7月, 2016年

日本の“先行き”が決まる三日間

2016-07-20

ここに来て「ドル円相場」が“円安方向”に反転し始めている。それに伴い「日経平均」も上昇ラインを描き始めた。私が以前指摘したように「日本の景気」を上向かせる手っ取り早い方法は「円安」しかない。一時期100円を切っていたドル円相場は、ここに来て106円前後まで戻した。どうして戻ったのかといえば日銀の“追加緩和”と政府の“10兆円超の景気対策”が予想されているからである。そう、まだ確定したものではなく、“予想・予定”に過ぎない。それでも、というかそれだけでも、これだけ「円相場」と「日経平均」は“動く”のだ。どうしてかというと、外国人投資家たちが動くからだ。特に「ヘッジ・ファンド」が動く。以前にも書いたが、結局、日本の経済指標を動かしているのは海外のヘッジ・ファンドなのだ。そして、ここからが重要なのだが、ヘッジ・ファンドというのは“先回り”して動く。物事が実際に行われて動くのではない。つまり“予想して動く”。だから、今回も、日銀と政府が“追加緩和”と“10兆円超”を実行化するだろうと予想して、先回りの“売り”や“買い”を出している。もし、日銀が“追加緩和”しなければ、100%間違いなく、再び一気に円高が進む。おそらく97円まで一気に進む。つまり、日銀は絶対に裏切ってはいけないのだ。もし、日銀が“予想”以上の大胆な追加緩和を行えば、一気に110円まで“円安”方向へ戻すことになる。ここまで戻せば、再び「円安・株高」の“アベノミクス路線”が戻ってくることになる。その試金石となるのが、実は今日からの三日間なのだ。この三日間でドル円が105円を切らないこと、日経平均が16000円を割り込まないこと、これが重要で、この条件がクリアされれば間違いなく日本の経済の先行指標は、長期的に「円安・株高」方向へと戻っていく。

「表向きの理由」と「真実の理由」

2016-07-19

歌手のSMAPがTVの歌番組二つを「新曲がない」という“表向きの理由”で出場辞退した。私は、だから前に書いたではないか。もう、このグループは昔のSMAPではない。二つに分かれるしかないのだ。ジャニーズ事務所は「SMAPは存続する」と断言したが、“今までの形での存続”とは一言も言ってはいない。マスコミが勝手に“これまで通り”と伝えただけだ。或いは、ファンが勝手に“仲良くなった”かのよう幻想を抱いただけだ。大体、亀裂が世間に知れ渡った状態で“仲良くやってます”的に40代の男性たちが“取り繕う”としたなら、それを“やっぱり一つだったんだ”などと納得する方がどうかしている。それぞれが大人になって、それぞれの個性を発揮し、冠番組も持っているのだから、“幼稚園児のような纏まり”を何故期待するのか、そのことの方が私には不思議である。「昨日の友は今日の敵(ライバル)」で良いではないか。むしろ、その方が自然だと思う。物事には「表向きの理由」が必要である。少なくとも“大人社会”では、それが必要なのだ。だから、それぞれの“もっともらしい理由”を掲げて、世間に提出する。例えば、会社を自ら“退社する”ようなとき、人は必ずしも「真実の理由」ばかりを述べるわけではない。極端なことを言えば“この会社が嫌になったから”とか“この仕事が嫌になったから”では理由にならない。“ライバル企業から誘いがあったから”というのも、表向きの理由としては受け入れがたい。まあ「一身上の都合」という“わけのわからない理由”が一番無難だ。時には「真実の理由」を言いたくても、歯を食い縛って“沈黙”で押し通さなければならない場合もある。そして誰もが、良くも悪くも大人になり「運命」という仮面を身にまとうようになる。 

