10月, 2007年

美容外科医と妖しい占い師たち

2007-10-23

久しぶりに女性週刊誌を読んだ。その内容などは相変わらずで、一般週刊誌や雑誌などとの違いを感じさせるが、もう一つ、私の目を引いたものがある。その雑誌に掲載されている広告だ。群を抜いて多いもの、それが美容外科医と妖しい占い師たちの広告だった。

そして、そこだけが大昔いつも読んでいた頃と違っていた。この二種類の広告だけが群を抜いて多くなったのは何故だろう。多分、女性たちは人知れず悩んでいる部分があって、或いは獲得したいものがあって、それを人知れず自らは努力せず手に入れたいのだ。その結果とはいえ、こんなに多くの美容外科医や妖しい占い師たちが、ひしめいている世の中と変わったことに一人の男性としては唖然とするしかない。けれども、同時に私は自分自身も「妖しいと評価されがちな占い師」の一人でもある。そういう立場から云えば、これらの広告は二つの意味合いで考えさせられる。まず一つは「妖しい占い師たち」だ。どうしてこんなに沢山いるのだろう。しかも、共通して名前が変だ。キャバクラでもないのに、姓はなく名だけがある。妖しい。女性はまだしも、男性で姓なく名だけはちょっといただけない。そこに書かれてあることも何となく変である。そういえばキャバクラやホストクラブのような風俗店も、やっぱり暗くて妖しい。会話も変だった。

美容外科医も随分増えた。こちらの方は妖しいのか科学的なのか、安全なのか危ないのか、本当のところ良く分からない。ただ、昔と比べて対象としている身体の分野が広がったことに驚く。運命学的な観点から云えば、身体を変化させることは、必ずしも悪いことではない。もしもそれが観相学的に良い変化となるなら、大いに行ってみるべきであると私は思う。韓国など、大統領自らが行なっているのだから、時代も変わったものだ。女性たちの多くは美容的な観点のみから行うが、私は大金を出すのなら、観相学的な視点からも好ましい変身をして、幸運も同時に手に入れて欲しいと願っている。

観相学的な視点からの変身と云う点では、別に美容外科手術だけが、その役割を担っているわけではない。たとえば化粧法にしても、運を呼び寄せるメイクと云うものはある。たとえば眼の周辺には、決してブルー系や紫系のシャドウを使用してはならない。これらは観相学的に「恨みを買う色」なので控えて頂きたい。姑と不仲の女性は無意識に目蓋に紫を塗りたがる。濃い茶系や赤系もトラブル発生の色で不吉だ。離婚を決意した女性の多くが目尻に濃い赤茶のシャドウを塗る。眼の周辺のシャドウで良いのは、淡いピンク系とシルバー系のシャドウだ。ちなみに「出会いがない」と悩んでいた女性は、淡いピンクのシャドウを使い始めて間もなく、素晴らしい男性と出会って恋に堕ちている。メイクによる吉凶は馬鹿に出来ないのだ。

ちなみに我々が普段好んで着る服装の色と云うのは、自らが発しているオーラの色に影響されている場合が多い。もちろん、これは無意識に選ぶファッションの色で、その時の気分に支配されている場合である。日本女性の場合、妙に地味でくすんだ色のファッションをしたがる傾向がみられる。それは自ら発しているオーラが、地味で凡庸なものであることを反映している。けれども、そういう人であっても華やかなスポットライトを浴びて、自身が輝きだすようになると選ぶ洋服も無意識に華やかに変わるものだ。決して地味でくすんだファッションはしなくなる。

したがって、華やかな人生を生きたいなら、周囲に溶け込んでしまうような地味でくすんだファッションはせず、周囲の眼など気に掛けることなく、華やかなファッションをすべきなのだ。

印(しるし)と呪術

2007-10-14

最近、K1やプロレスを見ていて、刺青(タトゥ)を入れている選手が多いのが目に付く。鋼鉄のような肉体をもつ欧米ファイターが「家族愛」と漢字で二の腕に彫り込んであったりすると、何となく微笑ましい気持ちになったりする。せっかくタトゥを入れるなら、もう少し美的センスの良いものを彫れば良いのに…と感じることも多い。

元々我が国はタトゥの国だった。このように記すと信じられない人が多いと思うが、外国人の目から見た日本について書かれた『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には、卑弥呼の時代の日本人は誰もが「文身(いれずみ)をしている」と明記されている。刺青(いれずみ)の文字が「文身」となっているように、日本人の入れ墨は「文字のように見えた呪術的文様」から入った。定まった刺青を入れることで、その血統や役職や能力(先祖から授かる霊能力)を明確としていたのだ。実際、それは日本に限ったことではなく、種々な古代文明地域で同じような風習があった。護符や霊符と似たような意味合いから彫り物を入れてきたのだ。その風習は奇妙な形で近代まで続き、神仏の姿を背中に彫ることが任侠の世界などでも行われていた。

