9月, 2024年

「男を惑わす女」の“生き方”「殺害」はしない‼

2024-09-12
今日から「紀州のドンファン」と呼ばれた野﨑幸助氏(享年77)の“覚せい剤中毒死事件”で逮捕された須藤早貴の裁判が始まる。2021年4月に逮捕されてから3年以上経過して、やっと開始されることになる。検察側は最初から元妻である須藤早貴容疑者を「野﨑幸助氏を覚せい剤を使って殺害した」と断定して、見込み捜査を行い、須藤容疑者を逮捕した。或る意味で“それ以外の可能性”を最初から排除して、捜査していた。まるでドラマの中での刑事たちのようだ。ドラマならそれで良いが、ホンモノの事件で“それ”をやられたならたまったものではない。もっとも考えるべきは自宅で“妻と二人だけのとき”に亡くなっていることである。もし、妻が「夫を殺害しよう」と考えたなら、どうして自宅の中で、夫と二人だけの時間の時に“計画的な殺人をする”のだろう。おかしいと思わないのだろうか。確かに、容疑者は“勉強は嫌い”で“男を手玉に取る”のが好きだった…とはいえ、少なくとも、それほど浅はかではないし、お金に困っているわけでもなかった。なにしろ、毎月、黙っていても100万円渡されていたのだ。もちろん生活費などではなく「お小遣い」のような形のものだった。容疑者は普段は東京に住んでいて、ときどき、和歌山の自宅(野﨑氏宅)にやってきた。つまりは“通い妻”の形だった。ふたりで一緒に出掛けようと思えば、いつでも一緒に出掛けられる。通常、自宅で殺害するなら、自分が居ない時とするだろうし、一緒に居る時に殺害するなら、どこかへ旅行に行って……というのが常道だろう。防犯カメラ付きの自宅で、しかもお手伝いさんが外出中となれば、最初に疑われるのは妻である自分になる。そんなことはリスクを負ってまで“覚せい剤殺人”は魅力的だろうか。それを強引に飲ませるというほど、残酷な妻ではない。彼女は“優しい妻”ではなかったが、それは「同情結婚」だったからだ。野﨑氏は彼女に「妻になって欲しい」と懇願した。彼女は「おじいちゃんの願いを利いてあげよう」と思っただけなのだ。元々が、そういうふうにして生きて来ていた。彼女にとって「贅沢させてくれるお爺ちゃん」が夫でも問題はなかった。元々、そういう“生き方”であるから、わざわざ“殺す”理由がない。今後も、毎月、百万円もらって普段は東京でのんびり過ごし、ゆくゆくはドバイに行って「富豪を見つける」のが彼女の“生き方”だった。だから、そういう彼女には“すぐ疑われる”妻の立場で、二人きりの時に殺すなんて馬鹿げたことをするはずがないのだ。

石川・丹羽・舟橋……文豪の眼力が予言していた

2024-09-11
石川・丹羽・舟橋……と書いて、それを「石川達三・丹羽文雄・舟橋聖一」と当てられる人が居るなら、相当な文学通に違いない。いずれも昭和初期から中期にかけて活躍した作家たちだからだ。しかも、今日、わたしが書くのはこれらの作家たちのことではない。これらの作家たちが共通して見抜いていた“もうひとりの作家”について書く。もうひとりの作家とは、これも一時代前の官能作家である「宇能鴻一郎(うのこういちろう)」だ。おそらく、ほとんどの方は知らないと思うので簡単に履歴を書いておくと、1962年にまだ東大の大学院の学生だった時点で「鯨神(くじらがみ)」という純文学作品で「芥川賞」を受賞した作家だ。そして、その後は官能作家へと転身していった。今年の8月28日に心不全により90歳で亡くなっていたことが公表された。わたしはまだ若い頃、この作家の作品を何作も読んだ。純文学作品を読んだのではない。官能作家に転身して後の『むちむちぷりん』などの作品を好んで読んだ。その題名からも解るように、東大大学院の出であることなど微塵も感じさせない“ひらがなの多い”官能作品ばかりだ。わたしが読んだのは、女性の独白体で綴られた作品が多く、それも今だったら120%セクハラで訴えられるような状況を、女性目線からの独白体で“何の知性も感じられない”女性の独白体で綴っていく。これが何とも言えず面白いのだ。これらの作品の多くは、スポーツ新聞に連載されたもので、その後にロマンポルノ作品として映画化もされている。だが、私がここで取り上げたのは、そのことではないのだ。最初に書いた三人の作家たちの“眼力”についてだ。三人の作家たちは、実は当時「芥川賞」の選考委員をしていた。したがって宇能鴻一郎氏の「鯨神」が芥川賞を得たのも、彼らが選考委員だったからだ。そして、この三人は“受賞後の宇能鴻一郎”を見事に予見していた。つまり、石川氏は選評で「私のおせっかいめいた忠告が理解されないようならば、マスコミの攻勢にあって彼はたちまち売文業者に転落していくだろう」と記した。丹羽氏は「彼はどんな風になっていくのか、私達とはあんまり縁のないところへ飛び出していくような気がする」と記した。舟橋氏は「この人の将来は、興味深い未知数である」と記した。つまり、芥川賞を与えながらも、三人が三人とも、宇能鴻一郎の未来は「ここに無い」ということを見抜いていた。文豪たちの眼力は伊達ではないのだ。