歌謡曲から「哀愁」が“失われた”時代

2016-07-18

初めて入った居酒屋さんで70年代~80年代の歌謡曲が流れていた。居酒屋の雰囲気の中で聞くと、より以上に“哀愁”が酒のつまりになる。どの歌、どの歌手でも共通しているのは、日本人がもともと備えていた“哀愁”が漂っていて、虚勢を張らずに聴ける、ということである。そう、今の歌には元々“歌詞が判然としない”せいもあるが、曲が残っても、歌詞の方は耳を通り過ぎていく。自分自身の人生を無意識に“重ね合わせる”ことが難しい曲が多い。そこへいくと70年代~80年代の歌謡曲は、別に“聞き耳”を立てていなくても、ごく自然に自分の人生に“重ね合わせられる”歌詞が多い。2000年代以降の歌謡曲の歌詞が、居酒屋さんに向いていないのは“心境描写だけで出来上がっている”からである。人は“心境描写”そのものだけに“自分を重ね合わせる”のは容易ではない。その人が“何”をし、“どういう情景”の中で、“どう感じたか”、それらが合わさって、自分の人生に重ね合わせられていく。つまり“具体的に何をしているか”、“具体的にどういう情景なのか”この二つが絶対に必要なのだ。ところが、2000年代以降の歌謡曲には、この二つを失った内容のものが多い。この二つを失うと、単なる心理描写、心理風景となって、それが“どこから来ているのかがわからない”から、重ね合わせられない。単に“頑張っているんだな”とか、“愛しているんだろうな”とか、第三者的に見守るだけの歌となる。例えば「永遠に…」という歌詞が時々使われる。こういう歌詞は、第三者には何が“永遠”なのか、さっぱりわからない。それが例えば「千切れるほど手を振る あなたの眼を見ていた」と謳われると、いやでもその情景が浮かび「永遠」などという言葉はないのに、本当は“永遠に結ばれることを夢見た”二人だったに違いない、と連想してしまう。それこそ日本人が持っている「言葉なき哀愁」で、酒を飲みながら聴くと、ほろりとさせられてしまうのだ。

日進月歩で「後退していく」占いの世界

2016-07-17

世の中、日進月歩で進んでいくものが多い中で、まるで“後退りしている”ような世界が「占いの世界」だといってもよい。どうして後退りなのか、ここ20年ほど「新たな研究」「新たな学説」「新たな占い」「新進気鋭の研究者」「占い用の機器開発」と呼べるようなものがほとんど見られないのが「占いの世界」だからである。その証拠に手相や人相の「占いサイト」はほとんどない。それは未だに“コンピュータ化できない”からである。もし、本気でコンピュータ化しようとすれば、途方もなく開発費用が掛かり、占い料金が高騰する。だから出来ない。たまにあるのは“お遊び用”である。では、生年月日を基にした占いは“コンピュータ化”が進んでいるのかといえば、そうでもない。まず第一に日本では「生年月日」だけ打ち込んで表出する形式のものが大多数である。ホロスコープにしろ、四柱推命にしろ、そうである。本来は両占術とも「出生時間・出生地」が判然としていなければ、占えない仕組みとなっている。まあ、私のような「名人(迷人)」なら生年月日だけでもなんとかなるが、本当はそれだけではデータ不足で正しい方式では占うことができない。ところがほとんどの“コンピュータ化された占い”は生年月日だけのデータで表出している。時折、出生時間とか出生地とかのデータを取り入れて占う形式のものもあるが、それで著しく的中率が高くなるかといえばそうではない。これらの占いは、その一部だけを取り出して“データ化”すると“矛盾のない答え”が出てくるのだが、全部を組み込もうとすると、必ず“矛盾に満ちた回答”として表出される。だから、妙な言い方だが、データが不足している方が“的中している”と勘違いさせる現象が起こる。私は、昔、依頼を受けて西洋占星術の“ソフト開発”に協力したが、複雑に組み込めば組み込むほど、結果として「矛盾した回答」が出て来るという悲劇を味わった。実際の対面による直接鑑定なら、こういう矛盾は生じない。当然のことながら、その辺は考慮し選択しながら、矛盾がないように回答していくからだ。人間の頭脳は“それ”ができるが、コンピュータはいまのところ“それ”ができない。もう少し複雑な機能を搭載すれば可能となるかもしれないが、それには開発費が膨大にかかる。結局、人間の対面式による直接鑑定に勝てないのが、現在までの“コンピュータ占い”=「占いサイト」なのだ。これはどの占い師のサイトであろうと同様である。少なくとも現状では「占いサイト」の運営会社が、より“完璧な占い”にしようという方向に向かっていない。なぜなら、それでは採算が合わないからだ。