そのような意味から云えば、霊障に悩む人とか、トラウマに怯える人とか、前世的因縁を断ち切りたい人とか、厭世感の抜けない人とか、天涯孤独の人とか…が、背中や肩口に大きく自分の信ずる神仏を彫り込むことは、決して意味のないことではない。強い思いや念を込めて彫り込まれた神仏が、常に自分と一体化して守ってくれている、と信じることは弱い人間にとって大きな救いとなるかもしれないからだ。医薬や科学は、そういう分野には今もって無力だ。呪術だけが、そういう人たちの強い味方となっているのは否定できない。

また、古代人は慢性的な持病を抱えているときに、自分の身代わりとなってくれる土偶を作り、その土偶の一部(自分の患部と同一の場所)を壊して、身体が一部欠け落ちた土偶を神前、又は墓地の中に呪文を唱えながら埋めた。こうすることで、土偶が自らの身代わりとなって、疾患個所は蘇える、と信じられたのである。このような呪術は、一見、馬鹿げているかに思えるが、ズーブー教の呪術師などは、その呪術を警察から禁止されるほど力があった。

日本における「丑の刻ー藁人形の呪術」なども、それらの部類と云えるだろう。ただ、せっかくの呪力を悪い方に用いているような気がする。巷で話題の「復活愛」なども呪術を用いることで可能となるかもしれないのだ。

街を歩くと、秋の装いは女性のハンドバッグを目立たせる。ここでも呪術信仰がある。ブランドバッグがそれだ。大きなロゴ、目立つロゴの入ったブランドバッグを持つ女性たちは、自分が「シャネル」や「グッチ」や「ヴィトン」の信仰者であることを、誇らしげに明示している。まるで腕にそれらのロゴを刺青して歩いているようなものなのだ。それらの刺青が愛と幸運をもたらしてくれるはず、と信じているかのように…。

古書に描かれているメッセージ

2007-10-12

何気なく書棚で本を探していて、ふと手に取った古書から、以前に所有していた人物が発する念のようなもの感じることがある。その書物は、別に私が書棚から取り出そうとして開いた本ではなかった。同じところにある別な本を取り出そうとして、たまたま取り出しにくかったので先に出しただけの本なのだ。

けれども、その書物は、まるで意志を持っているかのように、はらはらとページがめくれ、鉛筆書きで余白にびっしり書き込みがあるそのページを開いた。別にそれは初めて知ったことではない。運命学専門の古書店から、通販で購入した最初から、それは知っている。何しろ鉛筆による書き込みがやたら多いのだ。多分、だから相場よりも安かったのだ。もちろん、各ページの余白に書き込みがあるのだが、本当に驚くほどびっしりとあって、嫌がる人もいるかもしれないが、私はそう云うことは気にしない方なので、勉強熱心な人だと思うくらいで特別気にもしていなかった。

ただ、今回は別にその本を読もうとしたのではなく、別な本を探してのことだっただけに、妙にその書き込みが気になった。もちろん、最初に購入した時にもザッとではあるがその内容に眼は通していた。要するにそれは昭和初期に書かれた手相の本なのだが、その余白にびっしり書き込まれているのは、その本とは別な種々の手相・人相の本から抜粋したと思われるような内容の記述ばかりなのである。その中には、さすがの私も知らないような秘伝的内容もいくつかあって、その記述の仕方が鉛筆書きであるのに、まるで書物としての文章そのままであるだけに、書き込みを読み進むだけで、もう一冊の別な本を読んでいるような気分にさせられる。

それにしても、この書き込みの主は、私がやがて古書として購入し、こうして書き込みの部分だけを読み進むようになるなど知るはずがないのに、何故こうもびっしりと、本来の書物とは直接関わりない記述をしていったのであろうか。以前の所有者がプロの観相家であったかどうか知らないが、これだけ書き込むのだから、単に趣味的に読まれていた方でないことだけは確実である。その文字からも知性が窺われる。私自身も、新しく購入した書物に書き込みをすることは珍しいことではない。ただ大抵はその書物の内容に関してで、まったく関係ないことは書いた記憶がない。しかも、これだけぎっしりと書き込みのある本と云うのも珍しい。さらに、私が意識して読もうとしたのではなく、たまたま書棚らか先に取り出しただけの本なのだ。

そのようなことを改めて考えると、怖いと云うより、私にはこの書き込みの主が妙に身近に思えるのだ。まるで先輩とか、仲間でもあるかのように身近で、私に読んで欲しかった、と歓んでくれているような気さえするのだ。古書と云うのは、もしかしたら、それを所有していた以前の人物と「出逢う新たなる場」であるのかもしれない。

実は、私は運命学的な観点からも、一つの仮説を持っていて、もしかしたらアンティークな品物と云うのは、それを新たに所有することになった人物に、その以前の所有者から「運」も同時に引き継ぐ役割も与えられているのではないか、と云う考えを持っている。

