総勢19万人が働く大企業。日本を代表するIT企業「東芝」が“解体”される。もうボロボロなのだ。今から十年前、東芝は企業としての絶頂期にあった。2007年7月の株価1185円(現在は209円)が、それを証明している。その当時、日本のバブル期に活躍した“家電企業”のほとんどが低迷状態にあった。あの時、なぜ東芝だけが“独り勝ち”のように輝いていられるのか、私には不思議で仕方がなかった。企業にも、人間と同じように“成長期”と“繁栄期”と“衰退期”がある。他の類似企業が、ことごとく衰退が目立って来ていた時だけに、累積赤字に苦しんでいた時だけに、東芝だけが“成長期”のように輝いているのが、奇妙だと私は思ったのだ。あの時、正直、私は「東芝」の株を購入したい衝動に駆られていた。まだまだ成長しそうに思えたのだ。ただ少し高すぎたことで結局見送ったが、それが私を救ったといえる。やはり、企業にも人間と同じような“運勢”の盛衰がある。これは否定できないのだ。それを無視して大ばくちを打つと、今回のような付が回ってくる。零細企業なら、新規の出直しも良いが、東芝のような大企業は、そうそう“生まれ変われる”ものではない。丁度、東芝が絶頂期にあった頃、巨額の負債を抱えて“瀕死状態”にあったパナソニックは、現在ようやく“過去からの脱皮”に成功しつつある。巨大企業の“生まれ変わり”には時間がかかるのだ。東芝の屋台骨を支えているのは半導体事業だが、それを売却することは多数の従業員たちが職を失うことにつながる。けれども、それ以外“生き残る”すべがない。苦渋の選択は、刻々と迫っている。人間も同じだが、輝いていた人たちが苦しみ、苦しんでいた人たちに輝きが戻ってくる。「運勢」が握っている巨大な歯車は、或る意味で“平等”に回っている。だから、今苦しんでいる人たちには、やがて“輝ける未来”が朝焼けのようにやって来るのだ。
世の中には“珍事”というものが時折起こる。過日行われた岡山県のマラソン大会“小学生の部”で、この大会に参加していた263人中262人がコースを間違い、ただ一人、最後で走っていた児童だけが、係員が自転車で並走していたため、正しいコースを外れることなく完走した。他の児童たちは、途中で左折すべきところを直進したため全員“失格”で、ビリで走った児童だけが“優勝する”珍事となった。実は人生にも“似たような運命”となる場合がある。子供時代は不遇で周りからもイジメられていた児童が、大人になって徐々に実力を発揮し、やがて中年すぎくらいから“スポットライト”を浴び、誰よりも活躍しているケースがある。同じように学生時代、お世辞時も可愛いとは無縁だった少女が、就職後も恋愛とは無縁だった女性なのに、お見合いで善い人と結婚をし、子供達にも恵まれ、仲間の誰よりも幸せな家庭を築いている場合もある。周りよりも遅いとか、周りより劣っていても、希望を捨ててはいけないし、焦ってはいけないのだ。よく運命学では「大器晩成型」という言葉を使う。若い頃は恵まれていなくても、中年期以降になって花開いていく人生を指す。そういう人たちの特徴として、決して器用ではないが、真面目でコツコツと努力し、忍耐強く、一途なものだ。あまりにもひたすら努力し続けるので、神様が根負けして“幸運”を授けてくれるのかもしれない。同じように“不運続き”でも、これが良いと聴けばこれに飛びつき、あれが良いと聴けばあれに飛びつく、というような“目先の流行”や“世間の動向”に振り回されている人に神様はあまり味方しない。同じ努力でも、一歩、一歩、手応えを感じながら“亀のごとく”に歩みを進めていく人に、神は微笑むのだ。
