「世界がまだ見ぬボールパーク」というのが日ハム新球場のうたい文句のようだ。札幌から少し離れた場所にある“北広島市”というのが、その新球場の建設予定地である。ハッキリ言って、この街のお客さんだけではとても球場人数を黒字に出来ない。現在の本拠地である札幌市から大挙押しかけないと、埋まらないはずの球場なのだ。ただ日ハムが目指す“ボールパーク構想”というのは簡単に言えば「野球新都市」の実現で、アメリカの一部都市などで既に存在している野球を主体としたテーマパークとして街全体を活性化させることにある。昨日、札幌市のホテルで正式発表会が行われた。ただ奇妙な点がいくつかある。総工費600億円をかけての建設となるのだが、そのうちの66.7%は日ハムが出資し、それ以外の33.3%は“外部パートナー”が出資すると規定している。ところが、その外部パートナーは決まっていない。道内企業に“募集”を掛けるようなのだ。これが札幌市に出来るのであれば、すぐ手を揚げる企業が出て来ると思うのだが…。この球場はアクセスが良くない。そこで現在、新駅を作ろうという構想もあるのだが、これも赤字続きのJR北海道には手持ち資金がなく、すぐには取り掛かれない可能性もある。確かに「世界がまだ見ぬ」と謳うだけあって、この球場はいろいろな面で斬新である。まず、球場なのに三角屋根なのだ。それに全面ガラス張りである。恥ずかしくないのか。左翼席上段には温泉施設も併設される。つまり、温泉につかりながら野球観戦を生で観れるのだ。いいの、そんなことして。ホームランボールが飛んできたとき、飛び出せないじゃないか。2023年の3月開業予定であるから、まだ完全決定ではないのかもしれないが、とにかく“ユニークな球場”が出来上がることだけは間違いがない。ただ札幌からの観戦者たちは野球は見ても、それと一体化している“パーク”の方まで立ち寄るだろうか。土日は別として、平日はきわめて難しい。なぜなら、札幌市内まで今のままだと戻るには少し時間が掛かり過ぎるのだ。600億円を投資して建設する球場が閑散としていたのでは目も当てられない。その点で、もう少し都市としての工夫をしないと、寂しい球場になってしまう予感が…。
世の中には“若く”見える人もいれば、“老けて”見える人もいる。その“見え方”を気にする人は多い。元フジテレビアナウンサーの近藤サト氏(50歳)がTV番組の中で、昔は「若さにしがみついていた」と告白している。そのため比較的若い頃から“白髪染め”を用いてきたが、2年前から使わなくなった。もう“若さにしがみつく”のは止めようと思ったからだそうだ。確かにTVに出ている女性達は総じて若い。少なくとも“若く”見えるよう努力をしている。そういう人達が多い。ただすべての職業が“若く”見えれば良いかと言えば、そうでもない。私は20代から“プロ占い師”となったが、見掛け的には“若く”見えがちの方だった。ところが、占い師という職業は、外見的にあまり若いと“信用度”が乏しく見えがちな職業だ。だから、年齢よりも“若く”みられることが嫌だった。前にも書いたことがあるが、階段を上って顔を覗き見ただけで「なんだ、まだ若いな、修行が足りん」と初対面の老婆に言われたことがある。それこそ、まだ若かった私は、その言葉にムッと来た。「もし、修行が足りないと思うのなら帰ってください」私の言葉は意外だったらしく「まあ、せっかくだから、見てもらうか」と上目遣いに座り込んだ。ところが、見終わった時、その老婆は「わしの店で占いやらんか」と誘いかけて来たのだ。冗談じゃない。顔を視るなり「修行が足りん」といった奴のところになど行くものか。だが、今考えてみると、確かに、あの頃はまだ修行が足りなかった。あんなにムキになることもなかったのだ。とにかく、そういうわけで、若い頃、私は“若く”みられることが嫌だった。そういう私でも、50歳を過ぎるころからは“若く”みられるということに感謝するよう変わった。ただ最近は“記憶力の低下”や“体力の低下”など、年齢を感じることが多くなった。そういう意味で“若さ”は無条件にうらやましい。外見的な“若さ”も重要なのに違いないが、それよりも“頭脳の若さ”や“体力的な若さ”を心から欲する。少子高齢化で日本は誰もが「若さ」を求める時代となった。実際の年齢よりも、日常の中での“生活年齢”が若々しいことが重要になってきている。もし「若さ」が売られている“ネットショップ”が存在するなら、誰もが買い求めることだろう。ちなみにアマゾンで「若さ」が売られているか検索してみると、チベット体操の本、DNA核酸のサプリメント、若様侍の小説、美と若さをお金で買う方法などという“妖しいもの”が沢山出てきた。
