11月, 2020年

気持ちは理解できても…行為はちょっと

2020-11-06
世の中に「理不尽なこと」というのは山ほどある。そういうのは、大人になるにつれ誰もが感じるところが多くなり、そういう“ぶつけようのない怒り”のようなものを抱えながら、人は“大人”になっていく。「大人」という言葉の中には、そういう“世の中の歪み”とか“不正”とか“矛盾”とかを、或る意味では「容認する姿勢」も含まれている。それが正しいことなのかどうかは微妙だが、だからといって“ひ弱な個人”の立場ではどうすることも出来ない、というケースが多い。ところが、大の大人であっても、これに我慢がならない人達というのがいる。そういう人達はその“理不尽さ”を是正しようとする。もちろん、それが認められ、是正されることもないではないが、そうなる確率は極めて乏しい。三重大学の大学院の研究棟で、その棟の1階から4階までのガラス23枚を実験用金属棒を使って壊したとして、昨日、その大学で10月末まで“准教授”であった藤原武志が逮捕された。本人も認めていて、大学側の処遇や対応に不満があったらしい。近年は大学も経営が厳しく“准教授”のような立場の雇用継続が難しくなっているところも多い。おそらく、彼の場合には、自分の研究にそれなりの自負もあって「生活」というものもあって、大人げない行為に走ってしまったのだろう。ただ、窓ガラスを割って“駄々をこねる”のは、客観的に観ると、あまりにも幼稚で“准教授”に相応しい不満の訴え方ではない。もう少し、別な方法があったのではないか。大体、10月末で解雇されていたのに、11月になっても出勤し続けたというのも、う~ん、という気がする。昔、私が娘を幼稚園バスに載せる時に付いて行ったが、その時、必ず、嫌がって母親にしがみついている女の子がいた。なだめすかしても、必死で母親にしがみつく。可愛かった。あれは、幼稚園児だから可愛いのだ。51歳の准教授がすることではない。それに、研究棟の窓ガラスって、けっこう高額なのではないのか。解雇されたのに、どうしてその学校にお金を払うの?

「プライベート」に警察が介入する時代

2020-11-05
最近はいろいろな点で“世の中”が急速に変わりつつあることを感じることが多い。その代表的なことの一つに、これまでであれば受け付けなかった“夫婦間”や“恋人同士”の暴力沙汰に関しても、積極的に警察が介入するよう変わって来たことがある。先日はハンドボールのトップ選手が逮捕され、昨日はモトクロスのトップ選手が暴行容疑で逮捕された。いずれも交際女性に対してであって、見知らぬ女性に対してではない。昔なら、重傷を負わせたならともかく、2週間程度の怪我であれば警察は動かなかった。近年、警察が動かなかったことで“死亡してしまう事例”がいくつも出て来て、これまでなら動かなかったようなケースでも逮捕することが多くなった。また被害者の方も、これまでであれば世間に知られることを怖れ、また警察に訴えても動いてくれず、泣き寝入りになるような出来事も、どんどん告発する傾向が出てきた。もしかしたら、被害者たちがマスコミ告発などすることが多くなって、ようやく警察の方も“重い腰”を上げざるを得なくなったともいえる。防犯カメラが多数の事件解決に役立っているように、情報化社会の“利点”としては「泣き寝入りせずに済む社会」をつくり出す効果がありそうなことである。家庭内暴力なども、監視カメラの小型のものを各部屋に取り付けるなどすれば、かなりの抑止効果を発揮するのではないだろうか。「心の暴力」ともいうべき“ネットでの中傷”なども、いち早く人物特定できる機能を開発すれば、かなりの抑止力になるような気がする。個人情報保護法によって、必要な情報までもが“隠れ蓑”となって犯罪の“手助け”をしてしまうような状況は、早急に改善した方が良い。時代が進んで、世の中が変わっても、実際には「幸せを実感できない」ような世の中なら、IT機器がどんなに進化しようと意味がない。実際に“世の中”の人々に「変わって良かった」と思えるような“進化”を、作り出せた時、多くの人は無条件でその進化に拍手を送ることだろう。