いや採算の問題だけではない。「占いサイト」の運営会社は、これまで多くのユーザーからの反応を受け取っている。その結果として「占いサイト」のユーザー達が占いに対して“的中すること”を望んでいない、ということを把握している。「占い」に“的中”を望む人は「占いサイト」ではなく、直接、占い師のもとを訪れて鑑定を依頼する。賢いユーザーは両方を使い分けていたりする。つまり「占いサイト」では、的中そのものよりも、“精神的な癒し”として、或いは“勇気を与える起爆剤”として、心地良い言葉が並んでいる内容であること、を求めているのだ。その内容が実際に的中しようがしまいが、そのこと自体に価値を見出してはいないのである。そういう意味では“精神的なカンフル剤”としての「占い結果」であれば大いに満足する。逆に、そうでないなら例え的中していたとしても“好ましくない占い”ということになる。運営サイト会社は、当然のことだが“そういう意向”を尊重する。したがって、当たる当たらないなど、極端な話どうでもよいのだ。表面上「100%的中」とか「その的確な占いに涙した」など宣伝文句を並べているが、実際にはいかに“悦ばれるもの”を書くかだけに全力を傾けている。したがって、占い師本人が文章をまとめることはなく「キーワード」のみ貰って、文章力あるライターが“癒しを与えられる文章”、或いは“勇気を与えられる文章”を書く。その方がはるかに“評判の良いサイト”となるからだ。

実際、占いの「価値」というのは、人それぞれ違っている。最終的に人は「価値」に対して対価を払う。占いの場合、それは必ずしも“的中する”こととは限らない。近年、特にこの傾向が顕著になった。昔は、占いの“的中性”だけが求められた。もちろん、今でも“的中性”を求める人たちはいる。けれども、現代は“それだけ”を求める人は少ない。昔と違って、悩みが多様化し、複雑化しているせいもあって、ただ単に“的中させれば”済んだ時代ではなくなったのかもしれない。もちろん、それぞれの“利用の仕方”があって良いし、どういう意図であろうと“利用価値”があるのであれば、それで対価を払っていただけるのであれば、それで良い。単なる“相談者”であっても、困ったときの“救済者”であっても、求める人がいて、私の「価値」を認め、それに対しての対価を支払っていただけるのであれば、本当は「占い」そのものではなかったとしても、今の私はOKである。この“柔軟さ”は若い頃はなかった。100%なかった。正に私は“丸くなった”のだ。

「物騒な国」が多すぎる

2016-07-17

10代~20代にかけての“パスポート取得率”が右肩下がりらしい。20年前の半数近くまで落ちてきている。確かに、このところの世界情勢を見ていると、世界のあちこちで“血なまぐさい事件”や“激しい抗争”、それに“自然界の猛威”まで加わり、“安心して観光できる国”が極端に減ってきている。一言でいえば「物騒な国」が多すぎるのだ。フランスも、イギリスも、ベルギーも、トルコも、バングラディシュも、アメリカも、中国も、インドネシアも…これでは「海外に行ってみたい」と思うはずがない。海外留学も、親からすれば“安心して送り出せない状況”に変わってきつつある。それにしても、トルコのクーデターでは1500人以上が逮捕されたというから驚きである。通常、この手のクーデターは何十人とか何百人とか、せいぜいそのくらいの主要メンバーが秘かに準備、決行する。数が多すぎると“事前に漏れてしまう”可能性があるため、主要メンバー以外には伝えないのが普通なのだ。これだけの人数が加担していたということは、軍そのものに“不満が充満している”証拠といえるだろう。本当は、力で制圧すれば済む、という話ではない。イギリスのEU離脱にしてもそうだが、本当は違ったとか言っても、それだけ“不満が充満していた”結果の投票だったに違いない。フランスのテロにしても、国内における様々な矛盾に“不満が充満している”若者たちへの“受け皿が乏しい”ことを露呈している。アメリカにしてもそうだが、基本的に欧米人は“力で制圧する”ことで、犯罪や抗議を抑制しようとする。けれども、それだけでは根本的な問題は解決しない。特に、イスラム教などは「聖戦」を教え込まれているので、“死の抗議”を恐れない。その“思い”を子孫まで引き継ごうとする。昔、宗教は「世界平和」に貢献するものだと勘違いしていたが、むしろ真逆で「平和」を乱す一番の元凶になりつつある。