「特異な疾患」が「武器になる」時代が来た‼

2024-09-10
ときどき「時代と運命」というものを考える。昔だったら“恥ずかしいこと”とか“イジメられそうなこと”とかが、いまや“個性”として受け入れてくれる多くの人たちがいる。時としては、それが今の世の中を生きていくうえでの「武器になる」そういう時代がやってきたような気がする。4歳の頃から“全身脱毛症”に掛かって“カツラ生活”をしていたのだが、それが初めてのキューバ旅行に行って、初めて“カツラを着けない生活”をして、その後からは帰国後もカツラを外し“特異なるダンサー”として逆に注目を浴びるような存在に変わっていった遠枝恵美氏(38歳)の記事を読んだ。ひと昔前なら、日本国内での全身脱毛症は“カツラを外せない病気”だったことだろう。けれども、いまは時代が変わった。近年、いろいろな分野で「多様性」が叫ばれるようになり、その結果“毛が無い”ことさえも、或る種の“妖しさ”として受け入れる風潮が出てきている。もちろん女性の場合には、見た眼の印象として奇異な感じがしないでもないが、たまに“斬新なモデル”や“芸術家”に、そういった志向の人たちもいる。それに現代は癌などの病気で一時的に“毛髪が抜けてしまう”場合もあるから、そういう意味では“気遣ってもらえる”優位性もある。彼女の場合はダンサーで、海外など和服姿で踊ることもあり、白塗りで踊ると、文字通り“妖しい美しさ”を醸し出す効果もある。結局、これからの時代というのは、何が“自分の武器”になるのかわからない時代になった。或る意味では、自分の“特異性”をSNS上などで早くから“晒してしまった”方がスッキリするだけでなく、その姿を支持してくれたり、サポートしようとする人たちが出て来たりする。ほとんどの場合は“その種の病気”とか“体質”とか“外見”とかにコンプレックスを持っている場合が多いのだが、世の中は広いもので“そういう部分”をむしろ“求めている”ような人達が居たりする。だから、そういう意味では世の中“需要と供給”で成り立っているのだから、世界の果てまで情報が行き渡る今の時代というのは、そういう人たちには“救いの神”が存在する時代になったのだ。

「夜の店」が“消えていく”時代がやって来た⁉

2024-09-09
2024年上半期の「バー、キャバレー、ナイトクラブ」の倒産が、過去10年で最多の件数になっているという。「夜の街」が衰退し始めている…というのだ。実質的には“コロナ禍”の時からの現象なのだが、去年までは“コロナ支援金”というものがあったので倒産しにくかったのだ。それがここにきて“支援金”が打ち切られたことで一気に倒産件数が増えてきたというわけだ。ただ、それだけが原因なのかと言えば、そうとも言えない。会社員の実質賃金が“伸び悩んでいる”こと、企業においての“経費削減”で飲食店に関わるような経費が削られていることも大きい。そして、もう一つ、実はこれがいちばん問題なのだが、若者たちの「夜の街離れ」「アルコール離れ」というのが深刻なほど大きい。いまの若者たちにとって「夜の街」は“無意味なところ”になり始めている。昔は“癒しを得られるところ”の代表的な存在だったのだが「セクハラ」「パワハラ」「カスハラ」などが定着するようになって、男性たちは“そういう店”に足を運びにくくなった。ハッキリ言えば、元々“夜のお店”というのは“そういうこと”を多少は行っても良いお店……というような認識や感覚が客側にはあった。けれども今や“そういうこと”は許されない状況に変った。ちょっと肌に触れただけでも「セクハラ」として摘発される。どこにも触れなくても、言葉だけでさえも、うかつな冗談は「セクハラ」と認定される。昼間の会社内はもちろん、昔は許された“夜のお店”でさえも、許されなくなってきた。そうなると、若い人たちはもちろんのこと、中年以降の男性たちも「夜の街」から足が遠のくことになる。それなら、早めに家に戻って好きなYouTube動画でも視ている方がマシだということになる。或る意味では、当然というか、致し方のない状況なのだ。ただ本当にこれが“正しい在り方”なのかと言えば、わたしにはやや疑問だ。古今東西歴史を紐解けば、大昔から人間たちの行なってきたことはそんなに変わらない。そういう視点から言えば、やはり「夜の街」や「夜の店」が反映している方が、その街や国の経済は繫栄している。それに、人と人の交流にしても、そういう方が交流が活発で喜怒哀楽の豊かな社会を形成している。もちろん、そういう中で“悪い事”も行われたりするので称賛は出来ないが、少なくとも社会形成の一環として「夜の街」や「夜の店」は“妖しい輝き”を放っている方が“豊かな国”のような気がするのだが……。

