12月, 2015年

2016年1月・ラッキー星占い

2015-12-31

10年ごとの不思議

2015-12-31

「十年一昔」という言葉があるが、確かに、十年ずつ年齢を戻して“退行していく”と、節目節目に当たっていることに気付かされる。40年前、私はまだ会社員だったが、同時にいろいろなことをしていて最も忙しい時期であった。演劇を行い、ボランティアを行い、小説も書いていた。四つのサークルに属し、会社では社内報の編集長だった。30年前、私は会社を辞め、占いで自立を試みたが収入が激減し、見知らぬ土地で窮地に立たされていた。20年前のこの日、私は一通のFAXを受け取った。当時占術界をリードしていた木星王からで“占星学書執筆の依頼”だった。私は既に結婚し、子供もいて、毎日「占いハウス」で実占し、電話鑑定も行い、占い教室も持っていて忙しかった。10年前、私は既に離婚し、現在の妻と出逢って同棲し、種々な占いコンテンツを持っていた。購入していた株が値上がりし、このままセレブになれるのでは…という甘い幻想を抱いていた。

「94歳」に完敗

2015-12-30

94歳になる義母の母親、つまりお祖母ちゃんとホテルレストランで食事をした。一年前は他の親戚たちがいたので感じなかったが、食欲旺盛で話し始めると止まらない。ビールを二本も空けた。逢う前に、妻と「介護の日を増やそうか」などと話していたのだが、とてもそういう雰囲気ではなかった。私は2時間も一緒にいると疲れてきたが、お祖母ちゃんの方は「今日は高齢者住宅の方に午後八時までに戻ると書いてきた」と楽しそう。昼食のために出てきて「午後八時に戻る」って、どういうこと。義母が癌となり、お祖母ちゃんの世話が出来なくなったので、今後を考え逢ってみたのだが、お祖母ちゃんをタクシーに乗せようとしたが、一人でどこかに行きたそうだったので「あっちから乗るから」という“嘘”を見守って、我々は地下鉄に向かった。94歳に完敗。

「先が見えない」ことの不安

2015-12-29

同じ震災の被災者でも宮城や岩手の被災者が立ち直りを見せている反面、原発事故の現場となった福島の被災者の自殺者が未だ続いているそうです。人間はどんな窮地に追い込まれても、その向こうに“希望が見える時”、困難や苦しみに耐えていくことが出来ます。けれども目隠しされてしまったかのように「先が見えない」状態に追い込まれると、不安と焦燥ばかりが大きくなって「生きる気力」が失われていくのです。けれども、現状では先が見えないように思えても、意外なところから“光が差し込まれている出口”がポッカリと開いていたりするものです。その出口を見つけ出す「道しるべ」として“正しい占い”を利用してほしいと思います。

“課せられた業”と“宿縁の相手”に出逢う旅

2015-12-28

誰でも、ある程度の年齢になると、自分のやってきたことを振り返る。これで良かったのかとか、これしかやり遂げられていないとか、いろいろ余計なことを考える。人ひとりが出来ることなど、所詮、たかが知れている。そんなことは分かっているのだが、それでも、自分の力をすべて出し切ってはいないもどかしさを感じる。多分、多くの人がそうなのだ。

私は人生の前半というか初期のころは、普通に会社勤めをして、普通に会社組織での仕事をしていた。今考えると、ずいぶん生意気な会社員で、自己主張が強かったので、経営者や上司はいろいろと困ったことだろう。基本的に自己主張の強すぎる人は会社組織には向いていない。当然、私は“浮いていた”ことだろう。ただ私が入った会社は、そのあと休みが増えたり、給与が増えたり、組織的に改善するケースが多かったので、そういう意味では多少、働いている人たちに貢献する部分もあったかもしれない。

私は勤めてはいても、いずれは“占いを本業とする”つもりでいたので、終業時間になればすぐ退社する“身勝手な社員”だったが、その代わり会社内にいる時には昼食時以外はほとんど休憩することはなく、黙々と仕事に励んでいた。技術職だったので、技術そのものは優れていたから、まあ身勝手ではあったが、会社への貢献度は決して低いわけではなかった。私の理想としては、一日も早く、占いや執筆の仕事が軌道に乗って、収入が増え、それらだけで生活ができるようになることだった。

けれども今考えると、あの頃がもっとも生活が充実していた時期で、何よりも“未来への希望に満ち溢れ”活き活きとした毎日を送っていた。占いの研究も、完全なプロ生活よりも、趣味とかセミプロ的な状態の方が“純粋に研究する”時間が持てるものだ。私の独自な研究は、あの頃に培ったものがほとんどを占めている。それに会社組織での技術職の場合、自分で営業する必要もなく、仕事は向こうからやってくる。その仕事をこなしていけば、きちんとした定期収入が得られる。一人だけ残業せず毎日定時で帰っても、叱られたこともなかった。 

