12月, 2015年

2016年の日経平均は22000円越え

2015-12-22

投資家の方たちには朗報です。来年の日経平均は一時期22000円超えとなることが占い上で示されているからです。但し、22500円までには達しません。ですから、現時点からですと3000円余プラス状態ということです。特に来年はアメリカ株が上昇するので、それに伴う形での日本株上昇というパターンです。したがって輸出型企業の上昇が目立つことでしょう。ドル円相場では一時期132円までの円安が進みそうです。なお、占い上では両方とも確実ですが、投資は自己責任でお願いします。

占いの「的中率」について

2015-12-21

世の中には「占い」を全く信じていない人もいれば、信じすぎている人もいる。その両方共が、私たちのような“真摯に占いと向き合う者”にとっては“厄介な存在”と言える。占いを信じないのは構わないのだが、そういう人の中には“攻撃対象”や“侮蔑対象”にしている人もいることである。それが困る。信じないなら、信じないで“関わらなければ”良い。占いは宗教ではないので、誰にも強制したりはしないからだ。

その一方、占いを信じすぎている人もちょっと困る。そういう人は“頭からすべてを信じ込む”、どんな占い師の言葉も、どんな占いの本も、どんなTVやモバイル占いも、見境なく信じ込む。自分の目で見分けようとか、確かめようとか、自分の考えも合わせて答えを出そうとか、そういう「一つの情報」「一つのアドバイス」「前もっての予備知識」として受け入れようとする姿勢が最初からない。したがって、“悪い占い師”に引っかかりやすいのだ。

大体が、占いに「100%の的中率」などあり得ないし、それを求めること自体が間違っている。ところが、そういう“謳い文句”で顔を出している占い師が山ほどいる。恥ずかしくないのだろうか。或る時、私は雑誌の中で、毎年のように「来年の運勢・予言」を掲載している人物と、占いの講習会で一緒になった。その人物は話の中で自分の占いはいかに的中するか、得々と語った。ところが、その前日、私はたまたま翌日逢う彼のため、なんとなく雑誌に載せられていた一昨年の予言記事を読んでいた。残念ながらというべきか、予言は全く当たっていなかった。ちなみに他の占い師や霊能者たちの予言も七割方は当たっていなかった。とどのつまり、予言の的中率とはその程度のモノなのである。

別に私は、彼を非難する意味でこれを書いているのではない。占いの的中率というのは野球選手の打率と同じで、大体“三割程度”が一般的な的中率なのである。それ以上なら“優れた占い師”だと思っても良い。その程度のモノなのだ。ただし、厳密にジャッジすれば“その程度”なのだが、それ以上の的中率に思わせる技量というものが、占い師によってはある。だから、もっと的中しているように見えるのだ。したがって「100%の的中率」とか「98%の的中率」とかの謳い文句を並べる占い師は信用しない方が良い。せいぜい多少オーバーでも「70%の的中率」にとどめておくべきだ。実際、それ以上の的中率を“今の占い世界”に求めるのは無理なのである。

しかし、このことは“占いの価値がない”というのではなく、逆に、そういう意識のもとに利用・活用するなら、大いに価値あるものであることを約束している。例えば、科学的な「地震予報」というものがある。ハッキリ言って今の的中率では実用価値は乏しいが、それでも多くの人がそれを利用しようとする。「天気予報」だって、長期予報の確率は極めて悪い。それでも多くの人がそれを活用しようとする。同じような意識のもとに活用するなら、「占い」は決して害のあるものにならない。占いが“害のあるもの”になるのは、100%信じ切る人がいたり、100%信じ込ませようとする占い師がいたりするからだ。占いは宗教ではない。それが解っていない“似非占い師”と“占い依存者”が多すぎる。