興味深い調査が提出された。大学を卒業して就職後3年以内に離職・転職した人たちを対象にアンケートを取ったところ、その70%が“離職・転職”したことを後悔せず、むしろ“満足している”というのだ。「石の上にも三年」という言葉があるが、どうやら近年は我慢し続けることだけが“正しい選択”とは言えなくなってきているようだ。最初に就職した企業をなぜ辞めてしまったかについて、もっとも多かったのは「仕事への不満(51%)」であり、次に多かったのは「人間関係への不満(40%)」である。これらを見ると、どういう基準から本人が“その企業”に就職しようとしたのか、やや不思議ではある。企業説明会とかパンフレットとか“仕事内容”を把握する機会はたくさんあったと思うのだが…。もう一方の“人間関係”の方は実際に配属されてみないと、どういう人達と関わるかはわからない。とにかく、実際に入ってみて、思っていたような会社ではなかった…ということなのだろう。まあ、大抵はそうなのだけれど…。そこで“転職”を考える。ここで「占い」を参考にした人はどれくらいいるのだろう。もちろん、そんなことはアンケートに出て来ない。ただ3割くらいの方は、そういう気持ちになったのではないだろうか。実際に用いたかどうかはともかく、入ってみなければわからない企業の選択基準の“一つの方法”として「占い」を用いるのは決して愚かな方法ではない。但し、それは或る程度、転職先を“絞り込んだ段階”においてである。やみくもに“どんな仕事が向いているか”から占いを頼るのは、あまりお勧めできる方法ではない。自分のことは自分が一番よく知っている。土台が無理な仕事・職種を“占いのご託宣”が指示したなら、それでも従うだろうか。占いというのは、あくまでも「転ばぬ先の杖」として用意されているものなのである。自分の“向き・不向き”が解からない場合でも、一応はいくつか出来そうな仕事の候補を出して、その中から選択してもらうようにすべきである。そうでないと“自分の決断”というものがどこにも加わらない。それは“人生の荒波に立ち向かう姿”とは言えない。どのような仕事・職場であっても、多少の困難はあるからだ。3年以内に転職した人たちの45%は、新たな職場では1割以上収入が減少したと告白している。企業規模にしても、32%の人が小規模に変わったと答えている。それでも転職で“後悔”した人たちよりも、“満足”している人たちの方がはるかに多かった。仕事の満足度は“見掛け”ではないのだ。
「空飛ぶバイク」も「空飛ぶトラック」も、もう一つ「空飛ぶタクシー」も、いずれも現実に具体化し始めている案件だ。このほど中東ドバイでは「空飛ぶバイク」が警察車両として、つまり白バイとしての正式採用が決まった。犯人追跡は“空から”というわけだ。さすがはドバイ。なぜなら一台1700万円もする。とても日本では採用できない。ロシアのベンチャー企業が開発したもので「スコーピオン3」という名称だ。公式ホームページから“予約受付”を開始していて、日本からでも購入は出来る。「バイクはちょっと…」という人には「空飛ぶトラック」というのはどうだろう。これも既に実用化が決まっていて、しかも、それを実用化しようとしているのは日本のヤマトホールディングスなのだ。つまり「宅急便」を空飛ぶトラックで運んでしまいましょう…という作戦。既にアメリカのヘリコプター製造企業と基本合意していて、2020年代半ばまでには450キロの荷物を運ぶ「空飛ぶトラック」が完成する予定なのだ。これらに負けまいと、政府の方も本腰を入れているのが「空飛ぶタクシー」の実用化だ。既にアメリカのウーバーやフランスのエアバスなどが、ほぼ同様の“タクシー構想”を持っている。ただ問題は各国の法律が追い付いていないことで、そういう点では調整が必要らしい。確かに、見上げればバイクやトラックやタクシーが上空を右往左往しているというのは、あまり快いものではない。詩集『智恵子抄』の中に「東京には空が無いという ほんとの空が見たいという」という有名な一節があったが、正に大都会から「ほんとの空」が失われていく時が、刻一刻と近づいている。