「汝自身を知れ」という言葉があるが、まさに“自分の素質・能力”を客観的に知っていること、そして“自分の運命”の質や型を把握していることは“より良い人生”を歩むための最大の武器と言える。“自分の素質・能力”については、誰でも何となくは知っている。大体三十代後半くらいになれば、客観的と言えるかどうかはともかく、何となくは把握している。けれども、自分が持っている“運命の質や型”に関して把握している人はまことに少ない。客観的に測る手立てがないからだ。ところが「人生の達人」と言えるような人は、この自分に与えられた“運命の質や型”を実によく知っている。別に“占い”で把握したわけではない。何となくの勘から、或いは人生上の経験から、自分に与えられた“質”や“型”を感じ取っている。だから、その“質”や“型”に逆らわないので、大きな失敗をすることがない。その典型を「ニトリ」の創業者・似鳥昭雄氏に見る。彼には学歴も家柄もない。諸事情から仕方なく旭川で始めたのが“小汚い家具屋”なのだ。どうすれば売れるかを考え、“本店”なのに“支店”としてスタートした。支店であれば、小さくて当たり前となる。今すぐ商品がなくてOKとなる。ミスがあっても、支店なもので…で笑って許される。学歴はなかったが、商才はあった。彼はこの時期に、庶民は“小汚い家具屋”からでも“安ければ買う”と掴んだ。そして、そういう“売り方”が自分に与えられた「天命」と悟ったに違いない。その後一貫して、庶民のために“お値段以上”を心掛けた。この身の丈に合った“生き方”が、今日の「ニトリ」を作った。名称も大昔と変わらず「ニトリ」のままである。だから、誰でも読める。すぐ分かる。どんなお年寄りでも、子供でも“家具屋さん”だと知っている。現在は“ホーム雑貨”が売り上げの半分になった。そして今、創業者はアパレル業界に進出しようとしている。多分、デザイン性は全くないが、“お値段以上”の自宅でくつろぐための服を主体に売ることだろう。大塚家具がニトリをまねて失敗するのは当然である。エリートとして育った“かぐや姫”社長は、庶民を相手に商売をしてはならないのだ。高くても良いものを買う“お嬢様たち”に“お姫様家具”を販売しなければ倒産してしまう。人は身の丈に合った“生き方”で成功するよう出来ているのだ。
仕事には大きく分けて、企業や上司から“与えられた仕事”と、自らの希望や選択で“掴み取る仕事”とがある。“与えられた仕事”は、当然ながら本人の“意にそわない仕事”の場合もある。けれども、その企業とか組織に属している以上、通常は引き受けなければならない。この仕事は嫌だと言って拒絶ばかりしていたなら、その企業や組織からは出ていかなければならない。解かりやすく言えば“クビ”になる。どうしても仕事を選択したいのなら、自ら独立して、或いはフリーで仕事をすればよい。もっとも、フリーになったからと言って、“好きな仕事”ばかり出来るかというと、そうはいかない。それどころか、仕事そのものが中々得られないケースさえもある。或いは、仕事そのものは自由に選択できるが、収入が見合わない、というケースも出て来る。本当に自分がやりたい仕事だけをやって、生活している人は驚くほど数少ないものだ。人間は“わがまま”に出来ていて、一見、やりたいことだけをやって生きているような人でも、自らの仕事に満足しているかと言えば、必ずしもそうではない。「他人の芝生はきれいに見える」で、自分が実際に行うまでは楽しそうに見えるような仕事でも、いざ自分で行ってみると苦労の連続が待っていたりする。自分の能力では難しいと気付かされることもあれば、苦労の割には成果が得られないことに愕然とすることもある。逆に、本当は“やりたい仕事”ではないけれども、仕方なく“与えられた仕事”と割り切って一生懸命に行っていくことで、充実感が得られるとか、達成感が得られるような場合もある。また十二分な報酬が得られることもある。昨日も、芸能界で13歳から仕事を始め、人気を得ていた女優が22歳になって突如引退した。多くの人が“憧れる職業”でも、そしてスポットライトの中で華やかに笑っていても、自らの仕事に“違和感”を覚えて、生きていること自体が辛くなることもある。誰もが、同じような“条件”の中で仕事をしている。彼女は自らの選択で“掴み取る仕事”に生涯を捧げようとしているが、その選択が正しいのかどうかは、神様にもわからない。
