5月, 2019年

世界を「ゆる~い宗教」に変えていこう⁉

2019-05-07

スリランカでキリスト教の“復活祭の日”に起きた連続爆発テロ事件は257人の犠牲者と500人以上の負傷者とを出した。地元イスラム過激派組織による犯行だった。その結果、どうしてもスリランカ政府としては自国に居るイスラム教徒たちに対し厳しい取り締まりを発動せざるを得ない。既に公衆の場でのイスラム女性の宗教的服装は禁じられた。身体のラインを隠す服装や、顔を全面的に隠す衣裳を禁じたのだ。自爆テロを見抜けなくなるからだ。それだけでなく5日には国内に居る外国人600人を国外追放とした。その多くはイスラム教の聖職者たちだった。直接的には事件に関係ないとしても、国民の多くが不安を抱える状況で野放しには出来ない。日本人にとっては、キリスト教とイスラム教とが、どうしてそんなにまで対立しなければならないか理解が難しいが、大昔から“民族宗教”というのは、その民族を“勝利に導く神”として存在している。したがって、勝利に導くためには“手段を択ばない”風な考え方が根底にある。しかもその“勝利”というのは、必ずしも“自分の時代”でなくても“子孫の時代”であっても良い、という考え方をする。だから、自爆テロが無くならないのだ。しかも、イスラム聖職者たちが何より重視する「イスラム法」というのは“男尊女卑”の典型であるし、その刑罰の仕方も“ムチ打ち”とか“石投げ”とか前時代的である。同じ日、ブルネイ王国のボルギア国王は、4月に施行した“不倫と同性愛行為”に対しての刑として定めてある“投石による死刑”の適用を猶予すると発表した。この“処刑”に対しては、世界的に多数の人権団体などから批判が高まっていたもので、それを考慮したかに思われる。ブルネイ王国というのは、あまり日本人にはなじみが少ないが、経済的には大変に豊かで恵まれた生活をしている。その変わりというわけでもないだろうが、宗教的にはアジア圏としてはかなり厳しい。厳格なイスラム教に従っている人たちが多い。私は以前、日本にホームスティしているブルネイ王国の中学生の少女を鑑定したことがあるが、日本に来て1年以上経つのに、室内でもスカーフを外さななかった。その時、タイから来ている少女も鑑定したのだが、その少女の方は好奇心いっぱいで楽しそうだった。ブルネイの少女は一言も聞き逃すまいというような真剣な表情を最後まで崩さなかった。“ゆる~い宗教”の国、日本を彼女はどのように感じながら過ごしたのか。そして、本国に帰って後「神」に、どう報告したのだろう。

新たな「ギャルブーム」は再来するか⁉

2019-05-06

いつの時代も、ブームを牽引するのは“若者たち”と相場が決まっている。その時代を象徴するような“新たな若者たち”が街に登場して、新たな“流行”を生み出し、新たな“文化”を担い、新たな“時代”の幕開けを予感させるものだ。そういう意味では「アムラー」や「ガングロ」は“一つの時代”を牽引していた。その頃に誕生していたギャル雑誌「egg」が、装いも新たに5月1日復刊された。この手の雑誌が次々と休刊していった2014年から、もう5年経っている。ただ完全復刊なのかどうか、よく解からない。反響の大きさに、とりあえず“秋号”を出すことだけは決まったらしい。あの当時、極端な厚底ブーツやパンプスは歩きにくそうだった。ガングロメイクも“似合う子”と“似合わない子”がいた。それでも、少女たちはこぞって、そういう方向に流れた。それこそまさに“ブーム”なのだ。ブームというものは、本来、マスコミとか芸能事務所とかが作り出すものではない。マスコミなど騒がなくても、若者たちの間で“自然発生的に増えていく”。日本の70年代から80年代にかけては、そういう意味では独自の“文化”や“芸能”が次々と花開いた。占い雑誌が次々と登場したのもその頃で「マイバースディ」「エルフィン」などは、その代表的な存在だ。ちなみに「マイバースディ」は1979年に創刊し、2006年に休刊していたらしい。その復刻版が何年か前に出た。そして今年は“復刻版”ではなく“新たなる復刊”ということで4月に「My Caiendarマイカレンダー」という雑誌が出ていた。一応、私は取り寄せてみたが、正直、がっかりしただけだった。80年代の読者は今少なくとも40代にはなっている計算で、復刊するなら“そういう年代”に向けたものでなければならない。ところが、その内容は完全な少女向けでもなく、さりとて大人向けでもなく、実に中途半端で、その内容も“入門書の域を出ない”ものでしかなかった。いったい、どういう人がこれを購入するというのか。占い好きな人はどの年代でもいるが、70年代後半から80年代にかけての“占いブーム”では、明らかに“入門以上の知識”が各雑誌に掲載されていた。その雑誌類を呼んでいた人たち向けとしては、あまりに幼稚というか、中身のない雑誌となっている。もし、これが“十代の少女”向けというなら、面白さや華やかさが欠けているし、中年向けというなら実用性に欠けている。よくTV番組で“昔を懐かしむ”だけの番組があるが、それと変わらない。もう「占い」は“昔懐かしいもの”という捉え方でしか出せないなら、出さない方が良いのだ。