このような事実を述べることは、或る意味、自ら首を絞めることに繋がり、自分にとっても占い業界にとっても、マイナスなのは言うまでもない。多分、私の客は減り、同業者からも批判を浴びるだろう。中には「夢を売る」商売なのに、自ら「夢を壊すのか」とお怒りになる方もいるだろう。けれども、私は「それなら、なぜ、もっと的中する方向へ向かおうとしないのか」と反論したい。的中する方向へ向かうためには、まず、現段階の占いが“未成熟”及び“未完成”なもので、決して多くの人が思っているほど完璧なものでなく、発展途上段階の産物であることを認めなければならない。そう言い切れる“勇気ある占い師”はいったい何人いるのか。今後、より完成された占いを構築していけるよう“頭脳を結集して未解決の問題に取り組む”とか、“データを集めてより的中率の向上を目指そう”とか、“後世の人々のために考え直そう”とか、占いだけが“後ずさり”していく現実に歯止めをかけたいと願う私は「愚か者」なのかもしれない。

 

“ナザレのイエス”という男

2015-12-21

「クリスマス」って、何の日か知っていますか? もちろん、“イエス・キリストの誕生日”ですよね。その「イエス」という名ですが当時のエルサレムでは特別珍しい名前ではなく、平凡な名でした。ですから居住地名を加えて「ナザレのイエス」と呼ばれたのです。彼は大工でしたが、“洗礼者・ヨハネ”の説教に目覚めて、自らも荒野で修行し「新たなユダヤ教」の説教者として再出発したのです。当時としては特別珍しいことではなく、そういう宗教家が何人もいたのです。後世、彼が特別視されたのは、その死後に“見直されて”布教活動が活発化し、世界的に「キリスト教」として広まったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心の「傷」を癒やすもの

2015-12-20

誰でも一つや二つ心の中に「傷」や「傷跡」を抱えているものです。そして時折、その傷が痛んだりするのです。身体の「傷」がそうであるように、心の傷も、永い歳月の中で傷口がふさがり、痛みも消えていくのですが、一つだけ違うのは、何かのはずみで心の傷は“再び疵口が避け”、急に激しく痛み出すことがある点です。「疵口をなぞってはいけない」とあれだけ言われたのに、解っているのに、“また疵口をなぞってしまう”…でも、そういうあなたを“抱きしめたくなってしまう”今日この頃の私なのです。 

「大吉」と「10億円」の魅力

2015-12-19

久々にお御籤を引いたら「大吉」が出た。素晴らしい内容の大吉だった。来年の“運気”と思って引いたのだが「素晴らしい仕事に就ける」とある。きっと良い仕事に巡り合うのだろう。ただ気になったのは「この御籤は幸運すぎて凡人には良くない」とも書かれてある。私は凡人かな。どちらかというと“変人”の方かな。まあ何でも良い。それで、ついでというわけではないが「宝くじ」も買っておいた。こういう時に買わずに、いつ買うか。こちらの「10億円」はもっと魅力だ。よく「夢を買う」というが、私には「神仏を買う」という気分になる。なぜなら宝くじは“神仏が当ててくれるもの”という気がするからだ。そうとしか思えない。多分、こんなことを思う私は「凡人」で、そうすると来年の運気も…。 

読まずに「告発」するという大罪

2015-12-18

「産経新聞」のソウル支局長が“大統領の名誉棄損”で拘束されていた事件で「無罪」の判決が下った。当然すぎる判決だが、私を何より驚かせたのは、その告発者が日本語の新聞を“読まず”に、というより“読めず”に、何が書いてあるか解らず告発した、と証言したという点だ。しかも、それを警察は待っていたかのように“受理”して捜査に踏み切った。こんな滅茶苦茶な話はない。韓国は「世界のサムソン」を生み出し、今やIT先進国のような振る舞いをしているが、こういう基礎的な倫理観に欠けている以上、まともな“話し合い”などできない国だということになる。時折、私の著書も、明らかに“読まずに批判する”倫理観に欠けている人物がいる。批判するのは構わないが、きちんと最初から最後まで読んで批評するのが最低限のルールだ。

