9月, 2024年

自宅というより「前澤美術館」として素晴らしい

2024-09-18
ZOZOの創業者として知られる前澤友作氏が、自らの豪邸内ツアーをYouTube上で公開している。とてつもなく広い家だが、この広い家に1人で暮らすのだとしたら、あまりにも寂し過ぎる。わたしが運命家の立場からアドバイスするなら、この家は基本的に“個人美術館”のような感覚で所有し、ふだんは都内の高層マンションで暮らすような生活の仕方をするのが運勢学的には良いと思う。この家を完全に“ふだんの家”としてしまうと“孤独な後半生”になってしまうからだ。こういう美術館とか高級ホテルとかを感じさせる豪邸は、完全に“そこ”を暮らしの拠点としてしまうと“身内家族に縁のない人生”を歩むことになる。そこで、ふだんの生活拠点を街中の高層マンション内に変えてしまえば、身近な人たちにも恵まれて“華やかな生活”を送ることが出来る。多分、これまでも、彼自身は“別邸”に暮らしていたはずで、これからも“そういうカタチ”を崩さなければ良いのだ。極端に“広い家”は、多数の人たちが暮らす形なら“家族としての幸福”を得ることが出来るが、一人とか、二人とかで暮らす形をとると、身内親戚とも徐々に疎遠となり、身近な人たちも離れて行って、孤独な暮らしを余儀なくされる。だから、もしも、こういう家を完全に拠点とするなら、多数の秘書とか、マネージャーとか、部下とか、門下生とか、運転手とか、お手伝いさんとか、専用シェフとか……とにかく多数の人たちも一緒に暮らす形を取らないと、本来の“生活する家”としては機能しなくなってしまう。それにしても、前澤氏は元々がアーティストとして出発しているだけに、絵画のコレクションは相当数で、さまざまな作家の作品を自宅内で飾っている。昔の有名画家の作品ではなく、今を時めく画家たち、それも近代、現代、今後ブレイクする可能性ある作家まで含めて、多くの作家たち、特に若手でこれから価値を高めそうな作品を美術館のように展示してある。抽象画家の作品も多いが、こういう豪邸には抽象画家の大型作品が実によく似合う。そういう意味でも、この人がアパレル企業の創業者だったのは当然だったともいえる。多分、彼の目利きはホンモノで、まだそれほど世の中に知られていない画家たちの作品も、やがて何十年かが経てば、大いなる価値を持ってくるのに違いない。そういう意味では「個人美術館」として、きちんと管理していくためにも、こういう豪邸が必要だったのかもしれない。

「エロさ」と「若さ」を、どこかに忘れた壇蜜氏

2024-09-17
人はだれでも大きな病気をしたり、悩めることが続いたりすると、心身とも弱ってくる。そうして「若さ」というものを、どこかに“忘れて”きてしまう。タレント壇蜜氏の久しぶりのSNS投稿はちょっと寂しい内容だ。「敬老の日」に発信した内容だったので、そういう部分がより内容を“重たく”させたのかもしれないが、彼女は「元気⁉」と訊かれたなら「おかげさまで何とかやってます」と言える毎日をめざそう……と記している。これが70代以上の人物の投稿なら、大いに納得するのだが、まだ43歳、今日的にはまだ“人生の折り返し地点”にも達していない。そういう人物の口から、既に老境に達したかのような「おかげさまで何とかやってます」はちょっと寂しい。彼女はもともと“官能性”を売り物に芸能界へと進出してきた女性だ。その官能的な姿態は多くのファンを惹き付け、一時的には虜にしていた。それが、ある時を境に“ふつうのタレント”へと転身して、その後は何となく“方向性が掴めない”タレントへと変わってしまった。元々履歴的にも、特異な女性であったので“エロさ”を主軸にする必要はないが、だからといって“完全閉店にする”必要もなかったように、私には思われる。彼女にはちょっと不運なところがあって、さまざまなTV番組に出演したが、彼女がレギュラーとなる番組は何故かいずれも短期間で終わってしまう。長続きしないのが共通していた。そういう点で仕事面にも波があった。そういう点も作用したのか、昨年は“心身が不調”ということでの入退院を繰り返した。彼女によれば、その間、所属事務所も倒産していたらしい。元々が精神的にやや不安定な部分を持っている彼女が、将来に対して不安を抱き、自分の何十年後にまで考えをめぐらすのは仕方がないが、それにしても40代前半で老後を意識し「おかげさまで何とかやってます」をめざそうというのは、あまりにも寂しい。人はだれでも自分の将来について、今現在の状態から想像・推定してものを考える。けれども、それは必ずしも正しいとは言えない。今現在の状態は、あくまでも“いま”という“将来にとっての過去”を基準としている。ところが、人生というのは長いので、今後の自分が“どう変化していくか”は誰にも本当のところは解からない。だから、いまを基準とした未来は、実際には“心身とも変化する”という事実が抜け落ちているのだ。もしかしたなら、いまより恵まれた心身の状態に変わって、環境状態も変わって、暮しの状態も変わって、あらゆるものが変わっていれば“想像の未来”は跡形もなく置き換えられる。運命とはそういうものなのだ。

