7月, 2018年

「幸運の大三角形」は「悪魔の大三角形」となった

2018-07-07

よく「幸運な人生」とか「不運な人生」とかいうが、私は時々そういう捉え方に疑問を抱く。「幸運な人生」のはずが、そうではなくなってしまうケースをたくさん見て来たからだ。例えば、昨日、オウム真理教関連の死刑囚たちが次々と処刑された。その中に土屋正実(53歳)という人物がある。この人の生年月日は“四柱命式”で観ても、“ホロスコープ”で観ても、大変に恵まれた星の配置を持っていて、通常の社会生活を歩めば、幸運な人生を歩んでゆくものと推命家や占星家なら判断するのが普通だ。けれども実際には法廷において「悪魔に魂を売り渡した殺人化学者」という検察官らしからぬ“文学的表現”で心底蔑視された人物である。実際、オウム真理教ではサリンやVXといった“殺人兵器”の生成を主導した。人生の途中までは頭脳優秀な化学者としてエリート街道を歩んだのだが、入信して以降は或る意味では検察の言う通り、悪魔に魂を売り渡したのだ。そのホロスコープには滅多に見られない「幸運の大三角形」とも呼ばれる惑星配置があった。それも、太陽&木星&冥王星・天王星の4星が120度の配置で構成する“正三角形”で、通常の人生を歩んだなら社会的成功者となること間違いなしの構図と言える。もっとも考えようによっては、オウム真理教内でも異例の“スピード出世”で、今回処刑された7人の中でも一番遅く入信しているのだ。それなのに彼専用の“研究室”が与えられ、教祖側近の一人となっていた。もし、彼がまともに大手製薬会社とか科学的な研究機関に勤務していたなら、間違いなく優秀な化学者として人類に貢献するような“新薬”とか“特許品”を生み出したに違いない。けれども、文字通り“悪魔に魂を売り渡した”結果、成功すべき人生を棒に振ったのだった。ただ私が解らないのは、彼には“人生で大きく悩む要素”が見当たらないことである。それなのにオウムに加わった理由がわからないのだ。もしかすると、より早く“化学者”としての成果を実証できることが魅力だったのだろうか?

「危険水域」から逃れた古代の遺品

2018-07-06

私の暮らすマンションの眼下には豊平川という川が流れている。普段は川幅の狭い川なのだが、大雨になると途端に川幅が広くなる。昨日は久しぶりに川幅が増水し、河川敷まであふれていた。このような光景を見るのは二度目となる。普段とは違って泥水のような色となり、“危険水域”までもう少しというところまできた。全国各地で大雨が降り、京都・大阪・兵庫では33万人に“避難勧告”が出たと聴く。日本列島は、元々は“スコール”など降らない地域だったはずだが、今や昔の“世界気候図の領域”はあてにならない。どこかのミサイルなどより“天変地異”による自然災害が最も恐ろしい。人間でも動物でも“危険”を察知すると、本能的に安全なところへ逃れようとするものだ。エジプトのアレキサンドリアでは博物館の改修工事のために庭園を掘っていたら、第二次世界大戦中に略奪や爆撃から逃れさせるため隠したと思しき“数百点の古代の遺物”が出てきた。古代ギリシャ、ローマ、コプト時代における壺や食器類などのようだ。おそらく当時のイギリス人考古学者アラン・ロウ氏と職員たちが記録も残さずに行った応急措置であったと思われる。確かに世界各地で、これまでにも戦争によって、多くの遺跡が破壊された。特にイスラム教の教えは“彫像化された神”を嫌うので徹底的に破壊する。けれども軍事的な支配は出来ても“信仰心”は支配できない。マヤでもアステカでもそうだったし、隠れキリシタンもそうだった。むしろ、武力によって領土を失った人々は、それでも必死に“自分たちの神”に縋ろうとする。征服した人々の“神”には死んでも跪こうとはしない。

