食事が出てくるまでの数分間、そう思ってたまたま近くにあった文庫本に手を伸ばした。ふ~ん、この作家ってどういうものを書いているのかなぁ…という感じで、その本を読みだした。特に、何がどう、というのでもない。ドタバタな内容で、妙にリアリティがあり、作者の性格が“まるわかり”で面白い。そう、ストーリーよりも、作者の“素っ裸なココロ”が丸見えで、そこが何より面白い。一応“アメリカ滞在記”のような内容なのだが、そうとう前の“純日本人らしさ”が随所に出ていて、なぜか応援したくなり、“ドタバタ奮戦記”のような味わいがある。いつの間にか、食事が終わっても、読み続けていた。というか、最後まで読まずにいられなかった。この作者、なかなかやるわい、という感想であった。もしかして、久しぶりにはまるかも…。これなのだ。「魔」というのは、こういう形で忍び寄ってくる。最初は“何気なく”とか“偶然に”とか、ほとんど“眼中にない”状態から始まるケースが多いのだ。「異性」にはまっていくケースも、「ギャンブル」にはまっていくケースも、「お酒」にはまっていくケースも、「ゲーム」にはまっていくケースも、その基本は皆同じで、ちょっとした“心の隙間”と“時間の隙間”にある。特に“ココロ”が妙に疲れているとか、“カラダ”が妙に疲れているとか、“アタマ”が妙に狂っているとか、そういう時に「魔」は“優しそうな顔して”忍び込んでくるのだ。くれぐれも“何気なく”で、手を伸ばしてならない。
ここ1~2年、欧州では中東などからの「移民・難民」問題が深刻化している。昨日、おとといも、難民を乗せた船が沈んだ。すし詰め状態の船が、岸まで辿り着けず転覆してしまうケースが多いのだ。仮に転覆しても、本格的な捜索はあまり行われない。元々が“密入国者”である彼らは、正確な人数も名前も“把握できていない”ケースが多い。日本円30万~70万くらいの金額を支払えば、船に乗せてくれる“密入国斡旋業者”が暗躍している。そうやって、必死の思いで欧州に来ても、すんなりと受け入れてくれる国はめったにない。いや、それどころか未成年の子供たちの多くは“途中で消えていく”のだ。いつの間にか“行方不明”となってしまう。斡旋業者が絡んだ「人身売買」に巻き込まれてしまうケースが多い。正確な数は把握できていないが、少なくとも未成年者の“行方不明者”は1万人を超える。ここ1年ほどで急激に増えた数字だ。我々はどうしても「人身売買」と聞くと、東南アジアやアフリカの貧しい国々を連想しがちだ。けれども今や“世界中”で起きている。世界各地で“地域紛争”があり、泥仕合が続いている。「平和に暮らしたい」「豊かに暮らしたい」人々は“難民”となり“移民”となって、“平和そうに見える国”や“豊かそうに見える国”めがけて歩を進める。かつての日本でも、そうやって故国を離れた人たちがいる。北朝鮮に向かった人々もいれば、ブラジルに向かった人々もいる。過酷な暮らしが待っていたのは言うまでもない。今日も“すし詰め状態”で多数の“命”が運ばれていく。「運命」は、どういう“手を差し伸べて”彼らを出迎えるのだろうか。
人は人生で何度か“窮地”に追い込まれることがあります。どんなに“幸運な人”であっても、すべてがすいすい運んで行っては“ドラマ”としても“運命”としても面白くありません。人が第三者の“人生ドラマ”として感動するのは“苦難を乗り越える”とか、“窮地を脱していく”ところにあるのです。そして、そういう体験を持っている人には“人間としての深み”が宿り、さまざまな人達への“理解力”が備わり、どこか超然としたものが感じられるものです。「人生は綱渡り」だと悟っている彼らは、常に努力を怠らないし、物事すべてに冷静であり、何よりも目的に対しての強い意志を感じさせるものです。