最近、占いの生徒さんから「宿命」について質問を受けたので、その点に関して、多くの人達も共通した疑問を持っている可能性が強いので記しておきたい。よく「何歳には何々が起こり、何歳には何々が起こり…」という感じに、詳細に人生上の出来事を“物語っていく占い師”がいるが、占いでそんなに細かなことまで言い当てられるのですか…という質問である。世の中にはさまざまな占い師の方が居るので、どこで誰が何を語っているか、私は知らない。けれども、明確なことは「占い」によってわかるのは、その人が“先天的に備えている「宿命・性質・能力」”と、運勢上の“現時点での状況”、そして、今後起きて来る“可能性ある出来事”などである。そして「先天運」に関しては、ハッキリ言って、そんなに詳細に具体的に解かるものではない。なぜなら「先天運」というのは、その人の人生の“大枠”に過ぎないからだ。もしも、これを“大枠”ではなく、“詳細”にまで明らかにするということになったら、われわれは未来の歴史的出来事の“詳細”をも知っていなければならないことになる。それが“不可能”である以上、未来の人類の歴史と不可分である“個人の運命”を詳細に語ることなど出来ない。このような“約束事”を無視した「詳細な予言」は“人類の未来”全体を100%霊視できる人なら別かもしれないが、そういう人はいなかったのだから、土台が不可能だということになる。したがって、そういうことを“売り”にしている「占い」があるとすれば根本的に信用できない。もちろん「宿命」の“大枠”と、その人の実質的な現状と、未来の段階を追った運勢と、それらを紡ぎ合わせることで、或る程度まで「未来予測としての映像」を幻想化することは出来る。そこまでが、われわれが出来る“最大限の未来予測”であって、何から何まで詳細に言い当てることなどは出来ない。それに「運命的出来事」というのは法則があって、“大きな出来事”“覆せない未来”ほど明確に出る。けれども、日常的な事柄というのは、実はそんなに明確には解からない。それまで定めたら、われわれは全員ロボットになる。自分の“意志”で行動できないことになる。人間の「宿命」は、そんなに“がんじがらめ”のものではない。誰もが自由に生きている。「宿命」の“大枠”をこわすのは、さすがに難しい。けれども、日常的な事柄を少しずつ変えていくことで、“不鮮明な未来の映像”は徐々に変化させていけるものなのだ。
小室哲哉氏の妻で“くも膜下出血”からのリハビリを続けていたKEIKO氏が、自らの直筆によって、小室哲哉氏との正式離婚が成立したことを報告した。一時的には生命さえも危ぶまれたKEIKO氏であるが、その報告によれば、現在は後遺症もなく元気に暮らしているという。実際、その直筆文字を見ると、とても“くも膜下出血”で倒れた人とは思えないような立派な文字で、文章的にも“常識を備えた大人の文章”となっている。かつて小室氏の方が伝えていた状況では、頭脳や思考には障害が残っていて「少女のような状態」であると伝えていたが、少なくとも今は、文字や文章を視る限りは“現在年齢”に相応しいものとなっている。通常、脳の方に支障が残った場合、日常生活には戻れても、身体の“動き”や“思考”には何らかの症状が残るもので、完全なる復活は難しい。それだけに、私には或る種の驚きを持ってKEIKO氏の文章を読んだ。「離婚」そのものに関しては“夫婦間”のことであるから、他人がどうこう言うような問題ではない。ただ、彼女の健康状態がどの程度かは分からないが、前夫によれば「歌を忘れたカナリア」のようにも表現されていただけに、その部分がどうなのかが他人事ながら気にはなる。重い病気や怪我などによって、社会の第一線から離れた人が、奇跡的な復活を遂げる時、往々にして“前とは違う形や分野”で蘇ることがある。それが重い病気とか大きな事故であればあるほど、長期的な“空白期間”があればあるほど、昔とは異なった“蘇り方”をする。まるで実際の「輪廻転生」においてもそうなのではないか、と思えるような“別人”に変わっての“蘇り”をする。私は、直感的にKEIKO氏の場合も、そういう風な感じで“別分野”で蘇ってくるような気がしてならない。もし、これが彼女自身の文字であり、文章であるなら、そこには“人間的な深み”と“或る種の達観”とが窺われ、昔の「アイドル的な印象」を正直受けないのだ。しかも「成功者」だけが持っている“文字の艶と輝き”が感じられる。だから、もし「歌」の分野なら、これまでとは全く異なるジャンルが良いし、それ以外であれば彼女のイメージから想像できないような「異色の分野」に進出してほしい。或る意味で「別人生」を歩みだすのに相応しい“離婚”と“年齢”である。