「潜在能力」と「先天運」との関係性について

2024-09-16
どのような分野でも、その分野における“潜在能力”というか“天才的な素質”というか、先天的な能力が極めて高い人物というのが時として出現してくる。それがもっとも分かりやすいのは「アスリートの分野」と「芸術的な分野」だ。この二つの分野は幼少期から“とびぬけて能力の高い人物”がときどき存在する。但し、先天的な能力が高いから、それがそのまま“先天的運勢”としても恵まれているかと言えば、そうとも言えないのが“人間の運命”の不思議なところだ。そういう意味で私が早くから注目していた人物の一人に現ロッテの佐々木朗希投手がいる。彼は十代の頃から注目を浴び、一部では「大谷翔平選手を上回る」との評価もあった。実際、完全試合を成し遂げるなど、入団当初から“その片鱗”を窺わせていた。けれども私は最初の段階から、彼の「先天運」が良くないことに着目していた。果たして彼は、ほんとうに先天的な素質を十分に開花させて“世界的に活躍できる投手”になっていけるだろうか……という疑問があった。昨日、その佐々木投手は西武戦で先発し、7回途中まで投げたのだが、7回の先頭打者に対して投げたボールが、打者の頭部に当たってしまい、そのボールは“危険球”とみなされ、審判により退場させられた。したがって“負け投手”となって今季の成績は8勝5敗となった。この投手は素晴らしい素質を持っているのだが、体調管理に問題があったり、怪我による故障をしやすかったりして、プロ入りして以降、特別“目覚ましい活躍”というほどの成績を残しているとは言えない。大リーグ志向が強く「日本を早く脱出したい」という気持ちがあるのかもしれないが、それであればなおのこと、日本での活躍を海外スカウトに見せ付けなければならない。実は昨日の試合にはアメリカから複数球団の偵察隊が乗り込んできていた……そういうせいもあって、より張り切り過ぎて“危険球”を投げてしまったのかもしれない。ただ、大リーグのスカウト陣から見て、それがプラスに作用するわけがない。コントロールに難のある投手と視られてしまう可能性もある。実際には、今回の試合だけで評価するわけはないから、大リーグの評価は高いはずだが、ただ一時期の“勢い”というものは、いまの佐々木投手からは感じられない。彼の生年月日は四柱推命式で観ても、ホロスコープで観ても「天才アスリート」として世界の大舞台で活躍するには、いま一つ“物足らない星の配置”なのだ。つまり佐々木投手には“素質”は十分でも“運”というものが乏しいような気がしてならない。だからこそ昨日の危険球も生じてしまったのではないだろうか。スカウト陣の眼を意識しすぎての暴投であったような気がする。もし彼が、今後、海を渡ってアメリカの地で“大活躍出来れば”ものの見事に「運を跳ね返した男」になれるのだが……。

新大統領「みんな日本で真珠を買おう」発言(⁉)

