12月, 2015年

「国立国会図書館」の魅力

2015-12-12

「国立国会図書館」って、知ってますか。そう日本で出版された本であれば、そのすべてを所蔵している“神様のような図書館”です。したがって通常の形で商業出版された本であれば、大型書店や図書館にない書籍でも、ここに行くと見つけだすことが出来ます。しかも、今はパソコンがあれば自宅に居ながら本を探し出し、無料で“デジタル版”を何時間でも閲覧することが出来るのです。しかも、すごいのは何十年前の本でも、百年以上前の和綴じ本でもそれが可能だということです。つまり、実際に足を運ぶよりも手軽に、探し出して誰にも気兼ねなく読むことが出来るのです。古書店で購入すれば何万円もする本が無料で読ませてもらえる幸せを味わってください。

野坂昭如という作家

2015-12-11

作家・野坂昭如氏が亡くなりました。とてもユニークな人物で、喧嘩っ早く、敵も味方も多かった方です。「火垂るの墓」が有名ですが、私は個人的には作詞家・野坂昭如の「黒の舟歌」の詞が好きです。「男と女の間には暗くて深い河がある。決して渡れぬ河なれど…えんやこら今夜も舟を出す」確か、こういう歌詞だったと思います。小説も何作か読みましたが、会話でも行替えをしない読みにくい独特の文体で、長編作品を短編で書くような作風でした。途中から政治などのおかしな方向に突っ走って、本来のユニークな視点が上手く生かし切れない作家となってしまいました。

先天的素質と後天的努力

2015-12-10

俗に「生まれつきの秀才」とか、「生まれつきの美形」とか、「生まれつき金持ちの家系」とかの表現があります。これらを「先天運」もしくは「先天的素質」と言います。それに対して“平均的”又は“恵まれない”才能・容貌・家庭に生まれ、努力に努力を重ね“能力を発揮”して成功し、或いは“絶世の美女”へと生まれ変わり、或いは“莫大な財産”を築き上げる人もいます。それを「後天運」もしくは「後天的努力」による結果と表現します。まあ、1%の人を除けば“平均的”又は“恵まれない”中で、誰でも産まれてくるのです。つまり、ほとんどの人は“先天的素質”なんて持っていないので「最初は横並び」という表現が、もっともふさわしい“運命の捉え方”なのです。

12月の運勢

2015-12-09

人生は「すごろく」、“休み”や“振出し”もある

2015-12-09

人生を難しく考える人は多いものです。もっとシンプルに「すごろく」だと思えばよいのです。「すごろく」って知ってますよね。「ふりだし」から始めって、さいころの数だけ進んでいく古典的ゲームです。今のゲームのように複雑じゃないけど「1回休み」とか「サイコロもう1回」とか、「3つ戻る」とか「5つ進む」とか、「振出しに戻る」とかあって、なかなか「あがり」の到達地点まで進めない。でも、だから面白いんです。人生って「すごろく」なんですよ。「休み」や「振出しに戻る」まであって、“すべてを失ってしまう”こともあるけど、そこで終わりじゃなくて、そこから“また始まる”と考えれば良いのです。“休み”の時には、次の飛躍に備えて“充電”していれば良いのです。だって、他の人たちだって「休み」に出逢うのだから…。

エンターテイメントとしての秀作「007」最新作を観た

2015-12-08

私は昔から映画「007」シリーズが好きだった。本来は、あまりドンパチの激しい映画は好まないが「007」には、それ以外のエンターテイメント性がいろいろとあって楽しませてくれる。音楽や最初の場面背景が、初期からずっと“変わっていない”のも良い。タイトルバックに流れる感性を刺激する画面構成も良い。それにしても、この映画50年以上続いているのだからすごい。もっとも主役「ジェームズ・ボンド」俳優はいろいろと変わった。現在のボンド役が何代目なのかも、その俳優名が誰なのかも私は知らないが、なかなかに良い。これまでの俳優の中で最も「諜報員」を感じさせる雰囲気や容貌を持っている。やはりエンターテイメントとはいっても、その“職業”を感じさせない容貌や雰囲気の俳優は、その映画内容に入り込みにくい。私は大昔「座頭市」シリーズや「眠狂四郎」シリーズ、「男はつらいよ」シリーズも好きだったが、そのどれもが“強烈な個性を持った俳優”で、その俳優自体が“その職業”を感じさせる雰囲気を持っていた。しかも、彼らはどこか共通したものを感じさせる。