2月24日、自動車「スズキ」の会長である鈴木修氏が今年の株主総会で「会長職」を退任し、経営権のない「相談役」となることを発表した。これまで40年以上にわたって「スズキ」の屋台骨を支えてきた人物で、そのねぎらいもあってか、翌日には地元の浜松市長が、わざわざ“鈴木会長の功績”を褒め称える会見を開いている。実際「スズキ」と言えば、鈴木会長の顔が浮かぶほど、良くも悪くも“スズキの顔”であったことは間違いがない。ところで、私が奇妙に思うのは、鈴木会長の「眉」なのだ。その眉は、きわめて特徴的で“付け眉毛”のように真っ白でふさふさしていて目立つ。実は、観相学的な立場からいうと、こういう眉は「過去の人」なのだ。本来は“第一線”から、遠のいていなければならない。奇妙なことに「眉」と「髪」とは同時に白髪になるのではない。その人によって、眉の方が早く白髪になる人と、髪の毛の方が早く白髪になる人とがいる。そして「眉」が“真っ白”になるのは、親族に“道を譲った証し”なのだ。実際、鈴木修会長だって、長男である鈴木俊宏社長に“道を譲って”いる。少なくとも表面上は「社長業」ではない。けれども、日産のゴーン元会長が、会長となってからも実質自分が指示して経営していたように、鈴木修氏の場合も“会長”ではあったが、実質的には“社長”を兼ねていた。したがって、表面上は“眉の白髪”通り“社長の椅子”は譲ったが、実際には何から何まで「会長の一存」で決まるワンマン経営だったようだ。もちろん、その結果として、インドでの小型車投入が好評で「スズキ」の業績をグーンと押し上げた。そのせいもあって、彼に逆らうことは誰も出来なかったようだ。ところが、その結果として、2016年には燃費データの測定で不正が発覚し、2018年にはブレーキ検査でのデータ改ざんという不正も犯した。2019年には200万台のリコールという“不名誉”も味わった。ここに来て、ワンマン経営は“分が悪くなる”一方だった。もはや“潮時”という風に、彼自身も感じていたのに違いない。長男である鈴木俊宏社長は、表面上かなりの年数を「社長」としてやって来ているのだが、未だに“表舞台”でのアピールは苦手なようで、マスコミ対応なども鈴木修会長が行ってきている。つまり、ふさふさの“真っ白い眉毛”は、ようやく本来の役割へと戻ることが出来る。
いつも思うのだが、毎年、まるで“テーマ”が決まっているように、それぞれの「災難」が襲ってくる。昨年の実質2月に始まった“コロナ騒動”は、一年経って徐々に終息を見せる。私は最初から“一年間がメド”だと見ていたが、マスコミも多くの人も「数年間は拡大が続く」と意気込んでいた。常に、物事を“運命学的に捉える”私は、仮に何年も続いたとしても、それはあくまで“余波”としてであって、人々の印象として「コロナの年」は昨年だけになる。そして“主役”が入れ替わるかのように、今年は「山火事」が出て来た。アメリカなどでは「寒波」も“主役”を望んでいるようだが、少なくとも日本では「山火事」の方が“主役”を掴みそうである。それにしても、強風の中で樹木の生い茂った山中で“焚火”をするのが危険なことは常識である。近年、キャンプというのが“一種のブーム”になっていて、それに伴う形で“インスタ映え”する焚火が多数SNSに投稿されるようになった。TV番組でも、その“ブーム”に乗っかろうとするかのように、タレントたちを使ってキャンプシーンを流す。今回の栃木県足利市の山林火災は、ハイキングコース途中の休憩場所からの出火だと推測されている。焚火であったか、タバコの火の不始末であったかわからないが、強風であったことを考えれば、慎重に処理しなければならなかった。そもそも強風の日に戸外で“火”を扱うこと自体が危険なのだ。足利市の山林火災に隠れて大きく報道されていないが、東京の青梅市でも山林火災があった。