2024-09-14
アメリカの現副大統領であるカマラ・ハリス氏の「真珠」についての記事があった。もちろん彼女はトランプ氏に勝てば女性初の大統領になる。アメリカの場合、日本以上にファッションに関してうるさい。おそらくハリス氏が大統領になれば、そのファッションがあれこれ注目を浴びるに違いない。ちなみに彼女はジャマイカ人とインド人の両親を持っているので「アジア系出身の初めての大統領」でもあるのだそうだ。“アジア系”とか“スパニッシュ系”とか“アフリカ系”とか……純粋なアメリカ人は少ないので、そういう“何々系”というのが判断の基準になることも多いのがアメリカだ。さて、ハリス氏だが彼女の場合、重要な場面では常に“あるもの”を身に付けている。「真珠のアクセサリー」だ。ゲンを担ぐのが好きな彼女は「真珠」が自分を守ってくれている…という勝手な思い入れがある。彼女が“それ”を感じ始めたのは少女時代で、いちばん最初は彼女の母親の恩師が“日本土産”として、彼女に真珠のアクセサリーをプレゼントしたことに始まる。だからもう50年以上だ。日本のお土産である真珠は、彼女を幸運に導いたのだ。少なくとも彼女自身は、そう信じている。実際、彼女はこれまでカリフォルニア州司法長官となった時も“初のアジア系で女性の司法長官”だった。彼女の“華麗なる経歴”を支えてきたのは「真珠の首飾り」なのだ。少なくとも彼女は内心そう思っている。だからこそ「みんなで真珠を着けよう」という“草の根運動”を展開しているのだ。ここで重要なのは「日本の真珠」だということにある。つまり、彼女にとっては、ゲンを担ぎやすい彼女にとっては「日本」という国は“幸運を運んでくれる国”なのだ。そういう国を大切にしないはずがない。そういう意味では「円安ずるい」発言で、日本の株価を暴落させたトランプ氏より、自らの“お守り”的な国「日本」へは勝利を得らなら、すぐにでも行って“新たな真珠”を買い付けて来たいに違いなく、そういう国には“敬虔な気持ちを持ってやって来る”に違いなく、わが日本は彼女と馬が合いそうな人物で“出迎えてあげる”のが、今後の日本を考えるうえで、とても大切なことのような気がする。

本名→芸名→本名に「改名」して俳優とし再起‼

2024-09-13
名前というものは奇妙なもので、いったん、その名前が定着すると、人は“その人”を「そういう名前の人」として認識する。そして、その“名前と本人のイメージ”が一致している場合、その名前はずっと記憶に残る。その名前と本人のイメージが“一致しない”と記憶に残らないばかりでなく、芸能界などでは活躍できないケースが多い。昔「ほっしゃん」というピン芸人が居た。奇妙な名前だが、この名前でわれわれは、この人物を記憶した。それは多分“イメージが一致していた”からに違いない。ところが、この「ほっしゃん」は“芸人”から“俳優”へと足場を変え、それに伴なって名前も「星田英利」に改名した。改名はしたのだが、実は“この名前”は本名に戻したに過ぎなかった。元々、彼の芸能人としての出発点は“コンビで行う芸風”で二人で活動していた。ところが相方が単身、東京に何も告げず出ていって、ひとり関西に残った彼は“ピン芸人”に変わらざるを得なくなった。そのためコンビ名は使えなくなり、結果として、それまで“愛称”として呼ばれていた「ほっしゃん」をそのまま芸名に変えたのだった。こうしてピン芸人ほっしゃんは誕生した。ところが、2014年になって急きょ彼は芸名を変えた。何のことはない“本名”の「星田英利」に戻したのだ。それは“ピン芸人”世界への決別の意味もあった。こうして、あたらしい俳優としての星田英利が誕生した。ただ、それ以降の4年間で俳優としての仕事はゼロに近かったという。それでもアルバイトをしながら何とか生活を維持した。数日前、彼は昔から知っている芸人が開設しているYouTube動画に出演した。そこで現在は俳優・星田英利として着実に仕事が出来るようになったことを報告している。テレビに出なくなっても俳優として舞台に欠かせない存在となることが出来れば、役者として十分仕事を継続していける。わたしの観るところでは、ゼロに近かったという4年間が、彼を俳優として芯のある役者に変えたのだ。おそらく徐々に役者として際立つ存在へと変わっていくことになるだろう。本名から受けるイメージは、今の彼に相応しいとは必ずしも言えないが、少なくとも“そこ”にもうピン芸人としての「ほっしゃん」は居ないのだ。

