5月, 2019年

「東アジア共通通貨」は誕生するか⁉

2019-05-31

マレーシアのマハティール首相は30日「アジアの未来」という講演の中で、金価格に連動する東アジアの共通通貨を作るべきだという自論を語った。この「アジアのユーロ」ともいうべき通貨は、各国間での貿易取引でのみ使用し、国内取引には使用しない。互いに依存度が高い東アジアにおける共通通貨は、世界経済の混乱期などでも有利に働くと主張している。実は、このような主張は今に始まったことではなく、1970年代から存在していたのだが、そのたび何となく消えてしまっている。どうしてかというと、ヨーロッパのように思想や歴史や価値観などで“似たような国”が集まっていないからだ。日本の「円」は“安全資産”とも言われて経済の変動期に強い。だから、あまりドルに対して以外“その変化”を身近に感じない。けれども東南アジアの通貨は、世界経済の混乱期には大きく変動する。対外的に“安定性のある通貨”は意外に少ないのだ。輸出企業の多い日本では「円」が売られて安くなっていた方が海外での売り上げが良くなる。海外からの観光客もたくさんやってきて、日本の中で消費してくれる。「日本株」も買われやすくなり、株価が上がって“好循環”がやって来る。ところが、変動期に強い「円」は、世界経済の“見通し”が危うくなると、とたんに買われ出す。したがって「円高」となって輸出企業にとってマイナスに作用する。インバウンドの消費は止まり、日経平均は下落する。つまり、日本は世界経済が順調なら黙っていても経済は活性化し、世界経済が怪しくなってくると一番先にその“悪影響”が出る国なのだ。そういう意味では、今後の経済的な“長い見通し”で考えると「東アジアの共通通貨」構想は、日本にとってはプラスの面が大きいよう感じられる。政治的につながるのは問題がありそうだが、貿易的につながるのは良いことのような気がする。どちらかと言えば東南アジアとの“経済格差”が大きかった時代はプラス面が乏しかったような気もするが、もはや東アジア全体が“似たような経済力”へと徐々に変わりつつある現在、本気で「共通通貨」を検討すべき時期に来ているような気が、私にはする。

未来の「選択肢」を“一つだけ”に絞らない

2019-05-30

多くの人は“現在の状況”のなかで「自分の未来」を想像し、何かしら困った時には、その「未来」を想定したうえで現在における“最善策”を考える。そこまでは、ほとんどの人達は共通しているのだ。問題はここからで、その“最善策”を一つに絞り込んでしまう人達がいる、ということである。一つに絞り込んでしまうと、もうそれ以外の“答え”や“方法”というのは存在していなくて、ひたむきにそこへと突っ走ってしまうことになる。元々はエリート銀行マンだったという弥谷鷹仁被告(37歳)はそのような人物だったに違いない。2018年3月に千葉で妻・麻衣子さんを絞殺し、実母と共謀して実家の庭に死体を遺棄した罪に問われている公判が昨日行われた。彼によると、妻は出産後「強迫性障害」の病状が悪化し、極度の潔癖症となり、独自の家庭内ルールを作り、夫がそれに従わなかった時には、30分もの間食器棚を拭かせ続けるという罰を課した。そのため会社に遅刻してしまうことなどあったらしい。自分の家でありながら、トイレのドアさえ素手で触れることは出来なくなった。明らかに異常である。「離婚」について話し合おうとした時には「離婚するなら、この児を抱いて窓から飛び降りる」と、危うく実行しそうになった。それ以来、彼の頭から「離婚」の二文字は消えてしまった。極度の潔癖症に付き合わされ、その「罰」としての暴力を受けることが日常茶飯事となった。このままでは自分が職場に出て行っている間、幼い我が児に何を行うかわからない。我が児の命を守らなければ…妻への殺意は、そのような意図から生まれた。奇妙なことに、検察側も、弁護側も、妻殺意の動機では一致しているのだ。おそらく本人の中では、それ以外の“選択肢”が考えられなくなってしまったのだろう。もし、彼が、もっとほかの選択肢もあることに気付いていたなら、このような事件は起こらなかったに違いない。つまり、“子供の命を守ること”が優先なら、母親と子供とを引き離してしまうことだった。実母に預けるという“選択肢”もあっただろうし、“施設に預ける”という選択肢もあっただろう。死体遺棄のため、自分の家の「庭」を提供した実母が、どうしてもっと“離婚”や“子供の預かり”に動かなかったのか、その部分が何とも不可解である。もしかすると世間体というものを必要以上に考え、それらを望まなかった可能性もある。けれども、それが自分をも“死体遺棄”に加担する結果を招いてしまった。人間は誰でも、理不尽な中で窮地に立つことがある。そういう時に“一つの選択肢”しかないよう錯覚しないことである。自分で考えると、一つしかないよう思えても、実際には“二つ”“三つ”の選択肢が隠れていることが少なくない。ただ焦っている時や傷心している時というのは、頭の整理が十分でなく、思いつかないのだ。日本人には、考え方の根底に“極度の潔癖症”を抱いているケースが多い。「運命」というのは、潔癖症の人達が考えるほど“単純構造”ではないのだ。