私は自分の年齢からすれば比較的“柔軟な頭脳”の持ち主である。少なくとも、そのつもりだ。けれども、そういう私でも、なかなか難しいと思ってしまうのが最近の“愛情の定義”だ。昨日、21歳の男性による「アセクシュアルへの理解を広めたい」という記事を読んだ。アセクシュアルって、何?。多分、私だけでなく、多くの人が解からないだろう。日本語にすると「無性愛」と訳すらしい。同じような言葉に「ノンセクシュアル→非性愛」というのもある。もし、この違いが解かる人がいたなら素晴らしい。あなたは時代を先んじているのだ。ついでにもう一つ「ポリアモリー→複数愛」まで解かっている人には“偉い‼”としか言いようがない。複雑な「現代」について行っている人なら「LGBT→大枠で言えば同性愛」くらいは解かっていることだろう。この辺までは“現代人”として必須なのだ。それにしても、複雑な世の中になったものだ。さて、問題の「無性愛」だが、他者に対して恋愛感情や性的欲求を抱かない人のことらしい。そこで、どうしても「冷たい人」と勘違いされがちなのだが、家族に対する愛情とか、仲間への友情は存在するので、心から冷たいのとは違うのだという。また「非性愛」の方は、恋愛感情は存在しながらも“性的欲求”は存在しない形で、こちらの方は何となく“理解できる”人が多いかもしれない。また「複数愛」というのは、複数の人達に対して愛情を感じて、それを包み隠さず理解し合ったうえでの愛情生活らしいのだが、わかったようでわからない。というか、これって、ただの“複数の愛人関係”にすぎないのではないかと思ってしまう。今でこそ“愛人”を隠したがるが、昔の日本では“複数の愛人”を「妾(めかけ)」という名称で持っていることは“奥様公認”のことだった。別に“新しいこと”でも何でもない。また女性の方が“若い男性愛人”を持つことは「燕(つばめ)」という言い方をした。イスラム社会では、現代でも四人までは「妻」を娶って良いことになっている。しかも、同じ家の中で暮らすケースも珍しくはない。つまり、大昔から「複数愛」は存在していたのだ。それに多くの日本人家庭では、自分の妻や夫に対して“精神的愛情”も“肉体的愛情”もとっくの昔に無くなってしまった…という人達がごまんといる。彼らは、いつの間にか「無性愛」になっていた人たちなのだ。
何かの“新商品発表会”のゲストとして、一人の新人女優が舞台に登場した。その“新商品”は何だったか忘れてしまったのだが、その女優の名前だけは記憶に残った。「浜辺美波」という女優である。芸名のような名前なのだが、本名であるという。最近はそういう人たちが多くなった。実は、芸能界入りする時に“本名”でいくか“芸名”でいくかを問われて、迷わず“本名”の方でお願いした、と話している。本人も“気に入っている名前”なのだ。この部分が、実は“幸運な姓名”となるために重要な部分なのだ。自分自身が、自分の名前を愛せないのに、他人がその名前を愛せるはずがない。そういう意味では、自分が“好ましく”感じられる名前を、本名として得ている方は大変に“幸福”であると私は思う。私の父親は、子供の頃の私に「こんな名前を付けられたから…」という言い方をよくした。私はぼんやりと「それなら変えてしまえば良いのに…」と思ったものだ。この思いは、基本的には今でも変わらない。自分が“愛せない”名前を使い続けることは精神衛生上も良くない。私の知っている方で、同じように本名の“嫌い”だった方が、名刺を私に見せながらしみじみ語ったことがある。「波木先生、私の本名は実はこれじゃないんですよ、でも嫌だったから勝手に変えたんです、そうしたら運が良くなった、だから今ではこの名前の方が本名のような気がしています」この人の良かったことは“自分で変えた”という点にある。当然、自分が“気に入った”名前に変えたのだ。自分の名前が嫌いで改名する人は多いが、姓名判断の先生に付けてもらおうとする人が多い。ところが、彼らの多くは“画数至上主義”とでもいうべき考え方を持っている。画数を良くすることばかりに躍起になる。その結果、誰が見ても“おかしな姓名”や“読めない姓名”や“書きにくい姓名”が誕生することになる。これでは本人もその名前に馴染めないし、世間的にも使いにくい。姓名で何よりも大切なことの一つは「姓」+「名」を合わせた時“一体感”が生まれるかどうかだ。そういう点で「浜辺美波」は大変に良い。浜辺に座って“美しい波”を見ている情景が浮かぶ。したがって女優なら「海」や「島」に関連のある作品に出ると良い。そうすれば黙っていても、その存在感が際立つ。他にはリゾートホテルとか別荘地のCMに出演するのも良い。“名を活かす”ことが出来れば、いつの間にか女優として輝いていることだろう。
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