「男を惑わす女」の“生き方”「殺害」はしない‼

2024-09-12
今日から「紀州のドンファン」と呼ばれた野﨑幸助氏(享年77)の“覚せい剤中毒死事件”で逮捕された須藤早貴の裁判が始まる。2021年4月に逮捕されてから3年以上経過して、やっと開始されることになる。検察側は最初から元妻である須藤早貴容疑者を「野﨑幸助氏を覚せい剤を使って殺害した」と断定して、見込み捜査を行い、須藤容疑者を逮捕した。或る意味で“それ以外の可能性”を最初から排除して、捜査していた。まるでドラマの中での刑事たちのようだ。ドラマならそれで良いが、ホンモノの事件で“それ”をやられたならたまったものではない。もっとも考えるべきは自宅で“妻と二人だけのとき”に亡くなっていることである。もし、妻が「夫を殺害しよう」と考えたなら、どうして自宅の中で、夫と二人だけの時間の時に“計画的な殺人をする”のだろう。おかしいと思わないのだろうか。確かに、容疑者は“勉強は嫌い”で“男を手玉に取る”のが好きだった…とはいえ、少なくとも、それほど浅はかではないし、お金に困っているわけでもなかった。なにしろ、毎月、黙っていても100万円渡されていたのだ。もちろん生活費などではなく「お小遣い」のような形のものだった。容疑者は普段は東京に住んでいて、ときどき、和歌山の自宅(野﨑氏宅)にやってきた。つまりは“通い妻”の形だった。ふたりで一緒に出掛けようと思えば、いつでも一緒に出掛けられる。通常、自宅で殺害するなら、自分が居ない時とするだろうし、一緒に居る時に殺害するなら、どこかへ旅行に行って……というのが常道だろう。防犯カメラ付きの自宅で、しかもお手伝いさんが外出中となれば、最初に疑われるのは妻である自分になる。そんなことはリスクを負ってまで“覚せい剤殺人”は魅力的だろうか。それを強引に飲ませるというほど、残酷な妻ではない。彼女は“優しい妻”ではなかったが、それは「同情結婚」だったからだ。野﨑氏は彼女に「妻になって欲しい」と懇願した。彼女は「おじいちゃんの願いを利いてあげよう」と思っただけなのだ。元々が、そういうふうにして生きて来ていた。彼女にとって「贅沢させてくれるお爺ちゃん」が夫でも問題はなかった。元々、そういう“生き方”であるから、わざわざ“殺す”理由がない。今後も、毎月、百万円もらって普段は東京でのんびり過ごし、ゆくゆくはドバイに行って「富豪を見つける」のが彼女の“生き方”だった。だから、そういう彼女には“すぐ疑われる”妻の立場で、二人きりの時に殺すなんて馬鹿げたことをするはずがないのだ。

石川・丹羽・舟橋……文豪の眼力が予言していた

2024-09-11
石川・丹羽・舟橋……と書いて、それを「石川達三・丹羽文雄・舟橋聖一」と当てられる人が居るなら、相当な文学通に違いない。いずれも昭和初期から中期にかけて活躍した作家たちだからだ。しかも、今日、わたしが書くのはこれらの作家たちのことではない。これらの作家たちが共通して見抜いていた“もうひとりの作家”について書く。もうひとりの作家とは、これも一時代前の官能作家である「宇能鴻一郎(うのこういちろう)」だ。おそらく、ほとんどの方は知らないと思うので簡単に履歴を書いておくと、1962年にまだ東大の大学院の学生だった時点で「鯨神(くじらがみ)」という純文学作品で「芥川賞」を受賞した作家だ。そして、その後は官能作家へと転身していった。今年の8月28日に心不全により90歳で亡くなっていたことが公表された。わたしはまだ若い頃、この作家の作品を何作も読んだ。純文学作品を読んだのではない。官能作家に転身して後の『むちむちぷりん』などの作品を好んで読んだ。その題名からも解るように、東大大学院の出であることなど微塵も感じさせない“ひらがなの多い”官能作品ばかりだ。わたしが読んだのは、女性の独白体で綴られた作品が多く、それも今だったら120%セクハラで訴えられるような状況を、女性目線からの独白体で“何の知性も感じられない”女性の独白体で綴っていく。これが何とも言えず面白いのだ。これらの作品の多くは、スポーツ新聞に連載されたもので、その後にロマンポルノ作品として映画化もされている。だが、私がここで取り上げたのは、そのことではないのだ。最初に書いた三人の作家たちの“眼力”についてだ。三人の作家たちは、実は当時「芥川賞」の選考委員をしていた。したがって宇能鴻一郎氏の「鯨神」が芥川賞を得たのも、彼らが選考委員だったからだ。そして、この三人は“受賞後の宇能鴻一郎”を見事に予見していた。つまり、石川氏は選評で「私のおせっかいめいた忠告が理解されないようならば、マスコミの攻勢にあって彼はたちまち売文業者に転落していくだろう」と記した。丹羽氏は「彼はどんな風になっていくのか、私達とはあんまり縁のないところへ飛び出していくような気がする」と記した。舟橋氏は「この人の将来は、興味深い未知数である」と記した。つまり、芥川賞を与えながらも、三人が三人とも、宇能鴻一郎の未来は「ここに無い」ということを見抜いていた。文豪たちの眼力は伊達ではないのだ。