ソファで脚を組むのが「なぜ悪い」⁉

2019-05-29

「令和天皇」の初国賓として来日したトランプ大統領ご夫妻。そのメラニア大統領夫人に対して皇居「竹の間」でソファに座った際に、皇后の前で脚を組んだということが“批判”の対象となっているのだという。つまり、皇后の前で「失礼ではないか」という観方らしい。なぜ失礼なのだろう。なぜ「品がない」のだろう。なぜ「礼節をわきまえない態度」なのだろう。私には理解不能である。おそらく、メラニア夫人自身も、そう思うに違いない。確かに、日本においては「品のない」態度なのかもしれないが、欧米人にとって、ソファに腰掛ける時に脚を組むことは日常の習慣である。いや欧米人でなくても、私などでもそうだが、ソファに座る時に脚を組むのは習慣になっている。だから、どこへ行ってもソファに座る時は必ず脚を組む。脚を組まないと何となく落ち着かない。特に「一人掛けのソファ」の場合にはそうだ。もちろん、皇后というのは「特別な相手」なのだから、敬意を表して、その時だけ脚を組まないよう努力すれば良かったのかもしれない。ただ習慣というのは、指摘を受けて、意識をすれば、その時は直せるが、そうでなければ直せない。したがって、もし、あの場面で“落ち度”があったとすれば、アメリカ側の側近の者達である。つまり事前に、その点を夫人に対してアドバイスしておけばよかったのだ。そうすれば、その時だけは意識して直したかもしれない。誰一人も指摘していなかったとすれば、欧米人の認識として、脚を組むことが「非礼に当たる」という認識が欠落しているということである。そうだとすれば、公式の場で、そのように振舞ったとして何ら問題がないのではないだろうか。少なくとも、メラニア夫人に対して“非礼呼ばわり”するのは「お門違い」というものであろう。それに、多くの人は見逃しているが、私はメラニア夫人が履いていたヒールの高さを指摘しておきたい。彼女は少なく見積もっても13㎝以上のヒールを穿いていた。宮中のソファは高さが乏しい。つまり、あのヒールを履いたまま脚を建てると、スカートの膝だけが盛り上がる。美しくないのだ。そして、足首が疲れるのだ。これらの理由から、両足を組む姿勢を続けたと思われる。つまり、元々「非礼な姿」と認識していない姿で、しかも美しく見えて、足首も疲れない方法として脚を組んだと思われる。ちなみに皇后さまの方はヒールが4センチ程度である。だから足首が疲れることはない。元々の身長が高く、脚が長く、モデルであっただけに背筋の張っているメラニア夫人は、それでなくても“横柄に見えやすい”弱点がある。自分でもそれを意識していて、細かな花柄のドレスを着用した。日本の“繊細さに合わせて来た”つもりなのだ。それ以上を要求するのは酷なのではないか。その顔貌から見ても、メラニア夫人は元々“政治家婦人”になどなるつもりはなかったのだ。だから、そういう意味でも、彼女にしては「精一杯の笑顔」で応じているのだ。「非礼だ」などと言わずに「よく頑張っているね」と称賛してやっても良いような気がする。