いくつになっても「お化け屋敷」は本当に怖い‼

2024-09-08
わたしは子供の頃から「お化け」的なものが苦手だった。20代から30代にかけては、不思議と“そういうもの”に対してミステリーの一部として探求心が強まり、嫌ではなくなったが、どういうものか50代後半くらいから再び“怖い気持ち”が優先するようになってしまった。先日、SNS上で「お化け屋敷」で“お化け”を担当されている方から、子供を無理やり“お化けに近づける”などの行為を動画撮影することに対して注意喚起する文章が投稿され、大きな反響を呼んでいるという。本気で嫌がっている子供を無理やり“お化け”に近づけさせようとする……とはどういう神経なのか、唖然とするばかりだ。わたしのように、もう“お化けに近い年齢”となってしまったのに、それでも“お化け”というか“幽霊的なもの全般”を「怖い」と感じしてしまう人も少なくないのだ。俗に“ホラーもの”の映画とかドラマとか小説とかでも、昔は平気だったが、いまは子供の時のように怖い。どうして、こうなってしまったのかは分からないが、とにかく怖いのだ。「お化け屋敷」などは、元々が“作り物”であることを知っている。それなのに“怖い”という本能は絶対に無くならない。わたしは大昔ボランティアで“精薄の子供たち”の学園などを訪れていた。その一環として、そのサークルで「お化け屋敷」を開催することになり、その中で“お化け役”を担当したことが一度だけある。メンバー5~6人が“お化け”として隠れていて、子供達が通ると“おどろかす役”なのだが、なぜか私の潜んでいた場所には子供たちが近寄らなかった。だから実質的には「お化けになれなかった」のだが、せっかく衣装とかメイクとかにも凝ったので、その時は残念だったが、いまになると直接“出遭わず終わって”良かったのだ…と思っている。いちど海外で、確か香港だったが「お化け屋敷」に入ってみたことがある。4~5人同時に入ったが、とにかく足が進まず困ったものだ。若い人に混じって入ったが、全員、怖がって「ギャー」と叫びながら出口へと駆け込んだ。もちろん、大人だから終われば楽しいのだが、それでも二度と入りたくはない。ほんとうにこういう“感受性の強さ”は困ったもので、なぜ楽しめないのかわからないが、とにかく“幼い子”を「お化けに近づけて動画撮影する」など、虐待や悪趣味以外のなにものでもない。ときどき、そういう“幼い子の怯える姿”が「カワイイ」と評判になったりするが、トラウマになるからやめた方が良い。