「特異な疾患」が「武器になる」時代が来た‼

2024-09-10
ときどき「時代と運命」というものを考える。昔だったら“恥ずかしいこと”とか“イジメられそうなこと”とかが、いまや“個性”として受け入れてくれる多くの人たちがいる。時としては、それが今の世の中を生きていくうえでの「武器になる」そういう時代がやってきたような気がする。4歳の頃から“全身脱毛症”に掛かって“カツラ生活”をしていたのだが、それが初めてのキューバ旅行に行って、初めて“カツラを着けない生活”をして、その後からは帰国後もカツラを外し“特異なるダンサー”として逆に注目を浴びるような存在に変わっていった遠枝恵美氏(38歳)の記事を読んだ。ひと昔前なら、日本国内での全身脱毛症は“カツラを外せない病気”だったことだろう。けれども、いまは時代が変わった。近年、いろいろな分野で「多様性」が叫ばれるようになり、その結果“毛が無い”ことさえも、或る種の“妖しさ”として受け入れる風潮が出てきている。もちろん女性の場合には、見た眼の印象として奇異な感じがしないでもないが、たまに“斬新なモデル”や“芸術家”に、そういった志向の人たちもいる。それに現代は癌などの病気で一時的に“毛髪が抜けてしまう”場合もあるから、そういう意味では“気遣ってもらえる”優位性もある。彼女の場合はダンサーで、海外など和服姿で踊ることもあり、白塗りで踊ると、文字通り“妖しい美しさ”を醸し出す効果もある。結局、これからの時代というのは、何が“自分の武器”になるのかわからない時代になった。或る意味では、自分の“特異性”をSNS上などで早くから“晒してしまった”方がスッキリするだけでなく、その姿を支持してくれたり、サポートしようとする人たちが出て来たりする。ほとんどの場合は“その種の病気”とか“体質”とか“外見”とかにコンプレックスを持っている場合が多いのだが、世の中は広いもので“そういう部分”をむしろ“求めている”ような人達が居たりする。だから、そういう意味では世の中“需要と供給”で成り立っているのだから、世界の果てまで情報が行き渡る今の時代というのは、そういう人たちには“救いの神”が存在する時代になったのだ。

「夜の店」が“消えていく”時代がやって来た⁉

2024-09-09
2024年上半期の「バー、キャバレー、ナイトクラブ」の倒産が、過去10年で最多の件数になっているという。「夜の街」が衰退し始めている…というのだ。実質的には“コロナ禍”の時からの現象なのだが、去年までは“コロナ支援金”というものがあったので倒産しにくかったのだ。それがここにきて“支援金”が打ち切られたことで一気に倒産件数が増えてきたというわけだ。ただ、それだけが原因なのかと言えば、そうとも言えない。会社員の実質賃金が“伸び悩んでいる”こと、企業においての“経費削減”で飲食店に関わるような経費が削られていることも大きい。そして、もう一つ、実はこれがいちばん問題なのだが、若者たちの「夜の街離れ」「アルコール離れ」というのが深刻なほど大きい。いまの若者たちにとって「夜の街」は“無意味なところ”になり始めている。昔は“癒しを得られるところ”の代表的な存在だったのだが「セクハラ」「パワハラ」「カスハラ」などが定着するようになって、男性たちは“そういう店”に足を運びにくくなった。ハッキリ言えば、元々“夜のお店”というのは“そういうこと”を多少は行っても良いお店……というような認識や感覚が客側にはあった。けれども今や“そういうこと”は許されない状況に変った。ちょっと肌に触れただけでも「セクハラ」として摘発される。どこにも触れなくても、言葉だけでさえも、うかつな冗談は「セクハラ」と認定される。昼間の会社内はもちろん、昔は許された“夜のお店”でさえも、許されなくなってきた。そうなると、若い人たちはもちろんのこと、中年以降の男性たちも「夜の街」から足が遠のくことになる。それなら、早めに家に戻って好きなYouTube動画でも視ている方がマシだということになる。或る意味では、当然というか、致し方のない状況なのだ。ただ本当にこれが“正しい在り方”なのかと言えば、わたしにはやや疑問だ。古今東西歴史を紐解けば、大昔から人間たちの行なってきたことはそんなに変わらない。そういう視点から言えば、やはり「夜の街」や「夜の店」が反映している方が、その街や国の経済は繫栄している。それに、人と人の交流にしても、そういう方が交流が活発で喜怒哀楽の豊かな社会を形成している。もちろん、そういう中で“悪い事”も行われたりするので称賛は出来ないが、少なくとも社会形成の一環として「夜の街」や「夜の店」は“妖しい輝き”を放っている方が“豊かな国”のような気がするのだが……。

