12月, 2024年
2024-12-15
人はときどき人生の途上で立ち止まる。「この道だけが自分の道なのか」と、立ち止まる。多くの人は、一時的に立ち止まるのだが……そのまま進んでいく。少数の人だけが、立ち止まった後「もう一つの道へ」と、恐る恐る歩み始めていく。数年前、コロナ禍が起こって、大きく“混乱した業種”の一つが「芸能界」だった。彼女の場合には、それまでにも考えるところがあって、迷いながら“芸能人としての歩み”を続けていたようだ。だから、或る意味では“コロナ禍”がなかったとしても、もしかしたら“分かれ道”に向かったのかもしれない。きのう久しぶりに「トークイベント」の場に、コロナ禍の2020年10月1日「芸能界引退」を宣言した元女優の岩佐真悠子氏が登壇した。彼女は、その後、完全に芸能界を去って現在は介護職員として週5日、老人ホームで働いている。そして、そういう日々を「大変に充実した日々を送っています」と報告している。この人は確か“美少女コンテスト”か何かで択ばれて芸能界に入った人で、その後も、第一線で活躍していた。引退する少し前から、多少、華やかな場への露出が減っていたようには思うが、仕事に行き詰った感じではなかった。それでも、本人の中では、迷い続けていた部分があったようだ。そして、コロナ禍がやってきたことで、じっくりと考える時間が生まれ、もっと直接的な形で「世の中に役立つ仕事がしたい」と考えるようになったようだ。そして、いまは、その直接“役立つ形”で介護職員として、生き生きと充実した暮らしをしている。だから、後悔も、迷いもないようだ。もちろん、女優と介護職員とでは、その収入格差は歴然としている。それでも、仕事としての充実感や達成感というのは、人それぞれに違っている。彼女の場合には、老人たちの感謝の言葉や、彼らの手助けをすることで“共に生きていく”という働き方に悦びを憶えている。それは女優として“映像の中で輝く”ことよりも、ずっと、ずっと、手応えのある働き方なのだ。よく収入だけで“仕事を変えていく人”がいるが、どんなに収入を得ても、どんなに名声を得ても、数年経てば“その跡形が無くなってしまう”仕事もある。人に“生きていく力を授ける仕事”は、何にも増して“一緒に命の悦び”を感じられる仕事かもしれないのだ。
2024-12-14
誰もが、解かったような解からない雰囲気で、このニュースを伝えている。アメリカ次期大統領のトランプ氏が日本の「安倍昭恵氏」を15日、彼の邸宅である「マール・ア・ラーゴ」の夕食会へと招待したニュースだ。この夕食会にはメラニア夫人も“同席する”と伝えられている。確か日本の石破首相は、トランプ大統領が就任した直後に会談を申し込んだのだが「まだ就任前なので…」という理由から拒否されている。もっとも、それは“建前の話”であって、すぐ近しい外国首脳とは逢っている。実際、今回も、まだ就任前だが「日本の安倍昭恵氏」を夕食会に招待しているのだ。前から連絡を取り合っていた…という報道もあるが、特別に親しい間柄とも言えない。どうして、安倍氏の方からではなく、トランプ氏の方から「夕食会」へと招待したのか。もちろん、若くして“不動産王”となったトランプ氏が、ただ単に“親しい”という理由から、日本の“元首相夫人”を招くわけがない。彼は根っからの“商売人”であり“政治家”なのだ。理由は大きく二つある。その一つは、日本の「石破茂」という首相について、その“人となり”について、彼は安倍昭恵氏に訊いてみたいのだ。こういうことは、もし、安倍晋三氏が生きていれば“電話のやり取り”で済む。けれども、もう安倍氏は居ない。電話で“その夫人に訊く”というのは、すべきことではない。あくまでも名目上は“夕食会”としての席で、さりげない会話の中で、多少はアルコールも入っている中で、問い質すのがトランプ流だ。なぜなら、彼は元々商人で、相手を見極めながら“外交交渉を行う”のが得意なのだ。とくに、その“性格を考えながら”交渉していくのが得意なのだ。だからこそ北朝鮮の金正恩氏とも何度も逢った。交渉をしていくためには、まず、その人となりを知っておく必要がある。