こちらの方は明らかに住宅火災から“飛び火”したもので、乾燥している時期は“飛び火”から山林火災が引き起こされることも多い。こちらの方は丸一日かけて、ようやく鎮火した。多分、住宅街からの飛び火で消火しやすい地域だったからだろう。それに比べて足利市の方は、住宅街に近いとはいえ山中であり、しかも強風で消火できない状況が続いた。広範囲に広がった現在では、近隣の民家が犠牲となるのは間違いがない。地震や台風などと違って“人災的な要素”もあり、或る程度、刑法上の責任を取らせて警鐘を鳴らす方が良い。そして、私が何よりも恐れるのは「山火事」と「火山噴火」の“連鎖”だ。運命学的には「山林火災」も「火山噴火」も“同列”のものだ。そして、昨日、鹿児島県の諏訪之瀬島の御岳で噴火が起こった。「コロナ騒動」が沈静化するのは良いことだが、それに代わる形で次々と「山林火災」が続くようなことだけは避けなければならない。
社会的に成功したいと思うならば「生命力」を持っている名前を備えているかどうかは重要な観点となる。才能であるとか、手腕であるとか、外貌であるとか、そういうものも重要ではあるのだが、運命学的な観点からいうと、名前が「強い生命力」を持っていることは何にもまして重要なことである。最近「新川帆立」という女流新人作家が注目を浴びている。昨年の10月「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、発売から数ヶ月で18万部も売れている受賞作『元彼の遺言状』の作者だ。現役弁護士で、プロ雀士としての肩書も持ち、囲碁で全国大会に出たこともある多才な人物だ。けれども、私は、彼女の人柄や作品に対して、どうこう言うつもりはない。それよりも、私が注目したのは彼女の“ペンネームの付け方”である。この人は本名にも「帆」という漢字が入るらしく、それを説明する時いつも「帆立の帆です」と言っていたので、面倒になって「帆立」そのものをペンネームにしてしまったようだ。したがって「新川帆立」というのは筆名だということになるが、作家のペンネームとしては比較的“凡庸”ではあるが、それでいて憶えやすく、なんとなく“本名っぽい”感じがして、親近感を抱きやすい。そして、何よりも「生命力」がある。「新川」という姓に対して「帆立」が何故か違和感がない。この場合「新川」は“新たなる川”であり、その川を「帆立」が進んでいく。実際、海のホタテ貝は垂直に開いた形で直進するらしい。姓名の場合は「帆立船」のように捉えることも出来て、新たな川を直進していく帆のある船をイメージできる。こういう“姓”と“名”につながりがあって、しかも何らかの“動き”や“情況”を連想できる名前には「生命力」が宿る。そういう名前は、一度社会に“定着”すると長続きもする。この人の場合は「新川帆立」なのでストーリーの組み立てに“淀み”がないと思われる。斬新な発想で勝負し続けることだろう。そういえば以前、私は水泳の「池江瑠璃子」選手に関して、その姓名が「素晴らしい名前」だと書いたことがある。まだ、全国的にはあまり知られていなかったころだ。その後、彼女はめきめき頭角を現しトップに立ったが、予期せぬ病魔に襲われて立往生してしまった。多くの人は、これでもう彼女の“水泳人生”は終わったと思ったに違いない。ところが「水泳の申し子」は見事に蘇った。名前に秘められた「生命力」は決して彼女を見捨てなかったのだ。
市販されている普通のボールペンのみで描く「画家」として注目されているのが元AKB48だった光宗薫氏だ。もっとも“AKB48”だった期間は十カ月くらいだったらしいから、実質的には彼女にとっては“片隅の記憶”に追いやられている期間かもしれない。2月6日~3月4日迄、東京・銀座のヴァニラ画廊で「メロンタ・タウタ」というタイトルの個展を開催している。この人の場合、画家を目指して「画」を描き始めたのではない。十代後半で摂食障害となり、大量に食べては吐く、という生活を繰り返した。何んとかそれを克服したいということで始めたのが、食べ物の絵を描くことだった。つまり、食べたいのを我慢するために、自ら“その食べ物”を精密に描くことで、時間を稼ごうとしたのだ。精密に描き終わるまでは食べない。