「神事」と「占い」は“一体化”していた

2019-05-05

元号の変化は、日本が「神国」であることを改めて印象付けたが、一般に“皇室行事”として行われる神事は「伊勢神宮」に由来するものが多い。しかし、原初から伊勢神宮だけが皇室と関わっていたのかどうかについて歴史的には疑問がある。実は伊勢神宮と同じように「斎王」と呼ぶ“巫女”を配しているのが京都の「下鴨神社」である。その下鴨神社で昨日、第64代の斎王代による「禊(みそぎ)の儀」が行われた。これは毎年択ばれる斎王代の女性が十二単を羽織り、境内を流れる御手洗川に手指を入れる神事で、15日の「葵祭(あおいまつり)」に備えるものだ。前日には「流鏑馬(やぶさめ)の神事」も行われている。こちらは公家装束の男性が疾走する馬上から、三か所に設置された「的」目掛けて矢を放つ神事である。一般に「下鴨神社」と呼ばれているが、正しくは「賀茂御祖(かもみおや)神社」という名称で、京都では最古の神社とされている。神国日本としての「神」は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」という名称の神様で、その実態は「太陽神」である。丁度、古代エジプトで「ラー」が太陽神であるのと同じ理屈である。その天照大神に仕えるのが「斎王(いつきのおおきみ)」で、本来は未婚の内親王が担ったとされている。その「斎王」が伊勢神宮だけではなくて、京都の「下鴨神社」にも派遣されていて、現在では“その代理”である「斎王代」という形で受け継がれているのだ。現在はどうか知らないが、古代には“神憑り”となって「予言」「呪術」「祈祷」を行ったのが斎王の女性達である。そういう意味では「斎藤」の「斎」だが、この文字を使う家系である場合、古代の神社や巫女と何らかの関係がある血統なのだ。古代の神事として行われた「占い」の代表的なものに「卜(ぼく)占」がある。これは亀の「腹甲」を用いたり、鹿の「肩甲骨」を用いたりする。これについて書き出すと長くなるので書かないが、日本における神事は「占い」や「呪術」と切り離すことが出来ない結びつきを持っている。

「彼に苦しんでもらいたいので」という笑顔⁉

2019-05-04

海外のニュースというのは、その時々の日本国内の状況いかんで“素通りされてしまう”ケースもしばしば生じる。おそらく簡単には伝えられたのだろうが、私の記憶には存在していなかった。ニュージーランドで2017年12月に誕生した首相が38歳の独身女性だったという事実だ。もっとも、独身とはいうものの長く“事実婚状態”を続けていたらしいので、そういう意味でニュースとして“独身”を強調しないのは当然だった。さらに彼女は昨年6月、現役首相のまま“出産”までやってのけていた。おそらく日本なら、マスコミや世間が、事実婚とはいえ未入籍のまま“妊娠・出産する”ことに批判的な論調が目立つのではないだろうか。或いはそれ以前に、首相になってすぐ“妊娠・出産”という日々を送ること自体に疑問や批判が飛び出すことだろう。そういう点では、ニュージーランドの国民は中々に寛容である。彼女が7年前から同棲しているパートナーはTVの人気司会者だった。けれども現役首相が出産することになって潔く「専業主夫」へと転向した。多分、出産が近づいた時に2人で話し合い、そういうことに決まったようだ。ただ「子供が産まれる」という段階となって、未入籍はややこしくなる。そこでマスコミは首相に対して「プロポーズはしないのか」と問いただしている。それに対しての彼女の答えは、いかにも一国を率いる首相らしい。「いいえ、私からはしません。プロポーズすべきかどうか彼に苦しんでもらいたいので…」と笑いながら答えたのだ。何んとも余裕のある女性首相らしい答えではないか。日本で、こういう風なユーモアと自信に満ちた言葉で返せる女性がどれだけいるだろう。おそらく彼女は外交問題などでも同じような対応が可能なのに違いない。だからこそ国民も、彼女の妊娠・出産を暖かく受け入れたのだ。そのアーダーン首相だが、何日か前に公式の場で左手中指にダイヤモンドの指輪をはめて出席したことで、今年4月の休暇中に“正式婚約”を交わしたとの報道が出ている。なぜ一気に“入籍”までしてしまわないのか、われわれ日本人には理解に苦しむが、一国の首相でもあるので手続き上の問題などあるのかもしれない。人気のTV司会者から「専業主夫」に変わった男性は、自らの仕事を捨てても“愛”と“子供”を択んだのだ。