“努力”と“冷静さ”と“強い意志”の三拍子が備わっていれば、どんなに過酷な境遇に置かれたとしても決して投げやりになることなく「綱渡り」の中で、どこまでも“先の見えない希望”に向かって突き進むことになります。脚本のあるドラマと違って、人生には“演出家”もいないし、どういう“ラスト”が用意されているかもわかりません。ドラマのように“やり直し”も利きません。人生の“窮地”は文字通り窮地であって、立ち止まることのできない「綱渡り」の途中なのです。安易な人生からは学びえない“宝物”を身につけながら、独り黙々と突き進んでいく姿こそ「運命」という舞台では“燦然と輝く”スターなのです。
それは私がまだ会社勤めを辞めて間もなくのころだった。“弟の知り合い”だと聞いていた彼とは初めて顔を合わせた。電話の声から想像していたより小柄だった彼は「そうだ、何を見てもらおうかな」と一呼吸置いた。何かがあるから“見て欲しい”のではなかったようだ。「仕事の方はどうですかね」他人事のように彼は切り出した。まだ“セミプロ占い師”であった私は「上司との関係さえ気を付ければ、あとは問題ない、と出ています」と判断した。すると「上司? いないんですけどねぇ…」と怪訝そうであった。そして「身体の方は大丈夫ですかね」と質問を変えた。「朝、早いお仕事ですか?」「まあ、5時半には職場前に並んでますから…」「どういうお仕事ですか?」疑問を持つ私にニヤリと笑った。「今はパチプロです」私はその時、初めて“パチプロ”という職業を知った。“パチンコで生計を立てている人物”に出逢ったのは初めてだった。確かに“上司などいない”はずだ。「パチンコ屋さんの開店って、そんなに早かったですか?」「いや、7時ですよ。開店前に並ぶんです。誰よりも早く並ぶんです。そして閉店まで打つ。仕事ですから…」高度成長期の室蘭では開店が午前7時、閉店が午後11時、それが一般的だった。あれから何十年も経ったが、宮城県の石巻市で“午前7時から夜0時まで”営業しているパチンコ屋の記事を見つけて懐かしくなった。今はもう通常の店は朝7時からなどやっていないのだ。だから“全国でもここだけ”ということで記事になっている。果たして朝5時半から並ぶ“プロ”はいるのであろうか。
伊勢志摩で「G7サミット」が開かれている。伊勢神宮は、日本の神社の中でも“原初の姿”が保存され続けている数少ない社だ。誰もが“古き良き日本”の趣を感じる精霊な世界が広がる。「G7」の首脳たちの多くはキリスト教徒だが、日本の神々は“自然界を伴う神々”で、いわば「風水の世界」をそのまま“神々に見立てている”ような一面を持つ。質素なのに「神」を感じさせるのは“自然と一体化している”からだ。おそらく、そういう意味では伊勢神宮に集まっても、異国の宗教施設に連れてこられた、と感じる首脳はいないだろう。日本の「古都観光」として、京都は世界的に有名になったが「伊勢志摩」はまだまだである。けれども、本当の美しい「日本の原風景」は京都よりも伊勢志摩の方にある。奇妙なことに、日本人の多くは「伊勢神宮」を観光していても、伊勢志摩のホテルには泊まっていない。サミットで利用されるということで、改めて確認したが“素晴らしいリゾートホテル”ではないか。こういうホテルが存在していたこと自体、私は知らなかった。ところで、多くの方たちは「G7」というと7か国の首脳たちだけが来ると錯覚しているが、実はさまざまな国から“招待客の首脳達”も来ている。ラオス、ベトナム、インドネシア、バングラデシュ、スリランカ、パプアニューギニア、チャドなどの首脳達も来ているのだ。奇妙なことに、ここには「G20」として参加している国の首脳は含まれていない。つまり、明らかに“発展途上の国々”を招待している。それにしても「G7」に中国が参加していたなら、伊勢神宮には集まれないだろう。不思議なことに「中国を加えよう」という動きはついぞ起こったことがない。