「男性更年期」と「うつ病」の境で…

2016-07-16

「本当にあったんだ!」というのが素直な感想である。男性の「更年期障害」だ。何となくそういう名称を聞いた気がしていたが「ウソだろう」と思う気持ちの方が強かった。ウソではなかった。実際に日本では600万人もの患者数が潜在的にはいるらしい。すごい数ではないか。しかし、その割には認知度が低い。40代以降のビジネスマンに急増しているらしい。その理由は、男性ホルモン「テストステロン」の低下から生じるらしい。“やる気が起こらない”“よく眠れない”“汗をかきやすい”“イライラしやすい”“達成感がない”“性欲がわかない”“昼間からうとうとしやすい”…どれも当てはまっているじゃないか。実は、これらの症状は「うつ病」ともよく似ているのだそうだ。そこで受診を間違える男性が多いらしい。つまり、自分は「うつ病」になってしまったのではないか、と「精神科」を受診してしまうケースが少なくないそうだ。実はこれが問題なのだ。精神科で処方する「抗うつ薬」というのは元々「テストステロン」を低下に導く薬なのだ。その結果、より以上に「男性更年期」が進んでいく。つまり、本来なら“そんなに心配がいらない”程度の更年期だったのが、重症となり、しかも実際に「うつ病」っぽくもなっていってしまうという“恐ろしい勘違い”が生まれるのだ。大体、病院から貰う薬を日本人は“信頼しすぎ”のような気がする。使って“自分に合わなければ”即刻中止するか、別な薬に変えてもらえばよいのだ。ちなみに「テストステロン」は夜寝ている間に作られる。したがって“睡眠不足”になると、不足気味となる。ビジネスマンに急増しているのは、それだけ忙しくて睡眠不足になっているせいかもしれない。これは日本だけの現象かというと、そうではない。アメリカなど日本よりはるかに多くの患者数で溢れている。ちなみに「うつ病」も、日本人は世界中で最も発生率が少ないのだという。世界って、どんだけ“悩み”を抱えて暮らしているんだって、妙に安心したりする。

16年後の「ポケモン」と、あの子

2016-07-15

今から16年前、私はドイツの住宅街を歩いていた。人の少ない通りで、向こうから母子が手を繋いで連れ立ってくるのが見えた。その子は4歳くらいの可愛い男児で楽しそうに歩いてきたが、片腕に大きな「ポケモン」を抱きかかえていた。最初、ポケモンに似ていると思ったが、まさかドイツで“そんなはずはない”と近付いて来る姿を追ったが、まぎれもなく「ポケモン」で、大事そうに抱えている姿が印象的だった。もちろん、ドイツ人の母子で裕福そうな印象を受けた。ほほえましく見送りながら、ヨーロッパの住宅街で既に「ポケモン」が市民権を得ていたことで妙に感動した。日本の漫画アニメがドイツで観られていること自体、当時は知らなかったのだ。あの子はいまいくつになっただろう。たぶん20歳前後だ。今でも「ポケモン」に興味を持っているだろうか。欧米人特有の“人形のような顔立ち”の男の子だったが、見違えるように逞しくなっているだろうか。今、世界中で「ポケモンGO」が大旋風を巻き起こしている。私自身はゲームなど興味がないが、昔、日本で人気を得た漫画アニメのキャラクターが、今や「世界のポケモン」となったこと、いや昔から「世界のポケモン」であったことを改めて想い起させてくれた。数年前、あれだけ“ブーム”となっていた「ふなっしー」はどこへ行ったのだろう。「くまモン」も震災で消えた。新たな形で“蘇ったポケモン”は、不穏さ漂う世界中に“癒し”を与えられるだろうか。なぜか私には大人を虜にする「ポケモンGO」ではなく、漫画アニメの「ポケモン」が子供たちを夢中にさせる姿の方が、大切なことのような気がしてならない。