彼が11月の“石破氏との会談”を避けたのは、その人となりについて“よく解からない部分が多い”からだ。日本人だって、石破氏の性格は解かりにくい。欧米人は“解かりにくいタイプ”を根本的には好まない。ただ今後を考えれば“知っておく必要”はあるのだ。それと、もう一つは、メラニア夫人の方だ。彼は今回、その遊説中に銃撃を受けた。かすり傷で終わったが、また銃撃を受けないという保証はない。そこで銃撃され、亡くなった安倍晋三氏が意味を持つ。つまり安倍昭恵氏は未亡人なのだ。実は社交的な安倍氏はメラニア夫人の“姉”のような役割を果たしている。安倍氏の方も“野心の乏しい”夫人を気に入っているし、メラニア氏の方も気さくな安倍氏を“姉”のように慕っている。だから今回も同席するのだ。つまり、自分に“万が一のこと”が起こった時、頼りにすべき存在として安倍昭恵氏をトランプ氏は推奨しているのだ。腕のいい商売人であり、辣腕の政治家でもあるトランプ氏は、単なる“親しみ”だけで安倍氏を招待したのではない。
2024-12-13
日本は“治安の良い国”として世界中から知られている。それは事実だ。けれども、失くした財布が3年後になって戻ったからと言って、すべての人が“心優しい人たち”などと誤解をしてもらっては困る。しかも、それはネットニュースの一つとして“美談として”語られていたのだ。それは違う。この財布を失くされた方が、日本人なのかどうかは知らない。なんとなくニュアンスとして日本に長く滞在している外国人のような気がしないでもないからだ。O氏は2021年に人通りの多い渋谷で財布を失ってしまったと記述している。落したのか、置き忘れたのか、その辺は記されていない。ともかく、その財布には現金以外にも、O氏にとって“大切なもの”がいろいろ入っていた。あの人ごみの中で失ったのだから、もう、戻って来ることはないだろうと観念していたようだ。ところが、その3年後の今年になって彼の財布は、心優しい人によって「多摩川に浮いていた」ところを見つけられ、中のカードなどから持ち主が解かって連絡が来た…というのだ。こうして、すでにボロボロになってはいたが、そして、入れてあった現金は無くなっていたが、本人にとって大切なモノやカード類は残されたままだった。その大切な財布と、再び回り逢うことが出来て、改めて「日本」を“善い国”だと思ったし「日本人」を“心優しい人たち”だと思って、それを写真付きでSNSに投稿したのだ。もちろん、そここと自体は、大変に心温まる話だ。ただ、わたしが思うに、その財布が“多摩川から拾われた”ことには深い意味がある。なぜなら、彼の財布は空を飛んで多摩川に落ちたわけではない。だれかが“多摩川に捨てた”に違いないからだ。しかも、そのまま捨てたのではなく“現金だけ抜き取って”捨てたに違いないのだ。そうすると、この財布は、果たして“置き忘れたモノ”をたまたま拾っただけなのか、それとも、さりげなく“持ち逃げしたモノ”なのか、どちらかだということになる。たまたま拾った場合、通常の日本人(⁉)なら、そのままの形で警察に届ける。おそらくその財布は中が“ぎっしり詰まっていた”可能性が高く…であればなおのこと、そのまま届ける。けれども、その財布を手にした人物は、その中を確かめ“現金だけ抜き取り”他のモノはそのまま多摩川に捨てたに違いないのだ。そうすれば、仮に“その財布”が誰かに拾われたとしても、どこで棄てられたか、どうして棄てられたのか、だれにもわからない。ただ中にカードなど入っていれば、もしかするとやがては本人に届くかもしれない。もしかすると“貴重な写真”とか“お守り”とかが“免許証”とかが入っていたのかもしれず、それらは彼にとって“お金よりも重要なモノ”だったから、戻って来たのを悦んだのかもしれない。けれども、それを川で拾った人は確かに優しい日本人だが、それを“川に棄てた人物”は単なる“ワルイ人”であって、そういう人も日本には居るのだ。
2024-12-12