ただそれだけのことだが、不思議と描き終わると、その食べ物に対しての「食べたい」気持ちが少し薄れて、なんとなく癒されていくような気がした。つまり、彼女にとっては自ら“発見した治療法”が、食べたいものを描くことだったのだ。もちろん、そういう意味で始めたのだから、色付けなどはしない。むしろ、色がない方が“その世界”に入っていくことが出来る。こうして、彼女はいつの間にか、食べ物以外にも様々なものを“描き続ける日常”へと変わった。それが幸運にも2013年から「個展を開く」ことにまで広がった。物欲も乏しく、人との交流が乏しくても、特別さびしいとも思わない。モデルとかタレントとかとしての仕事が入っている時を別とすれば、一日中、描き続けている。その方が精神的にも安定していられるし、けっして飽きてしまうこともない。こうして一日15時間もかけて描き続けることが、いつの間にか「ボールペン画家」としての仕事に繋がった。彼女のケースは、確かに特殊であり、或る意味では「幸運」に支えられている。けれども、摂食障害という病に対して、一つの“治療法”を暗示しているようにも思える。もちろん、誰にでも通用する方法とは思わない。けれども現在さまざまな病気に蝕まれている人が、必死にもがいている内に、自分なりの“治療法”を見つけ出していく上でのヒントにはなる。治療の難しい“病気”の中には、それが結果的に“何か”を発見する手立てに結び付いている事例も多い。われわれはどうしても「病気」を“悪”として捉えがちだが、時として病気は、その人に“眠っている才能”を目覚める役割を秘めていることもあるのだ。
なぜか続いた。20日の早朝には自らの車でやって来て、中央付近で車を止めて明石海峡大橋に“飛び込んだ”会社員(享年48歳)が居た。その翌日、今度はタクシーでやって来て、淡路島に向かう途中で車を止めさせ、いきなり車外に出て橋の欄干を駆け上って、そこから“飛び込んだ”会社員(20歳)が出て来た。すぐに運転手が110番通報したが、死体が浮いているのを発見したのは40分後であり、搬送先で死亡が確認された。会社員は社内に自らのカバンとIDカードを遺していて、覚悟の自殺だったと思われる。よく“この世”と“あの世”を繋ぐのは「三途の川に掛かっている橋」であると言われる。私は大昔、十代半ばで“霊界”を彷徨った時、視たのが文字通り「三途の川」と、そこにかけられていた“アーチ形の赤い橋”だった。そこを渡れば「あの世」になる。そして向こう岸には私に何らかの“縁”ある人たちと思しき人々が手を振っていた。まるで船からの帰港を待ち望む人たちのように声を掛けていた。けれども、私には、誰が誰だか分からない。そう思ってみていたら、鎧兜に身を固めた武将のような人物が、まるで私を先導するように手を引いた。正直、怖かったが、鎧兜の人物は当然のように橋を渡り始めた。私は戸惑いながら途中までついて行ったのだが、途中で母親の「そっちへ行っちゃダメ‼」と必死で呼び戻す声を聴いた。「手を振りほどきなさい‼」必死の声は、私の心を動かし、手を振りほどいた。その途端に、私の記憶は途切れている。私は何となく、向こう岸で待っているのが、私自身は知らなくても、私を知っている人たちのような気がした。親戚らしい“親し気な手招き”をしていたのだ。だから、最初わたしは、そこに向かうことに抵抗がなかった。けれども、必死に呼び戻そうとする母親の声に逆らうことは出来なかった。もちろん、これは実際に視たものなのかどうか、現在では疑問に思える部分もある。けれども、俗にいう、あれが「三途の川」なのに違いなく、もし渡り切ってしまっていれば、私は戻れなかったかもしれない。「明石海峡大橋」が、そんな風な川にならないことを願っている。