飲んだか、飲まされたのか、246個のコカイン

2019-05-28

ちょっと気になったので過去の記録を調べてみた。過去「運び屋」としての任務には失敗したが、無事体内から排出して現在も健康で暮らしている人物に、コカインの小分け72個分を飲み込んでいた人物が居たそうだ。小分けの量が同じかどうかわからないが、今回の場合には体内解剖により246個の“小分け”を飲み込んでいたことが判明している。「ウドウ」という42歳の日本人男性は、最初コロンビアの首都ボゴタから4時間35分かけてメキシコシティーへと飛び、そこから成田向けの航空機へと乗り込むことに成功した。成田までは12時間35分の長旅となる。ところが、男性の体内では既に“危険信号”が点滅していた。小分けしていた袋の一部が溶け始めていたのだ。メキシコシティーを離陸して間もなく「ウドウ」の様子がおかしくなった。その変化に乗務員が気付いた。顔面蒼白で激しく痙攣し始めていたのだ。その異様さが操縦士の方にも伝わり、緊急事態として近くの空港へと急きょ着陸した。すぐに救急車が手配されて病院へと運ばれる準備を整えたが、既に死亡していた。もしかしたら乗務員は離陸前から“その男の異変”に気付いていたのかもしれない。何しろ246個ものコカインを飲み込んでいるのだ。仮に小分けした袋が破れなかったにしろ、普通に機内で長時間も座っていられるわけがない。当然といえば当然なのだが「運び屋」は飛行機の中にいる間、食べ物や飲み物を口にしたがらない。長時間飛行では、それだけでも健康に支障をきたす。実際、昨年、成田でX線撮影により検挙されたチリ人男性は、病院に移され体内の薬物が排出されるのを待っていたが、その途中で小袋が破れて死亡した。今年3月にも「運び屋」としての任務そのものには成功し、身体の中の“仕分けされた覚せい剤”が出て来るのを待っていた男性が、宿泊していたホテルの部屋で変死した。体内の覚せい剤の一部が破損してしまったのだ。つまり、体内に隠して「薬物」を密輸するというのは文字通り“命がけ”なのだ。そういう“命がけ”の任務をなぜ行うのかと言えば、多くの場合には「借金を背負っている」からだ。断れない事情を抱えているからだ。おそらく「ウドウ」という日本人男性も、そうだったに違いない。そうでなければ土台が無理な“246個の小分け”など飲み込まない。もしかしたら強引に飲み込まされた可能性もある。短時間の飛行ならともかく、長時間の飛行で成功する確率は極めて乏しいと思われる。「日本国」のパスポートを所持していれば疑いをかけられにくい。“疑いをかけられない”もう一つの条件は、真面目そうに見えることである。だから、真面目そうに見える人は“大きな借金”など作ってはいけないのだ。

韓国「過度な整形」に漂う暗雲

2019-05-27

韓国は言わずと知れた「整形王国」である。一時期、手相の「運命線」や「太陽線」すらも整形すると聞いて驚いたことがある。その韓国で一時期トップアイドルとして人気を集めた「KARA」の元メンバーで、現在は歌手・女優のク・ハラ氏(28歳)が昨日未明、自殺を図ったらしい。さいわい発見が早く、一命はとりとめたらしいが現在も意識不明のようである。2016年グループ解散後のク・ハラ氏には“不名誉な事件”が続いていた。2018年9月には交際相手との暴力事件が報道された。相手側男性が警察に駆け込んだという情報もある。また、その翌月には元恋人の“リベンジポルノ”が公開されたとの情報もある。最近は「睡眠障害」「消化不良」「うつ病」を患っていたという情報もある。これらが、どこまで本当かわからないが、韓国芸能界が近年、この種の“事件・報道”が極めて多いことは注目すべき事実である。これは韓国人の気質も影響しているのかもしれないが、有名・無名に関わらず、感情のコントロールの下手な人が多いよう感じられる。「君子豹変」という言葉があるが、韓国人には普段はとても穏やかなのに、何かしらの刺激を受けると激高してしまう人が多い。近年の韓国は“競争社会”の典型で、その結果として「美容整形」が花盛りとなった。特に芸能人は「美容整形」することが“当たり前”のようになっている。勘違いされると困るので述べておくが、私は基本的に「美容整形」そのものは“賛成派”である。それによって“美貌”が得られ、自分に対して“自信”が付き、さらに仕事上の成功などの“幸運”も得られるのであれば、これに勝るものはない。だから、2~3か所程度の美容整形であれば、それが許される環境なら大いに行えば良い。但し「過度な整形」「整形依存症」だけは要注意なのだ。これは、基本的に何でもそうなのだが、過度に行うと必ず“依存症”になる。もう、それがなければ生きていけなくなってしまう。韓国の芸能界には、顔がどんどん“変化していく”人達が多い。もちろん日本でも、最近はそういう人達が多くなっていて、というか日本人が韓国に出掛けて行って「美容整形」を受けるケースが多くなって、結果的に「似たような顔立ち」の美男美女が多くなりつつある。当たり前の話だが「美容整形」とは“真実を隠す”生き方である。もし、その部分を“隠す”ことで、或いは“変える”ことで、人生が変わり、運命が変わり、人気が得られるのであれば、誰もがそれを望むだろう。そして、それは基本的に“悪いこと”ではない。ただし、そういう箇所が多くなって“本当の自分”が消えていくことで、つまり「仮面」を付けて生きていくことで、そのこと自体にも葛藤が生まれることになる。また、自分だけがそれであればまだ良いのだが、周りもどんどん“美しく”変わっていき、その中で「取り残されまい」ともがくようになることで、徐々に精神も病んでくる。「整形天国」というのは、結果的に“仮面だらけの国”を生み出すことに繋がり、精神的に“不安定な若者たち”がひしめく世界を作り出す。そういう危険を持っているのだ。日本でも「美しいが個性のない美男美女たち」が多くなってきた昨今、特に芸能界では早急に考えなければ、取り返しのつかない事態を引き起こしていくような気がする。