無意味な「性差少ない服」の開発

2019-05-03

どんなに頑張ったって「男」と「女」の“違い”というものは存在しているものなのに、存在しないよう見せかけることが“正しい”と信じている愚かな人達がいる。“性差の少ない学生服”の開発を試みているメーカーが出て来たというニュースだ。それに伴って知ったことだが、岡山県というのは“全国の学生服”の7割以上を生産している“学生服王国”なのだそうだ。その岡山県で続々と開発されつつあるのが“性差の少ない学生服”だという。トランスジェンダー、つまり“自分の性”に違和感を持つ人達を意識し、そういう人達でも“違和感なく着られるような学生服”を作ろうとする動きのようだ。何かが違う。最初にも述べたように、どんなに頑張ったって「性差」というものはある。これは“自然の摂理”なのだ。もし、性差が無くなってしまうと子孫が失われてしまうわけで、まず“性差”は無くすべきものではない。何千年か経って、どこかの宇宙人のように男女の区別が判然としなくなって、誰もが全身ピッタリスーツで街を歩くようになれば別だが、それまでは“性差を意識した服”となるのは当然なのだ。そして、ここからが重要なのだが、それは決してトランスジェンダーの方達への“差別”なのではない。大体、性差が存在しないように見せかけようとすること自体、既に意識過剰な行為といえる。むしろハッキリとした“性差のある学生服”を作って、その“選択権”を生徒たち本人に与える、というのが正しいトランスジェンダーに対しての在り方なのだ。それを文部省だか、教育委員会だか、学校だか、PTAだかしらないが、そういうところが“選択権”を奪っているところに問題がある。いくら「心は女の児よ」と言ったって、似合わないものは似合わない。それでも本人がそれで良いと思うのであれば、それを着て登校すればよいだけの話だ。それを問題視するから話がややこしくなる。通常、生まれつきのトランスジェンダーの男子は“女の子らしい洋服”を着たがるもので、“男女中間的な洋服”を着たがったりはしない。その根本的なところが、理解できていない人達が、いくら「そういう方達のために開発した」と言ったって、喜ばれるはずがない。それに世間では“トランスジェンダー(性別越境者=性同一性障害)”と他の“LGBT”とを同一視しているが、厳密には“ゲイ・レズ・バイ”と“トランスジェンダー”とは微妙に異なるのだ。昔「前世を記憶する子供達」が注目を浴びた時期があったが、或る意味で、先天性の「性同一性障害者」は、その“子供達と共通する魂”の持ち主のような気がする。つまり前世で生きてきた“性”を、現世でも“本能的に求める”から、現世での“肉体”に拒否反応を示すのだ。そういう意味から言えば、前世と同じようなファッションを試みた時、もっとも魂が浄化されるに違いない。