そっとおかれた手のひら

2015-12-17

「百の言葉」よりも、何も言わず、そっと肩におかれた手のひら、背中に触れた手のひら、髪の毛に触れた手のひら、指先に触れた手のひら、…そういう手のひらの方が、ずっと暖かく、優しく、信じられる時があります。何も言わないから、嬉しくて、大切で、離したくない“手のひら”があります。人は“手のひら”をそういう風にも使うようになって、進化できたのかもしれません。人は誰でも「ひ弱な獣」だから、寒さが堪えるこの季節には、何も言わない“暖かな手のひら”を求めて、夜の街に繰り出すのかもしれません。

「流行歌」がない!

2015-12-16

年末が近づくと誰でも「今年一年」を考える。近年、今年を代表するような「歌」がない。「流行語」はあっても「流行歌」がないのだ。なぜ「流行歌」がなくなってしまったのだろう。歌手たちは沢山いるのに、今年を代表するような“誰もが自然に口ずさむような歌”がない。1960~90年代までは、間違いなくそれがあった。いつの間になくなってしまったのだろう。“誰もが自然に口ずさむ歌”には、いくつかの条件がある。「憶えやすいメロディー」「心に残る歌詞」「独特の歌い方」そして何よりも“毎日のように聴こえてくる”。何かが「流行歌」を奪い取っていった。

人は人を裁けない

2015-12-15

職業的な立場の「裁判官」を別にすれば、人は人を裁くことはできません。一見、裁いたように見えても、思えても、それは“勘違い”でしかありません。「天に唾するものは…」と昔から言われるように、本当に人を裁けるのは「天?」しかないからです。逆な言い方をすれば、自分が裁かなくても「そのうち天が裁いてくれる」と思えばよいのです。世の中には“理不尽なこと”がいっぱいです。つい自分で裁きたくなるのも解ります。けれども、それは「天の仕事」と割り切れば、余計なストレスを抱えなくても良いことになります。時として「正義感」は“不徳の行為”となることもあるからです。

「選択」と「決断」のお手伝い

2015-12-14

占い師の利用の仕方として最も効果的なのは、人生に日々訪れる“迷い”の中で、未来が判っていれば迷わなくても済む事柄に対しての「選択」と「決断」のアドバイスを求めることで、成功のため“必要なブレーン”と割り切って利用することです。大きな成功を掴むためには誰でもブレーンが必要ですが、身近すぎて話せないとか、知りすぎて役立たないケースというのが意外に多いのです。しかも日本の場合、アドバイスを受けること自体が“情けないこと”のようにも受け取られがちです。そういう時に、第三者的な立場から、未来を把握できる立場から「天の声」としてのアドバイスを受けることは、誰にも知れられることのない“最高の癒し”となるのです。

“気楽な文化の国”に産まれて良かった?

2015-12-13

昔、フィリピンへ行った時、11月からクリスマスソングが街に流れ、デパートにはクリスマスツリーがあって驚いたことがあります。国民の多くがキリスト教徒であることがクリスマスを重視する第一の理由でした。日本でも最近は12月に入ると、すぐクリスマスツリーが出現するデパートもあります。でも、日本の場合は宗教とは関係ありません。「迎春」に対しても、日本では“神道式”“仏教式”とも仲良く“通常の正月”を迎えようとしますが、中華圏では“農暦(旧暦)に基づく正月”を盛大に祝う風習を重視しているようです。日本は「自由な国」なので“何を基準に祝っても良い”のです。要するに「酒が飲めるぞ」という“気楽な文化の国”なのです。でも、こういう“気楽な文化の国”に産まれて良かった…と思うのは私だけでしょうか?