日本人のは「ちっこい」とブラジル大統領

2019-05-26

こういうジョークをどう受け止めれば良いのか。「その通りです」と見せ合うべきなのか。それとも恥ずかし気に“うつむく”べきなのか。難しいところだ。ただブラジルという国には、日本からの移民の子孫が数多く居る。そういう人達には、あまりに失礼な冗談だ。しかも、それを述べたのが一般人ではなくて現役の大統領だからなおさらである。既に「人種差別的だ」として問題視しているマスコミもある。けれども欧米では「小ささのたとえ」として、この人種差別的なジョークがよく使われるそうだ。ナルホド…と納得してしまって良いのか。どうやら、これはブラジルにおける“年金改革”が「小幅にとどまれば辞任する」と示唆した経済相を意識し、記者会見の場で飛び出した言葉らしい。そうするとますます日本人の“身長”ではなくて、“あそこ”を意識してのジョークとしか受け止められない。う~ん、上手いこと言うなぁ…ではなくて、何という侮辱、そして屈辱。実はこの言葉には“伏線”があるらしく、たまたま空港で日本人男性に記念撮影を依頼され、その時にも用いていたジョークらしい。しかも、その時には手指で長さを表現しながら「全部ベキニニーニ(ちっこい)なんだろ」と笑っていたらしい。おそらく日本人男性は小さなカメラを使っていて、そのカメラも意識してのジョークだったに違いない。それにしても、こういう冗談は普段から日本人男性を「ちっこい」と思っていなければ口にしない。ん?…何かおかしくないか。つまり、彼は普段見慣れているのか。いや、そんなはずはない。だとすれば、このジョークは彼が普段付き合いのある「女性」の言葉だった可能性が強い。その女性は“日本人男性”を何人も知っていて、或いは何人も相手をしていて、その男性達がみんな「ちっこい」ので大統領に対して“寝物語”に話して聞かせたに違いない。「ねえ、知ってる? 日本の男ってねえ、とっても小さいのよ、みんな手指で隠れちゃうの」「まさか、そんなに小さいわけないだろう」「本当よ、私にむしゃぶりついた男たちはみんなそうだったもの」「そんなんじゃ感じないだろう」「だから想い出したの、あなたのようにブラジリアンでなきゃってね」大統領はこの時、日本の年金改革法案が「小幅に改定された」というニュースをどこかで聴いたような気がした。日本人は「全部ちっこいんだな」と、深く記憶に留まった。だから無意識に記者会見でも、ああいう表現が出てしまったのだ。