街は「生前退位」したい人達で溢れている

2016-07-14

少子高齢化が進み、街には“御高齢者たち”があふれている。この状況は、今後“より進む”ことはあっても減っていくことはないだろう。医学の進歩が、御高齢者たちの健康を保っている。そうはいっても、“薬いらず”の状態かといえば、そうではない。ほとんどの御高齢者たちは“何らかの薬”を飲んでいる。中には“これでもか”というほど大量の薬にまみれている人もいる。健康を保っている人の多くが“何らかの仕事”を続けている。本業をそのまま継続している人もいれば、パートやアルバイト、ボランティア、孫の御守り、趣味的仕事など、収入になるならないは別として、何らかの形で“働いている”。ただ通常は年齢を考え、徐々に仕事量を減らしていく。ところが、そうしたくても“出来ない人達”がいる。定年がない家業の場合、60代、70代でも“第一線”で活躍している例は多い。上手く後継者が育っていない場合はなおさらである。「天皇」という職業は、かなり特殊で、しかも「皇室典範」と呼ぶものによっての“縛り”もある。自分が“辞めたい”と思っても、簡単に辞めさせてもらえない“哀しい仕事”なのだ。世の中の多くの人達が御高齢になって、のんびり余生を過ごされている姿を見ても、自分自身からはそういう“小さな願い”さえも口に出来ない“哀しい職業”なのだ。私はまだ3歳くらいの幼い頃「天皇陛下になりたい」とバカなことを言ってみんなに笑われていたらしい。きっと“楽しそうに”見えたんだろうな。もし、80歳を過ぎても“過酷な仕事”を続けなければならないと知っていたなら「絶対、嫌だ」と叫んでいたに違いない。

「涙がこぼれないように…」って、難しい

2016-07-13

独特の語りで知られた永六輔氏が亡くなった。昭和60年代に大ヒットした「上を向いて歩こう」や「今日は赤ちゃん」などの作詞家としても知られる。「上を向いて歩こう」の歌詞は「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように歩く 一人ぽっちの夜」という歌詞なのだが、よくよく考えてみると、この歌詞はおかしい。一人ぽっちで涙がこぼれないように歩くためには、ほとんど真上を見て歩かなければならない。そうすると極めて危険だ。まあ、そういう“気持ち”だと解釈してあげよう。実際、今の日本も内閣府の調査で「生活が苦しい」という人達が60%の世帯だという、なんとも哀しい結果が公表された。同じ調査で「ややゆとりがある」「大変ゆとりがある」合わせても3.7%の世帯だというから驚く。“日本って貧しいんだ”とあらためて思うではないか。ところで「上を向いて歩こう」は全米でも大ヒットしたことで知られる。但し「スキヤキ」という奇妙なタイトルで…なのだ。作詞家には事前にタイトル名称の変更は知らされていたのであろうか。おそらく知らされていなかったことだろう。作詞家に「『上を向いて歩こう』を『スキヤキ』に変えても良いですか?」と聞く勇気は、私が関係者なら、ない。そんなこと、とてもじゃないけど訊けない。作詞家は当然ながら“言葉に敏感な職業”である。涙がこぼれないように歩こうとする人物なのだ。それに対して「スキヤキを食べて忘れましょうよ」なんて言えるか。なお、永六輔自身は、この歌詞は「安保闘争で敗れた時の悔しさ」を作詞したものだと後に語ったという。今回の参院選も自民党が大勝した。彼は「涙がこぼれないように」永遠に瞼を閉じたのかもしれない。

わたされた「時間」

2016-07-11

人には、みんな“それぞれの時間”というものがあります。ここでいう「時間」とは“何時何分”という時間とは少し違います。ニュアンスとしてわかりやすいように言えば“期間としての時間”という意味です。例えば“生まれてからの時間”、“死ぬまでの時間”、“この仕事をしてきた時間”、“二人で過ごしてきた時間”、“学び始めてからの時間”、“別れてからの時間”、“生まれ故郷での時間”、“この家で過ごした時間”…数え上げればきりがありません。普段はあまり意識していない「時間」ですが、それを“意識せざるを得ない状況”に追い込まれることが人間にはあります。うろたえてしまうほど不意に「有限の時間」を“わたされてしまう”ことがあるのです。そして、そういう時「時間」はとてつもなく長く、あるいは短く、私たちに“重くのしかかって”来るのです。極端な例が「死の宣告」です。「余命一年」などという医師からの宣告です。そうすると厭でも「時間」を考えないわけにはいきません。考えるというより“意識する”ようになるのです。会社勤めの方なら「定年」とか「リストラ」とか「転任」とかが“わたされた時間”となります。「婚約」とか「出産」とか「閉経」とかも“わたされた時間”を意識する事柄です。こういう風に、人生には必ず“わたされた時間”を意識せざるを得ない場面というものがあるのです。人はそういう時、あらためて「運命」というものと向き合うのです。どんなに日頃「運命などない」と言っているような人でも、時間を“わたされる”と、これまでの生き方、これからの生き方、そして“見えない存在”を意識するようになるのです。そうして何よりも「時間」が妙に“愛おしく”なるとか、逆に“怖く”なるとかするものです。