「一人っ子政策」が「ハーフの子」量産した⁉

2024-09-07
近年の中国における若い起業家や芸能人などを観ていて「欧米的になったな」と感じることが多い。中国でも韓国でも、ドラマなどでは“富裕層”を題材にしたものが多いが、そこに登場する近年の“富裕層”たちの姿は、昔の中国人や韓国人からは想像できないほどに欧米化している。特に中国ドラマからは“それ”を感じる。このほど中国政府は、正式に中国の子供を「外国家庭に養子として出すことを禁ずる」と定めた。2年連続で“人口減少”が明らかになった中国では、ここにきて一気に“少子化対策”へと本気で取り組まなければならない事態となっている。なにしろ、元々の人口が多い中国の場合、少子化の波が押し寄せれば一気に国家の経済が揺らいでいく。それにしても30年以上にわたって継続された“一人っ子政策”は中国にさまざまな“歪み”をもたらすことになった。そのいちばんは“男女数の不均衡”だ。つまり女児が生まれた場合、国外に“養子に出す”ケースが圧倒的に多かったので、その結果、男性数が女性数よりはるかに多くなる。その世代が現在の“婚姻世代”となっているので、つまりは今や貴重な“適齢期の女性たち”は男性を“択び放題”の状態なのだ。昔の表現を使えば“売れ残っていく男性たち”ということになる。当然、そういう“歪み”も手伝って出生数も減っていく。つまり過度な“一人っ子政策”は今になって、その代償を払わなければならなくなっている。もう一つの問題は、国外に“養子として出された女児たち”の方だ。つまり国外で大人となって結婚し子供を産む。その場合、当然のことながら「ハーフの子」ということになる。実はアメリカの家庭に引き取られていった女児たちがもっとも多く、累計で8万2000人も居るとされている。その女児たちの多くが既に結婚しているか、適齢期になっている。したがって、今後ますますアメリカには“中国系ハーフの子”が多くなっていくのだ。その一方で「中国」と「アメリカ」との国家的な対立は根深く、容易に解消される見込みはない。したがって、今後、中華系ハーフの子供や孫は多くなっていくのだが、その親の母国とは“対立し合ったまま”の状態が続いていく可能性が強く、もはや“母国としての親近感”すらも失われてしまう可能性が強い。外貌は明らかに中華系なのに“反中国”を掲げるような米国人が増えていくような気がする。

「♬男と女の間には…」の歌を想い出させる殺人

2024-09-06
奈良県の国道沿いにある「コメダ珈琲店」で5日の白昼に殺人事件が起きた。上空からの映像を見ても、店の敷地面積は広く、かなりの大型店である。最初は中年女性が首を刺されて救急搬送された……という報道だったが、やがて死亡が確認された。午後1時過ぎであるから、当然、店内には多数の客がいたはずで、しかも、その席には複数の人物が同席していたということで、どうして止められなかったのか、不思議な気がする。おそらく、とっさのことで制御する間もなかったからだろう。刺した人物は、刺された人物の元夫で、そこに複数の人物が同席していたということは、離婚後の“何かの話し合い”が行われていたに違いない。大体、考えられることとしては「復縁話」か「金銭関係」か「子供に関して」か、いずれかであるような気がする。つまり、いずれかで前から揉めていたに違いないのだ。いちばん可能性が高いのは復縁話で、その場合には元夫が「戻って欲しい」と願い、元妻が「戻りたくない」という感じの話。金銭関係の場合は「約束が守られていない」とか「金を返して欲しい」といった感じの話。子供に関しての場合は「逢わせてくれない」とか「もう逢わせたくない」という話。まあ、だいたいがこういった感じの話で“関係者を含めて逢う”カタチとなっていたに違いない。この中でもっとも確率が高いのは「復縁話」だ。そして、こういう場合には“別な相手”とか“DV”とかが絡んでいるケースが多い。元夫は、わたしの推察では“思い込んだら命がけ”的な要素を持っていて、元妻と「やり直したい」気持ちが強かったのだろう。そして、その想いが果たせないなら、元妻を殺害する気持ちを持っていたに違いない。周囲の人たちは彼の一途な性質を知っていて、万一の場合も考えて“付いて来ていた”に違いないのだ。そして、話し合いが行われたのだが、平行線であり、もう「無駄だな」と判断したころ合いを見て急襲したに違いない。それはいきなりで、まさか急襲されるとは周囲は思っていなかったから致命傷となったのだ。元夫は最初から話し合いが無駄に終わりそうなら「殺そう」と決めていたと思われる。わたしは昔、野坂昭如が歌った「黒の舟歌」の歌詞が好きだ。「♬男と女の間には深くて暗い河がある…誰も渡れぬ河なれど…エンヤコラ今夜も舟を出す」「♬たとえば男はあほう鳥 たとえば女は忘れ貝 真っ赤な潮が満ちるとき 失くしたものを想い出す」そういう事件だ。