私は“会社勤め”という形で高給を得たことがないので感じたことはないが、高給を得ている会社員の人達の多くが、何とか“節税”出来ないものか考えがちである。そこで近年大きく浮上してきたのが「ワンルームマンション投資」だ。都心の新築物件は、たとえワンルームと言えども2000万円~3000万円はざらであって、中には4000万円、5000万円の高級物件すらある。地方出身の若者にとって、そういう都心の物件に暮らして、都心のビル内にある上場企業に通勤することは、或る意味で“成功への階段”に繋がる。けれども、最初からそういうマンションを購入して暮らすことは出来ない。余程の大金持ちの子息なら別だが、通常は賃貸物件で適度なところを捜すことになる。では、そういうマンションの持ち主はどういう人達なのかというと、実はその多くは会社員である。既に自宅を所有している会社員なのだ。例えば都内に実家があって、自宅から通勤している上場企業の会社員。或いはすでに結婚してマイホームも所有しながら、余裕資金を供えている会社員。そういう人達が続々と「ワンルームマンション」を買っていた。もちろん、それは自分が暮す目的ではなくて、投資&節税のためである。特に“節税効果”は大きいので、いったん経験すると病みつきになる。こういう人達に対しては金融機関も喜んで資金を融資する。こうして、いつの間にか二つも三つもの物件を所有していくサラリーマン投資家も多い。但し、それが上手く行くのは、そのマンションに入居してくれる会社員の方が居ればこそである。もし、急に入居者が居なくなれば、自分が暮すこともないワンルーム価格の借金だけを抱えることになる。実は、一流企業の多くが「リモートワーク」に転換し始めたことによって、本来ならそこに住まうはずだった地方出身の若者たちが、出社しなくてもOKに変わりつつある。一気に変わりだしたことで、都心のワンルームに“空き”が出始めたのだ。そうなると家賃自体も徐々に低下してくる。これまでは“家賃上昇”も伴うことで、高級物件でも買い手がついたのだが、これからはそうはいかなくなりそうなのだ。投資も節税も、一気に“雲行き”が怪しくなってきた。手放す物件を“安く買い叩く”のは中国人投資家である。もしかすると、数年後にはワンルーム物件の多くが中国人投資家所有となっているかもしれない。
こういう問題を書くのは、もう何度目になるだろうか。ネット上で飛び交う言葉は、時として「死」をもたらす。特に無記名で書かれる“悪意ある中傷”は、何とかできないものだろうか。またしても「若い命」が、それによって失われてしまった。小学生の時から地元アイドルとして活躍していた月乃のあ(享年18歳)さんが名古屋市内のホテル屋上から飛び降り自殺をしたのは2020年9月30日のことである。最近まで“アイドル女性”だったことは伏せられていたが、母親が“亡き娘のため”あえて告発気味な形で報道機関に遺書などを持ち込んだようだ。実は彼女は、その三日前にも“自殺未遂”をしていた。そこで母親や友人などが、また同じことをする可能性があると注意をしていたのだが、それでも防げなかった。どうして防げなかったのかというと、ネット上で「死ぬ死ぬ詐欺だ」という書き込みがあったからである。そう書かれたことで、無視すれば良いのに「死ぬ死ぬ詐欺ではない」と証明する意図をもって、確実な“死の選択”を試みたのだった。SNSはさまざまな意味で“プラス”に働く場合と“マイナス”に働く場合とがある。性格的な“向き”“不向き”の問題もあるだろうが、それによって「救われる人」もいれば、逆に「殺されてしまう人」もいる。ただ無記名やニックネームによる記入は、顔が見えないだけに書く側に“悪意”があったり“捏造”があったりしても、それを打ち消すことが難しい。いったんネット上で“生まれたイメージ”は、そう簡単に拭い去れるものではない。ほんとうは“ムキ”にならなければ良いのだが、或いは無視してしまえば良いのだが、潔癖感の強い人ほど、まともに反論してしまう。或いは真剣に悩んでしまう。同じ言葉であっても、受け止める側の性質によって「薬」にもなれば「毒」にもなるのが“書き込み”なのだ。誹謗・中傷に対する書き込みは、もう少し“規制”があって良いと思うのだが、実際にはなかなか無くならない。あまりにも悪質の場合には、摘発することも可能になったが、それに引っ掛からないギリギリのところで“誹謗・中傷”するケースも多い。ネット事業者たちが、真摯に検討すれば“誹謗・中傷・炎上”には何らかの手立てが打てるはずである。それらを早急に行っていくべき時期に来ているような気がする。