私はいつの頃からか、人は“課せられた業”を背負わされて産まれてくるのだ、と思うようになった。課せられた業=課業は、遁れようとしても遁れることが出来ない“宿命的な仕事”であり、それは現世において本人がやり遂げなければならないものであった。私の場合、それは後世の人達にとって役に立つ“占いの解明と著述”を遺すことであった。それはなんとなく十代から気づいていたもので、どうしても成し遂げたいが、果たしてそれが可能かどうか自信がなかった。けれども、それから遁れられないことは分かっていた。だから、会社組織に居ても、その組織内の仕事が“仮の仕事”である意識は抜けないのだった。

もう一つ、生まれつき定まっているのは“宿縁の相手”と出逢うことだった。これも、遁れがたいことだが、この相手が“結婚の相手”かどうかは解らない。“恋愛相手”の場合もあり、“親友”の場合もあり、“ライバル”の場合もあり、“父母や兄弟”の場合もあり、“子供”の場合もあり、“恩師や子弟”の場合もあり、様々なケースが存在する。必ずしも、一人だけとは限らず、二人、三人と多い場合もある。「宿縁」という札でも下げてくれていれば解りやすいのだが、そういうわけでもない。ただ必ずそういう相手が出てくることは確かなのだ。「宿縁」だからと言って、プラスに働くとは限らない。時には“十字架を背負わす相手”の場合もある。

結局、“課業”と“宿縁の人”を引き摺りながら、生きていくのが人生なのだ。好き嫌いではなく、そうせざるを得ないような、それらとの関わりを“拒否できない”ような生活に自然と向かっていくのが人生なのだ。しかも、それら二つは占い師の元を訪ねなくても、本人が“本能的に感じ取っていく”べきもので、その方が“本人にふさわしい生き方”ができる。

年末年始と「家庭」の有無

2015-12-28

奇妙なもので年末年始になると、普段「家庭」とか「家族」とかを顧みないような人でも、不思議と“家庭人ぽい側面”を見せるようになります。独身者でも親元に帰るとか、単身赴任者でも地元に戻ったりするものです。中には毎年、年末年始だけ“家族と過ごす”ことを、ずっと何十年も続けているような人もいます。一方、普段は“愛に包まれている”ような人でも、この時期になると、急に“独りである”ことを実感する生活に引き戻される人もいます。改めて「天涯孤独な身の上」であることを教えられる人もいます。この時期だけ“大家族”に戻る日本人と、この時期だけ“孤独を噛みしめる”日本人と、いつからか“二つの日本人”が「年末年始」にだけ“別な顔”をのぞかせるのです。 

“すべる”季節

2015-12-27

年末が近づくと、北国は“すべる季節”になるが、お笑い芸人も“すべりやすくなる”ような気がする。「あかしやサンタ」の村上ショージ父娘共演は完全にすべっていた。まあ、元々が笑うような芸ではないので許せるが…。女子高生の制服を24着も盗んで逮捕された芸人の方は、明らかに“すべりすぎ”で、とてもとても笑えない。こういう“ヘンな性癖”は、本当に親しくなった相手との間でだけ行うようにしないと、犯罪になってしまう。それでなくても冬道はすべる。「笑えない芸人」が多すぎる今日。TV局は、誰もが正月に“笑だけを”茶の間が求めているのではないことを、もうそろそろ気づいても良いのでは…。

「生まれ変わる」ということ

2015-12-26

「生まれ変わりたい」と言っても、亡くなって後もう一度…ということではありません。今の状態から脱出して、裸になって、人生をやり直すという意味で「生まれ変わりたい」と望むことです。そのために必要なのは何でしょうか? ここが解っていないと、生まれ変わることはできません。本当に「生まれ変わりたい」のであれば、いったん、今の自分を“無”にすることです。名前も、仕事も、家族も、すべて「失う」ことを覚悟することです。今の自分の延長線上で生まれ変わることを望んでも、それは無理というものです。すべて無くして、裸になって、見ず知らずの所に行って、見ず知らずの人達に囲まれ「ゼロ」から再出発する覚悟があれば、生まれ変わることは可能です。

誰もが「中流」と答えていた時代

2015-12-25

最近、あらゆる場面で「格差」の広がりを感じることが多い。日本人のほとんどが、自分の生活を「中流」と感じていた時代は完全に“過去”のものとなった。そういう時代があったことすら、今となっては信じがたいくらいだ。あの頃、私は「なんて個性の乏しい国だろう」と思った。みんなが同じということが“つまらないこと”のように思えたのだ。けれども、時代が変わり、明らかな格差の広がりがみられる今日、その広がりが誰の目にも明らかな今日、あの誰もが「中流」と答えていた時代が、実は“素晴らしい国”のあり方であったことに気付かされ、呆然とする。それは或る日、不意に“昔の恋”の素晴らしさに気付くような、青春を取り戻したくなるような“もどかしい感覚”。