予言通り「妻としての十字架」を引き摺る

2019-05-25

「紀州のドンファン」と呼ばれた資産家・野崎幸助氏の“怪死”から一年が経った。事件当初、55歳年下の新妻と30年来交流あった家政婦とが疑われたが、その容疑も消えつつある。私は当初から、この事件は「迷宮入り」するだろうと見ていた。55歳年下の新妻にも、公私とも親しかった家政婦にも、野崎氏を殺害するような動機はないし、死因となった覚せい剤を入手するルートもない。私は野崎幸助氏の生年月日や新妻の生年月日を知っているが、お二人のホロスコープを見ると、なぜ55歳もの年齢差がありながら結婚したのかがよく解かる。よく“財産目当て”だという人がいるが、この女性は元々が裕福に育っているので、あまり“お金”に執着がない。野崎氏に“拝み倒され”仕方なく結婚を“引き受けた”にすぎない。彼女は、自分を愛し、自由にさせてくれるであろう資産家を「可愛い」と思ったに違いないのだ。だから結婚を引き受けたのだ。彼女は、自分がそれなりの美貌は持っていたが、それ以外には取り立てて“取り柄がない”ことを自覚していた。だから、そういう自分に“晩年の愛”を捧げようとする老人を可愛いと思った。自分は、もう一つの住まいを東京に持ち、普段は自由に遊び暮らすことが出来、時々和歌山の夫の元に逢いに行けばよい。彼女は、この資産家が自分を“高価な絵画”と同じような意識で、傍に置きたいのだなと感じだ。自分自身も、働くことは得意ではなく、何をやっても長続きしない性格なのは解かっている。ただ自分の中では“結婚という名のビジネス”としての意識もあったから、彼が大々的に“結婚式”を挙げようとした時だけは反対をした。入籍するのはOKでも、身内に知られるのはごめんだった。だから入籍した後でも、自由に東京と和歌山とを行き来した。それが条件だったからだ。いつも、老人は寂しそうに自分の車を見送った。彼に対して「愛情がないのか」と言えば、そうでもなかった。祖父に対して抱くような愛情はあった。だから一緒に歩くことも嫌ではなかった。時々、寂しそうな表情を見せるのも好きだった。自分と同じような“永遠の安らぎ”を求めているのが感じられた。愛されていることは解かったが、自分の中の“孤独感”は決して消えなかった。「週末だけでも和歌山の方に来て欲しい」という彼からの要請もあって、4月からはひと月の内の三分の一くらいは和歌山で過ごすことになった。家政婦もいるので、家事はやらなくて良かった。時々、その家政婦と二人になったが、新妻にとっては感謝しかなかった。だから、彼女の給料を上げてあげるよう夫に頼んだりした。そういう中で、突然、夫は“不可解な死”を遂げた。もっとも嫌っていた“世間にさらされる状態”となってしまった。まさか、自分がその後になって、まるで“本当の妻”のように、夫亡きあとの会社を引き継ぎ、その従業員たちから「社長」と呼ばれるようになるなどとは夢にも思わなかった。まるで、夫の幸助が、生前出来なかった“妻としての足かせ”を与え、永遠に「野崎幸助の妻」として生きるよう計らっていたかのようでもあった…。

「新たな土俵」が必要な“2組”のバトル

2019-05-24

互いに相手を必要以上に意識する場合、その二人にはどこかに“共通の要素”があるものだ。そして、どこかに“がっぷり四つに組み合う”因縁があるものだ。昨日、その“2組”が微妙な形で激突している。「堀江貴文vs.村上世彰」と「上西小百合vs.橋下徹」の“2組”だ。村上氏の方は子供たち相手の“特別講師”として「金融」の授業を行ったのだが、その中で「ホリエモンのせいで自分は逮捕された」と繰り返した。それに対して堀江氏の方は「うそつきクソ野郎」と口汚くののしっている。なんとなく、この二人は日本人的というよりも“アメリカ人的な気質”を持っているような気がするのだが、それにしても頭脳優秀な二人がアメリカの片田舎か、プロレスのリング上でののしり合うような場面は何となく面白い。一方、別な形で“ののしり合っている”のが小西小百合氏と橋下徹氏だ。この二人は元々「維新」で一緒だったのに、途中からおかしくなった。そして、現在は“場外乱闘”のような形で互いに“ダメ出し”をしあっている。元々が弁護士で“論戦”には自信を持つ橋本氏に対して、真っ向から戦いを挑む者はそう多くは居ない。ましてや女性では、なかなか太刀打ちできない。ところが、昔から小西氏は橋本氏に対しておくすることがなかった。それも、真正面から食って掛かる。私は好き嫌いとか、論戦の正邪とかではなくて、“日本の論客”ともいうべき橋本氏に対して、そうやって挑めること自体、この女性に“政治家としての資質”があると思うのだ。ところが世間は、そういう部分ではなく、この人の持っている弱点というか、“庶民感覚の乏しさ”や“非常識な一面”を取り上げて政界から遠ざけた。そうしておきながら、日本は「女性の社会進出を妨げている」とかいうが、こういう度胸の据わった女性の社会進出を許さない風潮がある。これは一般企業においても同様で、真正面から戦いを挑んでいく女性を男社会は許さない。男性達が許さないのではなく、まず女性達が許さない。だから、女性達から支持されない女性は決して社会で成功できない。そういう社会を、女性たち自身が造っているよう私には感じられる。ところで、2組のバトルは、それぞれが別々の土俵で行っているので、今のところ「直接対決」になっていない。おそらく、この二組のバトルに対しては“危ない部分”もあるから「ガチンコ対決」をさせる場を作ろうとするTV局が出て来ないのだろうか。くだらない芸人番組で“みんな一緒”という雰囲気を作りたがるTV局が多いようだが、一対一のガチンコ対決番組も作って、新しい「令和」の時代に、政治や経済に対して「こういう見方もあった」と感じさせるTV局が出て来ることを密かに願っている。