「時代」に翻弄されていく人々

2020-11-04
マスコミの多くが「脱ハンコ」を好意的に報道した。その時にも思ったことだが「時代」の変化は、時にその流れの中で“必死に抵抗する人々”をつくり出す。“抵抗せざるを得ない人々”をつくり出す。「脱ハンコ」の場合には、印鑑(印章)に関係する仕事をしている方達だ。昨日、日本一の印章の産地として知られる山梨県の長崎幸太郎知事が、河野太郎行政改革相が「押印廃止」の印影と印鑑を掲げて、それが平井卓也デジタル改革相からのプレゼントであることを示した画像を添付し、それらに対し「ただただ限りない嫌悪感」と投稿。印鑑に携わるすべての人々に対する“敬意”というものが欠けた行為であると批難し「土足で戦場の死体を踏みつけているようなシーン」と表現している。確かに、かつて山梨は「印章王国」として栄華を誇っていた。私自身、現在も用いている本名の方の印鑑は山梨県で作成して頂いた。今から45年ほど前のことである。それ以降、私は何回も印鑑作成を依頼したが、最初のが一番気に入っていて、本名の時には未だにそれを使用している。「脱ハンコ」は、確かに行政などの俗にいう“役所仕事”に必要なことは論を待たない。会社関係でも、今はどうか知らないが、昔は必ず上司の「ハンコ」が“有休”一つ貰うにも必要だった。時代の流れ的なものから言えば「脱ハンコ」それ自体の選択は正しい。けれども、それに関わる人達には、それに魂を込めてきた歴史というものがある。これ見よがしに「押印廃止」の印影を見せられたら、わざわざ“そういう印鑑”をつくってプレゼントし、プレゼントされて悦んでいたら、いたたまれない気持ちになるのは当然である。おそらく、そういった人達の心情まで汲み取れなかったのだと思うが、残念としか言いようがない。「時代」はさまざまな事情から、さまざまな仕事や職業を切り捨てていく。今年など“印章業界”だけでなく、別な理由で“外食産業”や“旅行業界”や“アパレル産業”など、さまざまな業種や仕事に致命的打撃を与えている。過去の栄華も「時代」の濁流には無力なのだ。

熾烈な「競争社会」に安息の日は来ない

2020-11-03
“自虐ネタ”を売り物にして人気を得ていた女性芸人のパク・ジソン氏(36歳)が昨日、自宅で母親と共に死亡しているのが発見された。母親との“心中”を計ったとみられる。韓国では近年、ネット上での批判・中傷の書き込みで自殺に追い込まれたケースが多く、社会問題化している。日本でも同じようなケースはあるが、韓国人はもともと“批評精神”が旺盛な国民性を持っているだけに、いったん火が付くと消しようがない。最近でも、ク・ハラ氏、ソルリ氏、キム・ジョンピョン氏などの芸能人が、ネット中傷が元で自殺している。日本の場合は、必ずしも、ネットでの中傷がそのまま「死」に結び付くことは少ないが「競争社会」の典型である韓国では、足を引っ張ろうとする意図も含めて、あからさまな批判や中傷がネット上にはびこっている。特に、今年のように家にいる時間が多くならざるを得ないと、調べようとしなくても、さまざまな情報や書き込みが目に入ってくる。過敏な年代にとって、急激な社会変化や経済不安はストレスを助長させるものであることは言うまでもない。韓国は日本以上に“変化の波”が激しい。そして日本以上に“競争意識”が強い。その結果、若者たちからは誰でも本能的な“焦り”のようなものが潜在的に窺われる。近年では10歳~39歳までの死因のトップに「自殺」が来るようになっている。情報化社会は、好むと好まざるとに関わらず「比べる」ということが習慣化しやすい社会である。けれども、比べることがプラスに働くことはあまりない。人間というのは自分にとっての「マイペース」が保てないと、安息の日は得られない。強制的な“ゆとり”というのも良くないのだが、自分にとっての“ゆとり”は精神を安定させるうえでも必要なものなのである。「比べても意味がない」ということを理解していけば、自然と“競争意識”や“焦り”は薄れていくはずで、そういう社会を取り戻さないと、日本でも「生きる意味を見出せない若者たち」がどんどん増えていく。