台湾に“新しい政権”が誕生し、明確ではないものの「一つの中国」を拒否しました。わかりやすく言えば「一緒にしないでね!」ということです。もっとも日本以上に中国との経済的なつながりが深いので“完全拒否”は出来ません。そのせいかどうかは微妙ですが、今年の台湾への観光客は中国本土からが激減し、代わりに日本人観光客が大挙押し寄せています。ゴールデンウイーク時の日本からの渡航先で最も多かったのが「台湾」なのです。近年、中国は盛んに「一つの中国」政策とも呼ぶべきものを推し進めています。わかりやすく言うと、“昔の中国人たち”は“もう一度まとまって”新しい「中国連邦」を作ろうよ、という政策です。「香港」「マカオ」「台湾」が“第一のターゲット”で、やがては「シンガポール」「タイ」「インドネシア」などにも手を伸ばしたいようです。状況次第では「沖縄」も“囲い込みたい地域”です。そして密接している「香港」や「マカオ」は既に“制圧しつつ”あり、「台湾」だけが“手こずっている”状況です。この「中国連邦」は、かつての「ソビエト連邦」を彷彿とさせます。けれども、結局「ソビエト連邦」は崩壊したのです。同じように「一つの中国」には“無理”があります。同じ中華圏でも英国の影響を強く受けた「香港」、ポルトガルの影響を強く受けた「マカオ」、日本の影響を強く受けた「台湾」、それぞれに“異なった血が混じったハーフ”となっているのです。大陸本土のまま成長してきた「中国」とは違うのです。やがて「一つの中国」は崩壊し「チベット」も離れて、本土だけの“ロシア的な「中国」”が誕生するでしょう。
世の中「束縛」や「干渉」を嫌う人は多いものです。けれども、それを表情や態度で“露骨に示す”と、たいていの場合、倍返しで相手は「束縛」してきたり「干渉」してきたりするものです。束縛や干渉をする相手は、親兄弟の場合もあれば、配偶者の場合もあれば、恋人の場合もあれば、友人の場合もあれば、上司の場合もあれば、全くの“赤の他人”の場合もあれば…実にさまざまです。とにかく「束縛」や「干渉」を嫌う人は、自分のことなど“構わないで”ほしいわけです。あれこれ“いわないで”ほしいわけです。どう生きようと“勝手じゃないか”とおもうわけです。“子供じゃないんだから”とおもうわけです。はっきり言って「うるさい」としか思わないのです。自由を奪われたくないのです。“心配顔”で言われるとか、“上から目線”で諭されるのが特に嫌なわけです。さて、どうして“そういう人達”は、束縛や干渉をやめないのでしょうか。止めてくれないのでしょうか。それは、なぜ“逆らうのか”が解らないからです。なぜ“理解できないのか”が信じられないからです。だから、相手の束縛や干渉から逃れたいなら堂々と「私は逆らって“不幸になる”かもしれないけど、後悔はしない。もし束縛や干渉のまま生きたら“幸福になる”かも知れないけど、後悔すると思うから」と言ってあげれば良いのです。そういう風に宣言したなら、相手は二度と「束縛」したり「干渉」したりはしなくなるものです。
BS12で渥美清主演のTVドラマ『泣いてたまるか』が放映されている。私の記憶が確かなら、この番組が放映されていたのは今から40年以上も前で、当然というべきか、今回の再放送もカラーではなく白黒作品だ。それにもかかわらず好評で、最初は試験的に放映したらしいが、現在は月曜の夜にレギュラー化しているようだ。なぜ、こんな大昔の白黒作品が好評なのか。もちろん『男はつらいよ』の“寅さん”役で大人気だった渥美清が主演している番組というのもある。けれども、このドラマでは「寅さん」のように“八方破れの人情男”を演じているわけではない。どちらかといえば“情緒性豊かな良識派”の人物を演じている。つまり、最初から“ドタバタ喜劇”を意図した作品ではなくて、ユーモラスだが“しっとり心温まる”作品を意図していたようだ。