日米首脳会談に随行する明恵夫人は10日、ワシントンの聴覚障碍者の大学を訪れたが、通常、案内役として同行する大統領夫人の姿はなかった。このことをアメリカのマスコミは“異例のこと”として取り上げている。その一方で、安倍首相とトランプ大統領の“19秒間の握手”も、同じように“異例”として取り上げられた。今回メラニア・トランプ大統領夫人は、別荘へと向かう空軍基地から合流する形をとった。なぜ、メラニア夫人は明恵夫人の案内役を嫌ったのだろう。いくつかの理由が考えられる。その一つは“聴覚障碍者の施設”等には興味がない。また案内できるほどの知識もない。そもそも自分は大統領夫人なのに、なぜ日本の首相夫人が行きたい場所に同行しなければならないのか。食事会に付き合えば十分ではないか。大体が自分は“大統領夫人”を目指して彼と結婚したのではない。私は“不動産王”と結婚したのだ。明恵夫人にしたって、元々は大手企業の社長令嬢だったはずだ。私と同じように、一人で好きなところに出掛けたいかもしれない。それに初対面で何を話せば良いか、私は政治・社会の話など興味がない。ファッションに興味のある女性なら仲良くなれるかもしれないが、どう見ても明恵夫人は“居酒屋の叔母さん”だし、趣味も違う。私は障碍者やボランティアなど興味もない。本当はファーストレディとして“外交”すること自体、私には不似合いなのだ。私はいつでも自由でいたいし、そうなれると思って“不動産王”と結婚したのだ。もし、明恵夫人が自分と同じような考えなら、私は“優しい人”になれるし、プライドの塊なら“冷たい人”に映るだろうし、包容力のある奥様なら“自由奔放な人”と思ってくれるだろう。それで良いのだ。
60年ぶりにヨルダン川西岸のクムラン周辺で“死海文書の洞窟”が発見された。これまで11の“文書洞窟”が見つかっているので“12番目の洞窟”ということになる。この洞窟は、意図的に崩壊させた洞窟の奥に5~6メートル存在したもので、未開封の保存瓶や巻物が隠されていたらしい。“死海文書”は最初1947年に羊飼いの青年が、群れからはぐれた羊を追っていくうちに偶然発見した洞窟古文書で、現在まで850巻も見つかっている。古代ヘブライ語が主で、アラム語や古代ギリシャ語の文書もある。その内容は旧約聖書関連のものが多く、2000年前のユダヤ教、中でもクムラン教団による教義とか戒律とかを記した内容が多いとされている。けれども古代ヘブライ語なので解読できる部分が少なく、その多くは“未解読のまま”となっている。ユダヤ教からキリスト教は生まれているが、その成立前後の内容が含まれているので重要とされる。創設者イエスに洗礼を授けたとされるヨハネはクムラン教団に属していたとされ、イエスもその影響を受けていた可能性が強い。一説にクムラン教団は、仏教における“密教”と同じく“超能力集団”で、だからこそ不毛の地である死海周辺の洞窟内で禁欲生活を続けていた可能性もある。そう考えると、イエスが行ったとされる数々の奇跡も、日本で密教を身に付けた空海が行った数々の奇跡と“同様のもの”だった可能性が強くなるのだ。大体、発見されてから70年にもなるのに、その多くが未解明のままというのは何とも歯がゆい。羊飼いが偶然に発見したとされているが、“見えざる手”が導いたに違いない。今、偶然にもこの文書を偶然読んでいる日本の若き研究者が、古代ヘブライ語をマスターして、ぜひ全容を解き明かしてほしいものだ。
