤丸」で“世界の一流ブランド品”を買おうという気には何故かならない。ときどき“掘り出し物”が見つかるので、そういう意味では“楽しい店内”だが、超高級品を求める人たちには“不満が生じやすい”かもしれない。結局、どこで買おうと「ブランド品はブランド品ではないか」と私などは思うが、なぜか“ムダに広くて豪華な店”を彼らは信頼するのだ。 Newer Entries »