「阿吽の呼吸」サッカーは“日本人向き”の競技⁉

2024-09-05
近年、驚くほど多くの日本人サッカー選手が海外で活躍している。男女とも、そういう時代になった。ドイツの2部リーグで活躍していたMF田中碧氏が英国の2部リーグであるリーズからオファを受け“電撃移籍”した。一部報道によれば、ドイツに遺る予定で居た田中選手に対し「6億4400万」の提示を行って電撃移籍を成立させたという。しかも、そのため、自分のチームから主力選手たちを放出して“金額提示した”とも言う。それだけ価値のある選手ということだろう。ドイツのチームから英国のチームへ…日本の感覚で言うと、この時期に「そんなに簡単に海外チームへ」ということになるが、欧州では当たり前のこととして国境越えが実現する。もちろん田中氏にも異存はないようだ。25歳の若者にとって、ドイツもイギリスも“さしたる違い”はないに違いない。そういう感じで、いまや世界中から日本人選手にオファが来る世の中になった。国内にいる若い選手でも“そういうチャンス”が当たり前のように巡ってくる時代となった。ここで私などは“言葉の問題”はどうするのだろう…などと思ってしまうが、いまの若い人たちはほとんど、言葉を壁を気にしていない。それに、サッカー選手の場合、だいたいがフィールドの中でも目くばせ程度の合図でボールを送る。言葉はほとんど用いていない。野球でもサッカーでもバレーでも、多数の選手が参加する競技では、実質的に言葉は不要で、なんとなくの雰囲気で相手の意図を察するようでないと主力選手とはなり得ない。ドジャーズの大谷選手が、いつの間にか“盗塁選手”として定着したが、日本に居る時にはそんなに走らなかった。というより走れなかったのではないだろうか。日本人は“微妙な感覚”を見抜くのが上手い。そういう点では選手同士の間で「阿吽の呼吸」を求められるサッカーという競技は、いやバレーボールでも同様だが、日本人には“向いている競技”のような気がする。普段から日本人というのは、言葉を交わさずとも、相手が何を考え、何を欲しているか、本能的に察知する能力にたけている。瞬時の動きで、その欲求を理解するサッカーとかバレーとかは、そういう点でもっとも日本人の“先天的素質”を活かせるスポーツなのかもしれない。ただバレーよりもサッカーの方が、動きの点で、より勘が活かしやすい競技のような気もする。そういうような点から考えれば、今後ますます海外で活躍する選手が増えていきそうなのがサッカー競技なのだ。

「天使と話す王女」と「前世はファラオ」が結婚

2024-09-04
世の中にはさまざまなことを“自称する人”が居る。自称しても、それが特別世の中に“危害をもたらす”ことでない限りは、なんとなく傍観されるか、無視されるだけで済む。ただ、その自称する人物が、特別「世の中に影響力の強い人物」である場合は、多少、問題が出てくる。このほどノルウェーのマッタ・ルイーセ王女(52歳)は、永年パートナーと公言してきた霊媒師デュレク・ベレット氏(49歳)と正式に結婚式を挙げた。われわれはノルウェーという国について、そんなに知識がないので、どの程度の自由度がある国なのか分からないが、少なくとも“霊媒師”と“王女”の結婚を認める程度の自由度が存在しているのだ……ということを知る。この霊媒師はアメリカ出身の黒人で、自らを「精霊から力を授かった6代目シャーマン」と自称している。或いは「前世は古代エジプト王だった」とも自称している。それに対して、ルイ―セ王女の方は自らを「とてもスピリチュアルな人間」と語っていて、前夫との結婚中に「自分は霊能者である」と主張し、奇妙にも「天使と話す方法を教える学校」を設立している。俗に「相性が良い」という言葉があるが、なんとなく、この二人、合うではないか。少なくとも、まともだったに違いない前夫とよりは合うに違いない。晴れて正式に結婚したことで、ベレット氏の方は「わたしが古代エジプト王だったとき、その時にもルイ―セ王女は妻だった」と回想。周囲はたがいに眼を見合わせ「ごもっとも…」と頷いたらしい。もちろん、ノルウェー国民の中には素直に祝福できない人たちもいる。そういう人たちは“自称している二人”に対し「大丈夫⁉」と心配する人たちと「そんな王室はいらない‼」と拒否感をむき出しにする人たちと、大きく分かれるようだ。実際、最近のノルウェー王室の支持率は徐々に低下中だが、表向きは平静さを保っている。もし、同じようなことを日本の皇室女性が行ったら、どういうことになるのだろう。多分、平静さを保っている……とは思えない。だって有能な弁護士のもとに嫁いだって批難ごうごうだったではないか。週刊誌が次々と特集記事を出して「妖しい霊能者」に罵詈雑言が浴びせられるに違いない。少なくとも、そういう面において日本人はあまり寛容ではなく「天使の学校」を微笑ましく見守ってくれそうにない。