人の運命は、わからない。アメリカのデトロイトの養護施設で15歳の時に出産した少女は、やがて、その25年後にアフリカのガーナの都市タマレにおいて、14世紀に建国された「ダグボン王国」の末裔である宗教的な指導者から「友愛の女王」という称号を贈られ、実際にその王国の女王として現在は暮らしている。彼女ケネディ・ジョンソン氏は幼い頃から親から引き離され養護施設で育った。そして、まだ15歳の段階で妊娠し、未婚のままで施設の中で出産し、女児を産んだ。こういう例はアメリカでは決して少ないことではない。ただ出産後に彼女は“血縁”というものに興味を持ち、DNA検査を受けた。その結果、自分はナイジェリアとガーナの血を引いていることが解かった。ナイジェリアもガーナも西アフリカの国である。彼女はふと「そこに行ってみたい」と思った。行動力のある彼女は、すぐそれを行動に移し、西アフリカへの旅に出た。西アフリカの大地は、彼女に「おかえりなさい」と歓迎してくれているように感じた。奇妙なほどの“安堵感”があった。この旅行から帰ってすぐ、彼女は、西アフリカ旅行に特化した旅行会社を自ら設立し、次々と新しい旅の企画を売り出すことに成功した。まるで何かに導かれてでもいるように、西アフリカとの関係が深まっていった。もちろん、彼女自身も何回もそれらの旅行に随行した。そうしているうちに、あるとき、どうしてもガーナ北部に「行かなければ…」という衝動にかられ、14世紀に建国されたという王国の長老と出逢い、すぐにその宗教的な指導者から「女王」の称号を贈られ、その街(王国)に留まることになった。なぜか王国の人々も彼女を“自分たちの女王”として崇め、彼女自身も、自分が“そこに留まらなければならない”ことを自覚していた。そして、あっという間に彼女は、その王国の女王としてさまざまな救済事業を行い、若者たちからは「粋な女王」の称号で親しまれている。いまや“身寄りのない15歳のシングルマザー”だった少女は、威厳あるアフリカの女王として、見事に生まれ変ったのだ。
2024-12-11
ときどき地震学者というのは、何のためにいるのだろう…と思うことがある。政府が調査を依頼した「地震調査委員会」が一連の能登半島の地震活動に関しての結果報告を行ったが、すべてがあいまいで要領を得ない。ここ4年間にわたって地震活動は活発化しているとし、能登半島地域における地震発生の“理由”や“今後の見通し”は「よくわからない」というのだ。政府が多額の研究資金を与え、多数の学者たちを集め、何か月にもわたって調査した結果の“報告”が「わからない」では話にならない。今年だけで震度1以上の地震は2111回も起こっているのだという。先月26日にはM6.6で震度5弱の地震も起こった。元旦に発生した地震から、もう少しで一年が経とうとしているが、いまだに地震が続いていて、今後“終息していく”見通しも立たないのであれば……というか見通せないのであれば「現在の地震学では判断できない」と“白旗”を上げてしまえば良い。そうすれば、だれも“無駄な調査”は依頼しないだろう。わたしは最初の能登半島地震が起こった当初から、地盤としての明らかな段差が発生しているので、これは能登半島自体が“捥ぎ取られる”ような感じの地殻変動ではないかと直感した。それだとすれば、徐々に変動は段差を深めて、やがては本州そのものから分離していく“前段階”と考えられる。もちろん、それには相当数の年数が必要で、今すぐどうということではないかもしれないが、それに向かっていく可能性は大きいので、少なくとももはや“安全地帯”ではありえない。したがって高齢の人たちとか、どうしても動きたくない人とかは別としても、若い人たちはなるべく被災地付近の地域から避難というか、本格的に住居を移すべきなのだ。なにしろ今年だけで2111回も地震が起こっている。どうして、そんな地域を「復興すべき」などと考えるのだろう。“小さな地震”が続くのは「この土地を去れ‼」という地球生命体からの警告なのだ。したがって、地震学会が今後を見通せないのであれば、ムリに“終息時期”を考えるより、研究者としての“避難勧告”を発すべきだったのだ。そうでなければ、何のための多額の研究費なのか。多数の研究者なのか。何か月もの時間なのか。