「韓国の大統領」と「大阪のトップ」

2020-11-02
こんな風に結び付けて捉えるのは良くないのだと思うが、どうしても私には「韓国の大統領」たちの“その後”と「大阪のトップ」の“その後”とが、重なり合って見える部分がある。「大阪都構想」の住民投票は昨日、反対多数で否決された。それに関しては、何日か前にもちょっと書いたので重複はしない。もうかなり昔の話になるが、大阪には横山ノック氏という府知事がいた。彼が最初に当選した時、私は「さすが大阪だな」と感心したものだ。或る意味で「度量のある地域だ」と称賛もした。ところが、やがて彼は「セクハラ」で告発される。表現としておかしいが“袋叩き”になって辞めさせられた。橋下徹氏が知事になった時にも「さすが大阪だな」「度量のある地域だ」と同じことを思った。橋本氏の場合は最初からトラブルが多かった。称賛される一方で批判も浴び続けた。そして「都構想」が否決され、引退に追い込まれた。今回も松井氏は、同じ結果になった。ネット上の意見はなかなかに辛辣なものが多い。まあ、二度目なのだから、仕方がない、と言えば仕方がない。金銭面にシビアな関西人からすれば、ムダなことに税金を使ったのだ。関西人というか、大阪人というか、とにかく白黒をはっきりつけたがる。過去に、どんなに優れた業績があろうと、手のひらを返したなら容赦はしない。そこが、韓国人(朝鮮人も含む)と似ている。香港人もに似た気質はあるし、タイ人にも似た気質はある。どちらかというと日本人は、行政的な失敗を犯したとしても、何かしらの問題を残したとしても、袋叩きにはしない。けれども、日本人でありながら、地域的に異質な大阪人(関西人)は、その点では韓国人と同様である。韓国の歴代の大統領たちは、そのほとんどが悲惨な晩年を迎えている。辛いものばかり食べると、感情が激しくなりやすいのだろうか。いくら「大阪」といえども「韓国」のトップほど惨めにはならない。そういう意味では大阪人も日本人なのだ。いや「大阪」は、最終的には「日本」から「バチカン」のように独立したかったのか。日本でありながら、日本でなくなれば、居ながらにして海外旅行が楽しめるということで、それはそれで素晴らしいことなのだが…。

「蒼いお月様」じゃなかった「ブルームーン」

2020-11-01
最近はよく天文学的な現象をニュースなどでも取り上げる。それによって改めて「そうだったのか」と知る知識も多い。占星学に興味を持つ人の中には、占星学について詳しい人は天文学についても詳しいのではないか…と誤解している人もいるが、基本的に占星学と天文学とは何の関係もない。今から500年ほど前までは、占星学と天文学とは“親戚関係”にあって、占星学を知る者は同時に天文学を知る者でもあった。けれども、今は“親戚同士”がいったん仲が悪くなると、よりを戻すのが難しいように、なかなか理解し合えないままの状態となっている。というわけで私は「ブルームーン」が何なのかを知らなかった。そしてニュース記事によって、それが同じ月の中で“二度目の満月”を指す名称だと知った。もっとも、この名称は元々は単なる「満月」の“農家年鑑”に掲載された別名だったのだが、間違えてアメリカの天文雑誌が「二度目の満月のこと」と記したことで、世界中に広まってしまったらしい。私は、個人的には「蒼く見えるお月様」のことだと思っていたので、いずれにしても間違っていた。間違っていたが、別に誰に話すでもなくそう思っていただけで、わざわざ訂正するようなことでもない。ただ、この時期の満月は、時に“蒼白く”も見えるらしい。私は十代の頃「♪ 蒼い蒼いお月様 君も今夜は寂しそう…」とかいう歌詞で始まる歌が好きだったので、月は“蒼白い”方が個人的には好きなのだ。ちなみに昨日の月は地球から遠く、もっとも大きい「満月」に比べると14%も小さいそうだ。この地球から見える“大きさの違い”も、占星学が「月」を“変化の星”と観立てる要因になっている。そう、月というのは、その位置を変え、その形を変え、その大きさを変え、その色合いを変える。まさに“変化の星”である。天文学者ではない“われわれ地球人”にとって、なくてはならない“癒しの星”なのだ。 Newer Entries »