昔、「007」といえば「ボンド・ガール」と呼ばれる“セクシー美女たち”が必ず出てくることも話題で、日本の女優も何人か出ていた時期がある。ところが、今回の作品など共演女優以外は“それらしき美女”がほとんど出ていない。こういう作品も珍しい。しかし、そのせいでかえって無理のないストーリーとリアルな印象が強まっているともいえる。大体、今のボンド役はストイックな雰囲気で、これまでのボンド俳優のような“女好き”のイメージがわかない。もっとも考えてみれば「諜報員=女好き」という図式自体がおかしい。これは多分、エンターテイメントとして“華やかさ”や“お色気”が必要だったから加えられた手法だったのだろう。和風の違いはあるが「眠狂四郎」にも「男はつらいよ」にも、それはある。ところが残念なことに、このボンド役俳優は“今回限り”らしい。実は、この俳優がロシアの大統領プーチンに似ていることが、今回を最後とする理由なのではないか、と私は勝手に思っている。

今回、映画を見ながらいろいろ考えさせられる部分があった。例えば、最初の5分で“観る者たちを巻き込んでいく”ストーリー展開の速さ、これが日本映画には乏しい。エンターテイメント作品はそれが重要なのだ。日本の作品は、どうしても説明しすぎる。だから“作品の中に入っていけない”のだ。なぜ、あんなに説明するのだろう。TVドラマなどはその典型で“説明しすぎる”から、すぐに結末が予測できてしまう。或いはせっかく気持ちが入りかけてもCMに入ったような“覚めた感覚”に引き戻されてしまう。最近、ドキュメント作品、それも台本のない一般素人の方たちに密着するTV の視聴率が良いというのは、それを如実に表わしているような気がする。人は“予測できないもの”、“未知なもの”、“不可知なもの”に対して興味を抱く。あらかじめ「結果」が読めるものに対しては興味などわかないのだ。最近、“コンテンツ占い”が低迷しているのも、最初に“答えありき”で作成しているからだ。そんなの“占い”ではない。だから私は、本を書くときには「吉・凶」をきちんと入れる。あいまいにはしない。それに「結果」だけを書く。実占の時もそうだが、いちいち占いの説明をしたりはしない。「これがこうだから、こういう答えとなります」風な解説は絶対にしない。すべきではない、と思っている。占い師で、実際の鑑定の時にいちいち説明する占い師は“信用できない”のだ。なぜなら、それは仮に占いが外れても、自分のせいではなく占いのせいだ、と言えるからである。だが、それっておかしくないか。自分で自信が持てないのなら、判断に取り入れなければ良い。判断に取り入れる以上、それは“自分の占い”による結果として下した答えであり、プロとしての回答なはずだからである。アマチュアではないのだ。

「言葉」は、“宝石”にもなれば“刃”にもなる

2015-12-08

日ごろ何気なく使っている言葉が、時に、誰かに、どこかで、急に「宝石」のように輝いて飛び込むこともあれば、逆に、その人にとっては、その時においては、その場面では「刃」のように突き刺さってしまうこともあります。そう「言葉」は、そういう意味で“魔物”なのです。世の中に、無料で愛する人たちにプレゼントできる「宝石」があったなんて知っていましたか。そして同時に、愛する人を深く傷つけ、時に“社会的生命”をも奪ってしまう「刃」を隠し持っていることを…。