運動不足解消のため入って「世界女王」に⁉

2019-05-23

潜在的にその人が持っている“素質・能力”というのは、案外、自分自身でも気づいていない場合が多い。広島に住む白築杏奈氏は学校在学中には特別優れた能力を発揮することはなかった。一応、スポーツ系のクラブ活動はしていたが、特に優れた成績でもなかった。地元の高校を卒業して、新幹線の車内販売をする会社に就職し、新大阪から博多間の往復業務を真面目にこなしていた。数年たつと仕事にも慣れ、暇を持て余し始めた。立ち仕事のせいか下半身に肉が付きやすく、それが気になっていた。学生時代とは違って、今は何の運動も行っていなかった。そんなときに「格闘技サークル」のビラを見つけた。そうだ、少し格闘技でも習って、ストレスの発散と運動不足の解消を行い、もう少し下半身も細くできれば…と思った。そういうきっかけで始めたキックボクシングだった。なぜか毎日が楽しくなった。気が付くと、人並外れてジムを訪れ黙々と練習に励んでいた。下半身も細くなったが、それよりも「強くなりたい」という気持ちの方が優った。こうして、いつの間にか新幹線の車内販売は辞めていた。練習の時間が思うように取れないからだ。格闘技のプロになりたかった。なぜか無償に“強く”なりたかったのだ。まるで“格闘技の神”が憑いたようでもあった。生活のためにアルバイトはしたが、それ以外の全ての時間を練習に当てた。こうして念願のプロデビューは果たしたが、なかなか思うように動けず、強くはなれなかった。車内販売の時の方が生活ははるかに恵まれていた。けれども、そんなことはどうでも良かった。ただ強くなりたかった。ベルトを巻いて“頂点”に立ちたかった。それが、そのまま生活の“目標”となり“生きがい”ともなった。他の女性達が男たちに夢中になっていくように、自分は「チャンピオンベルト」に恋をしたのだと思った。そして、ついに、その時が来た。2017年10月、念願の「女子世界フライ級王者」になったのだ。格闘技の練習を始めて十年がたっていた。一年後にベルトを失ったが、2019年4月、今度は「女子世界アトム級世界王者」となった。階級が変わったが、再び世界王者となった。運動不足を解消するため、下半身を細くするため、ストレスを解消するため…何気なく始めた格闘技で、気が付けば「世界女王」と呼ばれるようになっていた。「女王」の割に収入が少なく昼間はトレーナーとして指導もしている。それでも平凡な“車内販売をしていた会社員”は、いつの間にか「あざだらけの世界女王」になっていた。