例えばアンティークな家具、宝飾品、絵画、書物、衣裳、人形など、以前の所有者がそれに対して愛着を持っていればいるほど、強い「念」と云うものがそれに付随していて、それに纏わる運も一緒に継承するようになるのではないだろうか。以前、巨富を得ている人達に共通している事実として、アンティークな宝飾品や絵画を所有していると云う共通性に驚いたことがある。いや、正確に云うと、そういうものを購入し始めてから、大きな財力を得ていったという人物が多いのだ。もちろん、これは愛着を持っていた場合に限られるので、買ってすぐ転売したようなブランド品等では意味がない。

但し、それが逆作用と云うべき形で、それを身に着けたり、所有してしまったために不幸を招くケースもしばしば見受けられる。特に、母親の指輪を娘が受け継いで薬指にはめるのは、母親が不幸な亡くなり方をしている場合、止めた方が良いような気がする。アンティークは用い方さえ誤らなければ、幸運を呼び寄せてくれる武器となるのだ。

植物が発している「気」と風水効果について

2007-10-09

先日、観葉植物の鉢植えを三つほど捨てた。どうも水をやり過ぎたせいか、虫が生じて来てしまったからだ。せっかく美しく、形良いものだっただけに残念だが仕方がない。風水的観点から云うと、枯れてしまったり、腐ってしまった植物を長く室内に置いておくのは良くない。生き生きとした植物であってこその風水効果だからだ。

植物と云うのは、人間以上に環境と云うものに対して敏感である。そして「気」の発し方も判りやすい。私が尊敬した観相家は「人相の気色を習得する一番の近道は植物を観察することだ」と云っている。確かに「気の強い植物」と「気の弱い植物」とでは、明らかな違いがある。最近、良く使われる表現を使えば明らかに「オーラが異なる」のだ。実はこの「オーラ」と云う存在の研究も、撮影化と云う点では植物の方が早かった。

植物の葉の一部を切り取って、特殊なカメラで撮影すると、その切り取られる前の葉先のところからオーラを発し続けていることが示され、オーラの存在が科学的に証明されたのだ。人間の場合でも、例えば手術などで足など切断した場合、そのすぐ後で撮影すれば確認されるかもしれないが、今のところそういった事例報告は聞かない。

植物の発する気(オーラ)は、同じ植物でも朝方が一番強く、夕方以降が弱い。また、晴天の方が強く、強風や雨天の時などは弱い。南国等だと、スコールのような雨が降って、そのあと強い日差しが戻ってしばらくしたような時もっとも気が強く発せられるようである。観葉植物なら葉の色が濃い緑で厚い方が気も強く、葉色が淡く柔らかで薄っぺらいと気は弱くなる。もちろん、その植物の大小や生命力そのものとも大いに関係がある。

植物にクラッシック音楽を聴かせて育てると美しい花を咲かせるとか、激しいロックを1日中聴かせていると萎れたり、乱れた葉先になったりすると云う実験まである。総じて太陽の光と適度な水と過ごす環境とは、植物の「気」と無関係ではない。

風水的な観点から云えば、植物が育たない土地や環境は、人間の生命力や生活環境としても良いとは云えない。鉢植えであれ、切り花であれ、室内で植物と共存すると云うことは、植物からの気を受けながら生活すると云うことになる。家族と一緒に暮らすよりも、独り暮らしの狭い室内で鉢植えや花瓶を置き、植物と一緒に暮らす方が、よりその影響を受けやすい。したがって、お年寄りで独り暮らしの人などは、ぜひとも力強く気を発している大型の鉢植えたちと一緒に暮らされることをお勧めしたい。どちらかと云うと、葉先の丸い濃い緑の観葉植物が理想的だ。庭やベランダで種々な植物と暮らしている場合は、冬場の時に気が衰えるので、そういう時に小さな子供たちと会う機会を増やすようにすると、若々しい気を貰い受けることができる。奇妙なもので、気と云うのは一緒にいるだけで補い合う作用を持っているらしい。そういう意味では、クリスマスとか正月とかに、普段一緒に暮らしていないお爺ちゃんやお婆ちゃんの所へお孫さんを連れていくと云うのは、大変理にかなった行為なのだ。

本当はだから、年を取って身体に故障が出て来て老人病棟に入院するようなときには、なるべく若い看護師さんが多い病院に入れてあげるのが親孝行なのだ。

もう一つ風水的な観点から云うと、玄関に来客を意識して飾る花は寿命の短い切り花でも一向に差し支えないが、リビングに飾る花は日持ちする花であることが風水的には好ましい。その色合いも優しい色合いの方がリビングの場合はふさわしいものだ。逆に玄関は、華やかである方が来客を迎えるのにふさわしい。恋愛縁の乏しい人、交際関係に悩んでいる人は、玄関に花を飾り続けることで良い出会いに巡り合うことができるだろう。玄関の場合、方位的なものはあまり気にし過ぎ無くても大丈夫だ。ただ、枯れた花をいつまでも飾っておくのは逆効果なのでつつしまれたい。