「黄色靱帯骨化症」という難病でプロ野球選手を3年前に引退した人物がいる。巨人軍の越智大祐氏だ。ところが週刊誌の報道では、彼が奇妙な「婚約不履行」で訴えられるらしい。毎年、巨人軍は宮崎にキャンプを定めている。そのキャンプ地は身体づくりをするところだが、2011年に彼は頻繁に繁華街へと出かけていて、キャバクラで一人の“魅惑的な女性”と出逢う。店の中だけでは飽き足らず、彼は彼女に個人的な交際を求めた。けれども彼女は報道などで、彼が既に既婚者であることを知っていて、店以外の交際を拒絶した。ここまでなら、プロスポーツ選手の場合、よくある話で特別問題はない。ところが、彼はその後も執拗に彼女に交際を迫った。「私、不倫はしない主義なの」彼女は何度もはねつけた。実は彼女も既婚者だった。2014年になって、彼は「オレは離婚したよ。もう不倫にはならない」と再び彼女の前に現れた。この年、彼は病気で本来の投球が不可能となり、解雇通告に近い引退へと追い込まれるのだが、年初には元気で彼女の元に通い詰めていたらしい。そしてとうとう彼女は根負けし、陥落した。交際は一気に深まり、彼女も“本気”になった。その年の冬、彼は彼女に求婚をした。プロ野球界を引退し、宮崎へと引っ越して来た。「だから、お前も離婚して正式に一緒になろう」そこまで言われると、さすがに彼女の心も動いた。迷った末に彼女は夫と別れる決心をし、実際に2015年12月、籍を抜いた。ところが離婚していたはずの彼だが、元妻から頻繁に電話が掛かってくる。そして何度も東京へと舞い戻る。2016年の夏、彼女は友人と一緒に彼を問い詰める。彼は「離婚していなかった」と白状する。そして宮崎から消えた。これが「婚約不履行」に該当するのかどうか微妙ではある。彼女も交際開始時に既婚者だったからだ。ただ自分は離婚せず、相手に離婚を迫るのは“クズ中のクズ”である。訴えられて当然である。実は越智氏には、以前から暴力団がらみの「闇スロット疑惑」が囁かれている。多分、文春はこちらの方が“本丸”なのだ。犯罪に指を染めやすい生年月日の四柱命式であることが、私には気になる。
最初にお断りしておくが、私は“特定の宗教”だけを信仰する者ではない。ただ“信仰”とか“宗教”とかが、人間の運命に大きな影響を与えるものであることは否定できない。もちろん、私は占い師であり、信仰以前に「運命」と呼ばれるものの持つ“圧倒的な力”を認めざるを得ない。それは立場上でもそうだし、数多くの実占例による経験上でもそうである。或る意味で、それを客観的に描こうとしたのがスコセッシ監督の映画『沈黙―サイレンス―』だ。原作は遠藤周作著『沈黙』で、江戸時代のキリシタン弾圧下の長崎を舞台としている。ポルトガル宣教師の葛藤と“隠れキリシタン”の姿について描写された内容だ。アメリカでの上映は一部で昨年12月23日から始まっているが、日本では今年に入って1月21日からだから、まだ半月余りしか経っていない。スコセッシ監督は、この作品の構想から上映までに28年を要したらしい。ところがアメリカでの評価は真っ二つに分かれている。そして“悪い評価”の方が圧倒的に多い。確かに“単純さ”が売りのアメリカ人に、この映画の中身は“深すぎる”し、“重すぎる”のだ。現在のアメリカを代表し、最近「不均衡」を口にするトランプ大統領にはぜひ見せたい映画だが、途中で苛立ち席を立ってしまうかもしれない。同じく慰安婦像をあちこちに建てている韓国人の方達にも見せたい映画だが、こちらは映画館の前に“慰安婦像を建てよう”と言い出すかもしれない。そういえば、原作の『沈黙』が発表された時にも、欧米のキリスト教権威者たちから総攻撃があったらしい。ここに描かれているのは「本当のキリスト教ではない」という的外れな批判だった。遠藤周作氏は、それならば…ということで、その後に小説『イエスの生涯』や『死海のほとり』を描いて「これが本当のキリスト教です」と彼らに示した。何も出来なかったイエスや、裏切った信者たちのありのままの姿を描いたのだ。そして丁度、小説『沈黙』発表から50年の節目に、西洋人監督による映画『沈黙』が公開された。そして、どのように評価されようと、神は“沈黙”で応えるのだ。