2024-12-10
わたしは以前から、人間をすべて“平等”に扱おうとすること自体に対して疑問を持っている。近年はコンプライアンスの浸透から「平等でなければならない」という考えがはびこっているが、ほんとうの意味での平等など、土台がありえない。「裁判」は、その“平等”という部分が強く反映されがちな制度だ。4年前、福岡市の商業施設で起こった殺人事件に対しての“損害賠償請求”に対する裁判の第1回弁論が昨日行われた。この事件は、当時「少年院」から仮退院となり、更生保護施設で社会復帰の教育を受けていた15歳の少年が、そこを脱走して昼間の商業施設内で起こした事件で、刃物によって見ず知らずの21歳の女性を殺害した事件だ。被害者の母親が「娘を返して欲しい」と涙ながらに訴えたのだが、加害者自身は当時まだ15歳であり、その保護者である母親も「ずっと少年院に居て、その後も保護施設に居て、そこを抜け出しての犯行なのだから、自分には保護監督の責任はない」と主張している。確かに、長い期間、自分の手元を離れていたわけで、その離れている期間中の出来事でもあり、或る意味では“その間の責任者”は更生保護施設の関係者と言えないこともない。そうなると、この損害賠償請求では7820万円が請求額なのだが、実際問題として、加害者本人は解りやすく言えば“刑務所暮らし”でまともと働いたこともなく、父親も存在せず、母親も拒否姿勢なら、どこにも請求のしようがない。そして一番の問題は、事件を引き起こした被告である加害者が、当時15歳だったこともあり、刑法上は10年以上15年以内の判決が決っていて、もし、この裁判で被害者遺族の主張が通ったとしても、実際に「賠償金」が得られる可能性は極めて低い。さらに、この加害者は被害者家族に対して、一度も謝罪していない。現在は「心情など伝達制度」というものがあって、被害者遺族は、受刑者に対して弁護士立ち合いの元、直接質問することが出来る。被害者の母親は「娘を刺した時、どんな気がしましたか?」と受刑者に訊いている。それに対して少年が答えたのは「人はあっけなく死んでしまうんですわ」という回答だった。訊く相手を間違えたというか、土台が“反省の色”などまったくないのだ。この受刑者の場合、子供の頃からの犯罪で“少年院送り”になっている。まともな子供時代を送っていないのだ。それでも裁判は公平に行われなけれんばならない。果たして人はだれでも“平等”に扱うべきものなのであろうか。
2024-12-09
北イタリアの田舎町にその大学はある。年間の授業料が250万円という大学だが、世界各国から優秀な学生たちが集まってくる。正式名称は面倒なので省くが「食科学大学」という3年制の大学だ。料理そのものの大学ではなく、食文化、栄養学、食ビジネス、食品科学、農業など幅広い専門知識を身に付けて、今後の地球環境や人類の健康にも寄与しようという大学だ。したがって40か国以上の世界から学生たちが集まってきている。その食科学大学の学食では、実際に有名シェフたちが招来されて「ランチ」という形で創作料理を振舞うことが特徴の一つだ。もっとも、その料理代金は“別会計”として請求される。まあ、学食として提供されるのだから、本来の価格よりははるかに安い。通常は2000円前後だ。その学食としてのシェフ料理の一つとして、今年初めて日本のシェフ料理が登場した。なんと日本人でも通常は食べたことがない「京都吉兆」の“正統日本料理”だ。もちろん徳岡邦夫総料理長を始めとした四人のスタッフがイタリアに乗り込んで現地食材を用いながら腕を振るった。「キノコごはん、牛のてりやき丼、焼きやさい、牛のヅケ添え」といった品が並んだ。正直、お品書きだけだと、それほどの料理とも思えない。ただ現地ではニセの日本料理店が多い。ホンモノの味、それも京都の味は学生たちにとっては“格別”であったに違いない。その証拠に、価格は4000円と普段の二倍くらいしたのに、あっという間に完売したらしい。そうして学生たちから総料理長は「どうして、この食材から、こんな味になるのか」と質問攻めにあったらしい。