300年前「甲賀流忍者」の教え

2018-07-05

忍者に「甲賀流」と「伊賀流」の“流れ”があることくらいは誰でも知っている。ただ私は未だに大学の片隅に「忍者部」等というのがあって、全国各地に“忍術研究家”という人々がいることに驚く。今回、弘前市立図書館から甲賀流の忍術集団が遺した「早道之者」という忍術書原本を京都の忍術研究家・上田哲也氏が発見、その信ぴょう性を青森大の清川繁人教授が鑑定・保証した。その中身は、当然のことながら、忍者としての“心得”や“術法”が色々述べられているのだが、正直、私をがっかりさせたのは12ページの書物だったことである。確かに300年近い昔の本なので、12頁なのは仕方がないのかもしれないのだが、せめて50頁前後くらいはあってほしかった。もちろん、その中には寝る時には必ず、部屋の前の畳を挙げて、いざという時に備えろという風な“実践型(?)”の貴重な内容なのだが、文字通り“内容が薄い”。実は、占いの書物も、大昔のものは総じて薄っぺらい。江戸時代に書かれた書物で100頁を超える書物は滅多にない。しかも“和綴じ本”であり、世界に一冊の“肉筆書”である場合も多く、1ページ当たりの文字数としては多くない。昔の“ひらがな”で記されている場合が多く、大変に判読し難い。それでも、貴重な本の場合には、古書店に大金を支払って購入することもある。占い関係の“和綴じ本”は総じて高い。20頁や30頁の本でも何万円もしたりする。さすがにマニアックな私でも、購入をためらう金額なのだ。それで中身が“秘伝的な内容”とか“貴重な実占記録”であれば文句はないが、誰でも知っている初歩的なことしか書かれていないことも多い。良書探しというのは、そういう点で“忍びの者”を探し当てるよりも難しい。日本では“中国の古典原書”をありがたがる人が多いが、中国の古典は一人の研究書ではない。ほとんどの場合、さまざまな学説の寄せ集めを“つぎはぎした書物”である。それを個人の著書であるかのように読み進めていくと、矛盾していて何が何だか分からなくなる。それなのに、解かったような顔をして解説しているのが多くの日本の研究者なのだ。

「美しい顔」は「汚れた顔」だったか⁈

2018-07-04

“編集者の顔”が気になる芥川賞候補作品がある。「美しい顔」という作品を手掛けた編集者の顔だ。この作品は「群像新人賞」を既に獲得している。まだ32歳の“美しい顔”の女性が書いた小説なのだ。私には、この作品のタイトルは最初「美しい顔」ではなかったような気がしてならない。昔「蛇にピアス」という小説が芥川賞を採った時、私は何よりもその“作品名”に才能を感じた。こういうタイトルは余程の才能がなければ付けられるものではない。実際、そのタイトルの“興味深さ”も加わって、受賞作はベストセラーとなった。ところが、のちになって、あの作品名は編集者が付けたもので、小説家本人は“凡庸なタイトル”しかつけていなかったことを知った。おそらく、今回も、作品名は別にあったような気がするのだ。けれども男性(私の勘である)編集者は、美貌の小説家の処女作品は「美しい顔」の方が“売れる”と踏んだに違いない。ところが、思わぬところから「美しい顔」は注目を浴びた。いくつもの場面で他の著者たちが出版した作品の一部が“無断使用”されているというのだ。参考文献にさえも掲げていなかった。これは作家のミスというよりも、編集者のミスなのである。東日本大震災を扱った小説なのだから、何かの記述や著作を参考とすることは編集者なら気付いている。本人は最初から「私は被災者ではない」と公言しているのだ。そうであれば、何かの記述を参考にしなければ、震災の様子を扱った小説は書けない。だから、最初から参考とした5冊の著書を掲げておけば、何の問題もなかった。いや、実際には、少し完璧にコピーし過ぎていた。もし、この作家が本当に“文学的素質”を持っていたなら、仮にそれらを参考にしたとしても、もう少し“表現を変えて”記述するはずなのだ。ところが、この作者は、まるで“模範解答”をそのまま引用する受験生のように、何ヶ所もそのまま転用した。だから、どの部分が転用した箇所なのか、引用された側はすぐに気づき、作家と出版社に対して謝罪を求めた。現在、新潮社と新曜社の二社から“誠意ある対応”を求められている。それに対して、昨日「美しい顔」を世に出した出版社側は“争う姿勢”を明確にした。確かに引用はしているが、だからと言って「この作品の文学性は損なわれるものではない」という理屈だ。この作品をホームページ上で公開し、改めて“文学”のための一部であることを“世に問う”というのだ。そんなことよりも、この「美しい顔」というタイトルは、担当編集者が付けたものではないか、と問いたいのだが。

2018年7月の運勢アドバイス

2018-07-03

「爆発的噴火」にオマケは附く⁉

2018-07-03

私は5月19日《キラウエア山だけではない爆発的噴火》と題して、その“第一弾”を書いた。その中で、今後インドネシアとか、フィリピンとか、キューバなどの赤道に近い島国で他にも“爆発的噴火”が起こってくる可能性が高いと述べた。案の定、キューバの隣国グアテマラで火山噴火が起こり、6月10日《火山噴火「グアテマラ」の次ぎは?》を書かざるを得なくなった。この時は、インドネシアやフィリピンの可能性が一番強いが、それに近い半島部分も要注意であると書いた。7月2日に“爆発的噴火”をもたらしたバリ島のアグン山はこれまでにも“小規模噴火”は繰り返していたが、今回は本格的な“爆発的噴火”で継続性が高い。おそらく観光産業にも大きな影響をもたらすだろう。さて、私の予告通りに三か所が“爆発的な噴火”を行ったが、これで“お終い”になるだろうか。どうも、こういうものは「オマケ」が付いてきそうな気がするのだ。まあ、オマケであるから遠い場所ではない。それに遠い年月でもない。今回のバリ島に近い島や半島、そして数週間も経たない頃、アグン山と同系プレート地域の山といったところだろうか。なぜ、そんな風に思うのだろうか。時々、私は自分でもよく解からずに“奇妙な予言”を行うことがある。そうならないことを願うばかりである。今回の「オマケ」は悦べないが、私は幼い頃、雑誌のオマケ(付録)が大好きだった。付録が欲しくて雑誌をねだったものだ。昔の少年雑誌は“付録の数”が多く、20以上の付録が付くこともあった。今思えば、どうということもないような“ちゃちな付録”が多いのだが、夢見る少年には“宝物”のように思えたのだ。最近の雑誌には“付録”が付いているだろうか。「噴火」のオマケはごめんだが、雑誌の付録は決して無くさないで欲しい。