消えた占術

2015-12-24

最近、種々の史料や古書など読むようになって「消えた占術」の多いことに驚かされています。つまり、昔は存在していたのに、いつのまにか失われていった占術のことです。後継者を得られなかった場合もあるし、その占い人気が急速に薄れてしまったとか、その地域や時代にだけ隆盛を極めた占いで忘れ去られたもの、書籍化されていないので技術的に復活が難しい占いもあります。運命の把握や未来予知に役立つ占いは、正しく用いれば「人類共通の宝」となりうるはずで、その掘り起しや復活を目指すのは私一人だけなのであろうか。

「携帯電話」も「スマホ」もない生活

2015-12-23

もう「携帯電話」も、当然「スマホ」も、持たない生活になって5年以上が経つ。それを言うと皆目を丸くする。「不便じゃないですか」という人もいるが、特別不自由を感じたことはない。もちろん、固定電話があるし、パソコンもあるし、情報・通信のやり取りには何の支障もない。外出はよくするが、もちろん「留守電」にするので問題ない。私は昔、外出時に電話が通じるようにすべきか悩んだが、尊敬していた人物が「そういうことは気にすべきでない」と言われた。人は“縁”だから、出逢えないとか、不在だったとかいうのは“縁がないこと”を意味するのだから、そういう時に無理に“縁を保つ”努力は無駄なのだ、と教えられた。外出時に電話は不要なのだ。

「運命」の扉を開くもの

2015-12-22

私の職業は「占い師」だが、本当はこの職業に対して違和感がある。私自身は「運命研究家」になりたかったのだ。そして、その思いは今でも変わらない。私は幼い頃から現在まで、ずっと“人間の運命”そのものに惹かれてきた。「運命」としか呼びようのないものに、何故か惹きつけられ、魅了されてきた、と言っても良い。これは自分自身の運命というより、様々な人たちの運命と云った方が、よりピッタリする。もっと言えば“運命としか言いようのない人生”を歩んだ人たちの「運命」と言ったら解って頂けるだろうか。

人間には大きく分けて“二つの人種”がいる。その一つは、あまり「運命」を感じさせない人生を歩む人。つまり、取り立てて「運命」という言葉や表現を使うような場面が少ない履歴を歩んだ人生。確かに、そういう人もいる。けれども、その一方で「運命」という言葉や表現を使わずにはいられないような“過去”や“場面”を経験している人も多い。時代や環境や歴史が、自らの「運命」とクロスしている人たちも多い。

“時代の波”に翻弄される形で、愛する人を喪うとか、離れ離れになってしまう人たちもいる。本人の意思とは無関係に“偶然の出来事”が重なって人生を大きく変えていく場合も多い。出生時点で職業が決まっていたとか、結婚の形が決まっている場合もある。“運命的な出逢い”としか言いようのない形で、人生が180度転換していくケースもある。事故や事件に巻き込まれたことで、その後の人生が変わってしまう場合もある。

何故「運命」はあるのだろう。何が「運命」を作るのだろう。そして「運命」は本当に変えられるのだろうか。「運命の正体」を知りたい。「運命の本質」を探し出したい。「運命の秘密」を解き明かしたい。それは本当に“神の領域”なのだろうか。それとも個々の出生時における“天球図の様相”をそのまま反映したものにすぎないのだろうか。

幼い頃から、私は「人間の運命」の不可思議さに魅せられ、神の領域に踏み込むかもしれないことを恐れなかった。ただただ知りたかったのだ。どうしても知りたかったのだ。けれども、あれから50年以上の月日が経って、私は何を見たのか。神の領域に踏み込むどころか、神の領域に近づくことさえも、未だ出来ずにいる。宇宙に飛び出して「神の存在を感じた」宇宙飛行士たちがいたが、それらと変わることなく、私は無力だった。何一つ、ただの一つも、解明出来ていないもどかしさに苛立つのだ。

ただ“多くの人生”を見て、確信していることがある。「先天的運命」は確かに存在するが、そればかりではない。つまり「後天的運命」もあって、そちらの方は“自由意志”が使えて、それにより「運命」は“変更可能なもの”であること、とかく「運命」というと“不可避なもの”のように誤解されるが、そういうものばかりではなく、だから“人生は面白く”、人間として“生きていく価値あるもの”となっているということだ。けれども、人生のレールも“変換しやすい時・場所”があり、“変換しやすい方向”もある。それを間違えると、“無駄な努力”を重ねることになる。実は“ちょっとした違い”が、事実上、後々の“運命を大きく左右する”ことになっている事例が多い。多くの人は、最初から“大きな差がある”よう誤解しているが、実際には「人間の運命」には“大きな差”は存在していない。“大きな差”は、“ちょっとした違い”の積み重ねの中で広がっていくだけなのだ。

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