アウン・サン・スー・チー氏と言えば、ミャンマー民主化を進めた象徴的存在として知られる。その功績を称えて「ノーベル平和賞」も授与されている。そのスー・チー氏だが、現在、窮地に追い込まれつつある。彼女率いる「国民民主連盟」の弁護士として知られたコーニー氏が飛行機から降りた直後に凶弾で倒れたのだ。コーニー氏はイスラム教徒の弁護士で、二つの重要な法案改正の動きを主導していた。その一つは「軍人の犯罪は放免」という憲法の改正、もう一つは「仏教徒と非仏教徒の結婚を規制する法律」の改正、民主化に成功したように見えるミャンマーだが、実際にはまだまだ“旧態依然”の部分が残っているのだ。ところが、この二つとも根強い反対があり、暗殺者は“軍関係者”或いは“仏教関係者”どちらかの組織とつながっているとみられる。何しろ国会議員の25%が軍人なのだ。そして国民のほとんどが仏教徒なのだ。したがって、われわれから見ると何の問題もなく改正できそうな二つの法律だが、ミャンマーでは一筋縄ではいかない。特に後者の問題は深刻で、イスラム教徒は西部に暮らすロヒンギャ族が圧倒的に多く、国軍が住居を放火するとか、女性を暴行するとか虐待を繰り返し、隣国バングラデシュに2万人以上が避難しているらしい。そこでアセアン各国からも、国連からも、人権活動家たちからも「ノーベル平和賞」を受賞しているスー・チー氏に対し、強い非難の声が上がっているのだ。ところが、かつて「戦う孔雀」とも称されたスー・チー氏だが、孔雀の羽を捥がれてしまったかのように動かない。国会議員の25%が軍人で、国民の9割が仏教徒であるミャンマーにおいて、大鉈を振るうことは“自らの支持基盤を失う”ことになる。かつての「戦う孔雀」は、“最高顧問”の椅子に座って、窓枠越しに見える“青い空”を見ている。
AKB48の小嶋陽菜さんが2月22日に“卒業コンサート”を行い、3月15日発売の47枚目のシングルでセンターを務めることが発表された。その結果、初期メンバーで残るのは峯岸みなみさんのみとなった。AKB48のデビューが2005年なので11年余りアイドルを続けてきたことになる。もう“こじはる”も、28歳だ。「アイドル」を続けていられる年齢ではない。卒業した初期メンバーたちのその後は、総じてあまりパッとしていない。毎年、投票してくれていた何万ものファンたちはどこへ行ったのだろう。少なくとも一人になって歌手としてヒット曲を出したメンバーはいないような気がする。もっとも川崎希さんのように、実業家として成功している人もいる。だから“ステップ”としてのアイドルは、必ずしも“負け組”ばかりではない。現在は、さまざまな“アイドルグループ”が存在している。その総人数はいったい何人になるのだろう。私の友人の“お孫さん”もアイドルグループとしてデビューしたが、現在はアパレルブランドの“イベントモデル”に変わっている。友人は「普通の仕事が出来れば良いのだが…」と嘆いていた。今は、簡単に「アイドル」を名乗れるが、収入面はピンキリで“貧乏アイドル”が圧倒的に多い。昔のように一人でデビューするアイドルは少なく、最初はグループから出て、いつの間にか“単体で活躍する”というのが現在の「アイドル」の形らしい。やがて「お母さんも昔はアイドルだったのよ」と微笑みながら、我が子に語り掛けられる“幸福な人達”があちこちに出て来る日本であってほしい。