「記者会見」より「潔白なら告訴」の疑惑会見

2024-09-03
どうもスッキリとしない「疑惑潔白会見」だ。総合格闘家の平本蓮氏が弁護士二人を同席して“薬物疑惑”を真っ向から否定した。そもそもの告発者が、身内側ともいうべき格闘家の赤沢幸典氏から出ている。しかも、平本氏が「潔白会見」を開く前にそれを察知し、改めて「自分の告発は真実だ」とする主張をSNS上で展開している。しかも、その証拠品として“音声録音”までが提出されている。一方の平本氏は「ドーピングの事実はない」として、そんなことをするはずがない、としながら正式に赤沢氏を“告訴”するかどうかは分からない、としている。この部分は問題だ。アスリートにとって、薬物疑惑は“選手生命”が掛かっている重要な問題だ。ましてや、世間的にも注目を集めていた試合での薬物疑惑で、相手選手は今回の敗退によって引退の可能性まで出てきている。もし赤沢氏の指摘することが本当なら、ただ単に謝罪するだけでは済まない。それに、いちばん不思議なのは、身に覚えのないことであるなら、間違いなく赤沢氏の“薬物告発”は「名誉棄損」に相当する。ほんとうなら、すぐにでも告訴すべき事案なのだ。それを「どうするかは今後話し合って検討する」と付いて来た弁護士さんが言っている。いま一つ歯切れが悪い。告発者の方は「潔白」記者会見を察知して、重ねての告発を行っている。それなのに“法に訴えるかどうか分からない”というあいまいな反応。その一方では“全否定”なのだ。アスリートの競技においては、これまでにもしばしば薬物疑惑がささやかれている。実際に“それ”が元で失格となった選手も多い。ただ近年のボディビル大会などでは明らかに“薬物”とは言えないのかもしれないが、異常なほどの筋肉増強剤が使用されている。今後ますます“ギリギリのもの”をカラダに取り入れて肉体を強化する人たちは出てくるのだろう。純粋に練習や体力や技術だけで勝負をする時代は、もう過ぎてしまったのかもしれない。さまざまな“科学”と“医薬”と“秘密の力”が、規格外の強さを発揮していく時代が、もうそこまで来ているのかもしれない。

「生と死」を見つめた作家の佐々涼子氏が逝く

2024-09-02
正直、この作家のことを深くは知らない。何となくざっとは知っているのだが、その程度だ。だから、もしかすると、わたしに“彼女のことを書く資格”はないかもしれない。それでも「グリオーマ」という希少癌である“悪性の脳腫瘍”に侵され2年間の闘病生活ののち56歳で亡くなった……と知って書いておきたいと思った。この作家は「エンジェルフライト」という作品で「開高健ノンフィクション賞」を受賞して世間に注目された。この作品はドラマ化もされた。エンジェルフライトとは「国際霊柩送還」という意味で、主に海外で亡くなった人を日本に輸送してくる仕事だ。ただ単に輸送するのではなく、通常の葬儀のように“死化粧”というものを施して、極力、生前の形を保って帰還してくる。そういう仕事があること自体、あまり広くは知られていない。そういうところに視点を当てて、そういう人たちの職場に泊まり込み取材を続けて描き上げたのが「エンジェルフライト」らしい。この作家は常にそういう感じで、世間的にはあまり知られていないけれども重要な“仕事師たち”をとことん追求して実録的に描く。そういう仕事をしてきた。「エンド・オブ・ライフ」では“訪問看護師”と“在宅医療専門の診療所”を取り上げた。一つには彼女自身の母親が、重い神経難病を患っていた…ということも背景としてあるからかもしれない。人は身近に在ることは追及しやすいからだ。基本的に在宅医療専門の診療所というのは、最終的に「みとり」を終えるまでが仕事で、そういう意味では国際霊柩送還とも、どこか繋がっている。そうやって、ずっと「生と死」に直結するような現場を取材し続けて来た作家に異変が起きたのは2022年の秋だ。自らにも悪性の脳腫瘍が見つかって闘病生活が始まる。ただ彼女は自分が罹った癌が「グリオーマ」という“希少がん”であることになぜか満足していた。日本語教師からフリーのライターを経て、やっと見つけた自らのライフワークともいうべき「生と死」を描くノンフィクション作家という地位を確立した。その矢先の闘病は“無念”であったはずなのに、それを感じさせるSNS発信は、少なくとも私の知った範囲では感じられない。或る意味では、その覚悟を見出すため「生と死」を書き続けてきたのかもしれない。

2024年9月の運勢

2024-09-01