イタリアでは近年、日本料理店が乱立し、日本酒の輸入量も激増している。そういう中で行なわれた「京都吉兆」のランチ会だっただけに、ことさら反響が大きかったのかもしれない。イタリアだけでなく、このところ、欧米人の訪日客が多くなって、改めて日本の食文化に注目が集まっている。ただ問題は、イタリアに出向くのも良いが、多く(ほとんど)の日本人は実際の「京都吉兆」の“味”を知らない。外国人が知っているのに、日本人が知らないというのは、どう考えてもヘンではないか。日本でも4000円くらいで提供する“出張店舗”は出せないものなのか……。
2024-12-08
不思議なことというのが、世の中にはよくある。その一つに「運気の共通性」というものがある。もっとも、これは私だけが言っていることで、他の誰かが言っていた言葉ではない。けれども、敏感な人ならだれでも、なんとなく“私が言わんとするところ”を理解できるはずだ。自分の人生の中で“共通の日々を送る”ということは自分以外ありえないが、極めて仲が良い“夫婦”や“親子”や“兄弟”や“恋人”や“親友”や“同僚”などの場合には、一時的に「ほぼ共通の日々を送っている」場合がある。つまり、自分とその人とは、まるで“重なり合っている”ような感じで日々を過ごす。多くの場合、それは“生涯を通じて”ということは少なく、特に密度の濃い“数年間”とか“数十年間”に限られる。しかも、興味深いのは、必ずしも“毎日密着していた日々”だけに限らず、離れて暮らして何十年も経っていても、稀に“重なる日々”が出てくるようなケースがある。作家で歌手でもありタレントでもある辻仁成氏と言えば、数日前、浴槽の中で亡くなられた女優で歌手でもありタレントでもある中山美穂氏の“元夫”としても知られる。ふたりは結婚してすぐパリへと旅立った。そしてフランスと日本を行き来するような形での結婚生活を12年間にわたって続けた。離婚後は辻氏の方が息子を引き取って育てた。中山氏の方は交際男性の噂が流れ、再婚するのかと思われたが、そうはならなかった。辻氏の方は“子育て”に愛情を注ぐ形となったせいか、再婚には至っていない。もっとも、辻氏の方は、それ以前に二度の離婚歴があり、中山氏との結婚生活がいちばん長い。つまり、ふたりとも、12年間一緒の生活がもっとも長い。この二人は職業的な部分でも、人気運的な部分でも、ちょっと似ている。その辻氏の方であるが、ここ数か月のSNS発信がなんとなく重いのだ。特に11月後半からの発信が憂鬱感が漂っている。別に中山氏との間に“何かがあった”などとは思わないが「運気の共通性」は存在していたような気がしてならない。だから、そういう点からいうと辻氏の方も健康には注意が必要なのだ。ソルボンヌ大学に通う優秀な息子には、最近、恋人が出来たらしい。或る意味では、父親はもう居ても居なくても大丈夫な感じになりつつある。もしかすると、子育てを頑張ってきた辻氏には“寂しい想い”が出てきたのかもしれない。われわれは無意識の中で一時期“共通の日々を送った相手”と互いの意思の疎通はなくても……似たような運気を過ごして、いまを生きているかもしれないのだ。
2024-12-07
大変に興味深い映画の全国上映が決った。正直言って、この映画は興味深いが、あまり“おすすめ”は出来ない。まあ、今の時代に“何となく”鬱積したものを感じている人には“おすすめ”と言えるかもしれない。もっとも、その中身について詳しく知っているわけではない。何となく推測できる……という程度だ。わたし自身“そういう世界の人たち”に対しては、あまり近づきたくなかったし、周りにも居なかった。この「逃走」という映画は、かつて東アジア反日武装戦線「さそり」の元メンバー桐島聡氏をモデルとして、その逃亡の半世紀を映画化したものだ。監督・脚本は、本人も「日本赤軍」に加わり27年間もの間、日本を離れて活動した過去を持つ異色の映画監督=足立正生氏だ。この人は、もともと映画監督として、若松孝二氏の下で働いた後、過激派に加わった。そして、日本に帰国して後、再び“映画の世界”に戻った人だ。