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過去の占いコラム

素顔のひとり言(エッセイ集)


生きる―ということの「意味」と「答え」


私が生まれる直前、父親は事業に失敗し、岩手の地を離れて北海道へと移住した。我が家が“極貧”の時になって生まれ育った私は、六畳一間に親子6人が寝起きする生活の中で幼少期を過ごした。幼い頃、天井の隙間から“星が輝く”翌日は決まって晴天だった。物心付いた時から「人間の運命」というものについて思い考えた私は “子供らしくない子供”だったかもしれない。

父親は昼も夜も働き、母親は病弱で寝たり起きたり入退院を繰り返した。兄と姉は学校に通い、ひとり残された幼い私は誰もいない部屋の中で、毎日黙って窓から外ばかり見つめていた。外へ出て遊ぶことはほとんどなかった。けれど、不幸だったのではない。空想力豊かで、その空想世界の中で“愉しむ”ことが出来た私は、そういう“自分だけの世界”を誰にも邪魔されることがない“独り”に満足していた。当時、私が気に入っていた空想世界の一つに、人は誰でも“仮面を附けられる”と、その仮面通りの人物にならなければならず、どんな善人でも「般若」の仮面を附けられると、狂気の人間に変身をして生きていかなければならなくなる…というのがあった。この“原作”とも言うべきものを土台として、様々なストーリーを連想するのが大好きだった。仮面を附けられないよう必死に抵抗するのだが“悪魔の組織”とでも呼ぶべきグループがいて、強引に仮面を附けて組織に取り込まれてしまう。そして一度附けられた仮面は、24時間以内に何か(何だったか忘れた)を探し出せば“引き剥がす”ことが出来るのだが、もし間に合わないと一生仮面を附けたまま“狂気の人間”として生きていかなければいけないのだ。

こういう奇妙なストーリーを空想しながら、窓を外の通行人達を見ているのが好きだった。はた目から見れば“独りぼっちの寂しい子”でしかなかったが、私には“独りの大切な時間”として今も記憶に残っている。

今回の地震や津波や放射能は、多くの罪もない人達を“不幸のどん底”へと押しやり、多くの“震災孤児”をも生み出した。それらの人々に同情する気持ちはもっともだし理解できるが、過度な“思い入れ”は私の体験から反って危険なこともある―と気付いて欲しい。極貧の家庭で幼少期を過ごした私だが、そして給食費やPTA会費を払わないと言って教師から怒鳴られ立たされた私だが、高校さえも行くことが許されなかった私だが、幽体離脱で霊界を見て来た私だが、火事で家屋が全焼した私だが、横断歩道で車に跳ね飛ばされ九死に一生を得た私だが、母親が熱湯風呂に落ち全身火傷で急死した私だが、或る日急に最初の妻から離婚を言い渡された私だが、我が子にも急に逢えなくなった私だが、株で一気に1千5百万を失った私だが…要するに人生いろいろあっての私だが、それでも、いや、それだからこそ、人生とは味わい深く良いものだ―という実感がある。運命とは不思議なもので、今現在どのような境遇にあっても、生きるということ、生きていく…ということは意味のあることなのだ。

誰しも、不幸になろうとしてなる人はいない。不慮の災難は、いつ、どういう形で、誰に降りかかって来るか、分からない。今、自分が恵まれた状況にあっても、明日、災難が襲って来ない―という保証は何処にもないのだ。人は人知では推し量れないような出来事に出逢って、初めて「運命」というものの存在を認めようとする。暗黙の内に認めざるを得ないからだ。理不尽だとどんなに叫んでも、過去は帰らない。そして不思議なことに、同じように不慮の災難に出逢っても、突然の不幸に襲われても、それから後の人生は同じではない。いや、むしろ大きく分かれていくことが多い。ここに、より“人間の運命”の不思議さがある。同じ境遇に置かれたからと言って、その後の人生が同一にならないところに「生きる」ということの本当の“意味”と“答え”がある。人間は誰しも弱い。ましてや自分に“非がない状態”の中での災難や不幸は、生きていく意欲や情熱を奪う十字架を背負わせる。今回の被災者の中に「お前達も同じような不幸に出逢ってみるがよい」という言葉を発した方がおられるそうだが、確かに“運命は不公平”なのだ。呪いたい気持ちも解かる。運命は決して公平・均一ではない。神仏は存在するのだろうかと疑問を抱くだろう。それが自然なのだ。但し、周りを見渡してみれば分かるが、長く生きているなら“幸運”だけが続いている人生もなければ“不運”だけが続いている人生もないことに気付くだろう。奇妙なことに誰であっても“幸運”な時期があり“不運”な時期がある。一見どんなに幸福そうな人生を歩んでいても、不運に打ちのめされた時期は必ず通過している。だから「運命」は不思議なのだ。被災者の中には“もう幸運な時期などない”と決めつけておられる方がいるかもしれないが、そんなことはない。自信を持って言う。希望を失うことなく生きていれば、必ず“幸運”や“チャンス”の時期は廻って来て、徐々にではあるが人生を変えてくれるものだ。決して投げ出してはならない。「頑張れ!」という表現は良くない、などという方がいるが、それは違う。「生きる」ということは誰しもが、それなりに“頑張る”ということなのだ。頑張らず生きるのは“生きる屍”であり、自ら“未来も幸運も放棄する生き方”となってしまう。辛くても、苦しくても、本能的に頑張って生きていくのが“本来の姿”なのだ。但し、苦しい時やみくもにもがくのが良いとは限らない。ただじっと耐え抜かなければならない時もある。同じ現象に出逢っても、人それぞれ運気は異なり、性格も異なる。まず、どうすべきかは人によって異なるのだ。共通して言えることは「自暴自棄」や「人生を放棄する」のが一番良くない。何度も言うように時に“試練”は与えても「運命の神」は決して見捨てることはなく、投げ出しさえしなければ必ず“幸運”を授けに来てくれる。“突然の不幸”を与えた見返りのように “信じ難い幸運”を授けて、あなたに頬笑みを取り戻させてくれるに違いない。

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