日本の平均寿命は現在、女性がほぼ87歳、男性がほぼ81歳である。ところが、このような年齢のカップルは意外と少ない。したがって大抵は女性の方が生き残る。京都で昨日、互いに“首を絞め合った”カップルは、男性が87歳で、女性が81歳と、丁度“真逆”であった。もしかしたら、男性が81歳で、女性が87歳であれば、一緒に“死ねた”のかもしれない。どうやら二人はガスコンロの“電池交換”でケンカになったらしい。互いに主張譲らず、激しく口論し、疲れ果てた二人は「一緒に死のう」という結論に至った。ガスコンロの電池が切れなければ、ケンカにならなかったし、首を絞め合うことにもならなかった。もっとメーカー側は、耐久性のあるガスコンロをつくらなければならない。そうすれば首を絞め合わずに済んだかもしれない。妻はタオルで絞め合って、互いに死ねなかったとき、何となくそう思った。そうして今度は“絞め合う用具”を電気コードに切り替えた。二人とも疲れていた。最近何もしていない夫は体力が弱り、息をゼイゼイさせていた。家事仕事のほとんどを続けている妻には体力がわずかに残っていた。「さあ、続けるわよ」「頑張って、私の首を絞めてね」そういって電気コードを渡した。夫はかすかに頷いたが、もう力は残っていないように見えた。妻は夫に手伝って、自らの首にもコードを巻いた。「じゃあ、いくわよ」妻は二重にしたコードを一気に締めた。夢中だった。夫からは力が伝わってこなかった。言い出したのは夫の方ではないか。「あんたも力を入れてよ」そう言いながら、ぐいぐいと締め上げた。夫の手がコードから離れ、ブランとしても締め続けた。こうして一緒に死ぬことはなく、妻だけが生き残った。「殺しちゃった…」しばらくは何もできなかった。やっとのことで電話をかけ、次男に「殺しちゃったの」というのがやっとだった。次男が慌てて119番通報をした。
看護学校入学時に「心身とも癒す看護師」を目指していた一人の女性は、実際に看護師となって8ヶ月後「何を考え、何をしたいのか、自分に何ができるのか、わからなくて、苦しくて…こんな甘ったれで、ごめんなさい」という遺書を残し、自らの命を絶った。看護師を目指したのは、同居していた祖父母が認知症や糖尿病を患い、看護師の持つ役割や重要性を肌で感じたからだった。それだけに新人看護師として、配属された肺がんや肺病患者の病棟で5人の患者を受け持つことになり、最初は“患者達の心身を癒そう”と必死だったに違いない。けれども元々“胸を患っている”患者達には、簡単には“心を開かない”人達も多い。“心・身”の方の「心」の方を、新人看護師が癒すのは難しいのだ。それならばと今度は「身」の方を、少しでも確実に“癒そう”と彼女は努力する。だから彼女は自宅に戻っても、必死に勉強しなければならなかった。朝4時半には起床し、6時のJRに乗り、勤務先病棟へと向かう。本来の出勤時間よりも早く着き、受け持ち患者の状態を把握したかったからだ。そうして過酷な一日が始まり、すべての対応を終え、先輩看護師に報告し、自宅に戻るのは深夜0時頃となる。そこから自宅での不足知識を補うための勉強が始まる。当然、睡眠時間は2~3時間となる。その彼女が「どうやったら病院に来なくて良いか、存在を消してしまえるか…」と友達にメールを送ったのが7月下旬、新人看護師は入って数か月後には“ギブアップ”寸前だったようだ。そして11月30日には号泣して帰宅。その二日後、ひとり暮らしのアパートで遺体となって発見された。彼女の母親は、娘の死を無駄にしないでほしいと「労災認定」を求め札幌地裁と闘っている。圧倒的な看護師不足を認めながらも、労働基準監督署では、うつ病発祥の労災認定は100時間くらいの時間外労働とはねつけている。こうして“心身を癒そう”とした看護師は、“心身を蝕まれて”亡くなってしまった。
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