「霊感の強い人」を排除するツアー

2016-07-10

世の中には“霊感が強い”としか言いようのない人がいる。けれども、その“霊感の強さ”が実際の日常生活で役立つことは意外なほど少ない。むしろ、マイナスに働いてしまうケースの方が多いようである。奇妙な「タクシー・ツアー」が存在する。昔からタクシー運転手たちの間で語り継がれている“心霊スポット”を夏場期間限定でめぐってくれるツアーだ。三和交通で昨年から開始したが、予想以上に予約が殺到する“人気ツアー”らしい。確かに興味深い。けれども一つだけ“条件”がある。「霊感の強い人はお控えください」と記されているのだ。ここが問題である。本来、霊的な現象は「霊波」のようなもので“通じ合い”、或いは“引き寄せられる”ことで発生する可能性が強い。同じところを通っても、“霊的な波長”が合わなければ出現してこない可能性が強いのだ。そうだとすれば、実際には「心霊スポット巡礼ツアー」と謳っても、何事も起こらずに“通り過ぎる”だけのツアーになってしまう可能性は大きい。というか、このツアー、もしかしたら最初から“心霊現象が起こらない”ことを前提としたツアーなのかもしれない。なぜならタクシー運転手は“お祓い”や“除霊”の技術を持っていない。本当に出現したなら“逃げ帰る”だけだ。もしも、憑りついてしまったならどうするのだろう。たぶん、それを避けたいから「霊感の強い人はお控えください」なのだ。つまりは「知りませんよ」なのだ。でも、これは“自己申告”だから、黙って乗り込むことはできる。もし、来年から“中止”されたなら、きっと“その種の人”が“素知らぬ顔”で紛れ込んでいたに違いない。 

「バベルの塔」が壊され始めた

2016-07-09

「バベルの塔」の物語はちょっとややこしい。元々信仰心が強く忠実だった人間が、徐々に“不遜な考え”を抱くようになり「天まで届く塔を建てよう!」ともくろむ。これを“天上界”に棲む神は“人間の不遜な思い上がり”だと捉えた。そこで「バベルの塔」がもう少しで“天まで届く”ところに達したときを見計らって、神の怒りで壊してしまったというのだ。そのあと、ついでに民衆たちの“一致していた言語”まで別々にして、同じ人間たちでも“簡単に意思疎通ができない”よう変えてしまったというのだ。この『旧約聖書』に記された物語の背景にあるのは、バビロンに実在したジッグラト(神の塔)だといわれる。今、世界は確実に、この物語のような方向へと秘かに進んでいる。それぞれの国民が、自国の言語、肌の色、宗教しか認めず、世界中が“手を繋ごうとする”枠組みがしだいに壊れつつある。その極端な例がアメリカにある。白人と黒人の対立が激化しているのだ。昨日も警察官5名が銃撃された。銃社会のアメリカは、一般人が警官を撃ち殺す。元々は無実の黒人青年が警官に撃たれたところから始まっている。まるで南北戦争時代に“逆戻り”したかのようである。火に油を注いでいるのが大統領候補の発言である。メキシコとの国境に壁を作る、イスラム教徒はアメリカに入れない、環太平洋条約など認めない。イギリスもEUから離れる。台湾も中国から離れる。もはや“言葉の通じない人”、“肌の色が違う人”、“宗教が違う人”とは、仲良くしない様にと「御触れ」が出ているかのようですらある。実際、経済が絶頂だった時、ニューヨークの“塔のような建物”はテロ攻撃に遭った。あれから15年以上が経ったが、ますます人間同士の連帯感は失われ、どの「神」が正しいのか解らなくなっている。

« Older Entries Newer Entries »