「姓名」の持っている不思議

2015-12-07

タレントとして一時期活躍した「おさる」が、現在、書家「宇都鬼」として注目を浴び始めているのだという。この人、占い師の細木数子氏に2004年「モンキッキー」に改名してもらったようですが、それから増々“いばらの道”を歩んだ気がします。大体、改名の“大原則”として、本人の外貌・雰囲気との間で“違和感のないこと”が重要です。その点「おさる」というのは合っていたけれど「モンキッキー」の洋風?は合っていませんでした。それに気付いたのか、再び「おさる」に再改名したようです。そうしたら、書家として改めて“注目を浴び”始めたように思われます。書家名としての「宇都鬼」も一応悪くありませんが、何故「鬼」なのか、その点がちょっと気になるところです。近年、キラキラネームが減ったそうですが、“読めない姓名”、“書けない姓名”、“憶え難い姓名”、そして何より誰もが違和感を生じる“合わない姓名”は“不幸を呼ぶ”姓名です。

「運命」のすれ違い

2015-12-06

「運命の出逢い」という表現がありますが、人生には「運命のすれ違い」としか言いようのない出来事も時々あるものです。あの時、“あの人に出逢わなければ”と同じように、なぜ、あの日、あの場で、“逢うことが出来なかったのだろう”というような場面というものが人生には時折起こるのです。互いに愛し合いながら、無意識にその場所を通りながら、ふたりとも気付かず交錯していたとか…電話やメールが偶然の変更から通じないままとなってしまったとか、わずかなタイミングによって「出逢いが絶たれる」ケースがあるものです。けれども、本当は「運命」として、二度と出逢えないよう“仕組まれている”ケースもあるのです。そして、実は“その方が幸福”と潜在意識が判断し“すれ違わせている”場合もあるのです。

人は“欲張り”に出来ている

2015-12-05

最近、熱が下がらない。風邪なのか、そうじゃなくてなくてなのか、分からない。日頃健康だと、健康なのが当たり前すぎて「健康」に感謝することがほとんどない。それでたまに“病気”っぽくなると、とたんに「健康」であることへの感謝が湧く。「健康の神様?」への祈りを捧げる。本格的な病気になると「もう他には何もいらない、健康にだけ戻れたなら…神様、お願い」って本当に身勝手なんだから。ところが、健康を回復すると、人は見事なほどに“あの時の気持ち”を忘れてしまう。いや、正確に言うと、忘れてはいないんだけど「まあ、いいか、もともと、健康なんだし…」と実に身勝手。そうして、新たな「お願い」を神様に託す。あの時は“健康にさえ戻れれば…”とあれだけ願ったのに、平然と“新たなお願い”を望む。人はなんと欲張りなんだろう。ん、もしかして私だけ…。  

マニュアル本を捨てよ

2015-12-04

現代はさまざまな分野でマニュアル本が出回っています。そして、それらの多くはそれなりに売れているようです。けれども、手取り足取り教えているように見えるマニュアル本の多くは実際には役立ちません。どうして役立たないのかというと、そういう本の多くは個々の“性格”や“環境”や“素質”を考慮に入れてはいないからです。逆に言うと、そういうものまで考えてしまったら、大衆向けのマニュアル本は書けません。実際に役立つのは“大衆向け”ではなくて「自分専用のマニュアル」です。当然ですが、それは第三者が書いてくれません。自分で書く、自分で作るしかないのです。そういう意識に切り替えて、自分専用のマニュアルを箇条書きに書き出せば、何年か後にそれが“宝物”に変わっていくことでしょう。

後ろ向きの人生

2015-12-03

時折、“後ろ向きの人生”を歩んでいる人に出会うことがあります。“後悔する出来事”があって、“こだわる過去”があって、戻れないのに戻りたい意識が強まり、そこから前へと進めなくなって「後ろ向きの人生」が始まっていくのです。いったん“後ろ向き”になってしまうと、当然、“新しい出来事”に出会うこともなく、“新しい出逢い”を経験することもなく、「過去」だけが鮮明となって、“未来を支配していく”ことになります。そんなの嫌だ!と思うなら、クルリと前を向けば良いだけで、“普通の人生”へと戻ることが出来ます。   

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