だから、過激派思想家たちの気持ちや行動を描くには“もってこいの人物”と言えるが、問題は“今の日本”で、どの程度、こういう映画に興味を持つ人が居るのか、その辺は微妙としか言いようがない。ただウクライナやガザなど世界には未だ“混沌とした地域”があり、日本の近隣諸国も決して“平穏な状況”とは言えない。そういう不安定な状況の中では、かえって“この種の映画”が描く、人間の“生き方”“歩み方”は、それなりに若い人たちへの示唆に富んでいるかもしれない。この映画で主役を演じるのは古舘寛治氏だ。正直、名前くらいは聴いたことがあるが、ほとんど知らない。彼だけでなく、この映画に出てくる男優も女優も、わたしにはあまり馴染みがない。馴染みがない方が、こういう映画はストレートに中身が入って来る。来年の3月に公開だそうで、その頃、日本が“安穏な状況”かどうかわからないが、ちょっとだけ緊張感のある日本になっていた方が、こういう映画は特に海外から“高い評価”を得られそうな気がする。まあ、でも、こういうことを書きながら言うのもヘンだが、わたし自身は“ぬるま湯につかっている状態”が良いので、たぶん、視には行かないことだろう。
2024-12-06
アフリカ中央部に位置する「コンゴ」という国は、われわれにとってはあまりなじみ深い国ではない。したがって、どうしても“遠い国の出来事”と考えがちだ。ただ昔、流行(⁉)したエイズなども、最初はアフリカの一部だけで注目された感染症だった。そういう意味では、今回の“謎の感染症”も、その地域だけで流行っているだけなら良いが、徐々に世界へと蔓延していく可能性を持つ。その一つは「エムポックス」と呼ばれる感染症で、急性の発熱と発疹が特徴で、こちらの方は“世界的に広がる”というところまではいっていないが、既に「日本」にも上陸している。コンゴでは、この病の件数が4万7000件も報告されていて、死者も1000人以上に達している。或る意味では「コロナ」以上の威力なのだ。そして、もう一つの方が、まだ正式名称を持たない“謎の疾患”でインフルエンザに症状が似ている。ただインフルエンザと異なるのは、若い十代の人たちへの感染例が多く、一気に高熱、頭痛、咳が襲って来て、貧血となり、呼吸困難となって死亡してしまう例が多いことだ。この中で「貧血」という部分がインフルエンザとは決定的に異なっている。もう一つ、呼吸困難になって、そのまま亡くなってしまうというのも奇妙で、それも老人ではなく圧倒的に十代後半の若者たちなのだ。既に143人が死亡したとも報告されている。WHO(世界保健機構)もことの重大さを意識していて、既に現地に研究者を派遣し、現地の医療関係者と調査に当たっているが、いまのところ、確かな治療法はない。「コンゴ」という国はアフリカ中央部で、どうしてこの地域だけにこれらの感染症が拡大しているのかわからないが、日本のように衛生環境が整っている地域ばかりではないので、そういう意味ではいったん広がると、感染症は一気に拡大してしまいやすい。ただ本来は免疫性の強い若者たちに感染し、次々死亡していくところから考えると、その原因を突き止め、治療法を確立するまでに、それなりの時間を有するかもしれない。この年末、アフリカに赴く人は少ないと思うが、それでも海外での解放感から向こうでの飲食物に対しては細かな注意を欠きがちになる。2025年の年頭に“謎の病”が、本人も知らぬ間に海外から持ち込まれることがないよう厳しいチェックを願いたい。
2024-12-05