いくつになっても「お化け屋敷」は本当に怖い‼

2024-09-08
わたしは子供の頃から「お化け」的なものが苦手だった。20代から30代にかけては、不思議と“そういうもの”に対してミステリーの一部として探求心が強まり、嫌ではなくなったが、どういうものか50代後半くらいから再び“怖い気持ち”が優先するようになってしまった。先日、SNS上で「お化け屋敷」で“お化け”を担当されている方から、子供を無理やり“お化けに近づける”などの行為を動画撮影することに対して注意喚起する文章が投稿され、大きな反響を呼んでいるという。本気で嫌がっている子供を無理やり“お化け”に近づけさせようとする……とはどういう神経なのか、唖然とするばかりだ。わたしのように、もう“お化けに近い年齢”となってしまったのに、それでも“お化け”というか“幽霊的なもの全般”を「怖い」と感じしてしまう人も少なくないのだ。俗に“ホラーもの”の映画とかドラマとか小説とかでも、昔は平気だったが、いまは子供の時のように怖い。どうして、こうなってしまったのかは分からないが、とにかく怖いのだ。「お化け屋敷」などは、元々が“作り物”であることを知っている。それなのに“怖い”という本能は絶対に無くならない。わたしは大昔ボランティアで“精薄の子供たち”の学園などを訪れていた。その一環として、そのサークルで「お化け屋敷」を開催することになり、その中で“お化け役”を担当したことが一度だけある。メンバー5~6人が“お化け”として隠れていて、子供達が通ると“おどろかす役”なのだが、なぜか私の潜んでいた場所には子供たちが近寄らなかった。だから実質的には「お化けになれなかった」のだが、せっかく衣装とかメイクとかにも凝ったので、その時は残念だったが、いまになると直接“出遭わず終わって”良かったのだ…と思っている。いちど海外で、確か香港だったが「お化け屋敷」に入ってみたことがある。4~5人同時に入ったが、とにかく足が進まず困ったものだ。若い人に混じって入ったが、全員、怖がって「ギャー」と叫びながら出口へと駆け込んだ。もちろん、大人だから終われば楽しいのだが、それでも二度と入りたくはない。ほんとうにこういう“感受性の強さ”は困ったもので、なぜ楽しめないのかわからないが、とにかく“幼い子”を「お化けに近づけて動画撮影する」など、虐待や悪趣味以外のなにものでもない。ときどき、そういう“幼い子の怯える姿”が「カワイイ」と評判になったりするが、トラウマになるからやめた方が良い。