「遷都」と「クーデター」の危ない綱渡り

2019-05-02

4月29日インドネシアのジョコ大統領はジャカルタからの“首都移転”を閣議決定した。「遷都」というのは、古代国家ではよく行われていたことで、中国で実在が確認される最初の王朝とされている「殷(「商」)王朝」では「殷」に都を定めるまでに8回も遷都していたといわれる。日本では「奈良」から「京都」そして「江戸(東京)」へと遷都している。だからインドネシアがジャカルタから遷都したとしても特別不思議はないのだが、古代と違って現代は“引っ越す”のに莫大な費用や労力がかかる。だからよほどのことがない限り、首都は変えない。というか変えようがないのが実情だ。日本でも何回か「東京」からどこかに“遷都しよう”という話が盛り上がった時期もあったが、いつの間にか立ち消えになってしまった。インドネシアがなぜ首都を変えようとしているかというと、世界一とも言われる交通渋滞、環境汚染、そして何よりも地盤沈下の問題がある。ところが“遷都”に必要な費用は3.6兆円とも言われる。莫大な金額なのだ。遷都にふさわしい場所もまだ決定ではない。それでも地盤沈下だけは防ぎようがないらしく、移らざるを得ないらしい。日本と同じく地震や洪水など自然災害の多い国なので、その点でも慎重にならざるを得ないのだ。一方、南米のベネゼエラでも4月29日、マドゥロ大統領反マドゥロ派との対立が激化し、グアイド国会議長が首都カラカスの空軍基地に入って、兵士らに決起するよう呼びかけた。つまりは「国家」を変えようとクーデターを仕掛けたのだ。ところが、このクーデターは鎮圧されてしまったようだ。なぜベネゼエラでこのような事態になっているかというと、169万%の超インフレが一番だ。要するに紙幣が“紙屑化している”ということ。さらに5年連続のマイナス成長。3年間で300万人以上が国外脱出。全国で5日以上停電が続くなど、もうどうしようもない国家なのだ。このような国家なら、クーデターが成立して良さそうなものだが、そうはいかない。どうしていかないのかというと、現大統領に味方している国々があるからだ。日本では「平成」から「令和」に変わって“新しい時代”を穏やかに迎えようとしているが、世界ではそれぞれの“違った形”で、新しい時代が始まろうとしている。

2019年5月の運勢

2019-05-01

「日本の象徴」は“豪華絢爛”にすべし⁉

2019-05-01

以前にも書いたことがあるが「平成」の最初の年だった1989年の12月「日経平均」は38915円まで高騰していた。いわゆるバブル期の頂点で、現在より16000円以上も高かった。このまま日本は経済的に“世界をリードしていくのではないか”と思われていた。ところが、あっという間にバブルは崩壊し、その後の20年間、あれよあれよという間に日本の富は失われていった。2009年には日経平均が7054円まで落ち込んだ。解かりやすく言えば、日本の経済力は“⅕以下”になってしまったのだ。その後の十年間、徐々に日本の経済は立ち直りつつあるが、アジア勢の勢いに比べると見劣りがする。さて「平成」から「令和」に変わることで、日本は“生まれ変われる”のだろうか。運命学的な観点からいうと、まずは“その国の象徴”を豪華絢爛にすべきなのだ。つまり、日本の場合は「天皇」「皇居」それに「首相」「首相官邸」。まずはこれらを“豪華絢爛な雰囲気”に変えた方が良い。歴史を振り返ればわかることだが、どの王国でも、皇帝でも、豪華絢爛な時代とそうでない時代とがある。豪華絢爛な時代には“文化”“芸術”“学問”“商売”も華やかに勃興する。経済が縮小されていく時代には、それらも同時に衰退していく。日本の場合、経済的にも豊かだった江戸時代後半に日本特有のさまざまな文化や芸術が勃興した。今、日本が世界に誇れる芸術とか文化とかは、その時代の産物が多い。これは日本だけのことではなく、あらゆる時代、歴史を彩った「王国」や「帝国」がそうなのだ。古代エジプトの王国は3000年間続いたが、その中でひときわ目を引くのは栄華を誇った王たちの遺物なのだ。それは単に王侯貴族だけでなく一般庶民にも“豊かな暮らしぶり”が反映されていく。同じことは中国の古代王朝でも言えるし、マヤ・アステカの王朝でも言える。ローマ帝国もしかり、オスマン帝国もしかりだ。私の好きだったBS「オスマン帝国外伝」という海外ドラマでも豪華絢爛な装身具を身につけて演じられる。日本の「天皇」や「皇居」は、近年、その予算が徐々に削られているようだ。つまり、贅沢をさせてはならない、という風潮が見受けられる。けれども日本の場合、天皇は象徴なのだから、その象徴が“みすぼらしく変わる”のは、その国民も“みすぼらしく変わっていく”ことの暗示となってしまう。豪華絢爛で外人観光客をひきつけてやまない日光東照宮は、徳川家康を神格化した神社だ。江戸幕府が300年間継承されたのも、日光東照宮のおかげかも知れないのだ。いや、戦後焼け野原になった東京がすさまじい勢いで復興できたのも、日光東照宮が「江戸=東京」を守護してくれたからかもしれない。そういう意味では、朽ちて来ていた日光東照宮が、再び豪華絢爛に生まれ変わったことは大変に良かった。あとは皇居と首相官邸だ。これらも“豪華絢爛”に生まれ変わらせることが出来れば、日本全体が繁栄するよう変わっていくだろう。

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