その違いもあってか、実は最初に放映されていた当時は、それほど視聴率が良くなかった作品群なのだ。実は、この後でTVドラマとしての『男はつらいよ』シリーズが企画され、大ヒットし、それが映画へと転じていく。渥美清といえば、その眉頭上のホクロ(イボ?)が特徴だが、それは人相学的に“兄弟によって幸運を得る相”なので、正に“さくらの兄”としての「寅さん」だったから大ヒットしたのだ。そういう条件を備えていないのが『泣いてたまるか』である。おそらく、今の視聴者たちは、ただ単に渥美清だから見ているのではない。そこに“古き良き日本”を感じているから見ているのだ。何か高度成長の“あの時代”を感じさせる様々なモチーフが“なつかしさ”と“やさしさ”を運んでくるのだ。そう、もしかしたら“今の日本”には、あのころには存在した“純朴なやさしさ”に欠けているのかもしれない。
例えばプロ野球選手でも、絶好調の時には「ボールが止まって見える」という。実は同じようなことが、ごく普通の人たちの日常生活においても起こっている。つまり、運気の良い時には自分が「どう動けば良いのか」が何となく判るのだ。なぜなら、目の前の状況がよく“見えている”からだ。ところが、運気が低迷するとか、環境が急変しようとしているようなときには、見えていたものが“一時的に見えなくなる”状態が起こる。つまり、人間は本能的に“目の前の出来事=直後に起きてくる状況”を、潜在意識下ではすでに把握している。そして、それを不透明な幕の向こうで“映像化”している。通常は“不透明”なのだが、絶好調時には不透明な幕が消え、はっとするほど“鮮明な映像”となる。だから迷わず選択できるのだ。危険なことを回避できたり、素晴らしい相手に出逢えたりする。ただ、それは瞬時の出来事で、じっくりと観察できるようなものではない。だから多くの人は“何となくこちらのほうが良いような…”という曖昧模糊とした感覚で正しい選択をしている。けれども、運気が低迷するとか、環境が急変するようなときには、元々“不透明な映像”がますます不透明となり、何も見えなくなるので「どうしてよいか分からない」状況を作る。それが自然なのだ。ほとんどの人は気付いていないが、運勢が私たちの「眼力」を変え、別人のような“映像”を映し出す。足を踏み出すのが“怖くなる”のは、見えないのだから“当然”なのだ。
またしても“地下アイドル”が襲われた。無名に近い“学生ミュージシャン”で、夜に「ライブ」出演予定だった冨田真由さんが全身20か所を刃物で刺され意識不明の重体らしい。おそらく“コアなファンだった男”がストーカーに変貌し、無視され続けたことで逆上し、ツイッターから独りで居る場所を把握して殺害を狙ったのだ。以前にも握手会場でアイドルが襲われたが、今回の場合、ライブ会場だと“すぐに制止される”ので、誰もいない路上の犯行を狙ったのだろう。ライブを前に“一人でも多くの人に来てほしい”という“地下アイドル”の願望が、居場所の特定を容易にしてしまった。「人気稼業」は“一人でも多くの人に…”という気持ちを常に持っている。どんな分野でも大手は巨費を投じて“売り出す”が、零細企業からのデビューは“宣伝資金”が乏しい。或る意味“売り出せない”ので、自分が“宣伝媒体”となる以外にないのだ。そこで、どうしてもネットを使った媒体で、つまり“ブログ”や“ツイッター”や“フェイスブック”などで“画像付き近況”を書き込むこととなる。コアなファンとのやり取りは“心をつかむ”重要な媒体だからだ。同時にそれは“私生活を知られていく”危険な賭けでもある。特に“異性のコアなファン”は、いつ、“ストーカーに変身”してしまうかもしれない可能性を“紙一重”で持っている。したがって、十代のうちから“人気稼業に就く”ということは、或る意味で“恐怖と隣り合わせ”で生活していくことでもある。プライベートを書き込んで良いのは、本当は“常にガードしてもらえる”大手に属しているアイドルだけなのだ。