わたしは「運命」というものを扱う仕事をしている関係から、どうしても人生的に“波乱の多い人”や“人生遍歴の激しい人”に眼が行きがちなところがある。そういう点から言って、この人は“良い・悪い”はともかくとして、まことに興味深い。N党を率いる立花孝志氏のことだ。最近は何にでも“首を突っ込む”ような傾向も窺われて「目立ちたがり」な印象もある。ただ、その生命力の強さというか、エネルギッシュな発信力というか、或る意味で“現代を象徴する人物”の一人と言えるかもしれない。もっとも、最初に世の中に出てきたときには「NHKをぶっ壊す」というスローガンを掲げていて、確かに旧態依然としたNHKの体質には不満を抱く人が多かったから、そういう点から彼の主張に共感した人たちも多かったように思う。けれども、何回も党名を変えたり、内部的な問題が表沙汰となったり、主義主張がコロコロ変わっていくような印象を受けたりしているうちに、その初期に彼を支持していたような人達の多くは、もはや離れてしまったに違いない。日本人は基本的に“不真面目さ”を嫌う傾向が強い。そういう点から言って、いつの間にかこの人には“真面目に生きてきた人たち”からすると、どうも今一つ信じ切れない“危うさ”や“怪しさ”を感じさせるようになってしまった。いまや彼は政治家というよりも一種の芸能人で、何かと“お騒がせな人物”の印象が強い。このほど週刊誌で、彼の「税金滞納問題」が暴かれることになったらしい。もっとも彼自身は、それを隠しているわけでもなく「自分は、いつ自己破産しても良い」という“開き直り”とも言うべきスタイルでいるようだ。借金総額は12億円にもなるようで、まあ、借金もそれだけ出来ればたいしたもの……と感心してしまいそうな金額なのだ。政治家にも、いくつかの種類があって、彼は“破天荒型”とも言うべき政治家タイプだが、昔「政界の暴れん坊」とも言われた浜田幸一氏や「ムネオハウス」で有名になった鈴木宗男氏と多少似た要素がある。こういう人は政治家そのもので居るより、政治評論家とかコメンテーターとかの立場に立った方が注目度を集めるだろうと思う。ただ昔から、こういう人は自身の“財運”は乏しく、敵を持つことが多いのが特徴だ。今回も“税金の滞納”が表沙汰になるのは、今後の政治家としての資質としても影響してくることで、これからも微妙な“綱渡り人生”が続いていくに違いない。
2024-12-04
韓国の尹大統領は3日、TV演説を行い「非常戒厳」を発動した。戦争の時などを想定している“大統領権限”だが、すべての政治活動が禁止され、メディアなども統制を受ける事態となる予定で、突如、緊迫した状況が韓国内にもたらされている。もちろん、韓国はどこの国とも戦争はしていない。大地震が来たわけでも、クーデターが起こったわけでもない。ただ現在の尹大統領は、少数与党で政権基盤が弱く「クーデター」そのものは起こっていないが、大統領として、或いは政府として、十分な機能を果たすことが出来ない状態となっていた。そこで最後の“奥の手”として「非常戒厳」を発動したものと思われる。尹大統領はTV演説の中で「国会が自由民主主義体制を崩壊させる怪物になった」と表現し、今回の措置が苦渋の選択であった…と訴えている。ただ尹大統領の支持率は低く20%と低迷していて、与党内からも、今回の発動が「不適切だ」と批判する声が出ていて、今後、どうなっていくかは予断を許さない。市場だけが敏感に反応して、韓国ウォンが急落し、その反動で日本の「円」が買われている。また韓国ETFは米国市場で7%も下落している。日本のソフトバンクグループが出資している企業クーパンは10%近くも下落している。韓国の屋台骨であるサムソンも大きく下落中だ。韓国ドラマは“急展開”が特徴だが、まったくドラマのような展開で、この先の展開いかんでは尹大統領自身の“身の安全”も危うくなってくる。大体が韓国の大統領は、どういうものか暗殺されるとか、自殺するとか、拉致されるとか、刑務所送りとなるとか……不幸な晩年を歩む人が多すぎる。私が思うに、韓国人というか、朝鮮人というか、少し“権力”というものに、幻想を抱き過ぎ「みんなで支え合う」という精神が欠け過ぎているような気がしてならない。ドラマなどを観ていても、必ず“足の引っ張り合い”をする。もう少し、良い国を作るために妥協し、協力し合う精神が育まれないと、いつまで経っても「大統領だった人物の晩年は不幸」という歴史が繰り返される。一部権力者だけでなく、民族的にも“協調精神”を育む教育をしないと、同じような状況が続いていく……。
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