矛盾しているTV「小室圭氏の追っかけ」

2019-05-22

時々マスコミというのはストーカーまがいの「追っかけ」をする。芸能人の場合もあれば、スポーツ選手とか、政治家とか、事件の主役の場合もある。たとえ“事件の主役”であっても、“容疑者”であっても、その顔をTV画面に出して良いかどうかは難しいところで、通常は「逮捕されるまでは出さない」というのが暗黙のルールのようだ。そういう点からいうと、この人の場合には、マスコミは「誰」を追っているのだろうか。芸能人でもなければ政治家でもない。事件の主役というわけでもない。せいぜい“話題の人”の分類だろうか。2017年9月に秋篠宮眞子さまの“婚約者”という形でマスコミに登場した小室圭氏のことだ。その後、さまざまな報道があって“お二人の婚約”は宙に浮いたものとなっている。マスコミ報道の多くは《お二人の結婚は認められない》的な立場からの視点で、彼を追跡している。もしもマスコミが“そういう立場”であるなら、彼は「一般人」だということになる。にも拘らず、マスコミの多くが昨日も彼が留学中のニューヨークの大学の「卒業式に欠席した」ということを報道している。少なくとも“正式婚約”が成立していない立場の現在、彼は「公人」ではない。芸能人でも、スポーツ選手でもなく、単なる留学生だ。“晴れの卒業式”に出席できなかったのは、マスコミが“追っかけ”をしているからではないだろうか。しかも、それを報道する番組の出演者の多くは彼に対して“批判的コメント”を述べる。私はかつて“同じような光景”を見たことがある。「ロス疑惑」における三浦和義氏のTV番組だ。あの時は殺人事件だったので、同じ「一般人」と言っても立場的にはかなり異なる。ところが三浦氏の場合は、やがて次々とマスコミに対して「名誉棄損」ということで獄中から訴訟を起こす。そして、多くの場合に勝利したのだ。獄中容疑者にさえも、日本ではそういう“権利”が与えられている。今度の相手は法律を勉強した“弁護士を目指す?”人物である。これまでの「追っかけ」報道や、週刊誌の中傷記事などを、海外で“法律家”となった彼は、どう活かしていくのだろう。この問題が起こって以降、秋篠宮家は家族全員が国民の多くからバッシングを受けた。特別なにかの問題を起こしたわけではない。国民の多くが、あまり賛同してくれなかった相手と“長女が婚約しようとした”というただそれだけのことである。どの家庭でも、娘が“周りから祝福される相手”と婚約・結婚できるとは限らない。さまざまな理由から、その相手に対し婚約・結婚を干渉・反対されることはある。私は、占い師という職業柄、そういうケースを山ほど見てきた。面白いのは、そうやって反対された相手であっても結婚して幸福になる人はいるし、逆に、誰からも“認められた相手”との結婚であっても、やがて不幸になってしまう人はいる。彼が皇室に相応しいかどうかはともかく、お二人の相性が“大変に良い”ことだけは間違いがないので、そういう二人を“引き離す権利”がマスコミや国民にあるのかどうか、私にはいささか疑問なのだ。

新社名「大樹生命」は、“巨木”に生れ変れる⁉

2019-05-21

古くからの会社が継続していることで知られる“生命保険”業界。会社そのものの業態についはよく知らなくても、その社名だけは“知っている”という企業が多い。そういう企業名の一つであった「三井生命」が、今年4月1日から「大樹生命」へと社名を変えていたらしい。2015年「日本生命」の傘下に入った段階で、1927年から使用していた「三井生命」の名は“変更”を余儀なくされていた。そこで“保険プランの名称”として用いていた「大樹生命」を、そのまま企業名として用いることにしたようだ。この「大樹生命」という名称は運命学的な観点から言って大変に良い。まず、その社名が一般に与えるイメージ。これが大変に良い。いかにも「生命」を扱う会社として“相応しいイメージ”の社名だからだ。イメージだけで言えば、これに並ぶものとしては「太陽生命」と「朝日生命」以外にはない。これらも“生命力”をイメージさせる社名だ。ただ“生命保険”というものの性質を考えると、自分自身の生命を支えるだけでなく、遺された家族の“生活を支える”とか“余生を潤わせる”という意味合いが強い。そういう意味で言うと“太陽”より“樹木”の方が、より好感度が高い。しかも、姓名学的な画数も良いのだ。「三井生命」は20画だが「大樹生命」は32画だ。ちなみに「日本生命」は22画、「太陽生命」は29画、「朝日生命」は29画、「住友生命」24画、「大同生命」22画、「第一生命」25画、「明治安田生命」40画、「富国生命」33画、「ライフネット生命」27画、「アクサ生命」20画、「かんぽ生命」24画、「ソニー生命」18画、「オリックス生命」25画……ということで、良い画数のところは意外に少ない。生命保険会社の正式名称は、例えば「大樹生命保険株式会社」で厳密に言えば「保険会社」が不足している。けれども、企業名というのはどの業種でももそうなのだが、社会的に広く“認知されている社名”を実質的な社名として扱う。だから、企業名で通常用いられる「……株式会社」の“株式会社”の画数を加える必要はない。それと企業名というのは、その業種に“見合っている”ことが重要で、現代のIT企業であれば横文字の名称で良いのだが、生命保険業のような永年続けて来た業種はあまり“特殊な名称”や“横文字だけの企業名”を用いない方が良い。海外との取引が多い企業などは、逆に“古典的な名称”のみを使い続けるのは感心しない。そういう場合、海外展開用と国内用と“綴り的に二つの名称”を併用すれば良い。「大樹生命」に生まれ変わった社員の方達は、これまでの顧客に縋りつくことなく営業をかけていくのが成功する秘訣なのだ。