中国における「古代日本」の唯一の記録『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の中に「黥面文身」とあり、卑弥呼の時代、日本の男子は大人も子供も「いれずみ」をしていた、というのです。「黥面」とは“顔への入れ墨”で「文身」とは“身体への入れ墨”のことです。より詳しく言えば、顔には“文字を入れ墨”して、身体には“紋様を入れ墨”していたようです。その“大小”とか、“左右”とか、“紋様の種類”には、それぞれに“呪術的な意味合い”があったようです。元々、海洋民族は身体に“文身を入れる”ケースが多いのですが、それはサメなどの海中生物に襲われないための工夫から来ていたようです。この日本の風習は、やがて“海洋民族”から“農耕民族”へと「倭(わ)の国」の主権が移るまで続いた、と考えられます。つまり、日本の祖先は元々“入れ墨を入れる”風習を持っていたということです。近年、タトゥーを施す“彫り師”の方々が「医師法違反」で次々と摘発されています。このほど“彫り師”の方たちが“刺青(いれずみ)”に関する「法整備を求める請願書」を約2万3千人の署名を添えて国会議員に提出されました。“日本の伝統文化を守ろう”との趣旨のようです。日本の場合、江戸時代後期からは“刑罰の一種”として、入れ墨を施すことが行われた時代もあり、現代では“やくざの代名詞”のような意味合いで捉える世代もあり、海外の“アート的感覚”で捉える世代もあり、それぞれのイメージが異なるので“評価が難しい”のが「刺青」です。卑弥呼の時代の“呪術としての文身”は、果たして受け継がれていくのでしょうか?
エジプト航空機がまたしてもテロに遭ったらしい。勝手な憶測でいえば、ISも含む「イスラム原理主義」の一派によるテロ行為であろうと思われる。今回の直接原因は今のところ不明だが、彼らのテロ行為には共通性がある。最初から、自分の命を犠牲にする覚悟で行っている、ということ。だから躊躇がない。しかも“聖なる死”という考え方に基づく。彼らは死の直前まで“神を讃える”。信仰が背景にあるので「殺人行為」であるのに“悪”という概念がない。そうはいっても通常なら「死」を意識すれば“怖さ”が伴う。それが、そうならないのは、自らを“神の代行者”と位置付けているためである。つまり「神の眷属」として“殺人を行うのだ”という思い込みがあるからだ。日本人の感覚からすれば、仮にそうだったとしても、結果として“自分自身は倖せになれないではないか”という思いが残る。けれども彼らの感覚は異なる。元々が“民族宗教”である「イスラム原理主義」は、考え方の根本に「われわれ」がある。決して「わたし」ではない。だから、自分が犠牲になったとしても、その結果として「われわれ→次世代の子孫」が“勝利”すれば、それによって目的は達せられる。ここで重要なのは「われわれ」が“倖せ”になるためには「敵」に“勝利”しなければならない、と考えていることだ。そして、その「敵」とは、自分たち民族以外の“信仰対象”にある。決して特定の国家とか、指導者とか、地域とかにあるのではない。謂わば「異なる宗教=神」にある。それらの“神々”に“勝利”しなければならないのだ。「究極の一神教」である彼らは“みんなも一緒に倖せになろう”などという甘い発想はない。地球全体が「イスラムの神」に帰依するまで“聖戦”は終わらない。もちろん、これはあくまで「イスラム原理主義」の考え方であって、それ以外の“平和なイスラム教徒”の考え方ではない。ただイスラム教徒が、その根本に「われわれ→次世代の子孫」という発想を持っているのは共通している。
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