時代が「運命」を作る

2018-07-02

昨日、一人の作家が死去した。「井出久美子」という作家を知っている人は少ない。実は、この人、第15代将軍・徳川慶喜の孫なのである。3400坪の屋敷に生れている。けれども、当然のことながら、徳川慶喜氏が“ただの人”となったため、その孫として“お姫様”ではいられなかった。夫にも戦死されるなど波乱の人生を歩んだ。「世が世であれば…」という表現があるが、その片鱗は彼女の顔貌にもあり、目と眉との間「田宅」部分が異常に広い。これは本来なら“広大な土地相続の相”である。同時に“人徳のある相”で、過去の陰徳が予期せぬ引き立てや恩恵を導く人の相でもある。井出氏の場合は自らを「おてんば姫」と表現し、さまざまなエピソードを盛り込んだ自叙伝『徳川おてんば姫』を書き上げ、この6月に書籍化されたばかりである。まだ作家としては駆け出しの95歳だったのだ。まるで“15代将軍の孫としての人生”を書き上げたことで、自らの“使命が終わった”かのような死であった。どのような人物でも、その出生してくる“時代”や“家庭環境”を択ぶことは出来ない。その“時代”の歯車に押し流される形で、運命は展開していく。本人の性格も「運命」を作るが、それ以上に時代と環境が与える影響は大きい。私は幼い頃「雨漏りのする家」で育ったが、それがなければ“人間の運命”には関心を持たなかったような気がする。そして、私の家庭環境は、私が生まれる数年前までは“裕福な家庭”だったのだ。まるで“どん底の家庭”になるのを待って、産れたようなものなのである。母親が癌や心臓喘息を患い、入退院を繰り返し、父親は昼も夜も働き、実質一人ぼっちの中で、私は「空想の世界」に溺れていた。そう言えば母親も“大名の家系”であった。部屋の片隅にあった一冊の雑誌の“特集”が、私を占いへと結びつけたのだが、もし裕福な家庭に生まれ、母親も元気でいたなら、そして雑誌の“占い特集”がなかったなら、私は“どういう仕事”を選択し、どういう人生を歩んでいたのだろうか。

時代を「逆行」していく車両

2018-07-01

ドイツの公共放送ZDFは6月29日のW杯ロシア大会における“サッカー解説者”クラウディア・ノイマン女史に対して、ソーシャルメディアで繰り返し中傷したとして二人のネットユーザーを刑事告発した。解かりやすく言うと、女性がサッカー解説することに批判的だった男性達を“女性差別だ”として刑事告発したということだ。普通の日本人なら「刑事告発?」の部分でギョッとなる。そこまですることだろうか。確かに“性差別”はいけないが、どちらかと言えば男性的なスポーツであるサッカーに対し、女性解説者を起用していることに批判的な男性達がいたとしても、まあ大目に見るべきことのような気が私にはする。最近、欧米では、この種の出来事が多いような気がする。男女平等を叫ぶのは良いが、すぐに“対決姿勢”で挑むのは大人げない気もするのだ。それに“男女平等”と言いながら、その一方では痴漢被害防止対策としての「女性専用車両」が各地で設けられ始めている。ところが、それでは“不平等”という意見もあって「男性専用車両」も設けるべきだという要望が多くなってきた。そして、アンケート調査では男女とも半数近くがこれに賛成している。う~ん、男女がそれぞれの車両に分かれて乗る時代がやって来るのか。私にはアラビア圏で行われている“男女別々の部屋”が連想される。同じ家族でも“男子の部屋”と“女子の部屋”に分かれていて、入り口も別々で、簡単には顔も合わせられない、という閉鎖社会。イスラム原理主義はサウジアラビアの“女性の車免許”だけでなく、あらゆる面で“男女不平等”である。その結果としての“別々の部屋”なのだ。そういう社会を“時代遅れ”と思っていたのが我々ではなかったのか。その一方で、女性解説者に対して“揶揄する発言”を刑事告発までして“平等化”しようとする。それぞれ、男女には先天的な違いがあり、だからこそ“男は女を求め”、“女は男を求める”形が続けられてきた。過度な“男女平等”は“同性愛”を助長することとなって「女性専用車両」では女性同士が抱き合い、「男性専用車両」では男性同士が抱き合い……ということにならなければ良いのだが。

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