日本が「告発社会」に変わっていく“怖さ”

2019-05-20

昨日から今日にかけて、二つの“小さな出来事”がニュースとなった。その両方を読みながら、最近の日本が徐々に北朝鮮と同じような「告発社会」に変わりつつあるような気がして怖くなった。小さな出来事の一つは29歳の高校経論が、大阪市内の家電量販店内で美しい女性を無許可で動画撮影したというものである。それを目撃した男性が、撮影者を注意して捕まえ、そのまま警察署に連行、迷惑防止条例違反で逮捕されたというのだ。ニュースでは「胸元を撮影した」となっているが、容疑者は「きれいな女性を見つけたので撮影した」と言っている。無断で撮影するのは良くないが、逮捕するような出来事だろうか。もしも容疑者を捕まえた男性が「胸元を撮影した」と感じたのだとしても、そこで注意をして、それに相手が応じたなら、許してあげる寛容さがあっても良いのではないだろうか。わざわざ警察まで連行していく事件だろうか。警察の方も警察で、一応の厳重注意をしたなら“無罪放免”してあげても良い案件ではないだろうか。人間誰でも、美しいものに眼が行くことはある。そして、その時、たまたまタブレットを持っていたなら“映しておきたい”と思うことも自然なことではないだろうか。もちろん許可なく映したことは、迷惑防止条例違反だ。ただ、それは撮影された側が“そう感じた時”に成立するような気がする。例えば“ニュース映像”などで、無許可のまま多数の人達を撮影したものが放映されている。もし、無許可で撮影すること自体を禁ずるなら、あらゆるニュース映像、街角映像、観光映像は流せなくなる。それに、告発したのが“撮影されていた女性”ではなく、無断撮影を見つけた男性であったことも、何となく哀しい。彼はおそらく、自分は“痴漢を捕まえた”というような意識でいるのだろう。同じ男性でありながら、美しい女性を見て“記録に残したい”と思った男性を「犯罪者」としか捉えられない心の持ち主なのに違いない。もう一つの出来事は、幻冬舎の社長・見城徹氏が「ツイッター終了宣言」を行ったことだ。彼は自社から発刊した作品に対して批判を繰り返した作家の“小説の文庫化”を認めなかったということで、その作家の“怒り”を買った。そこで単なる“嫌がらせ”から認めなかったのではなく、数字的に無理だと思ったから認めなかったと“実売部数”をツイッターの中で公表した。それが「編集者のモラル」として問題だとする多数の作家たちから攻撃を受けた。謝罪をしたのだが炎上がやまないので、ツイッターそのものを中止したようだ。これも、ちょっとおかしな話で、確かに実売部数を述べたことは悪いが、それは“利益”の上で成り立つ“商業出版”において、或る程度、数字で判断していくのは仕方のないことのはずである。しかも、彼は「だからダメ」と言ったのではなく、このような数字でも担当編集者はあなたの味方だった…ということを解からせたくて“出した数字”だった。企業が、企業として成り立っていくためには「看板商品」は外せない。だから、それに批判を加えて来る作家を受け入れるためには“或る程度の数字”を求めるのは無理からぬことであろう。ところが、近年の日本ではちょっとでも“欠点”が窺われたもの、“綻び”が見えたものに対しては絶対に容赦しない。徹底的に“社会から抹殺しよう”という風な風潮が観られる。何かしら「自由にモノが言えない社会」を作り出し、かつての「大らかな日本」が消えてゆくようで、私は怖いのだ。

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