「一人っ子政策」が「ハーフの子」量産した⁉

2024-09-07
近年の中国における若い起業家や芸能人などを観ていて「欧米的になったな」と感じることが多い。中国でも韓国でも、ドラマなどでは“富裕層”を題材にしたものが多いが、そこに登場する近年の“富裕層”たちの姿は、昔の中国人や韓国人からは想像できないほどに欧米化している。特に中国ドラマからは“それ”を感じる。このほど中国政府は、正式に中国の子供を「外国家庭に養子として出すことを禁ずる」と定めた。2年連続で“人口減少”が明らかになった中国では、ここにきて一気に“少子化対策”へと本気で取り組まなければならない事態となっている。なにしろ、元々の人口が多い中国の場合、少子化の波が押し寄せれば一気に国家の経済が揺らいでいく。それにしても30年以上にわたって継続された“一人っ子政策”は中国にさまざまな“歪み”をもたらすことになった。そのいちばんは“男女数の不均衡”だ。つまり女児が生まれた場合、国外に“養子に出す”ケースが圧倒的に多かったので、その結果、男性数が女性数よりはるかに多くなる。その世代が現在の“婚姻世代”となっているので、つまりは今や貴重な“適齢期の女性たち”は男性を“択び放題”の状態なのだ。昔の表現を使えば“売れ残っていく男性たち”ということになる。当然、そういう“歪み”も手伝って出生数も減っていく。つまり過度な“一人っ子政策”は今になって、その代償を払わなければならなくなっている。もう一つの問題は、国外に“養子として出された女児たち”の方だ。つまり国外で大人となって結婚し子供を産む。その場合、当然のことながら「ハーフの子」ということになる。実はアメリカの家庭に引き取られていった女児たちがもっとも多く、累計で8万2000人も居るとされている。その女児たちの多くが既に結婚しているか、適齢期になっている。したがって、今後ますますアメリカには“中国系ハーフの子”が多くなっていくのだ。その一方で「中国」と「アメリカ」との国家的な対立は根深く、容易に解消される見込みはない。したがって、今後、中華系ハーフの子供や孫は多くなっていくのだが、その親の母国とは“対立し合ったまま”の状態が続いていく可能性が強く、もはや“母国としての親近感”すらも失われてしまう可能性が強い。外貌は明らかに中華系なのに“反中国”を掲げるような米国人が増えていくような気がする。

「♬男と女の間には…」の歌を想い出させる殺人

2024-09-06
奈良県の国道沿いにある「コメダ珈琲店」で5日の白昼に殺人事件が起きた。上空からの映像を見ても、店の敷地面積は広く、かなりの大型店である。最初は中年女性が首を刺されて救急搬送された……という報道だったが、やがて死亡が確認された。午後1時過ぎであるから、当然、店内には多数の客がいたはずで、しかも、その席には複数の人物が同席していたということで、どうして止められなかったのか、不思議な気がする。おそらく、とっさのことで制御する間もなかったからだろう。刺した人物は、刺された人物の元夫で、そこに複数の人物が同席していたということは、離婚後の“何かの話し合い”が行われていたに違いない。大体、考えられることとしては「復縁話」か「金銭関係」か「子供に関して」か、いずれかであるような気がする。つまり、いずれかで前から揉めていたに違いないのだ。いちばん可能性が高いのは復縁話で、その場合には元夫が「戻って欲しい」と願い、元妻が「戻りたくない」という感じの話。金銭関係の場合は「約束が守られていない」とか「金を返して欲しい」といった感じの話。子供に関しての場合は「逢わせてくれない」とか「もう逢わせたくない」という話。まあ、だいたいがこういった感じの話で“関係者を含めて逢う”カタチとなっていたに違いない。この中でもっとも確率が高いのは「復縁話」だ。そして、こういう場合には“別な相手”とか“DV”とかが絡んでいるケースが多い。元夫は、わたしの推察では“思い込んだら命がけ”的な要素を持っていて、元妻と「やり直したい」気持ちが強かったのだろう。そして、その想いが果たせないなら、元妻を殺害する気持ちを持っていたに違いない。周囲の人たちは彼の一途な性質を知っていて、万一の場合も考えて“付いて来ていた”に違いないのだ。そして、話し合いが行われたのだが、平行線であり、もう「無駄だな」と判断したころ合いを見て急襲したに違いない。それはいきなりで、まさか急襲されるとは周囲は思っていなかったから致命傷となったのだ。元夫は最初から話し合いが無駄に終わりそうなら「殺そう」と決めていたと思われる。わたしは昔、野坂昭如が歌った「黒の舟歌」の歌詞が好きだ。「♬男と女の間には深くて暗い河がある…誰も渡れぬ河なれど…エンヤコラ今夜も舟を出す」「♬たとえば男はあほう鳥 たとえば女は忘れ貝 真っ赤な潮が満ちるとき 失くしたものを想い出す」そういう事件だ。 « Older Entries Newer Entries »