研究・実占できる占いの限界

2015-12-12

一般の方が思われているよりも「占い」の種類ははるかに多い。細かく分類すれば数百を数えてしまうだろう。したがって当然のことながら、そのすべてを知ることはできない。一般の占い師の方に比べれば、数多くの占いを実占してきた私だが、まだまだ体験できていない占いの数は多い。例えば「太占(ふとまに)」と呼ばれる占いがある。これは太古から日本で行われてきた占いで“獣骨占い”の一種だが、神事でもあり、現在でも行っている神社がある。シカの肩甲骨を使うので、まず、それを求めなければならない。呪文を唱えながら肩甲骨を焼き、そのひび割れ方によって占うものだ。「太占」の書籍は遺されているが、地域によって占い方法や解釈の仕方が微妙に異なる。ヨーロッパの神殿などで太古に行われていたのは「肝臓占い」で、これは動物の肝臓を用いる。つまり、動物をその場で解剖する“怖い占い”だ。これも、その占い方や判断方法を述べた書籍を持っているが、実占は難しい。中東の「鉛占い」も伝統的な占いで2000年以上の歴史がある。比較的簡単だが、通常、鉛を求めるのは難しいし、鉛を煮る大きな鍋が必要だ。比較的入手しやすいもので占うことが可能なのは「コーヒー占い」だ。昔の“煮出し式コーヒー”で行うのが一般的で、その方が滓が残って“滓による紋様”が出現しやすいからだ。私は昔「ヌビア式コーヒー占い」を行って頂いたことがあるが、高齢の占い師はカップを回しながら無表情で紋様を読み取り、なかなか興味深い判断方法だった。

一見、非科学的な占いが多いように思うかもしれないが、元々占いは非科学的なもので科学的である必要はない。大体、科学的占いなどというものはない。西洋占星学を“科学的な占い”だと思っているような人もいるが、全然科学ではない。“科学的な装いをこらした占い”ではある。昔、ミシェル・ゴークランが“科学的に分析”したことがあるが、その結果を現在も重視している占星家は何人いるだろう。科学的な答えは信用しないのが占星家なのだ。“科学的な占い”である筈がない。一見、難しそうに見える技法も、実際にはほとんどの占星家がきちんと使いこなせていない。本当に使いこなせている占星家は、あれこれ説明などしないものだ。病院の医師でも名医は黙って執刀する。あれこれ語りすぎる医師は信用できない。そんなのは研究の時点で行っていれば良い。占星学の技法など腐るほどある。そのどれを用いるかは日頃の研究の中で培うべきで、実占の場であれこれ言うべきではない。

逆に、中華系の占いを行う人の中には“古典的だから正しい”という、これまた“誤った考え方”に縛られている占い師も多い。大体、中国の古典原書を読みこなしていけば、いかに現代には当てはまらない解釈を述べているかに気付きそうなものである。700年も前の本とか、500年も前の本とか、何の検証もなく、それがそのまま通用すると信じていること自体、新興宗教にはまっている人たちと変わらない。教祖(古典の著者)絶対で、反論などできないというのか。冗談じゃない。「占い」は「宗教」ではない。「聖戦」と言われて“銃を持つ人たち”と一緒にされてたまるか。自分たちの周りの人たちに当てはめて、実際に適合しているかを入念に調べて、そのうえで語ってもらいたい。人の運命と人生が掛かっているのに、なぜ丸呑みにするのか。

コンピュータの普及で、本当の占いが“片隅に追いやられて”行く危機感がある。なぜなら、本当の占いは“コンピュータ化できない”ものが多いからだ。次々誕生する「占いアプリ」も、みんな似たり寄ったりの“単純占い”ばかりだ。複雑すぎるものは“組み込めない”から「占い」ではなくなるのだ。違う。占いは「ゲームではない」のだ。面白ければ良いものではない。なぜ、時間をかけて真摯に“信じられる占い”を創造しようとはしないのか。古典的な占いを見直しながら、より“真実に近づけるもの”を探しに出ようとはしないのか。なぜ、すぐ海外の占いに答えを求めるのか。海外の方が進んでいるなどという保証は何もない。世界を回ってきたが、こと占いに関してはどこもかしこも五十歩百歩で“手探り状態”だというのが私の印象である。占いの世界は、まだまだ未開拓のジャングルなのだ。

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