昨日、第164回芥川賞・直木賞の贈呈式が行われた。もちろん、芥川賞は宇佐美りん氏、直木賞は西條奈加氏だが、芥川賞となった宇佐美りん著『推し、燃ゆ』は、既に42万部のベストセラーとなっているらしい。タレントなどではなく、純粋に小説家の作品で、受賞から一か月で42万部も売り上げたのは珍しい。現役大学生が書いた“生き辛い高校生”を作品とした小説で、それだけ“若い人たち”の共感を得られやすかったせいかもしれない。興味ある“題名”で、気にはなったが私は読んでいなかった。そこで、読後の感想が一覧となって出ているものがあったので、それを数十篇一つも残さず読んでみた。まず驚いたのは、今は「ネタばれ」となる感想は“伏字”になっているという事実だった。私には“伏字”になっている感想文と、そうではない感想文との違いがよく解からなかったが、とにかく各世代やその人の性質によって、かなり受け止め方が違う作品であることはよくわかった。ただ「アイドル推し」という“生き方”は、或る意味で“現代の特徴”でもあるから、そういう意味では“現代”を描いていることは間違いがない。実際の生活の中で、器用に“生きられない若者”が、新鮮な“地下アイドル”を「推す」ことで、自らの“生きている証”を求めようとすることは、仮に、それが“第三者”にどう映ろうと純粋で“燃える生き方”であるのは間違いがない。それは一時期、多かった“生きる目標を見失った若者”たちよりも、はるかに活き活きとしている。青春というのは“輝ける人”と“閉じこもる人”に分かれるのは、いつの世でも共通なのだ。その“閉じこもる人”の“燃ゆる”原動力になるなら「推し」は誇りある行為と言える。宇佐美りん氏は四柱推命式で見ると、けっして“きれいな命式”ではない。つまり“生き方が上手”な方ではない。十代で才能を開花させたが、いわゆる“文学的才能”を備えて生まれているわけではない。彼女が先天的に備えているのは、自分の中に在る“ヘタクソな生き方”を見つめる優しい眼だ。愛情にあふれた眼だ。したがって、単なる作家としてだけの目線ではなくて、自分自身の中にもある“生き辛さ”が作品の原動力になっている。多分それが活き活きとした作品を生み出している。そして、おそらくはこれからも“生き辛さ”を持った人たちの代弁者として、作品を描いていくのに違いない。
16日から17日にかけてアメリカ中南部に“寒波”が襲った。アメリカは広いので、北部の方は“冬の寒さ”を知っているが、南部の地域には“寒波”は来ない。そういう油断があったからなのか、中南部を寒波が襲った。しかも、この寒波のやっかいなところは「竜巻」を伴っていることだった。次々と発生した竜巻がノースカロライナ州を襲ったのだ。既に3人の死亡が確認されているし、多数の負傷者が出ている。テキサス州とも合わせて、何百万戸もが“停電”となっている。そういう時に竜巻が襲って来たなら、もはや逃れようがない。夏場なら“地下シェルター”に逃げ込む手があるが、真冬で雪が降ったり、地表が凍結してしまうと、すぐ“逃げ込める場所”ではなくなってしまう。南部の場合「真冬の竜巻」は想定外だったようだ。同じようなことはギリシャにも言えて、平均気温が高く、滅多なことでは寒波などやってこない。ところが今年はなぜか急激に気温が下がり、ギリシャ北部では氷点下19度にまで下がっていて、アクロポリスでさえも“雪景色”に覆われるようになった。ギリシャと言えば、青い海と白い建物が特徴的で、気温が高いからこそ優美に視える。雪景色になってしまうと“白い建物”が埋れて、寒々しく見えてしまう。おそらく古代ギリシャの時代から、暑さは意識しても、寒さを意識した建築様式にはなっていなかったはずだ。そういえば欧州ではポーランドでも“記録的な寒波”を記録したらしい。あちこちから“寒波”や“大雪”のニュースが流れて来ると「地球温暖化」の通説が、まともに信じられなくなってくる。確かに一部「氷河」が溶け出していることは事実なのだろうが、それだから「地球」全体が“温暖化に向かっている”と言い切れるのであろうか。仮にそうだとしても、地球環境の“変化”に対応しながら“生きていく術”を磨くことの方が、風水的観点からは理に適っているような気がする。生き物としての「地球」によって「人類」の暮らしていける環境が徐々に追いやられていく。
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